子どもは全てが未来だ




現代人間科学研究所所長飛岡健先生が放った一言です。
「子供達は未来から来た留学生」なのだ。
その子達を迎い入れるために大人達はより良い環境を作らなければならない。
この素晴らしい地球の大地を使って「農業」を教えなければならない。
そしてテクノロジー社会の構造を「脳業」として学ばさなければならない。
最後はそれぞれの大人達が持っている職能と言われる「能業」を
全員で話し合い伝えなければならない。この三つの「のうぎょう」を
三耕塾として教えて未来へ立ち向かう子供達を育てなければならない。
この時代に急ぎ三耕人を育てていかなければならないと言われています。

子どもたちの未来を考える時にいつもこの詩が思い浮かびます。
坂村真民先生の「あとからくる者のために」という詩です。

「あとからくる者のために」
あとからくる者のために
苦労をするのだ
我慢をするのだ
田を耕し
種を用意しておくのだ

あとからくる者のために
しんみんよお前は
詩を書いておくのだ
あとからくる者のために
山を川を海を
きれいにしておくのだ

あああとからくる者のために
みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々(それぞれ)自分で出来る何かをしてゆくのだ

という詩であります。

この詩は真民先生が六十五歳の時に書かれたものですが、
九十二歳の時に「決定詩」として書き改めたものもございます。
六十五歳の時の詩は、自分に向かって書かれていますが、
九十二歳の時の詩は、人々に向かって書かれているところが
大きな違いだというのであります。

「社会の人々への「それぞれが少し我慢をして、少し苦労をして、
自分にできる何かをしてゆこう」という真民の呼びかけがより届く詩に
なっていると思います」というのであります。

では、九十二歳の時の決定詩「あとから来る者のために」を紹介します。

「あとから来る者のために」
あとから来る者のために
田畑を耕し
種を用意しておくのだ
山を
川を
海を
きれいにしておくのだ

ああ
あとから来る者のために
苦労をし
我慢をし
みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
みなそれぞれ自分にできる
なにかをしてゆくのだ

私もこれからは、こちらの「決定詩」を使うようにしますし、
皆さまもそのようにお願いします。

西澤真美子さまの手紙には、愛媛新聞のコピーが同封されていました。
「一〇年目の震災後論」という記事で、若松英輔先生が書かれています。
「つながり育てられず 安心して悲しめる社会を」
という題で書かれています。
若松先生は、あの「震災後、しばらくの間、この国には強烈なつながりがあった。
巨大な痛みをみんなで背負い、みんなで何とかしようとした。」
と書かれています。

しかし、新型コロナウイルスという危機に遭遇し、大切なものを
失っているのではないかと指摘されています。
「物事を自分の見たいように見る「都合のいい個人主義」も横行しています。
自分が無事なら社会全体も無事に見えてしまう人。
「今は自分の面倒をみるだけで精いっぱい」と周囲に無関心な人。」
などが見られるようになったというのです。

震災の写真にも見慣れてしまったのか、もう悲惨な情景は見たく
なくなったのでしょうか。
「そうじゃない人もいるけれど、世間の空気は総じて冷たい」と書かれています。

「この一〇年、どこで間違え、何を見落としたのか。静かに考える必要があります。
「五輪をやるんだ」とやみくもに前に出たつもりで、私たちは迷路に入り込んでいる。
本当に未来に進みたいなら、その扉は過去にある」と指摘されています。

あとからあとから続いてくる者たちのために、このままでいいのだろうか、
何ができるのだろうかと。
臨済宗円覚寺「今日の言葉」より

子どもの自信を育てることは大切なことです。でもそのとき同時に教えて
あげないといけないのは「あなたが今そうやっていろいろなことができるのは、
みんなの協力があってこそなんだよ」ということです。

「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」という禅語があります。
「自分の足元をきちんと見なさい」という意味です。
何でも自分の力だけでできているわけではない。
まわりにいるみんなのおかげで、
与えられた環境が恵まれているおかげで、今の自分があるんだよ。
うぬぼれたりしてはいけないよ。調子に乗ったりしてはダメなんだよ。
子どもが大きくなる過程で、私もこの禅語は自分の子どもたちに
きちんと伝えていこうと思っています。

私の祖父・松原泰道禅師も100歳のときにこう言っていました。
「メガネをかけても文字が見えなくなることがある。そんなときに
部屋の明かりを強くしてもらうと、また文字がはっきり見えて
読めるようになる。どんなにいい目があっても、
そしてどんなにいいメガネがあっても、
まわりが暗かったら文字は読めないよ。文字を読めるのは、
照らしてくれる明かりがあってこそなのだよ」と。

それと同じことで、人はどんなにすぐれた能力を持っていても、
まわりからサポートしてくれる人間がいなかったら、ひとりで能力を
伸ばしていくことは絶対にできません。
これはいくつになっても言えることですが、
ものごとがうまくいったとき、自分だけで才能を開花させた……
などと思うのは大きな間違いです。私たち大人も気を付たいものですね。

子どもと向き合うときは「正念相続(しょうねんそうぞく)」の心が
大事かもしれません。
正念相続という禅語は、正しい念を続けると書きますね。
「念」という字は「今」の「心」と書きます。つまりこの禅語は
「正しい今の心を持ち続けなさい」
「今目の前にあることで心を充満させなさい」という意味なのです。
和尚の子育て禅語より

そして重要なことはデジタル社会で生まれた子供たちが気軽に使う
SNSで何気なく多くの人を傷つけてしまうことです。
言葉には力があり、愛や勇気を届ける素晴らしいもものでありますが
時には武器となり人を傷つけてしまう恐ろしいものであることを
忘れないで欲しいという事です。「愛語よく回天の力あり」恩学より


愛の問いかけ




「 愛とは何か」?という問いかけに誰も明確な答えを持っていない。
それは「愛」という言葉が抽象概念であるから
人によって愛の解釈が異なるからだ。
愛とは親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。
愛とは性愛の対象として特定の人をいとしと思う心。
愛とは個人的な感情を超越した幸せを願う深く温かい心。

人は恋すると饒舌になり、愛すると沈黙する。
言葉による愛の説明は無意味で行動で愛を伝える人はおおくを語らない。
悲しい愛を知る人ほど柔らかな慈悲のエネルギーを発することができる。
慈悲は慈しむ心だから自分よりも相手のことを気にかける愛である。

神や仏が人類をいつくしみ、幸福を与えること、生あるものすべてに
恩恵を施し、見返りを求めない無条件の愛にこそ真実の愛がある。

また愛のチャンスは万人に平等に与えられるのか?
恋愛は必ず相手を必要とするから
一方的で強引な愛は罪に問われることがある。
お互いの心の開放がない内に恋愛を始めると暴力的な関係で終わる。

たとえば絶世の美女が野獣に恋するように
愛は見た目ではなく突然の愛の感情で花開くものである。泥沼に咲く蓮のように
運命に従い自分に最適な場所を選ぶのである。(美女と野獣)
アメリカ人作曲家のクリスチャンは貧しいキャバレーのスター、サティーンに
恋をする。しかし横恋慕した貴族のデュークが二人の間を引き裂くのである。
パリのキャバレーを舞台にした恋の駆け引き。(ムーランルージュ)
日本の悲恋物語としては江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で
放火事件を起こし火刑に処された少女の話もある。(八百屋お七)

