適量を知る(愛のハンマー)




自分の欲を知るところから自分の適量を知ることになります。
常識と言われる知識ばかりに頼ると自分の適量を知ることが出来ません。
学びも仕事も生活も恋愛も誰かの基準に合わせるのではなく、
自分の基準を持たなければ適量を判断することは出来ません。

例えば薬を飲む時に大人3錠、小学生以下は1錠という表示に
違和感を覚えたことはありませんか?
大きな身体の大人と小さな身体の大人は、大人という括りで
本当にいいのでしょうか?
子供も元気な子供と病弱な子供も一括りにして良いのでしょうか?
大人より大きな子供たちも増えているのに、
子供ということで同じ1錠で良いのでしょうか?

私はいつも政府が発表する「高齢者」という言葉にも違和感を覚えています。
元気な高齢者、体が不自由な高齢者、寝たきりの高齢者、金持ちの高齢者、
貧乏な高齢者も一括りになっているということです。
高齢者の安心と安全と豊かな残りの人生の為に何何しますという発表に
寒気が走ります。どの高齢者へ向けて発表しているのか意味がわかりません。

誰もが警戒心を無くして他人の言うことを鵜呑みにしてしまっています。
私の弟子がいつも飲み物にケイ素の液を垂らしているのを見て聞きました。
「何のためにそれを飲むのか?」答えはワクチンの副作用が軽減されるからだ
というのです。日本で一番学力の高い大学を卒業した人間でも騙されるのです。
遺伝子組み換えをされた細胞を外から何かを加えても何も変わりません。
それなら免疫力を上げることに専念すれば良いのに、研究者から勧められたから
飲んでいるという。

私と彼は過去に2回コロナに罹患しています。
彼は一回目の時に重篤な状態で入院をしています。
その為にもう二度と罹患したくないという恐怖に縛られた結果、
ケイ素を飲むことが正しいと脳に植え付けてしまったのです。

サーカス団の象の話
大きな象がロープに縛られて自由を奪われています。
しかしよく見ると足のロープは布製の細いロープで大きな象が本気になれば
簡単にちぎれてしまうほどです。飼育員に何故この象はロープを切って
逃げ出さないのだと聞いたらこんな答えが返ってきました。
「象が小さい時にロープを切って逃げ出そうとしたのだが、
力が無く逃げ出せなかった。それ以来諦めて同じ行為はしなくなった。
だから小象の時の記憶に縛られているのさ」

人も同じ様に一回の失敗がトラウマになって、苦手意識に縛られてしまいます。
何故そのロープを切って逃げ出そうとしないのでしょうか?
トーマスエジソンの言葉にこの様な金言があります。
「私の成功は一万回の失敗から生まれた」そう失敗は成功を生むのです。
エジソンは何度もロープを切っているうちに
ロープに縛られるのが気になら無くなったのです。

きこりの話
6時間の時間をかけて一本の木を倒すきこりと、4時間かけてノコギリを研いで
1時間で木を倒すきこりはどちらが正しいか?
雇い主は何も考えずに黙々と汗をかきながら木を倒す方を奨励する。
次の日も次の日も同じ作業をさせる方が森を開拓するのに都合が良いからである。
効率よく1時間で木を倒す方だと、作業のあまりの時間で
きこりを辞めることばかり考えてしまう恐れがあるからです。

人の適量は人の意識から生まれるとするとAIが参加した途端に
適量計算が難しくなる。分量は身体と密接な関係があり人それぞれだからである。

食品添加物も遺伝子組み換え食品も防腐剤入りの野菜も
仕方なく食べているのだが、大人はそれなりに免疫力があるのでいいのだが、
子供は様々な病気の誘発を受けることになる。

ここで私の作詞した「愛のハンマー」を紹介します。
私は作詞家として登録がしてあり「レコード大賞」も受賞しています。

「愛のハンマー」
大サビ
打ち砕けその脳天を
打ち砕けそのハートを
打ち砕けその脊髄を
打ち砕けその指先を
もう立ち上がれないほど
僕の身体に叩きつけろ

Aメロ
言葉のナイフで弱い心を突き刺して来る
僕の感情の痛みを容赦なく突き刺して来る
優しさが欲しい時にでもお構いなしに突き刺して来る

Bメロ
ママ僕は言葉で友を殺めてしまった
ママ一番大切な人を殺めてしまった
ママその愛のハンマーで僕を殴りつけて欲しい
今は僕を抱きしめないで僕を突き放して欲しい

Cメロ
人は偽りの愛を求めて冒険を諦める
嘘だらけの愛に溺れて自分を見失う
快楽の湖で溺死を望んでいる
ヴィトゲンシュタインの言葉に騙される
政治家どもの嘘に騙されるな

Dメロ
Japan Calling Japan Calling Japan Calling
環境問題を叫ぶ奴らは原発の汚染水を垂れ流しに目を瞑(つぶ)る
貧しい奴らが身体を売って自殺するLGBTどころじゃ無い
おかしな奴らを守る為にジェンダーフリーを掲げてる
地震で破壊された村を守れない弱腰の役人たちよ
今警告の鐘が鳴り響くこの国は終わったとリンドンドン

A1メロ
国連も戦争を止められない能書だけのスーツ族
WHOワクチンを打ちまくれ死体の山を築くのさ
綺麗事だらけのSDGs裏で隠れた金儲け

B1メロ
ママ僕は言葉で友を殺めてしまった
ママ一番大切な人を殺めてしまった
ママその愛のハンマーで僕を殴りつけて欲しい
今は僕を抱きしめないで僕を突き放して欲しい

C1メロ
子供達よ戸棚の奥から出て来るのさ
嵐は過ぎ去らないから逃げるのだ今すぐに
大人はもう君たちを守れないから
キルケゴールの言葉に騙されるな
大人たちの言葉に騙されるな

Dメロ
Japan Calling Japan Calling Japan Calling
貧困児童が苦しむ横でお笑いタレントが貪り食う
貧乏人を煽り立てるよ宝くじ競輪競馬のコマーシャル
税金逃れの政治家たちが国民に税金払えと騒ぎ立て
伝統芸能や職人たちを守れずクズに堕ちた日本民族
今警告の鐘が鳴り響くこの国は終わったとリンドンドン

大サビ
打ち砕けその脳天を
打ち砕けそのハートを
打ち砕けその脊髄を
打ち砕けその指先を
もう立ち上がれないほど
お前の身体を叩きつける

Shattered that brain
Shattered that heart
Shattered the spinal cord
Shattered that fingertip
I can’t stand up anymore.
I’ll beat your body.

