死について




「老人と孫」の対話集会で最初の質問が「死ぬのは怖くないですか」でした。
私は未練のある人は怖いと思いますが、悔いのない人生を送った人には
怖さは起こらないと伝えました。
60歳までは積み重ねる人生で、60歳を過ぎてからは減らす人生だと思います。
それでは何を減らすのか?
そんな時に横田南陵老師のこんな言葉に触れました。

死というのは捨てていく営みだというのです。
はじめに趣味を捨て、金に対する執着を捨て、異性に対する関心も捨て、
家族との関わりも捨ててゆくというのです。
みな手放してゆくのだというのです。

最後に残るのは自然とのふれあいだと説かれていました。
窓を開けて心地よい風に吹かれたいとか、星を見たいと思うのだそうです。
ともあれ死はこの世のすべてを手放してゆくのです。
そこで幸せな最期を迎えようと思うなら、普段から手放すこと、
出すことを訓練しておくことだと仰っていました。
何かを得ることばかり考えるのではなく、与える生き方をするというのです。

特別な寄付をするというようなことだけでなく、日常の暮らしでも
笑顔を与えるというのもそうなのです。
なにか手伝ってあげるというのもそうです。
このように出すこと、手放すことに慣れていると、最期ににっこり微笑んで
迎えることができるというお話でした。
これはなるほどと深く受け入れることの出来るお話でした。

またこのような話もあります。
「お食いじめ」とはあまり聞き慣れないことばです。
お食い初めに対する造語だそうです。
お食い初めは、はじめて子供にご飯を食べさせる祝い事です。
お食い初めがあるのだから、お食いじめもあるだろうというのです。
人生の最期に何を食べたいのかということを考えるのです。
この最期の食事を支援するというのです。

まわりの家族などは、あなたのために食べさせたいと思い、
ご本人もまた大事な家族のために食べたいと思うのです。
60代の重い病の方の実例が紹介されていました。
最期にウナギを食べたいというのです。
家族は好きだったお酒も飲ませたいということでした。
奥様と娘さんと一緒にうなぎ重とお吸い物、
それにお酒で最期の食事会をなさったのでした。
奥様は新婚の頃からの思い出話をして、娘さんも幼かった頃の
思い出を語ります。

そろそろ食べようかと、お酒を一口さしあげ、ウナギも一口を
四回かけて飲み込み、もう一口を三回かけて飲み込まれて、
最後に有り難うと言われると拍手が沸き起こったという話でした。
ウナギをもって家族と写った写真は素敵な笑顔でした。
実に幸せな最期だったと感じました。

とても素敵な話だと思いますが、私は以前友人の神主さんに
言われた言葉を思い出しました。
あなたは死ぬ間際に何が食べたいですか?
同席していた友人たちは思い思いに「カレーライス、母親の手料理、オムライス」
などを言い、私も「家内の作るビーフシチュー」が食べたいと伝えました。

そして最後に神主さんが「死ぬ間際にまだ食べ物に未練がありますか?」
と言われたのです。どうせ明日死ぬのだったらこの食べ物を生きていく人に
譲るという気持ちが大切です。周りの人の気遣いを無下にするのは失礼だから
と言って無理やりに食べる必要は無いというのです。
この言葉を聞いてとても恥ずかしい気持ちになったことは確かです。

幸せな最期をどう迎えるのか、生前に考えておくことは大事であります。
しかし、人生はどうなるか分かりません。
いくら考えていても思い通りになるかどうかは分からないのです。
そこでやはりどのような死を迎えてもいいように死生観を持って
おくことの大切さをお聞きしました。

また井上義衍老師(曹洞宗師家)と横尾忠則さんの対談の話が紹介されました。
横尾さんが「老師には死の恐怖はありませんか」と問うと、井上老師は、
「死なんて、小便するのと同じことですわ、ただそうだったというだけ」
とお答えになったのでした。

死についてあれこれ考えていた私は、この言葉に衝撃を受けました。
実際はそのように、死というのはひとつの現象に過ぎないと言えるのでしょう。
ただそのように受け止められないので、あれこれと悩むのです。

山本玄峰老師は、お亡くなりになる前に葡萄酒をおいしそうに飲んで、
十分ほどのちに「旅に出る、きものを用意しろ」と言われて
亡くなられたそうです。

それから「生は寄なり、死は帰なり」という『淮南子』の言葉を紹介しました。
「人は天地の本源から生まれて暫くこの仮の世に身を寄せるに過ぎないが、
死はこの仮の世を去ってもとの本源に帰ることである」という意味です。

朝比奈宗源老師は、この「天地の本源」を「仏心」と説かれました。
「人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る」のです。
そのことをしっかり受け止めておきさえすれば、柳宗悦さんが、
「吉野山ころびても亦花の中」と詠われたように、どこでどのような
死に方を迎えても、それは万朶の花咲くただ中なのだとお話したのでした。

最後には桜井先生が漢方医の立場からお話くださいました。
桜井先生は、幼少の頃から死について考え、西洋医学の外科医になり、
更に法医学も学ばれました。
法医学者として多くの悲惨な死もご覧になってきたそうなのです。
そしてひとつの確信を持たれたのでした。

見た目ではどんな悲惨な死を迎えたようでも、どんな状況であっても
死の祝福があるというのです。
どこでどういう状況で亡くなっても祝福されていると確信されたと
話をしてくださいました。
これは私の拙い話を裏付けてくれるもので有り難く思いました。

このように出すこと、手放すことに慣れていると、
最期ににっこり微笑んで迎えることができるというお話でした。
これはなるほどと深く受け入れることの出来るお話でした。
いろいろと学べて実りの多いほろ酔い勉強会でありました。
臨済宗大本山 円覚寺横山南陵老師

文章の途中で私の思いも書き添えましたが死は使い切ることでは無く
生の残りを分け与えることも大切だと思います。
皆様も機会があればご家族と死について話し合うことも必要ですね。
今回のタイトルは高齢者の方々の目に触れることを祈ります。
若い方でもご両親に紹介して頂くことになれば幸いです。