いくら努力しても簡単に手に入らないのが愛である。

人びとが愛の経験に失望するのは、愛のなにかが間違っているからではない。
彼らは愛の範囲を狭めていって、愛の大海はそこにとどまれなくなってしまう。
あなたは海を抱え込むことができない。それは小さな川ではない。
愛はあなたの全の存在だ。愛はあなたの神聖さだ。
人は自分が愛情に満ちているかどうかを考えるべきだ。

あなたは愛だ。愛は対象に依存するのではなく、あなたの主体から放たれる輝きだ。
あなたの魂が放つ輝きだ。この放出される輝きが広大なほど、あなたの魂は
より大きい。愛の翼を大きく広げるほど、あなたの存在の天空はさらに
広大になる。あなたはすべての人間に共通した誤解のもとに生きてきた。
今あなたは尋ねている、「私はあなたを愛することができるのだろうか?」と
またしても同じ誤解だ。

それは状況による。人間の数と同じだけの愛がある。愛はヒエラルキーだ、
最低の段から最高の段まで、セックスから超意識までの、いくつもいくつもの
階層が、数多くのレベルが愛にはある。すべてはあなたしだいだ。
最低の段にいたら、あなたは愛に対して最高の段にいる人とはまったく
違った考えをもつだろう。アドルフ・ヒットラーは愛についてある考えを
抱くし、ゴータマ仏陀は別の考えを抱く。それらは正反対だろう。
なぜなら、彼らは両極端だから。

あなたは愛について語るが、深いところには相手を搾取しようとする
欲望がある。私はあなたがそれを意図的か意識的にやっていると言って
いるのではない。あなたはまだそんなに意識的ではない。
あなたはそれを意図的にできない。それは無意識のメカニズムなのだ。

これは愛がもっともっと瞑想的になって初めて可能となる。
薬(medicine)と瞑想(meditation)は同じ語源から来ている。
あなたが知っている愛は病気のようなものだ。それは瞑想という薬を
必要とする。瞑想を経過すれば、それは浄化される。
そして浄化されればされるほど、それは歓喜に満ちたものになる。

「禅」の世界はけっして愛に言及しない。私の理解によれば、
禅を実践する人はまさに息をするように愛する。
それはなにか特別なことではない、あえて言及しなくてもいい。
私はそのことをひとつも言っていないが、あなたは私の愛を感じないかね? 
私に何度も何度もそれを言ってほしいかね?

禅はそれを言わない、それは禅が理解していることの明らかな証しだ。
愛は口にされるのではなく、あらゆる仕草に示されるべきだ。
あなたの目を通して、あなたの手を通して、あなたの沈黙を通して。
それはあなたの周囲に放射されるべきだ。慈愛についても同じことだ。
それもやはり言及されない。

私たちは自分の愛するものの不幸を目の前にして、
手を拱いて傍観しているより外何事も許されない場合に、しばしば遭遇する。
そして静かに思えば、これまで幾人の人々と交わっては、別れ、別れして、
今は何処にいかなる生活をしているものやら、わからない人々があることだろう。
そしてそれらの人々をいかにして愛しようか。
この時、もし愛の深い人であるならば、耐えがたき無常を感ずるであろう。
その時殆ど私たちは愛する力も、知恵も無いことを感ずる。
そして、ただ愛したい願いだけが高まっていく。そして運命の力を感ずる。

「歎異抄」のなかにも、何人も知るごとく、慈悲に聖道浄土の変わりめあり。
聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもふが如く助けとぐること。きはめて有難し、
ほんとうの愛にはみずからを表現する言葉がない。
ほんとうの愛は存在であり、あなたはそれを感じる。
それはあなたを風のように包み込む、それはあなたに雨のように降り注ぐ。

「禅」は愛であり、禅は慈悲だが、宣言をする必要はない、声明をしなくてもいい。
愛が最初にあなたの存在のもっとも深い核心で起こらねばならない。
それはひとりでいることの、幸せにひとりでいることの、歓びに満ちて
ひとりでいることの質だ。それは無心でいることの、静寂でいることの質だ。
それはからっぽの意識の空間であり、その状況のなかで、
あなたのなかに愛が起こってくる。

そう、あなたの言うとおりだ、愛は世界でただひとつの希望だ。
そして私たちはその転回点に近づきつつある。全面的な戦争か、
それとも全面的な愛か。これはどちらを選ぶかの問題であり、
第三の選択肢はない。もはや妥協できるものはなく、あなたは真ん中に
とどまれない。人は選ばなければならない。それは生きるか死ぬかの問題だ。
戦争は死であり、愛は生命だ。

人と人との接触に関心する人々の心に在って最も重き地位を占めるものは
言うまでもなく愛の問題である。愛は初め花やかになる一団の露のごとくに、
たのしく、胸を躍らす魅力を備えて私らの前に現れる。
愛を凝視せよ、愛を生きよ、その時私たちは初めて愛の種族に気が着くのであろう。

即ち母子の愛と、男女の愛と隣人の愛とが区別されて感ぜられるようになるだろう。
この差別の目に見えるようになるまでは愛のディレッタントである。
未だ愛を知っているとはいえない。そしてこの区別の見えるようになるには
人は多くの冷めたい涙と苦い経験を味わうものである。
愛の問題を真実に、自己の問題として生きる人は必ずこの区別が見えるように
なるに違いない。その時から後に真実の愛が生まれるのである。

音楽の世界にとって愛なくして語れるものは無い。

参考資料
OSHO&
「愛と認識との出発」倉田百三より


愛別離苦




自己愛、家族愛、隣人愛、自然愛、動物愛、自由愛と
本物の愛は受け取ることだけを望むのでは無く与えることである。
恩愛、敬愛、慈愛、純愛、溺愛、愛慕、博愛と
恩を感じて敬い、慈しみ、純粋に溺れるほどの愛を共有することである。
愛にまつわる漢字は山ほどある。
それほどまでに人々には愛が必要なのである。

愛について仏教経典を解くとまずこの言葉が思い出されます。
「愛別離苦」愛する人と別れる苦しみ、四苦八苦の中の一つの苦です。

「四苦八苦」とは、四苦「生・老・病・死」と以下の四つが加わり八苦になります。
「愛別離苦」(あいべつりく)とは、大切な人や大好きな人であっても、
いつかは離れなければならない苦しみ。
「怨憎会苦」(おんぞうえく)とは、
逆に大嫌いな人、顔も見たくない人でも出会ってしまう苦しみ。
「求不得苦」(ぐふとっく)とは、求めるモノ・コトが手に入らない苦しみ。
嫉妬心と欲望にまみれる苦しみ。
「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)とは自分の心や、自分の身体すら思い通りに
ならない苦しみ。健康が行動に繋がらない苦しみ。

この「四苦八苦」は人間が生きている上で避けては通れない
根源的な苦として表します。

そして私の座右の銘「愛語よく回転の力あり」道元禅師:
愛の言葉、優しい言葉はその人の人生も変える力がある。
道元禅師のこの言葉が「恩学」を描き始めるキッカケになったのです。

「面(むかい)いて愛語を聞くは、面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくする。
面(むか)わずして愛語を聞くは、肝に銘じ、魂に銘ずる。
愛語よく回天の力あることを学すべきなり。」道元禅師