打ち砕けその脳天を
打ち砕けそのハートを
打ち砕けその脊髄を
打ち砕けその指先を
もう立ち上がれないほど
僕の身体を叩きつけろ


自然の中にある




意識して自然は作られていない人間も同じ様に意識して作られていない。
意図的に作るものは全て自然ではない。
都会は人工物で意図的に作られた世界である。

人間の誕生も0,2ミリの卵子に偶然的に精子が入り込み奇跡の様に作られる。
土から生まれて土に帰るとは自然界にある食物を食べているからである。
人間の体はそうして作られている。だから田んぼを見ると私の体はここで
作られていると思う。人間の細胞は速い勢いで新細胞と入れ替わっている。
昨日の自分と今日の自分は同じ人間ではない。養老孟子

「馬よりすごい日本人」
明治時代、日本に招かれたお雇い外国人のエルヴィン・フォン・ベルツは、
27年にわたって日本に西洋医学を教え、医学の発展に尽くしたドイツ帝国の
医学博士です。ベルツは日光東照宮の観光を勧められ、ある日110kmの道のりを、
馬を6回乗り換えて14時間かけて行きました。ところが2度目は車夫に依頼した
ところ、なんとその車夫はたった一人で、馬より30分余分にかかっただけで
東照宮に着いてしまったのでした。

普通に考えれば、人間より馬の方が体力はあるし格段に速いはずですが、
これではまるで逆です。この体力はいったいどこから来るのだろう。
ベルツは驚いて車夫にその食事を確認したところ、「玄米のおにぎりと梅干し、
味噌大根の千切りと沢庵」という答えでした。
聞けば平素の食事も、米・麦・粟・ジャガイモなどの典型的な低タンパク・低脂肪食。
もちろん肉など食べません。ベルツからみれば相当の粗食でした。

驚いたベルツは、この車夫にドイツの進んだ栄養学を適用すればきっとより一層の
力が出るだろう、ついでながらその成果を比較検証してみたいと実験を試みました。
「ベルツの実験」です。22歳と25歳の車夫を2人雇い、1人に従来どおりのおにぎり
の食事、他の1人に肉の食事を摂らせて、毎日80kgの荷物を積み、40kmの道のりを
走らせました。

すると肉料理を与えた車夫は疲労が次第に募って走れなくなり、
3日で「どうか普段の食事に戻してほしい」と懇願してきました。
そこで仕方なく元の食事に戻したところ、また走れるようになったそうです。
一方、おにぎりの方はそのまま3週間も走り続けました。

当時の人力車夫は、一日に50km走るのは普通でした。ベルツの思惑は
見事に外れたのでした。彼はドイツの栄養学が日本人にはまったくあてはまらず、
日本人には日本食がよいという事を確信せざるをえませんでした。
また日本女性についても、
「女性においては、こんなに母乳が出る民族は見たことがない」と
ベルツはもらしています。その後ベルツは日本女性を娶り、
帰国後はドイツ国民に菜食を与えたほどでした。

ベルツは無条件で西洋文化を受け入れようとしている日本政府に対し、
こんな言葉を残しています。
「もしあちらのすべてを受けようというのなら、日本人よ、おさらばだ」と。

フンザ食の実験
車夫は努力して「玄米のおにぎりと梅干し、味噌大根の千切りと沢庵」を
食べていたのでしょうか?きっとそれが当たり前の暮らしだったのでしょうね。
健康は意識して成すものではなく、無意識のうちに自然に形成される底力のような
ものです。ですが私たちは西洋料理の美味しさも知ってしまいました。
どうすることが最善なのでしょう。

以前アメリカは「がんの発症率が世界で一番」でした。
政府は医療費負担の増大の問題もさることながらその原因と解決を
至急調べるように研究機関に通達しました。
世界中を調査したところ当時日本人にはガンを発症する人がほとんどいないことに
気づきました。その為に日本の食生活を取り入れてがんの発症を抑え込んだのです。
それが今や日本人の死亡率の一位がガンです。
元気で強い日本人はアメリカとって都合が悪くその為西洋料理を推進したのです。
牛乳や肉食を奨励してそのうえ甘味類のお菓子やジュースも強制的に取り入れるよう
植え付けてしまったのです。戦後の「ギブミーチョコレート」はその象徴です。

自然界の食物は体力形成には無くてはならない物ばかりです。
それを加工して添加物や調味料を加えた食品を電子レンジで温める(放射線漬け)。
身体を悪くするすべての要素が日本の現代人の食生活です。

オーガニックレストランを49年間経営している友人から聞いた話です。

マクロビオティックの基本理念は3つ
「一物全体」(自然の恵を残さず丸ごといただくこと)
ひとつのものを丸ごと食べる、という意味です。食材そのものは、
丸ごとでバランスがとれており、穀物なら精白していない玄米、
野菜なら皮や葉にも栄養があり、
全てを摂ることでからだのバランスがとれるという考え方です。

「身土不二」(暮らす土地の旬のものを食べること
人間も植物も生まれた環境と一体という意味です。例えば、熱帯地域でとれる
フルーツには体内の熱を下げる働き、寒い地域でとれる野菜には体内を温める
働きがあり、四季のある日本では、季節ごとの旬の食材をとることで、
からだのバランスがとれるという考え方です。

「陰陽調和」(食材、調理法を陰陽に分け、そのバランスをとること)
すべてのものに「陰」と「陽」がある、という考え方があります。陰性の食材とは
上に向かってのび、からだを冷やす作用があり、陽性の食材とは地中に向かってのび、
からだを温める作用があると考えられています。
旬の食材を例にすると、夏のキュウリ(陰性)は、ほてったからだから熱をとり、
冬のゴボウ(陽性)は、冷えたからだを温め、わたしたちのからだのバランスをとる
手助けをしてくれます。マクロビオティックではこの陰性と陽性のバランスがとれた
状態(中庸)を大切としています。

ベルツはドイツの栄養学が日本人にはまったくあてはまらず、
日本人には日本食が良いという事を確信しました。
それにもかかわらず、明治政府の指導者たちはベルツの「日本人には日本食」という
研究結果よりも、フォイトの「体を大きくする栄養学」の方を選んでしまったのです。
時は流れ、戦後に食の欧米化がさらに進んだことはご存知のとおりです。

「健全なる精神は、健全な身体に宿る」と言われます。
私たちは自然界からの贈り物を享受できる国なのです。

自然の中に強く生きるヒントが隠されています。


終わってから始まる




全てが終わってから始まる世界がある。
オカルトの世界ではなく現実の世界である。
我々は終わりのある世界で常に再生しているのである。

死に際に「ハイサヨナラごきげんよう」と言って終わりを迎えたい。
人生いくら悩んでも最後にはこの言葉しかない。
「ありがとうまた会いましょう」

だから高潔でありたい。
自分に対して忠実でありたい。
誰の人生でもない。自分の人生だから。

青春時代は悩みと友達になるしかない。
悩みのない人間なんていないのだから開き直るべきである。
吉田拓郎とはアルバム「今はまだ人生を語らず」のレコーディングで
ご一緒しました。そして深夜番組中に突然の離婚発表で大騒ぎになった時に、
吉田拓郎と一緒に報道陣の波を抜けて脱出したのが良き思い出です。

「私は今日まで生きてみました」
歌:吉田拓郎
作詞:吉田拓郎
作曲:吉田拓郎
私は今日まで 生きてみました
時には誰かの 力を借りて
時には誰かに しがみついて※
私は今日まで 生きてみました
そして今 私は思っています明日からも
こうして生きて行くだろうと※

私は今日まで 生きてみました
時には誰かを あざ笑って
時には誰かに おびやかされて(※くり返し)
私は今日まで 生きてみました
時には誰かに 裏切られて
時には誰かと 手をとり合って(※くり返し)
私には 私の生き方がある
それは おそらく自分というものを
知るところから 始まるものでしょう

けれど それにしたって
どこで どう変わってしまうか
そうです わからないまま生きて行く
明日からの そんな私です
私は今日まで 生きてみました
私は今日まで 生きてみました
私は今日まで 生きてみました(※くり返し)

ある演奏家の回想
お前が小澤征爾先生から何を言われたかでは無く、
お前がその言葉をどう受け止めたかが大切だ。
小澤征爾先生もそこを気づいて欲しいと思っている。

小澤征爾の手の中にオーケストラのすべての音が集まる。
彼は指揮しているというより音を操る魔術師だ。
一瞬目が合った瞬間にソリストは自分の使命を思い出す。
この場面で最高の音を出すことに命を懸ける。

