衆生とは人間とは




以前友人から頂いた本に心を奪われた。
「法華経の新しい解釈」庭野日敬著作
仏教にそれほど強い関心があった訳ではないが何度も読み返した。
私が少し理屈ぽいのは他人が読まない本に関心を寄せるからである。

よくこのような物語で仏教の世界を描けるということに驚くばかりです。
各宗派によってもニュアンスは変わるがほぼ同じである。
根本は仏陀いわゆるお釈迦さまの言葉から発せられたという。
そこに側近の弟子の解釈が加わり宗派が枝分かれをしていく。
しかしどの宗派も人を救う為の救済の書であることには間違いない。

ここに抜粋した文章を現代に置き換えて新解釈をしてみたい。
西洋の哲学書を読むよりは日本人には理解しやすいと思う。

「信解品」
幼い頃父の家を出て、五十年も諸国を放浪している貧しい男がいた。
父は、一人しかいない幼い子を探し続けたものの、どうしても見つからず、
自分もある町にとどまり、成功して大きな財産を築いていた。
そんなある日、貧乏のどん底にあえぐその男が、父の屋敷とも知らず、
雇ってもらおうと門の前まできたものの、あまりの豪華さに圧倒されて、
走り去る。父は、「息子にちがいない」と思いその男を屋敷へつれてこさせた。
使用人を使って「便所やドブの掃除を一緒にやらないか」ともちかけて、
安心して働かせ、息子を観察しずける。
二十年も働いていると、男は本来の素直な心を取り戻してきた。
父は、病気になると、蔵の管理を息子にまかせ、臨終が近づくと、
親戚一同を集め、初めて、父子の名乗りをあげ、全財産を息子にゆずり
渡すのである。大長者の父は仏であり放浪する息子は衆生なのだ。 

息子は自分が仏の子であり、仏性をそなえていることを知らずにさまよい
歩いている衆生を、仏は、その卑屈な心を自然に温かく導いて、
自己の本質に目覚めさせ、その尊さに気づかさせるのである。
「信解品」の魅力は実に大きい。
困っている時にこそ手をさしのべるのが慈悲なのだ。
人々は、人生の大切な時間を、やたらと自分の欲望のままに、
無意味なことに消費していないだろうか。と記されています。

「三車火宅」
この比喩は、父親が留守の間に邸宅が火事になるという話です。
父の大邸宅が燃えているのに子供達はその中で遊んでいる。
その子供達とは我々無明に悩む衆生で、大邸宅は娑婆の世界なのです。
この比喩は火宅の中に居ながら、それに気づかぬばかりか、
そこにしがみついて苦しんでいる衆生の姿をリアルに描いている。
火宅の中で貪・瞋・痴の炎を燃やして遊んでいるのが、
世間の人々のことなのだと、釈尊が教えているのを知ることが出来る。
火宅の衆生は皆世間の欲心に惑わされて、つまらない事に執着し、
自分で自分の人生を苦しいものにしまっているのです。
「諸苦の所因は貪欲これ本(もと)なり」なのです。

衆生は欲望を追い求めて、執着する心が深いので、「仏の知恵」を
聴こうとしない。そういう人々に心の平安はない。
釈尊は衆生の苦しみを少しでも取り除いて、平安な人生を生きるようにと
願って下さっているのです。

人生の過ごし方は色々な生き方があると思う。苦しみばかりの人生だと
言って、自分の運命を恨んでみても、何も変わりはしない。
恨みにとらわれていては、心が狭くなり、ゆがんでしまう。

今の人生がどん底ならば、そこから人間として正しく生きる道へ
はいあがり、それをひたすら実践していくことです。
釈迦は四諦の法を説き十二因縁さらに八正道の実践を説いたのです。
そうすれば必ず苦を乗り越えた境地に達することが出来るのだ。
と言っています。

八正道とは、真理に即した八つの正しい道
「正見・正思・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定」の事です。

「真実」と「事実」の意図。「事実」とは、「事柄」です。
花が咲いたり鳥が鳴いたりする目前の現象、事柄のことです。
「真実」とは、世間の通念では、嘘でない本当のことですが、
仏教用語では、さらに「真理がありのままに、隠すことなく事実に
あらわれている」と言う深い意味になります。

「真実とは、事実の奥にひそむ真理」となります。
リンゴが地に落ちる現象は、誰の目にも見える「事実」です。
この事実の奥に万有引力の法則(真理)がひそんでいると理解するのが
「事実」を知る一例です。事実は目に見えても、心理は目に見えません。
しかし、詩的な心をもってすれば、目に見えるリンゴの落下に、
目に見えない引力を見ると表現できましょう。

我々人間にこのようなことが理解できる能力が備わっていることに
感謝するのみです。我々は常に仏の加護の元に生きているのです。
私も今は何もわからずに経本の文字を追い続けるだけです。
そしていつか「朝露の道を歩けば知らずとも衣濡れる」のように
深く真理が身につくと願うばかりです。