面と向かって優しい言葉をかけられれば、自然と顔に喜びがあふれ、
心が楽しくなる。また、人づてに優しい言葉を聞いたら、
その言葉が心に刻まれ、魂がふるえる。

それは、愛語が人を愛する心から生まれ、人を愛する心が、
他人をたいせつに思う心の中から、芽生えてくるものだからです。
本当に、優しい言葉というのは、世界を変えるほどの力だということを、
私たちはよくよく学ばなければいけません。

希望を与える言葉は直接相手に伝えた方が心に響きます。
褒める言葉は直接よりも第三者を通じて伝えた方が心に響きます。
戒めの言葉は誰も居ない所で教える方が心に響きます。
伝え方を間違えれば相手に屈辱を与えることにもなります。
そして心に傷をつけてしまう事もあります。

愛といえばこの方を思い出します。
「嫌いな人ほど愛しなさい」マザー・テレサの言葉より

『あなたの中の最良のものを』
人は不合理、非論理、利己的です気にすることなく、人を愛しなさい。
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善を行いなさい。

目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。
善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
気にすることなく、し続けなさい

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう気にすることなく、
作り続けなさい。

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく、助け続けなさい。
あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい。
たとえそれが十分でなくても気にすることなく、
最良のものをこの世界に与え続けなさい。

最後に振り返ると、結局はあなたにもわかるはず、
全てあなたと内なる神との間のことなのです。
あなたと他の人の間のことであったことは、一度もなかったのです。
マザー・テレサ

そうしてもう一人名前を上げるとすればガンジー以外にいません。
第一次世界大戦後のインド独立運動の指導者。第一次世界大戦後から
国民会議派を率いてインドの独立運動を、非暴力・不服従という戦術で展開し、
第二次大戦後に独立を達成した。
ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の融合を一生追求したが、
ヒンドゥー狂信者によって暗殺された。

チャルカで糸を紡ぐガンディー。
 Mohandas Karamchand Gandhi(1869-1948) 一般にはガンジーと表記する。
インド独立の父、マハートマ(偉大な魂の意味)といわれる。
第一次世界大戦後、非暴力・不服従を掲げたインドの反英闘争(20世紀)を開始、
国民会議派を率いて独立運動を展開し、激しい弾圧を受けながら、
第二次世界大戦後の1947年に独立を実現させた。

しかし、その独立は彼が念願した統一国家での独立ではなく、
パキスタンとの分離独立となり、失意のうちに翌年ヒンドゥー教徒過激派の
青年に暗殺された。
ガンジーは熱心なヒンドゥー教徒であったが、その真摯な姿はイスラーム教徒をも
引きつけ、またカースト外の不可触民を神の子(ハリジャン)と呼んで
その解放を訴えた。

如何だったでしょうか?
人生は愛から始まって愛に終わるのです。
そして、恩から始まって恩に終わります。
ひらがなは「あ・い・う・え・お」の「あい」から始まり、
最後は「を・ん」「おん」で終わります。
日本の全てが「愛」と「恩」に包まれているのです。


モーツァルト音楽療法




義妹のソフィイ・ハイベルはモーツァルトに対して、
「彼はいつも落ち着きのない人で、手足をばたつかせ、独り言を言い続けたり
じっとしていない人だった」。モーツァルトは失語症であり、学習障害であり、
その上にひどいてんかん症であったと書かれている。
モーツァルトは自分で自分の病を癒すためにピアノ曲を多く残している。
一番好きなピアノ曲が「ソナタ二長調(K448)」と言われている。
いつもこの曲を弾くと落ち着きを取り戻したと言われています。

薬物耐性てんかん患者がモーツァルトの
「2台のピアノのためのソナタニ長調(K.448)」を30秒間以上聴くことが、
脳内でてんかんに関連した電気的活動のスパイクの頻度が低下することと
関連している可能性が明らかになった。
今回の研究結果は、この曲に対してポジティブ感情を伴う応答が生じることが、
この曲の治療効果に寄与している可能性のあることも示唆している。
研究の詳細が記述された論文は、Scientific Reports に掲載される。

てんかん患者の場合、「2台のピアノのためのソナタ ニ長調」を聴くことが、
脳内でてんかんに関連した電気的活動のスパイクの頻度が低下することと
関連していることが、これまでの研究によって明らかになっていた。
しかし、この曲を聴いている時間が、この関連性にどのような影響を及ぼすのか、
そして、その理由については明らかになっていなかった。

今回、Robert Quonたちは、薬物耐性てんかんの成人患者(16人)に、
「2台のピアノのためのソナタ ニ長調」を含むいろいろな楽曲の断片
(長さ15秒または90秒)を続けて聴かせた。
そして、Quonたちは、脳波記録法(EEG)を用いて、楽曲を聴いている患者の
脳内の電気的活動を測定した。その結果、「2台のピアノのためのソナタ ニ長調」
を30~90秒聴いた場合にてんかんに関連する脳全体の電気的活動のスパイク数が
平均66.5%減少し、他の楽曲の断片では、こうした効果が認められなかった。

スパイク数の減少が最も大きかったのは、情動応答の調節に関与する
脳の部位である左右の前頭皮質だった。
また、この曲の長い繰り返しの部分が終わるところを聴いた被験者の前頭皮質で、
電気的活動の一種であるシータ活動が増加した。
これまでの研究から、シータ活動は、音楽に対するポジティブ感情を伴う
応答と関連している可能性のあることが示唆されていた。

Quonたちは、「2台のピアノのためのソナタ ニ長調」をわずか30秒間
聴くだけで、音楽に対するポジティブ感情を伴う応答に関連しており、
前頭皮質によって制御される脳内ネットワークが活性化されると考えられるという
仮説を提起している。Quonたちは、これらのネットワークの活性化は、
薬物耐性てんかん患者の脳内におけるてんかん関連の電気的活動のスパイクの
減少に寄与している可能性があると考えている。

知り合いの音楽好きの元大学教授と音楽談義をする事があります。
教授は色々な事を良くご存知でいつも楽しい会話となります。
その中でも、特に興味をそそられたのは偉大なる作曲家達が抱えていた
持病や亡くなられた原因です。

大作曲家達であれ、同じ人間ですから色々病気になるのは当たり前ですが!
現代になって遠い昔の作曲家達の本当の病気が次々と解明されているそうです。
大作曲家達ついて結構病を患いながら作曲していた方が多いようなのです。