ルーシー・リューが、エンターテイメントやスポーツ、
ビジネスの世界で活躍するアジア・太平洋初頭系アメリカ人を称える
ゴールド・ハウスからゴールド・レジェンド賞を授与された。

5月11日(現地時間)にロサンゼルスで開催された2024ゴールド・ガラにて
レジーナ・キングから賞を手渡された
彼女は、ハリウッドにおけるアジア系俳優の先駆者として孤独だったと
振り返り、近年躍進しているアジア系俳優たちの活躍を喜んだ。

私が仕事を始めた30年前には、選べるほど役柄の選択肢がありませんでした。
今夜ここに立つことができ、うれしく思います。
今や我々には限界がないからです。これまで自分自身には感じられなかった
ことです。我々のコミュニティとして一丸になって、
この特別な意味を分かち合いたいと思います。
私に力を与え、ここまで押し上げてくれた皆さんと、この賞を共有します。
皆さんのおかげで、私は誇り高くなれました。

「私はずっと孤独だったように感じます。もっと家族からの励ましがあれば
よかったのにと。ほんの些細なことが、あなたの行く先や旅路に大きく
影響するからです」と語り、こう続けた。「部屋で最初の人になるのは
大変ですが、一人ぼっちなのはまた違うんです」。

そして、当初は受賞を断ったことを半ばジョーク混じりに告白する。
「この賞をいただくことを最初はお断りしました。おまえはふさわしくない
だとか、資格はないと言われた幼少期のトラウマが原因かもしれません。
ですが、このコミュニティを想い、ここに参りました」

大谷翔平も何事もなく順風満帆な人生だと思う人は多いが、
彼なりにアメリカを意識した人生計画を実行するにあたっては、
ストイックなまでにすべてが忠実である。
人に語らずとも多くの問題を乗り越えて今の地位を手に入れたと思います。
わずか20代のアジア人の青年がアメリカで評価される、
ましてやアメリカの国技とまで言われるメジャーリーグでの評価は
過去にはほとんど例のない話である。
ひと昔のアメリカであれば日本人が活躍するのを絶対に認めなかったと思います。
しかし誰もなしえなかった二刀流で次々に記録を塗り替えてしまったのです。

自分のモチベーションを閉ざさない為に取り入れた体力増強と食生活、
十分な睡眠を取り入れる為に夜遊びやアルコールは御法度。
巨額な報酬を受け取っても驕ることなく謙虚な姿に、世界中の野球ファンが
敬意を表しているのである。

通訳水谷一平氏の裏切り行為(詐欺)は大谷選手もショッを受けて眠れない夜が
度々合ったと報じられた。強運の持ち主である大谷選手は事件発覚寸前に
結婚をしていた。この人生最悪の時に陰で支えることのできる伴侶が
現れたことにもスーパースターの強運のなせる技である。

逆境に陥った時に初めて見えて来る世界がある。
失敗から学ぶことは全て「終わってから始まる」ことである。


子どもの本質




今回AIと共同で文章を考えてみました。

哲学的に子供を語るには、さまざまな観点からアプローチできます。
ここでは、いくつかの主なテーマを取り上げます。

1.「純真性と無垢性」子供は、しばしば純真であり、
無垢であると見なされます。
哲学者は、子供の純粋さが、社会や大人の影響によってどのように
変化するかを考察します。ジャン=ジャック・ルソーの「エミール」では、
子供の自然な良さと、教育や社会化によって失われる可能性のある
純真性について触れています。

「子供の脳の発達と自然との触れ合い」
0歳で脳幹・3歳で小脳・6歳で大脳・12歳~16歳で前頭葉が作られていきます。

2.「道徳と倫理」子供は、善悪の概念をどのように理解するのか、
または倫理的な行動はどのように学ばれるのか、といった疑問が生じます。
子供の道徳観や倫理観の形成過程を考察することは、
哲学において重要なテーマです。

「自然の中に神々が住んでいる。だから道徳や倫理を自然から学ぶ」
アニミズムはすべてに神が存在する。八百万の神々が住む国です。
6歳までに礼儀と躾を教えなければなりません。

3.「自己とアイデンティティ」子供は自己認識をどのように発達させ、
自己アイデンティティをどのように確立するのかについても、
哲学的な議論が行われます。これには、子供の成長過程における自己理解や、
他者との関係を通じて形成されるアイデンティティが含まれます。

「つの教育(一つ~9つ)の大切さを教える」
3つで心、6つで躾、9つで言葉、更に12で文、15で理と続きます。
感情、情緒、礼儀、伝達、文章、理論です。

4.「教育と育成」子供を教育する目的や手段についても、
哲学的な考察が必要です。
教育の目的は、単に知識を教えるだけでなく、
子供の全体的な成長や人格の形成を促進することにあるとされています。
哲学者は、どのような教育が最善か、または教育による
道徳的な影響について議論します。

「能や歌舞伎の教育を3歳から始める理由」
3歳で小脳が発達します。小脳は動作の脳です。
全ての所作に疑いを持ちません。
特に女形はこの時期に覚えた女性の所作は一生忘れないそうです。

5.「子供の存在論」子供の存在は、大人や社会にとって
どのような意味を持つのか、また子供たち自身にとって存在の意味は
何かといった疑問が生じます。
これらの問いは、子供の成長、社会化、そして大人との関係に関連しています。
哲学的に子供を語ることは、単に子供の行動や成長を観察するだけでなく、
子供の存在やその価値、道徳、教育、そして社会との関係について
深く考えることを含みます。

「バジルホール・チェンバレンの日本事物史」社会の中のこどもの存在。
この国は貧乏があるが貧困は無い。社会の隅々まで自由平等が行き渡っている。
通りで遊ぶ子供たちは老人たちに見守られて天使のような笑顔をみせる。
また老人たちも分け隔てなく子供達の面倒を見ている。

仏教的に子供を語るためには、仏教の教えや価値観、概念を参考にして、
子供の成長や教育、倫理、そして存在の意味について考察する必要があります。
以下に、仏教的な観点から子供を考える方法をいくつかご紹介します。

1.「無常と変化」仏教の基本的な教えの一つである「無常」は、
すべてのものが変化することを示しています。
子供も成長と共に変化し続ける存在であり、
その成長過程には多くの気づきと学びがあります。
子供が持つ無垢さや純真さも、やがて成長するにつれて変化していきます。

「日本は神社仏閣が共存していて子供たちはそこで学びそこで遊んだ」
童謡「むすんでひらいて」は仏さまと神様に祈る仕草です。
仏様でむすんで、神様でひらいて、手をうってむすびます。

2.「因果応報とカルマ」仏教では、行為と結果の関係を示す
「因果応報」や「カルマ(業)」の概念があります。
子供が行う行為や選択は、その後の人生に影響を与えるとされています。
親や教育者は、子供が善い行為を選択するよう導く役割を持っています。

「江戸時代の読み書き算盤に全てが集約されている」
そのうえに意味も分からずに「論語」を読ませると大人の脳に変化していく。

3.「慈悲と共感」仏教は慈悲(メッタ)と共感(カルナ)を重要視します。
子供に対して慈悲の心を持つことは、愛情や優しさをもって接することを
意味します。子供は他者に対する共感や慈悲を学びながら成長します。