今回は、改めて教授に教えていただいた作曲家達の病気や死因の
お話しをしてみようと思います。

1:まずは、バッハ
バロックの代表的な作曲家バッハ!かねてより患っていた内障眼が
悪化したことにより視力もほとんど失っていた。
65歳の時に脳卒中で亡くなられたそうです。
2:ベートーヴェン
耳が聞こえなくなった理由は、鉛中毒だった事がわかつたそうです。
ベートーヴェンは、ワインが大好きで毎日相当量呑んでいたそうです.
当時の安いワインの甘味料は鉛だった事から、鉛中毒で聴覚を失ったとの事です。
しかし、最近の調査では本当の死因は「B型肝炎」だったと言われています。
そして有名なのは、ベートーヴェンは重度の梅毒患者だったという説もあります。
3:モーツァルト
サバン症候群だったと言う事ご存知の方もいらっしゃると思います。
こちらは、病気というより個性と言えるかもしれませんが!
知的障がいや、発達障がいと引き換えに、ある分野だけに特別な素晴らしい
能力を授かる!モーツァルトは大作曲家と言う能力を授かったようですね!
それに重度のてんかんで引き攣り割れるような頭痛持ちで悩んでいました。
苦しみだすと自分の作曲した「ピアノソナタ」を弾いて癒していたと言います。
4:ハイドン
鼻の中にポリーブがあって悩まされていたそうです。
当時は手術で取り除くことができなかったのですね。
現代医療では簡単に切除できたのでしょう。
老衰のために77歳で生涯を閉じました。
5:シューマン
精神障害(躁鬱その他)を持ちながら数々の、素晴らしい作品を残しました。
当時は精神障害の人が働ける環境が少なかったと思います。
そのうえに彼は梅毒を患っており、梅毒治療に用いられた水銀中毒が
直接原因ではないかと言われています。
また歌曲の王と称されたシューベルトも梅毒治療で用いられて水銀中毒で
命を締めた可能性があるとされています。
6ショパン:
ピアノの詩人と言われたショパン
肺に病気を抱えてそれが原因で亡くなったそうです。
いわゆる現代の肺結核病患者であったと思われています。
39歳の若さでパリにて死亡が届けられました。
7:ロッシーニ
有名なウイリアムテルな作曲家ですが一方かなりの美食家で
糖尿病を患っていたそうです。料理名で曲も書かれています。
晩年は極度の肥満となり体調を崩すことも多くなり、躁鬱病や慢性気管支炎
さらに直腸癌を手術したことにより丹毒によってこの世を去りました。

このような事が分かると大作曲家達に失礼とは思いますがなんだか、
偉大な作曲家達もやはり人間だと思い身近に感じてしまいます。
どんな偉大な方々も人間である限り病気にならない方はいないのだと
当たり前の事なのに何だか納得している自分が変です〜(笑)
過去の素晴らしい大作曲家達は、現代だったら治った病気もあった事でしようね。
いつの時代も後もう少し医学が進歩していたら〜と思うのは同じ事!

ただ、過去の偉大な作曲家達の曲の中には病気であつたからこそ
素晴らしい作品が出来た事も事実のようです。
たまには、このような雑学的なお話しをワイン片手に楽しいと思って
聞いてくれる方がいらしたら嬉しいのですが?如何でしたでしょうか?

今回はクラビアートピアノ教室 講師 田原礼子のお話に加筆させていただきました。
是非とも私と大学教授と三人でワイン片手にお話をしたいですね。

注釈
サヴァン症候群とは、知的障害(知的発達症)やASD(自閉スペクトラム症)
などの発達障害がある中で、特定の分野において突出した才能を持っている状態や、
その人を意味する言葉です。サヴァン症候群の概念は1887年に、
イギリスの医師であるJ・ラングドン・ダウン博士がその概念を提唱し、
のちに「サヴァン症候群」と呼ばれるようになりました。

なお、サヴァン症候群とは概念であり、医学的な用語ではありません。
そのため、明確な診断基準もありません。


日本の音




江戸から続く楽器として皷があり笛があり太鼓がある。
これらは声であり雷であり鳥や猿の声を表している。
能で使われるお囃子の調子は空気を表し怨霊の叫びを誘い出す。

お寺では毎年4月には地域の子供に集まっていただいて
花まつりを行っています。最初に灌仏(かんぶつ)といって、
お釈迦様の像に甘茶をかける作法を説明するのですが、
初めて来た低学年の子供にはなかなか難しいようで悪戦苦闘しながらも
しっかりと灌仏をしてもらっています。

上手くできない子には上級生のお友達が手助けをして一緒に灌仏を
したりする風景もとても微笑ましいものです。
子供たちは「天上天下唯我独尊」などという難しい言葉は知りませんが、
誰もが目の前のことを一所懸命にしています。
子供たち一人一人のその尊い姿を大人になった我々が見ることで
改めて気付かされることや学ばせていただくこともとても多いように感じます。 

日々の生活を慌ただしく過ごしていると気付けないことはたくさんあります。
忙しければ忙しい程自分のことで頭がいっぱいになり、
他者の人格などということを悠長に考えている暇が無くなってしまうからです。
あれこれと自分のことばかり気になってしまう中でもあえて一度立ち止まり、
お釈迦様の教えのもとで自らを振り返り、ゆっくりと思いをめぐらせてみる。
お寺がそのような場であれば何よりかと思います。
(ある寺の住職の話から抜粋)

私は無邪気に遊ぶ子供たちの声が音楽の様に聞こえます。
その昔(奈良時代~明治時代)日本のお寺と神社は神仏習合で
同じ敷地内に同居していました。
子どもたちは広い境内で神様や仏さまの教えを童謡の歌を交えて
お遊戯をしながら学んでいくのです。
森に囲まれた自然界の音の中で無邪気な声が響き渡っていたのです。

私たちが普段よく耳にしている音楽の多くは、西洋の長音階
(ドレミファソラシ)や短音階(ラシドレミファソ#)といった7つの音から
成る音階が基本になってできています。この音階では、長音階ならド、
短音階ならラがいずれも中心の音(主音とよぶ)となります。
実際の曲の中では7つの音に加えて、それらが半音上がったり下がったりして
厳密に7つの音だけでできている曲というのは少ないのですが、
基本的な音階としては長音階・短音階とも7音と考えることができます。
 
これに対して日本の民謡や伝統音楽では5つの音から成る音階が基本となって
できているものが圧倒的に多く、いずれもレを中心の音とする民謡音階
(レミソラド)、律音階(レファソラド)、都節音階(レミ♭ソラシ♭)、
琉球音階(レファ#ソラド#)の4種類にほぼ整理することができ、
レだけでなくソやラの音も中心の音になります。

実際の曲の中では、やはりこれらが混じったり変化したりもしますが、
このように5つの音から成る「5音音階」は、日本だけでなく世界の多くの
地域に見られます。

面白いのは、明治以降の日本で頻繁に使われている「ヨナ抜き音階」と
呼ばれる音階で、民謡音階と同じ5つの音から成るのですが、
中心となるのがレではなくドの音で「ドレミソラ」という音階です。
日本ではある時期にドレミファソラシを「ヒフミヨイムナ」と称していて、
長音階からファにあたるヨとシにあたるナが抜けていることから「ヨナ抜き」
と呼ばれるようになりました。この音階は唱歌や童謡、歌謡曲など非常に例が多く、

本公演で演奏する曲でも「夕日」「うみ」がそうですし、「花嫁人形」は
短音階のヨナ抜き(ラシドミファ)です。ヨナ抜き音階はメロディが5音でも、
それに付くハーモニーが7音からなるドミソやシレソといった西洋流の和音が
ぴったりとはまる、日本の5音音階と西洋の音階とのハイブリッドと言えるでしょう。
この音階はスコットランドの民謡にもよく見られ、「蛍の光」や「故郷の空」が
代表例です。(文・指揮者寺嶋陸也)

実はあのビートルズも「ヨナ抜き」音階で曲を作っています。
「LET IT BE」レット・イット・ビーがそうです。
ポールマッカトニーがビートルズ解散の危機を迎えた時に
亡き母が枕元に現れて「あるがままを、あるがままに受け入れるのです」との
囁きを元に書いたと語っています。メアリーは、マッカトニーが14歳の頃に
癌で死去した。亡き母が枕元に現れたことについて、マッカトニーは
「母に再会できたのは本当によかった。夢で祝福された気分だった。
だから僕は母の囁きの元に「レット・イット・ビー」を書いた」と語っている。

「ヨナ抜きはなぜ心に染み入るか」
7音階が既知のもの、自然なものとして人の心に染みわたっているから、
2音が抜けていることが意外な感覚を与えるのです。

私が世界の民謡に興味を持ったのはその民族が長年愛した音階だからです。
文化的背景以外に様々な辛い状況を乗り越えて来た思いが
楽曲に込められているからです。
イタリアのカンツォーネ、フランスのシャンソン、ポルトガルのファド、
ブラジルのサンバ、アメリカのカントリーウェスタン、韓国のパンソリ、
イギリスのソング&バラッド、スイスのヨーデルなどです。

そして忘れてならないのが能で歌われる「謡曲」です。
能は古くから自作自演が原則であり、その台本と言われる謡曲は現存する
曲や俳曲になったものも含めると、その数は約二千番にのぼり、
その大部分が江戸時代以前に作られたものである。
しかし作者に関しては不明のものが多く、現在その中の2~3程度が
観阿弥・世阿弥・金春禅竹などの作者の確定できるものとされている。
謡曲は台詞と地の文とで構成され、その文章は古歌・古詩などの引用、
縁語・掛詞・枕詞・序詞といった修辞技法を駆使した和文体である。

日本は大自然と共に様々な文化を育んできました。
西洋は数学的に良し悪しを判断するのですが、日本は自然との対話型で
過去にあるものを否定せずに改良を重ねて継承を続けてきました。
正に「温故知新」の心です。

これからも日本の音を慈しみ大切にしていきたいものです。


若者たちへ




「恩学塾」開校にあたり
(これはイメージです)

我々はここに誓う
①どんな困難にも弱音を吐かない。
②友の苦しみはみんなの苦しみ一緒に解決する。
③先人の教えを守り勉学をおろそかにしない
④礼節を重んじて老人・子供を大切にする
⑤慈愛に満ちた心で何事も取り組む姿勢を大切にする
⑥家族を、地域社会を、この国を守ることに専念しよう。

塾開校に当たり橋本佐内の「啓発録」を斉唱します。

橋本左内は越前国福井藩の武士の家に生まれました。
彼は幼い頃から聡明で様々な本を残し、「池中の蛟竜」と称えられましたが、
それだけでは飽き足らず十五歳の時に福井から大坂に出て福沢諭吉や
佐野常民などを輩出した適塾に入門。
緒方洪庵の下で医者の勉強をしたのちに福井に帰郷して医者として活躍しました。
しかし、適塾にいた時に習っていた蘭学にのめり込み、
さらには水戸藩の藤田東湖など著名な学者と交流して最終的には福井藩主
松平慶永の側近の蘭学者として活躍していくようになります。
しかし、安政の大獄の時に福井藩主であった松平慶永の処罰に連座して
二十六歳の若さで処刑されてしまいました。

「啓発録」
十五歳の時に「啓発録」という文章を書き上げています。
「啓発録」には、以下の 五つの項目が記されています。

一、「稚心を去る」
:自分とその運命を変えようと思うなら、結局、自分の手で何とかする
以外に方法はない。その第一歩は「稚心」、つまり「子供っぽい 心」を
捨て去ることである。
二、「気を振う」
:負けてたまるか、くじけてなるものかという負けじ魂こそが
ふる人を変えるエネルギーになる。
常にそうした心を持ち、緊張をゆるめず油断のないようにしなければいけない。
三、「志を立てる」
:夢や目標を持て。自分の心の向かうところをしっかりと決め、
一度決心したからには、その方向を目指して絶えず努力するべきである。
四、「学を勉める」
:学問を学ぶことは大切である。そして、それを世の中のたつとめに
正しく生かすこともまた大切である。
五、「交友を択ぶ」
:互いに切磋琢磨できる良き友を選ぶこと。自分を高めてくえられ、
心から尊敬でき、何かあった時に、真剣に心配してくれる友達こそ、
何よりも大切にするべきである。

左内は、十五歳という人生の節目に立てたこの誓いを守り、短い人生ながらも
素晴らしい人材として、教育や政治に大きな成果を残しました。
これら五つの項目は、現代の私たちにもそのまま当てはまるものであり、
私たちの気持ちを奮い立たせてくれます。
皆さんも、今の自分を見つめ直し、強い意志を持って邁進してください。
そしてこれからの人生を歩むときに年齢を理由に言い訳をしないようにしましょう。

アメリカの歴代大統領が就任式の演説で取り上げた
サミュエル・ウルマンの「青春」という詩を参考にしてください。

「青春」
(原作 サミュエル・ウルマン)
青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞(たくま)しき意志、炎ゆる情熱、
怯懦(きょうだ)を却(しりぞ)ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、
こう言う様相を青春と言うのだ。

年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑(こぎ)、不安、恐怖、失望、
こう言うものこそ恰(あたかも)も長年月の如く人を老いさせ、
精気ある魂をも芥(あくた)に帰せしめてしまう。
 
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く「驚異への愛慕心」空にひらめく星晨(せいしん)、
その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎(きんげい)、事に處(しょ)する
剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
 
 人は信念と共に若く  疑惑と共に老ゆる
 人は自信と共に若く  恐怖と共に老ゆる
 希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる
 
大地より、神より、人より、美と喜悦(きえつ)、勇気と壮大、
そして偉力と霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。
(ウルマン70歳で書いた詩です)

如何だったでしょうか?

そして「岐阜県中津川から生まれた伝説の音楽集会がありました。」
全国の若者が一同に集まり日本の夜明けを歌った音楽の祭典
「中津川フォークジャンボリー」(1969年~1971年)です。
地元の若者たちが手作りでステージを作り運営も行い、
岡林信康を筆頭に全国から多くの歌手が集まったのです。
メッセージのない歌は歌ではないと熱き若者たちが集まり、
日本における音楽の祭典の第一歩を踏み出したのです。

いま再び弱体化した日本を勇気づける為に立ち上がる時が来た。
この地から全国の若者たちに向けて熱きメッセージを送りましょう。

60年代当時の若者たち(戦後生まれた世代の代表)が、
学生運動を通じて日本の夜明け前を大人世代に遠慮することなく
大声を上げた時期である。

その頃に流行っていたこの歌を森山直太朗も歌っている。
彼もこの歌に共感を覚えて取り上げたという。

「若者たち」
ブロード・サイド・フォー

君の行く道は 果てしなく遠い
だのになぜ 歯をくいしばり
君は行くのか
そんなにしてまで

君のあの人は 今はもういない
だのになぜ なにを探して
君は行くのか あてもないのに

君の行く道は
希望へと続く空にまた 陽がのぼるとき
若者はまた 歩きはじめる
空にまた 陽がのぼるとき
若者はまた 歩きはじめる

フォークの神様と言われた歌手岡林信康がいました。
フォークジャンボリーでは常連の歌手です。
彼のこの歌が革命の歌のように若者たちは歌っていたのです。
当時、私も第二テントの会場で、飛び入りをしてこの歌「友よ」を歌ったのです。