「子供はもともと優しさと協調性は持っている」
自然環境の中で生きていることが動物と人間の和合が生まれるのである。

4.「悟りへの可能性」仏教では、誰もが悟りに至る可能性を
持っていると考えられます。子供たちも例外ではありません。
子供たちの中には、悟りを求める心や、仏教的な知恵を持つことが
できる可能性があります。
教育や育成を通じて、子供たちの精神的な成長を支援することが重要です。

「アイヌのイヨマンテの儀式こそ悟りへの可能性が広がる」
冬眠から目覚めた子熊を大切に育て大人の熊として成長した時に食肉として、
毛皮として、骨は装身具にして売りに出す。ここにワンサードの精神が宿る。
1/3は自分の為に、1/3は自然の為に、1/3は未来の子供達の為に。

5.「教えと伝統」仏教は、経典や教えを通じて知識と価値観を
伝える伝統があります。子供に対して、仏教の教えや倫理を教えることで、
彼らの人生における道しるべとなることができます。
子供に対する教育は、仏教的な価値観を持ちながら行うことが奨励されます。
仏教的に子供を語ることは、慈悲、共感、因果応報、無常などの
基本的な仏教の概念を通じて、子供たちの成長や教育、倫理について
考えることを意味します。子供たちが善い行為を選択し、
精神的な成長を遂げるよう、仏教の教えを通じて支援することが重要です。

「中国では論語の素読、日本ではお経を読む、人の死から人性を学ぶ」
人間が特別ではなく自然の中の一員であることを教えることが仏道を
教えることになります。

如何でしょうか?チャットGPTと共作で仕上げた文章です。
しかし、理屈を並べるだけで本質には近づけません。
これで十分に学んだとは思わないでくださいね。

これからの子供たちはチャットGPTで対話することになります。
一般的な質問は検索すればすぐに回答が得られます。
学ぶ本質を誤解したままに人生を過ごすことになる恐れがあります。


本物の思いやり




何をもって本物の思いやりというのか?
受け止める側の価値観によっても大きな違いは出る。
雨を怖がる人もいるが雨を喜ぶ人もいる。
天気が良くて喜ぶ人もいるが、天気が続くと
日照りの始まりと悲しむ人もいる。
千円を喜ぶ人も1万円を喜ばない人もいるのに
皆一様に同等に扱う風潮が嫌いだ。
そこにはいつも真実がない。本当に思いやりは平等だろうか?

昔から疑問に思っていたことが「平等」という言葉である。
余裕のある人達がこの言葉を使うたびに嫌悪感がうまれた。
「万人」という文字も誰を指して万人というのだろうか?
「神は万人に平等である」。あり得ない妄想である。
貧しい人も傷ついた人も身体が不具な人も祈れば幸せになる。
本当にそう思っているのだろうか。
仏や神の名をかたって商いする人たちには天罰が下る。

本当に愛を伝えるなら近くにいる人にまず手を差し伸べるべきである。
遠くの身内を思うのでは無く身近にいる他人に手を差し伸べる。
目の前で倒れている人がいれば抱き抱えて起こしてあげる。
こんな単純なことも言えない神は神ではない。
地震で壊れた家の人の日常を取り戻せないは神の力が働かないからなのか?
戦争の犠牲になっている子供達も救えない神は本当の神ではない。
様々な神を信じる人達が戦争を引き起こすのは神への冒涜である。

キルケゴールは、すべての人を平等に愛する「隣人愛」と特定の他者に
愛情を向ける「恋愛・友情」を鋭く対立させる一方 で、他者の個性を
愛することと隣人愛は両立すると考えている。
〈キーワード〉 隣人愛、個性、差異性、平等、単独者

キルケゴールは『愛のわざ』において、キリスト教的な愛と自然的な愛
(恋愛や友情)を鋭く対立させている。 キルケゴールによれば、恋愛や友情などは
好みに基づく偏愛であり、本質的には自己愛である。
これに対して、キリスト教的愛であるところの隣人愛は、他者を愛すべき者と
そうでない者に区別することなく、すべての人を等しく「隣人」として
愛するものとされる。

このようなキルケゴールの愛の理論は、すべての人間が平等に持つ価値を
尊重する態度であるとして評価されて いる。
一方で、愛の平等性は同時に、他者の持つ個性をないがしろにするものだとして
批判的に議論されることもある。

とはいえ、実際のところ、キルケゴールは隣人愛が他者の個性を
ないがしろにするものだとは考えていない。
むしろ、恋愛や友情よりも隣人愛の方が、他者の個性を正しく捉えることが
できると『愛のわざ』で語っている。
しかしそうした議論は一見すると、キルケゴールが語る隣人愛の性質と
相いれないように見える。

キルケゴールはどのようにして、この二つの愛を結びつけているのか。
はたして、他者に特別な愛情をかけることと隣人愛は
両立しうるのだろうか。尋ねてみたいものである。

「かくれてしまえばいいのです」。
生きるのがしんどい子どもや若者向けに、
こんな名前のウェブサイトが公開されて注目を集めている。
自殺防止対策に取り組むNPO法人「ライフリンク」(東京)が
絵本作家のヨシタケシンスケさんの全面協力を受けて開設した。
ネット上の「かくれが」に込められた思いとは。

◆「かくれるのっていけないことじゃない」
「かくれがで遊ぶことにしたら、少し落ち着いてきた」
「かくれるのっていけないことじゃないんだと教えてくれる」
「今しんどい人、悩んでいる人は行ってみてほしい」。

Xには「かくれてしまえばいいのです」への投稿があふれている。
3月1日にオープンしたウェブサイトは「もしあなたが生きるのが
しんどくて、この世からいなくなりたいと思っているなら、
まずは1回かくれてしまいましょう」との提案を具現化した空間。

ヨシタケさんによる優しいタッチで描かれた「かくれが」が広がる。
死に対して「むきあうエリア」と「やりすごすエリア」に分かれており、
計九つのコーナーを用意。匿名・無料で24時間利用でき、4月17日に
アクセス数は300万件を突破し、現在も1日5万件前後で推移しているという。

◆「相談したくない人にも居心地が良い場所に」
運営するライフリンクの清水康之代表(52)は「想像以上の反響に驚いている。
自分から外部に相談できない人、相談したくない人にも居心地が良い
場所になってほしい」と語る。東京新聞「こちら特報部」の記者も、
アバターになってサイトに入ってみた。

まずは「むきあうエリア」の「むかんけいばあちゃんの部屋」に。
管理人のばあちゃんが「家族でも、先生でも、上司でも、
クラスメートでもない。何を話しても大丈夫」と呼びかけてくれる。
ここではヨシタケさんの描き下ろしで、つらい気持ちに寄り添う17話の
小話を読める。

同じエリアの「ロボとおしゃべりコーナー」は気持ちを打ち込むと
人工知能(AI)と会話でき、悩みを打ち明けられる。
「まずは自分の思いを外に出すことが大切。相談する練習の場」と清水さんは言う。
「やりすごすエリア」には、ミニゲームが楽しめる「ゲーム自習室」、
著名人がおすすめの映画や場所、つらいときのやり過ごし方を紹介する

「オススメ市場」といったコーナーも。清水さんは
「死にたい気持ちからとにかく一瞬でも別の気持ちになって、
『もう少し生きるか』『生きてていいかも』と思ってもらいたい」と語る。

◆「そんな自分を肯定できる場所に」
サイト開設の背景には、子どもや若者の深刻な問題がある。
2022年は小中高生の自殺者が過去最多の514人となり、
昨年も513人と高止まる。ライフリンクが18年3月から運営する
交流サイト(SNS)相談「生きづらびっと」には毎月1万人前後の
アクセスがあり、相談者の6割弱を20代以下が占める。
1日30人ほどのスタッフで対応しているが、「電話より相談しやすい半面、
SNSの文字だけではどうしても情報量が少なくなるので、
相談を深めていくのに時間がかかる傾向にある」(清水さん)。