岡林信康「友よ」

友よ 夜明け前の 闇の中で
友よ 戦いの炎をもやせ
夜明けは近い 夜明けは近い
友よこの闇の 向こうには
友よ 輝く あしたがある

友よ 君の涙 君の汗が
友よ むくわれる その日が来る
夜明けは近い 夜明けは近い
友よ この闇の 向こうには
友よ 輝く あしたがある

友よ のぼりくる 朝日の中で
友よ 喜びを わかちあおう
夜明けは近い 夜明けは近い
友よ この闇の 向こうには
友よ 輝く あしたがある

友よ 夜明け前の 闇の中で
友よ 戦いの炎をもやせ
夜明けは近い 夜明けは近い
友よこの闇の 向こうには
友よ 輝く あしたがある

私はこの音楽祭をキッカケに音楽プロデューサーになることを誓ったのです。
その夢を叶えるために英国に行き独学で学んだのです。
そして、今は「恩学」プロデューサーとして活動をしています。
人間の喜怒哀楽がいつどのようにして起こるのか、
その発露はどのようにして生まれるのか、本来求めるべきことは何かを探したのです。
人としての心根(こころね)であるべき「恩に始まり恩に終わる」を
皆様と一緒に考えて行きたいのです。

最後に「感即動」が我が門下生に贈る言葉です。
常に何かを感じたならば、すぐに行動に移してください。
クイックリー・アクションです。
人生の時間は思ったほど長くはありません。

「恩学塾」塾長稲葉瀧文


自分の都合&自然との対話




自分の都合で話を進める人が多い。
自分の都合で時間を遅らせても平気な人がいる。
自分の都合で善し悪しの価値観を決める人が多い。
自分の都合で好き嫌いを言い張る人がいる。
これらは全て幼児期の育った環境によるものが多いのです。

兄弟がいるのか一人っ子なのか親類(大人)との交流はあったのかが大切です。
幼児期に周りに人が多い場合は自然に人と付き合う礼儀を覚えます。
いわゆる我慢することを覚えた子は周りとのバランスを取ることが
出来るのです。一人っ子の場合は周りの大人が子供のわがままは「可愛い」と
甘やかすから、何もかも自分本位で判断する様になってしまうのです。

しかしそうしなければならない国もある。お隣の中国です。
中国は日本の10倍の人口が存在しているので他人より目立たなければ
存在が無視されてしまう。私が俺がと声を出して手を上げなければ
取り残されてしまうのです。自立があるというのではなく自意識が強いのです。
一人っ子政策で甘やかされて育って来たので総じて我慢なのです。
しかし巨大な我儘は世界へ脅威を与えることも事実である。

アメリカのトランプのように「アメリカン・ファースト」と叫び、
自国の繁栄のためにだけに政策が執り行われば
戦争へと発展していくことは確実である。
アメリカは大量の武器を売りつけて罪なき人々を殺しているのです。
経済を優先すると必ずそこには多くの罪なき被害者が生まれてしまいます。

もし中国の習近平が「チャイナ・ファースト」と叫んだら
世界はどうなるのでしょうか?世界一の大国がエネルギーも食料も
確保するために隣国へ侵略することは明らかです。
万が一アメリカとロシアと中国が戦えば地球は完全に消滅します。
その引き金はお調子者の北朝鮮の金正恩かもしれません。
他国へミサイルを撃ち込んだ時点で第三次世界大戦が勃発します。

この巨大国家は相手のことを思いやる、譲り合い、平等、謙遜などは
通じない国である。日本流の外交政策は国際社会では通用しません。
戦わない日本へは金銭の要求だけがますます増えて来るのです。

ここで問題なのは全てが目の前の私利私欲にとらわれている事です。
自分達にとって心地が良いか、また利益があるのかということに
とらわれて大きな視点が失われてしまっていることです。
結局は自分(国)の都合でしか判断できないのです。
小事にこだわり大局を見失っています。
常に全体を俯瞰で見るようにすれば地球規模で守るべきものは
何かが分かるはずです。

自分の都合は何事も目の前の自分に焦点を合わせます。
一度相手の立場に焦点を合わせてみることが大切です。

私たちの心は、何かをしながら心のどこかで、他のことが気になったり、
他のことが心配になったりと、ついつい別のことを考えてしまいます。
案外、一つに集中するのは、簡単のようで実は難しいことではないでしょうか。
私も何か作業をしていても、つい他のことに気を取られ、
結局中途半端になることが多々あります。

そんな時こそ「常行一直心」の教えは私たちを導いてくれるのです。 
『六祖壇経』の語録には「常行一直心」を実践することで、道はただちに
広まると示されております。『六祖壇経』より 

一つのことに、真っ直ぐな心で取り組む姿勢は、
自分と周囲を明るく導いてくれます。
ただ単に一つのことをやるのではなく、そこに「真っ直ぐな心」という、
純粋で何ものにも執着のない心が伴っていなければなりません。
そこが難しく感じますが、私たちには、それができる素晴らしい可能性を
誰もが持っているのです。
その心に触れ感じることができたなら、きっと道は切り開き、
日常が豊かになると、私は強く信じております。

職人の教えの中に「一つのことを止める」というのがあります。
正に「常行一直進」です。「正しい」の文字は一つのことを止めると書きます。

実際、日本の伝統工芸には西洋工芸にはない異質性があります。
純化されきった感、突き抜けた感、浮揚した感、超自然感…。
理屈では説明できないなんとも言えない特殊性が宿っています。

それは数学的な世界観がベースの西洋人には「何か得体のしれないもの」
として伝わっているように思います。実際、欧州に住んでいて分かるのは、
「日本」の立ち位置は、かなり特殊であるということ。
欧州人には神秘的に映っているということです。
では、どうしてそこまで違って映るのか。
哲学的に分析するなら、やはり人文知の在り方の違いではないでしょうか。

西洋知と比較して、あきらかに日本知で際立っているのは、
自然との「対話」の在り方ではないでしょうか。
日本の方が自然との距離が近い、逆に西洋は理性(アカデミズム)を介在させる。
日本知には体系化された座学はない。実践ありきである。

そして、工芸単体だけでは成立せず、生活様式の美しい在り方の追求に
捧げるためのものである。この生活様式の在り方を追求したもの、
西洋的にいうなら「美学」が、茶道、華道、書道、
そして武士道といった「道」である。

そしてこれらを統合したのが宗教であり、それは向こう側の世界に
繋がるための方法。いわゆる彼岸の世界、桃源境、真美真実の宿る世界。
超自然。が、この「向こう側」で西洋と日本では大きな違いが生じます。

自然から学んだ日本知を今一度再確認する時期かと思います。
物事を俯瞰でみるとあらゆることが見えてくるはずです。

改めて自分の都合で判断するのではなく、相手の都合で判断することを
恩学を通じて学びましょう。


音の効用




音楽としての音がある。さまざまな音楽を聞く事によって、
楽しくなったり、悲しくなったり嬉しくなったり、切なくなったり、
心の中にそれぞれの表象が現れる。
音楽としての音がある。美しい旋律と心地よいリズムと熱きメッセージは、
未来の願望であり、過去の記憶であり、現在の活力でもある。
音楽としての音がある。忘れたエピソードが音楽によって目覚めさせられる、
叶えられない恋も叶う気がしてくる、見果てぬ夢も捕まえられる気がしてくる。

音楽にはそれぞれの景色がある。視覚で捉えたイメージが記憶に残り、
その記憶は好みの音楽を聞く事によって蘇って来る。

音楽は絵画や彫刻とちがって時間芸術である。演奏者と聴衆のあいだで
常に交感をしなければ、ただの音として消えて行くだけである。
一瞬のやり取りの中に鮮やかな景色が浮かび上がり、その時に感じた心が
心象風景と重なり合うのである。

「音は心の中で音楽になる」

大好きな人と 
大好きな音楽を聞く

心を通わせながら 
ときめきの調べを聞く

星も月も太陽も 
愛の賛歌に声を合わせる

悲しい出来事に涙して 
音は勇気を与え

嬉しい出来事に微笑んで 
音は笑顔を与える

心が穏やかだと 
聞こえる音 
すべてが優しくなる

そして 音は心の中で祈りになる

また、音楽は脳や心にどのような影響を与えるかにこのような文章があります。
「文字文化を持たない社会はあるが、音楽文化を持たない社会はない」
といわれるほど、人にとって音楽は身近なものである。

音楽を聴くことで自然と気分が向上したり、リラックスしたりするという
経験は、おそらく多くの人にあるだろう。その経験からも分かるように、
音楽は人の心と身体にさまざまな影響を与える。
音楽には特定の感情を誘発させる効果や、“覚醒水準を調整する効果”が
あることが多くの実験によって確かめられている。

覚醒水準を調整する効果とは、脳や神経の覚醒水準が高いときは
それを抑え、低いときは高めるという働きである。
すなわち、過度の興奮状態であればそれを抑え、過度の落ち込み状態であれば
気分を高める効果を持つ。

音楽は音の集合体です。澄んだ音であれば澄んだ
音楽になります。自分の大好きな音が集まればそれだけでも音楽になり
脳にも心にも影響するのです。
子供の頃から大好きな人の話す声は音楽のように聞こえていた筈です。
そして大好きな人の表情は素敵な映画を見ている様だった筈です。
大好きな人と経験を共にすれば思い出が色あせても記憶にずっと残るものです。
日常の風景が全て音と繋がるのです。

「音は心の中で音楽になる」
谷口高士編著
<内容説明>
心理学の本を探せば音楽心理学のことがわかるかというと、
まずそんな項目は存在しない。それなのに、世間では「音楽心理学」とか
「音楽療法」などという言葉だけが、どこからともなく現われて
目の前にちらついている。これでは、「音楽心理学って何?」と
たずねたくなるのも無理はない。特に最近は、「音楽」と「癒(いや)し」
がセットになって頻繁にマスコミに登場している。

いったい「癒し」とは何か、音楽の何がどのように人間に効果を
もたらすのかということを曖昧にしたまま、音楽療法のなにやら
身近でとっつきやすそうなイメージだけが広まっている。
楽器を演奏できる人が、自分にも「音楽療法とやら」ができるのでは
ないかと勘違いしてしまう。

そのような、音楽を知っているが音楽心理学に対しては疑問や期待
(あるいは幻想)を抱えている人のために、本書の企画は生まれた。
もちろん、これから音楽心理学研究を始めようという人にも役立つものである。

人はどうして音楽するのか? 
音の集まりがどうして「音楽」として感じられるのか? 
音楽を聞き演奏する時に心や頭の中で何が起こっているか? 
音楽にまつわる人の認識,思考,感情のメカニズムやプロセスについて
研究する分野の本格的入門書です。
興味のある人は是非読んでみてください。

私は更に音域の周波数が脳にもたらす効用について勉強中です。
それぞれの楽器が脳に働きかけて治療効果が生まれるメカニズムを解析中です。
モーツワルトが子供の時からサバン症候群(知的障害・発達障害)と
てんかん症で苦しんでいたのをピアノ交響曲の高域の連打を弾くことによって
癒していたといいます。特にてんかんに効果があったのが
「2台のピアノのためのソナタ二長調」だと言われています。
ベートーヴェンもショパンもそれぞれ持病を抱えていたのを音のちからで
(周波数の力で)癒していたと伝記に書かれていました。

自然界の可聴範囲を超える音の波に楽器の音を加える音楽療法もあります。
その為には森の中の演奏会へ出かけるか、ハイレゾの再生機で聞くかの
方法があります。
私の知り合いの医者は治療で和太鼓の演奏を聴かせます。
和太鼓の低周波が精神を落ち着かせる作用があるので取り入れている
という事です。

音の世界はまだまだ未知の世界です。
全ての音が脳の働きを動かすスイッチのような気がします。
AIの時代通信速度が一気に加速する中で音の能力をコンピューターが
管理するとどうなるのでしょうか?

開けてはいけないパンドラの箱をすこし覗いてみることにしました。



未来予測2025年7月5日




あなたは予告を信じますか?
1人の漫画家が自身の「予知夢」で見たことを発表したら
あまりにも当たるので一時話題になりました。
しかしその後突然作者は表舞台から消えてしまったのです。

その予告の中で本当の大震災は2025年7月5日4時10分に起こると
言われています。ほぼ私の生まれた月日と時刻が同じで驚いています。
2025年7月5日、私はこの年に75~76歳となる日です。
予告の直前までの年齢が75歳で7と5まで符合している。

予告はさまざまな憶測が飛んでおり真実は定かではないが、
隕石が地球に衝突して完全に破壊されるというものです。
過去に隕石が衝突して氷河期が始まったように、
地球のあらゆる生態系が変わってしまうということです。

その突然表舞台から消えた人の名前は「たつきさん」です。
漫画家の「たつきさん」の予告はアジアのどこか(フィリッピン)
南方の海から異変(巨大地震)が起こりあらゆる国が壊滅状態になるということです。
これはさまざまなプレートに囲まれた地震大国の日本は笑い事では無い。

私もどちらかというと子供の頃から「予知夢」は、
よく見ていたので枕元にはいつも筆記用具を用意していました。
だからこの手の話は先ず疑うより信じる方なのです。
私の見た「予知夢」は地震予告や開発前のドローンやフライングスーツや
UFOに乗って宇宙人と一緒に行った宇宙旅行の話です
どちらかというと破壊の夢よりも未来に造られる創造の夢が多かった気がします。

著者の「たつき諒」氏は、1975年に「月刊プリンセス」(秋田書店)で
「郷ひろみ物語」という漫画でデビューした女性漫画家です。
その後、同誌を中心に「月刊ボニータ」などで執筆した。

「私が見た未来」は、著者が見たとされる予知夢を、
94年から98年にかけて、雑誌「ほんとにあった怖い話」
「恐怖体験」に掲載された漫画をまとめたものだ。
 
その中にはフレディー・マーキュリーやダイアナ妃の早逝、
さらには「大災害は2011年3月」と東日本大震災を予知する
記述があったことで、マニアの間では「予言の書」として話題になった。