23年度、スタッフが相談に対応できた割合は今年2月までは
39〜54%で推移したが、アクセスが1万5000人を超えた3月は
25%まで落ち込んだ。

すぐの相談に至らなくても、従来とは別の受け皿となる場所の
必要性から生まれたのが今回のサイトだ。
04年にライフリンクを設立し「誰も自殺に追い込まれることのない
生き心地の良い社会」を目指して活動している清水さん。

「死にたい気持ちは簡単にはなくならない。
でもその気持ちを抱えながら生きていくこともできるし、
そんな自分を肯定できる場所になってほしい」と願っている。

人はそうやって助け合いながら生きていく。
願わくば神の力を借りて多くの人を救いたいのです。
私の恩学を読んで少しでも救われることを願っています。
今、眼の前の困っている他人を助けるのが本物の思いやりです。
若者が強いものに追従するのではなく弱いものを助けていく心が大切です。

我々の国は「和をもって尊しとなす」の国なのです。


本当の幸せ




置かれた環境の中で身を整えていくことが大切です。
自分の境遇で楽しみを見つけ出さなければ不幸になります。
他人と比べて能力や容姿を気にして何になるのでしょうか?
人間にはそれほど大きな違いは無いのです。
重い病気や身体障害者の方も天から与えられた生命を
全うしなければならないのです。
私より頭が良いから、私より美しい顔を備えているから、私より能力を
発揮しているから、私より恵まれた環境にいるからと比べても何もなりません。

あなたが憧れている世界が本当に理想的な幸福なのでしょうか?
小さな矢車草が向日葵に憧れて大きく育ちたいと願っても叶うことはありません。
猿がキリンに憧れて背が高くなりたいと願っても叶うことは絶対にないのです。
努力もしないで裕福な家に生まれて贅沢をしても満足は得られないのです。

仏教用語に「三毒」というのがあります。貪・瞋・痴(とんじんち)です。
貪(とん)は貪欲に際限なくあれこれ欲することです。
他人の地位や名誉や財産をうらやみ手に入れることに奔走することです。
瞋(じん)とは感情を簡単にぶちまけることです。
不快なものに対して激しく怒ったり、妬んだりすることです。
最後の痴(ち)は無知であること。
自己弁護に走り、常識知らずのうえに利益しか考えないことです。
ゆえに、愚かであることを指します。

子供の心は純心で無垢です。大人と違って比較することを知りません。
見たまま、感じたままを発言するので、その物事の真意を知ることがあります。

『100人の村は楽園だった』
ある日、大変なお金持ちが、息子を連れて田舎へ行きました。
息子に、世の中の人々が実際にどれほど貧しいのかを見せようと思ったのです。
そしてその父親と息子は、田舎の大変に貧しい農家で数日を過ごしました。
田舎での滞在を終えて帰る道中、父親は息子に「どうだ?」と尋ねました。

「とってもよかったよ、お父さん」
「どんなに貧しいか、わかったかい?」と父親が聞きました。
「そうだね。よくわかったよ」と息子は答えました。
「おまえはこの旅で何がわかったんだい?」

 息子はこう答えました。

「僕たちの家には犬が1匹しかいないけど、あの農家には4匹いたよ」
「僕たちの家には、庭の真ん中までのプールがあるけど、
あの人たちのところには、どこまでも続く川があるんだね」

「僕たちは輸入したランタンを夜になると庭に下げているけど、
あの人たちのところには夜、満天の星空があるんだね」
「僕たちは、小さな地面に住んでいるけど、あの人たちの住んでいるところは、
見えないぐらい遠くまで広がっているんだね」

「僕たちには、僕たちに奉仕する召使いがいるけど、あの人たちは、
他の人たちに奉仕しているんだね」
「僕たちは自分たちの食べ物を買うけど、あの人たちは自分たちの
食べ物を育てているんだね」

「僕たちの家の周りには、僕たちを守るための壁があるけど、
あの人たちには守ってくれる大勢の友だちがいるんだね」
 
息子の返事に、父親は言葉を失いました。
そして、最後に息子はこう言いました。
「お父さん、僕たちがどんなに貧しいかを見せてくれてありがとう」
古川千勝 著

“貧しい=不幸”ととらえる 、その心が貧しいのかもしれません

絵画を書く時、先生は生徒にこう教えます。
『視点を物に固定して 描いてはならない、
物と物のあいだの空間を描くようにしなさい』と…

人生も同じで、
あらゆる障害物やネガティブなものだけに、
視点を固定させたら、人生は辛いものとなりますが、
「物と物のあいだの空間」を見るようにしていけば、
ネガティブなものも小さく見えてきて、
あらゆるものがありがたく感じられてきます。

いつも考え事ばかりしながら 歩いている人には、
空の色や風の音、咲く花の匂いや人々の笑顔に気づけないからです。
ちょっとした見方の違いによって、差が生じるのかもしれませんね。

音楽を作る時、私はアーティストにこう教えます。
「音符と音符の組み合わせに視点をおいてはならない。
一つの音に乗る様々な感情を描くようにしなさい」と…

同じ国籍で、同姓で、同年代だと同じ感情を持っているのではないかと
錯覚しがちですが、全く違うという観点で見ないと世代間のギャップは
埋まりません。同じ音楽を聴いても心地よく思う人と思わない人が
いるように人それぞれです。
その為に演奏者は作曲家の感情を受け継がなければ表現に誤解が生まれます。
クラッシックの世界では指揮者の能力が一番試されるところです。

音楽を好みのジャンルに拘らないで晴れた朝にはクラッシック、
午後の散歩にはレゲエミュージック、夕方から夜にかけてはジャズを
BGMとして聴く。勿論、朝は好きなK-POPでも、昼間はお気に入りの歌手を
聴くのも問題ないのですが、出来るなら様々な音楽を聴くと心の置き方が
違ってきます。

素直な気持ちを持ち続けるのは難しいと思います。
他人と比較して辛い思いをするのならどんな状況でも置かれた場所で
満足する方法を学ぶべきです。

私は悩みが増えると音楽を聴いて心を整えます。
時間とお金が許された時には海外へ旅に出かけます。
そしてその街に隣接する自然の中を歩き回ります。

頭の中に素直な思考がよみがえり視界も広がり、
物や金銭に拘っていた心が離れていきます。
過去と未来に縛られるのではなく、
現在の状況に満足できるようになるのです。

人間本来は無一物なのです。あると思うから欲が生まれるのです。
あるなしに関わらない空(くう)の世界を理解することが大切です。
合掌


いじめられている君へ




私は6歳の時に栃木県の母親の元から
大阪の父親のところへ行きなさいと言われた。
小学校一年生の転入である。
継母が教室の前まで連れて来てくれたのだがすぐにいなくなった。
そして挨拶をしたらみんなから笑われた。
自分では気づかなかったが語尾が上がる栃木弁がおかしかったのである。
次の日にクラスへ行くと廊下に机と椅子が出ていた。
先生から君の席はと指定されたところに机も椅子も無かった。

子供心にここで泣くとずっといじめが続くことは分かっていたので
机や椅子があるべき場所に笑って立っていた。
担任が入ってきてそれに気づいて机と椅子を中に入れさないと私に言った。
「出した人が入れるべきで僕が入れることではありません」と反発した。
それを見ていたクラスメイトは先生に反抗している私に驚いたのである。
当時、先生は絶対的存在で反抗は許されなかったからである。

いじめは逃げるから追いかけられる。泣くからもっとからかわれる。
そして黙っていると怖がっていると思われるので言葉を出すのです。
自分の弱みや欠点を恥じるから付け込まれるのです。
たとえスポーツが得意でなくても、勉強が苦手でも、ましてや貧乏でも構わない。
自意識過剰なぐらい自分を信じて自分を愛してあげれば良い。それが自信だ。
自分を信じてあげなければ他人を信じることができるだろうか?それが愛だ。

いじめを見て一番悪いのは「無言」と「無視」である。
見て見ぬふりをするのは加害者より罪は重い。
その時は正義感のあふれる子供たちが最後には立ち上がってくれた。
「私達が机と椅子を入れます」と言って運んでくれた。
それ以来、教室でのいじめは起こらなかった。

「いじめられている君へ」
あなたはいじめられて悔しい思いをしているだろう。
涙を流しているかもしれない。その涙は恥ではない。
有史以来の英雄もどんな人でも、泣いたことのない人など、
ひとりもいないはずだ。絶望しないでほしい。
いつか笑う日がくることを信じてほしい。

あなたの人生ははじまったばかりだ。
目の前には、時間という宝物がある。無限大の可能性がある。
未来は両手を広げてあなたを待っている。

人はみんな何かをなしとげるために生まれてくる。
それぞれ果たすべき役割がある。
自分は何のために生まれてきたのか。
それはいまわからなくてもいい。必ずわかるときがくる。
いずれ、自分はこうなりたいという夢が見えてくる。

それが、どんなに大きな夢でも恥ずかしがることはない。
夢は、大きければ大きいほどよい。
年をとればとるほど、夢は縮んでいく。
だから夢の土台は大きくかまえなければいけない。

あざけられたり、ひやかされたりしてもかまわない。
いちど見つければ、あとは夢があなたを支えてくれる。
だれに何を言われても気にしなくていい。
大人には時間がない。あなたにはある。
なにより自分の人生は自分で決めるべきものだ。

さびしくなったら、ひとりぼっちではないことを
思い出してほしい。
お父さんとお母さんがいたから、あなたがいる。
お父さんとお母さんも、そのお父さんとお母さんがいたから、
生まれてきた。

あなたの体の中には、ものすごい数の先祖代々の思いと
夢がつまっている。
あなたは、それほど多くのものを受け継いでいる、
とても大切な人間なのです。
「漫画家松本零士)のことばより

私は子供の時に預けられたお寺の住職から言われた言葉がある。
毎日、家族と離れて暮らすことに泣いていたら、
突然、両手を広げて指を一本ずつ、10数えなさいと言われた。
そして70になった時に扇子が小さな指の間に挟まれた。
「いいか泣いて暮らすも、笑って暮らすも、人生はわずか70年しか
生きることが出来ない。お前は笑って生きるのか、
泣いて生きるのか、今ここで決めなさい」
私は子供心のままで「笑って生きます」と応えた。

そして別の日には「いいか真珠と言うのは石粒や貝殻の破片を
飲み込んで痛さに耐えている。しかしその痛さに耐えたからこそ
光り輝く真珠が生まれるのだ。お前も今の悲しさや心の痛さを我慢していれば、
いつか心の中に光り輝く真珠が生まれて来るのだ」

それ以来、いじめにも人生の困難にも耐えて笑うことが出来るようになった。
他人の悲しみが自分の事のように分かるようになった。
泣いている人がいれば声をかけられるようになった。
正しいか正しくないかより、強い立場の者が、弱い立場の人間を
攻撃するのが一番良くないことを知った。

芸術家も音楽家もアスリートも同僚や世間から理不尽な攻撃を受ける。
しかし、その悔しさや、苦しさや、挫折を多く経験した者こそが強くなれる。
強くなるという事は記録を塗り替えることでは無く、心の痛みや優しさが
分かるようになる事だ。

目の前に傷ついて倒れている人が居れば手を差し伸べることが正義であり、
正義は沈黙の中で生まれるものではなく、声を上げてこそ意義のあるものである。
見て見ぬふりをして通り過ぎるのは人としてあるまじき行為である。

最後に私の心に残る言葉をご紹介します。
非暴力抵抗活動を行った穏健派指導者キング牧師の言葉より。

最大の悲劇は、悪人による圧力や暴力ではなく、善人による沈黙である。
直面する問題に対して沈黙しようと決めた時、我々の人生は終わりに
向かい始める。
あなた達は、「発言」にだけでなく、「無言」にも責任を負うべきである。
この世で、「究極の無知」と「真面目な馬鹿」ほど危険なものはない。
愛だけが、敵を友人に変えられる唯一の力だ。
マーティン・ルーサー・キングJI.
(1929年1月15日-1968年4月4日)

心に刻んでいて欲しい言葉です。


心に交わる




初めてのデートで奮発して高級レストランを予約した。
若い2人には似合わない雰囲気の店でしたが最高の思い出作りに選びました。
最初にパンが出て来て彼女が間違ってガーリックバターを塗ってしまいました。
本来ガーリックバターはステーキに塗るものですが、
彼女はそれを知りませんでした。ウェイターが驚いて言葉を出そうとした 
瞬間に、私もパンにガーリックバターを塗りました。
美味しいね!でももう一つのバターも試してみて、こっちはハニーバターだから
甘いのが好きな僕はいつもこっちのバターを塗るのさ。
彼女も微笑みながら「本当だね!私も好きかも」と言いながら食べました。
ステーキも食べて、デザートも食べて、コーヒーも飲んで楽しいデートでした。
食事を終えてお勘定の時にレジにいたオーナーが「ナイスフォロー」でした。
私達も勉強になりましたと声をかけてくれました。

ある日友達ががん治療の最中に学校へやって来ました。
長い髪が自慢の女の子が毛糸の帽子を被って教室へ入って来たのです。
みんな事情がわかっているので普段通りの笑顔で迎えました。
しかし、それを見てクラスの中でも一番の問題児が驚いた表情をしていました。
そして次の日にその児童は髪の毛を切って坊主頭で登校したのです。
いつも一番先に彼女をいじめていた彼が彼女の悲しみを察知したのです。
彼には彼女が勇気をもって登校した気持ちが伝わり、
慰めの言葉がかけられずにいきなり髪を切って来たのです。
そうすると次の日には坊主頭で登校する男子生徒が増えたのです。
そして最後には先生までもが髪を切ってきたので教室中に笑い声が響き渡りました。
がん治療の女の子はまもなく死ぬことがわかっていました。
最後のわがままとして学校へ行き友達に会いたかったのです。
息を引き取った彼女の病室に飾られた写真立てには坊主頭の友達と一緒に
笑顔の彼女も写っていたのです。

ボロボロの服を着て髪の毛も洗っていない男の子が毎日店の前に立っていました。
私はお客様の邪魔になるから毎日少量の食事を与えて帰らせました。
ある日その子が近くの薬局で万引きをして捕まりました。
警察に連れて行かれる寸前に私が立て替えるから離してくださいと
お願いをして解放されました。手に持つ袋にはいくつかの薬が入っており
事情を聞くと母親が病気であることを知りました。

店を手伝ってくれている娘にも彼が来たら食事を渡すように伝えて数年が経ちました。
さらに年月が過ぎた頃に私が突然心臓の病で倒れてしまいました。
病院へ担ぎ込まれた時には手術をしなければ助からないと言われたのですが、
高額な費用を支払う余裕はありません。