しかも著者のたつき氏が、「私が見た未来」を最後に、突然、漫画家を
引退したことで様々な憶測が広がり、プレミアム本として人気沸騰。
長年、入手困難な状態が続いていた。

富士山噴火の予言は幸いにして外れたものの、現在発売されている
「完全版」には「本当の大災難は2025年7月にやってくる」との
記述があることから、サブカル・マニアを中心に、人気が再燃しているという。
 
2025年7月に起こるという大惨事についての詳細な説明は控えますが、
端的に言えば「日本の南方の海でなんらかの異変が発生し、その影響で
東日本大震災より大きい被害に見舞われる」というものです。
 
数々の予言を的中させてきた、たつき氏の「予知夢」。
今度ばかりは、予言がハズレることを願うばかりである。

これを悪魔の囁きと取るか、神からの予告と取るかはあなた次第です。
「流言飛語」、根拠のない情報。都市伝説的な的な話です。
お酒の席の話として盛り上がるのは良いですが、大勢の人の前で、
真顔で話すのは絶対やめてくださいね。

そういえば今年話題になった本「今日誰のために生きる」の
作者SHOGENショウゲンも同じことを言っていた。
上記の漫画家たつき氏に影響されて言ったのではなく、
以前から、そのことを周りの人たちには伝えていたという。
2025年7月5日の大災害説です。
Youtubeの中の番組でも明言していました。

本日新たに2025年7月に地球上のエネルギーの変換期に入るという
情報が友人から送られてきました。
地球上のエネルギーがすでに枯渇されているので、
新たなエネルギーが生まれる必要がある。
地球上の80億人の人々の暮らしを守るために
すでにどうするかが研究されている。
自然エネルギーに頼らない超音波の世界である。

例えば、5G⇒7Gに変わると劇的に通信環境が変わるので、
あらゆるモバイルが手で打つ状態から
意識の中で操作が行われる時代になる。
その時に超音波の電波が身体を通過した時に
人の感覚がどう変わるかも既に研究されているという。

立体音響(音波)による人の意識の変化は産業革命を上回る革命になる。
音の環境であらゆる満足感が得られれば、
必要以上に物に執着することもなく争うことが無くなるのである。
人々のイライラした感情が無くなれば最終地点は世界平和である。

我々は専門家の様に科学による未来予測は出来ないが
来年の7月5日には結果を体験する被験者になることになる。
これを信じるか信じないかはあなた次第です。


大人の決めつけ




君たちは将来結婚して家族を持つことになる。
子供が生まれて地域社会の連携を図らなければ日本は成り立たない。
この言葉に違和感を覚えませんか?これが日本の指導者の大間違いです。
LGBTの意味が理解していないことを暴露しているようなものです。
同性婚、子供が産めない、子供を必要としない人たちを、認めるための法案を
受け入れながら無視している大人が大勢いるのです。
いつも表面だけ理解している風を装い、その実は昔の考えのままです。
これが日本のダメな点です。一向に進化しません。
本音と建前の二枚舌です。同調主義の典型です。

君たちは何も心配なく食事ができて幸せだね。
世界には食事のできない子供も大勢いるのだからと
言われたら、今の若者は「ドン引き」するのを大人は知らなさすぎです。
大人が勝手に良かれと思っていることをお仕着せのように
自慢されると、その時点で意識の断絶が起こることが考えられないのです。
自分達のクラスに給食費を払えない貧困児童がいて
子供食堂に通っている現状を知っています。
大人がこんな世の中にして「君たちは幸せだ」と平気で言うことを
腹の底では笑っているのです。子供達は怒りを面に出しませんが怒っています。

親たちは子供に良かれと思い塾や習い事を半ば強制的に行っています。
本来は子供を突き放して辛い思いをさせるのが親の役目です。
その役割を果たさいということは完全に育児放棄をしていることと同じです。
遊びたい年頃に遊びを奪うと情緒が欠落して自己判断が出来なくなります。
それ以上に創造力の楽しみを奪ってしまうと未来を描くことが出来ません。
社会に出てから悩むのはあなたの子供達です。

この国がダメになったのはそんな勘違いの大人ばかりになったことです。
平和とはみんなで「ぬるま湯」に入ることではなく、
世間の厳しさを体験してから初めて理解できることです。
我々は平和と言う言葉を頻繁に口に出しますが、だれも平和の定義づけを
したことが無いのです。戦争放棄が平和でないことを子供達と話し合うべきです。
我慢することを覚えさせなければ健全な人間関係も作ることが出来ないのです。

日本の教育の欠点は学力向上を目指して頑張ることだけを教えることです。
画一化した内容を誰よりも早く正確に覚えることを教えます。
教育も均一化して訓練のように教えることに何の意味があるのでしょうか?
先生もそうやって大学で教員免除を取得したので、
この点については疑問を持たないのでしょうか。
残念ですがこの教育ではデジタル社会AI時代には役に立ちません。

教えて育てることが教育の基本ですが、
ここには個性が完全に無視されています。
時代が変わっても子供の心は変わらないと思っているのでしょうか?
子どもたちの脳は日進月歩、価値観や感性が変わっているのです。
アナログの時代とデジタルの時代では判断がまったく違うのです。
子どもたちの心の変化に対応できないのは教育ではありません。

子供達は既に2050年問題を知っているのです。
日本の人口が半分になり全国の896の市町村が無くなることを
うっすらと感じているのです。
東京の一部の地域では既に中国人街(池袋)と印度人街(葛西)が
出現しています。地方に行けばフィリッピン人もベトナム人も大勢います。
昔、家族で群馬県の伊香保温泉へ行った時にホテルの従業員が
全員ブラジル人だったので驚きましたが、今や都内のコンビニの店員は
ほとんどがアジア系の外国人の方です。

この国は将来外国の労働者に頼らなければ国としては成り立たなくなるのです。
その上に定住者の海外の人に参政権を与えることになるとしたら、
今の英国の様に首相もロンドン市長もインド人になってしまうのです。
別にインド人が悪いとか差別で行っているわけではありません。

日本の様に小さな島国では人口が減ったとしても、最低70%は日本人で
議席を占めて欲しいのです。
日本独特の伝統文化が守られなくなってしまいます。
その上に他国には無い独特の言語や歴史が失われてしまうのです。

大人の決めつけで世の中が回っています。
民主義国家なのに右へ倣えの社会主義のようです。
日本は平和国家で自由主義の安全安心な国です。
この嘘の神話が崩れ始めています。

育児放棄した親は乳母車に乗せた幼児が携帯電話で遊んでいるのを見て、
デジタルネイティブだと喜んでいるのです。
子どもたちはデジタルネイティブではなくデジタルスレーブなのです。
このような子はAIの奴隷になり操られてしまいます。

人間がAIに対応できるのは未来への創造力です。
データに記録されていない未来です。
デジタルの欠点は無駄が無いという事です。
クリエイティブは無駄から生まれて来るのです。
その無駄を取り除くと無機質な便利な商品ばかりになります。
アルミ製品やプラスティック商品に愛着がわかないのは無機質だからです。

これからはAIを使いこなす能力は誰でもが知っている能力で特別ではありません。
モバイルを使えない大人が感心して子供を褒めると笑われますよ。
さてこれからの大人の役割は何になるのでしょうか?
決して昔の価値観で決めつけないようにしてください。