娘は、家もお店も売れば少しはお金が入るので、それを使って手術を受けさせようと
しました。貧しい我が家には貯金もなく全てを売って支払うしかありません。
そして無事に手術が終わり退院する時に看護師が請求書を持って部屋に来ました。
高額請求を予測していたので恐る恐る見るとそこには「支払い済み」と
書かれていたのでした。事情を看護師さんに聞いても分かりません。
院長先生がハンコを押しているので問題ありませんと言うだけです。
よく見ると請求書の最後に「子供の時に沢山支払っていただいたので、
その支払いと相殺しました」と書かれていました。
そうなのです。あの時の貧しい子が一生懸命勉強をして医者になっていたのです。

私は恥をかいている人を見過ごせない性格です。
それは子供の時に周りから散々恥をかかされたからです。
多くの人は貧乏を笑われても我慢できるのですが
恥をかかされることは苦手です。
しかし恥は他人がフォローすると笑いのネタになる事もしばしありました。
それが共感であり思いやりに繋がることになるのです。

わたしは猛烈に勉強をして実業家になり、もっと多くの人を救いたかったのですが、
選択したのが音楽の世界でした。
それなら音楽でたくさん夢を作れば良いと今まで頑張って来たのです。

音楽は瞬間の芸術です。ある意味食べ物と同じです。
その時には満足するのですが幸福感が長く続きません。
しかし何度でも繰り返すことは出来ます。

人に対する恩も「受けた恩は石に刻み与えた恩は水に流せ」です。
受けた人が負担に感じるようであれば本当の恩とは言えません。
さりげなく対応するのが親切です。決して恩を売ってはなりません。
ある意味空気と同じかもしれません。生まれた時から誰にも教わらずに吸って
吐いて来ました。太陽や水も同じですね。当たり前のように受けた恩です。
人は自然界からたくさんの恩恵を日々受けています。
そのことに感謝しなければなりません。

私は朝夕に神棚向かって感謝の祈りを捧げます。
全ての生き物は自然界に感謝の気持ちを伝えなければなりません。
これこそ最大に与えられた恩なのに人は心に刻んでいません。

相手の心に交わりながらできる時にできる最大の行為をするべきです。

「江戸仕草」という言葉は聞いたことがあるかと思います。
江戸時代の大衆が社交的マナーとして取り入れた所作です。
これは江戸には地方から来た多くの人が住んでいたために、暗黙の了解として
広まったのです。いわゆる地方の言葉や風習が理解できないことで、
多々問題があったということです。その時に諍(いさか)いの無いように
出来た思いやりの仕草です。
子供の時に礼儀として親から学びマナーとして身につけたのです。
相手に不愉快な思いをさせない為に言葉ではなく行動で示したのです。

今後日本の人口減少に伴い海外の人が大勢住むことになります。
言語や習慣やモラルも全く違う人たちと一緒に暮らすのです
いたずらに親切にするのではなく江戸仕草のような暗黙のルールを
作らなければならない時代が来ます。共存共栄の新しいスタイルです。
自分本位の若者が増えた日本ではとても難しいことでは無いでしょうか?
それ以上に外国人アレルギーの人にとっても難しい問題になると思います。

子どもは自然に相手の心に交わることを知っているのです。
大人になると損得で判断するので心とは無縁になります。
海外の人との暮らしも子供は抵抗なく受け入れると思います。
それは心で交わる方法を知っているからです。


全てが逆なのです




「不幸」の逆は「幸福」ではなく「幸不」です。
すなわち幸福が不要だということです。
ですから辛い時ほどあなたは幸福だということです。
その時が成長のチャンスです。心の鍛錬の時期です。

私は子供の頃から苦労しましたが、それが辛いと思わなかったのです。
いつまでも暗い夜が明けないことは絶対無いと信じていたからです。
転校先でいじめられても、友達からの裏切りも、担任教師の意地悪も、
笑顔で全部返したのです。

独立して事業が失敗した時にも一人で耐えて冷静に過ごしました。
何故ならどん底に辿り着けば上に上がるしか無いと思ったからです。
悩みがあるうちはまだどん底ではありません。
ほんとうのどん底は頭の中が空っぽの世界なのです。

コップの水の例えもありますように、もう水がこれしか無いよと
否定的に思うのと、まだ水はこれだけあるよと肯定的に捉えると
逆の意識で強くなれます。空っぽにこだわらなくなるのです。
諦めるはあなた自身で決めるもので他人が決めるものでは無いです。
そうなれば残っている少ない水を希望に変えることも出来るはずです。
たとえば道の野草に水を与える。そこから花が咲き多くの人に安らぎを与える。
水の役割を飲むから注ぐと考えれば「諦める」という言葉は生まれないのです。

あるとき韓国の教会へ多額の寄付を申し出た著名作家がいました。
そうすると牧師さんが一言いいました。
あなたの行為はとても嬉しいのですが、寄付は多くの人が
持ち寄ることで意味があります。あなたの寄付を受け入れてしまうと
貧しい人たちからの寄付の機会を奪ってしまうのです。
お金を持っている人が募集金額を全部払う行為には意味がありません。
貧しい人が希望を見つける機会を奪ってしまうからです。

普通で考えると1人の人で目標が達成されるなら
ラッキーと思えることが逆だということがわかりますか。
我々人間は損得勘定が先に頭に浮かびます。
時間が短縮できた、目標が達成された、手間暇が省けたなど、
効率の部分でしか判断できません。

大型の豪華客船も見えないところで頑張っている部分があります。
それは錨(いかり)です。錨が無ければ船は停泊できないのです。
見える部分はきらびやかですが見えない部分の錨があってこそ
停泊時にも快適に過ごせるのです。
見えない部分が見える部分をいつも補助しているのです。

お金に恵まれて派手な生活をしている人は落ち着くところがなくて不幸です。
財産を維持しようとして他人がみんな悪い人に思えてしまうことです。
それだといつまでも安心とやすらぎは得ることが出来ません。
あると思うところには何もなく、無いところにはすべてがあるのです。
見えないところを見る、逆から見る習慣を身につけましょう。

アメリカのミリオネラーの言葉に「Low key」というのがあります。
目立つような派手な暮らしを避けて質素に暮らそうという意味です。
お金のあるなしに関わらずに人間性を大切にして生きていこうという事です。
今の時代は派手さを嫌う風潮が尊ばれるようになってきたという事です。

みんな逆なんです。仏教のなかには,「托鉢」という行があります。
笠をかぶったお坊さんが手に鉢をもって家々を回りお布施を頂くという行です。
お釈迦さまは托鉢に向かう弟子たちに、こう言ったんです。
「お金持ちの家ではなく貧しい人たちの家を回って托鉢をしてきなさい」

普通、お布施をいただくのですから、お金持ちのところに行くのが常識ですよね?
しかし、お釈迦さまの思いは別のところにありました。
貧しい人がなぜ貧しいのか。それは、自分のためにしかお金を使わないからであり
その人たちに与える喜びを味わってもらう機会を生みだすのが、
托鉢の真の目的だったのです。

絵本作家の「のぶみさん」がこう教えてくれました。
「神社のご神体が鏡なのは、なんでだと思いますか?
鏡は、『この世界はすべて逆なのだ』ということを教えてくれているのです。
鏡に映すと、右と左が逆になるように。

神社では、お願いをしにくる人の願いが叶うんじゃなくて、
神様の願いを聞きにきてくれる人の願いが叶うんです。
逆なんです。

神社で売られているお守りもそう。
お守りに守ってもらおうと頼る人が守られるのではなく、
このお守りを守ろう・守ろう、大切にしようと思う人が守られる。
逆なんです。

神様の願いを聞きにきてくれる人というのは、自分の願いだけを言いに来る人ではなく、
みんなの幸せを願いにくる人だそうです。
だから、のぶみさんは神社ではこう祈っているそう。
「神様のお手伝いができますように。日本が ちょっとでも良くなるように、
がんばりますから」

私も昔宮司さんから言われたことがあります。
あなたが人生最後の食事を選ぶとしたら何を食べたいのですか?
おふくろの作ってくれたオムライスやおにぎりを食べたいと答えました。
そう言うと宮司さんは本当に神様に感謝の気持ちがあるのならば、
最後の食事はこれからも生き続ける人達に提供するのが正しいのです。
私は深く反省しました。頂けるからありがたいのではなく、
断ることもありがたいの行為であることを知りました。

今まで学校で教えていただいたことは一方向の教えです。
正義か悪か、高いか低いか、多いか少ないかの教えです。
これが民主主義の基本的な考えで、多数決で決める方式です。
声を上げられない人の意見は完全に無視されてしまうのです。

個人の置かれた環境やその村で正しいという考えは必要なく
日本全体の法律で取り仕切ろうとする考え方です。
都会暮らしの人が山の斜面の危険性や川の蛇行が引き起こす水害を
想像することは不可能に近いのです。

大勢の人が、これが正しいと手を上げている場合は疑ってください。
少人数の人たちが集まりことを起こした場合でも世の中が大きく変わります。
価値観は「逆もまた真なり」という考えで判断してください。


症状か原因か




不登校の児童を持つ家庭に先生が尋ねてきた。
学校に来ないと授業に遅れるぞ。テストの出来が悪くなるぞ。
友達も寂しがっているから学校に来る様にという話ばかりだった。
それを聞いていた母親が「先生、先ほどから話を聞いていると、
先生や学校の事情ばかりで子供がなぜ学校へ行かなくなった、
原因を一切聞こうとしないのは何故ですか?」
母親は「私も納得がいかないので子供を学校へ行かせません」と答えた。

学校の先生は大学で教員課程を学べば誰でも先生になれます。
しかし教師にはなれません。教え方の方法は学ぶのですが
子供は一律に同じではありません。
先生は年間のカリキュラムで決まっていることを教えるだけで、
各子供に適した教えはできません。
子供達に理解されようがされまいが一切関係ないのです。
だから教える師ではないのです。けっして教師ではないのです。
決められた内容しか教えられないのであれば、
これからはChatGPTに任せて授業を進めれば良いのです。

「この国は実利と効用に尽きる」
「心臓は何のためにありますか」と言う質問に「心臓は血液を送るポンプです」
と言えば皆さん納得されます。同じように「目玉は何のためにあるのか」
と言う質問に「ものを見るためにある」と答えます。「鼻は何のためにあるのか」
「においをかぐためにある」というと、そこで話は打ち切られます。
それ以上の質問は聞き入れてくれません。

私が小学生の時に学校の先生に「1+1は何故2になるのですか」
と聞いて叱られました。
私の質問は「誰が何のために何を必要としてこの方式を作ったのか」だったのです。
それに答えを求めたのですが、授業の邪魔になるからと廊下に立たされました。
教科書に在るべきことがすべてでそれ以外は質問を受け付けなかったのです。

「先生の為の学校」
先生にも世の中の変化や子供たちの心理状態などを学ぶ学校が必要です。
教員免除を習得して教室を受け持ったらそれで終わりではないのです。
そこから始まる学びの中に「不変の学び「倫理・道徳」」「哲学」、
「変化の学び「テクノロジー&AI」」
「世界の中の学び「地理・経済・国力」」が必要です。
日本は防衛と食料とエネルギーを他国に頼っています。
一旦戦争が始まってこれらを停止させられたら戦う間もなく敗北をします。

何故こんなに重要なことを子供達に教えないのでしょうか?
それは世界が強い日本を望まないからです。

敗戦国日本は未だ戦勝国のアメリカに頭が上がらないのです。
アメリカの51番目の属国として好きなように管理されているのです。
経済も医療も食品もあらゆるものが日本の地で試されているのです。
医薬品も農薬も食品添加物も自国では禁止して他国では使わせる。
直接的な痛みが現れない分だけ他人事で済ませているのです。
臆病な政治家や大人たちに任せるのではなく、若者たちが動き出さなければ
この先日本独自の理想的な未来はやって来ません。

「主人となるか奴隷となるか」

きこりの話
6時間で一本の大木を切り倒すきこりと、3時間ノコギリ歯を磨ぎ
1時間で大木を倒すきこりのどちらが正しいのでしょうか?
普通の主人は6時間の方を選びます。
なぜなら労働者に苛酷な作業に当たらせて思考を奪う方が使いやすいからです。

学習とは常に努力を奨励しますが、何故同時に効率も教えないのでしょうか?
一概にアメリカ流の効率ばかりを教えるのは良く無いと思いますが、
日本の職人の世界は効率よりも最初に無駄と思われることを教えます。
その無駄が初めてわかって職人としての工夫を見つけ出せるからです。
安易に楽な方を薦めるのではなく2つのことを同時に教えることが必要です。

サーカス団の象
ある時に近くに来たサーカス団のテント村へ尋ねたところ、空き地に繋がれている
象を見つけた。そこで不思議に思ったのは大きな象を結んでいるロープが
あまりにも細かったからです。そんな細いロープに繋がれた大きな象は
何故ロープを引きちぎり逃げ出さないのか?

飼育員に尋ねたところ象が未だ小さい頃に何度も逃げ出そうとしたのだが
その細いロープを引きちぎることができなかった。
その時から逃げるのを諦めてその細いロープでも抵抗しなくなったのだという。

一度の失敗で自分は能力がない力がないから無理だと、
決めつけている人は多くいます。
そこで挑戦することを諦めたらこの象と同じ道を歩くことになります。
世の中の理不尽な細いロープに縛られて逃げ出すことが出来なくなるのです。

自分が何故動けないのか症状ばかり見るのではなく原因を探るのです。
学校の先生が不登校の生徒を学校へ引き戻すのが仕事だと思っているから
何も改善されないのです。原因はどこにあるのかを探り出さなければ
何度も同じことを繰り返すことになります。

私は子供の時から挑戦ばかりしていました。
別に人より勇気があった訳ではなくそうせざる得ない家庭環境だったからです。
人と同じ考えを持ち、人と同じ道を歩けば、自分の居場所がないことが
分かっていたからです。
そして沢山の成功は沢山の失敗から生まれることも知っていたのです。

子供達に教えたいのはこの失敗の重要性です。
楽なことや調子の良いことに気を向けるのではなく、
人がそれは無理だと言われることに挑戦するのが重要なのです。

人は年齢を重ねたから老いるのではなく夢を諦めた時に老いる。
たとえ20歳の若者でも夢を諦めればそれは老人なのである。
サミュエルウルマン「青春」より

「若き日に薔薇をつめ」
赤く情熱的な薔薇(夢)を素手で掴め、
たとえ鋭い棘に刺されて血が出ても若者はすぐに傷が癒される。
棘を恐れ、挑戦をしないだけで人生を過ごすのはすでに老人である。
稲葉瀧文「恩学」より

ロックシンガー伊丹谷良介と始めたロックサロン「うた」。
毎月テーマを決めて音楽とナレーションと映像で展開する。
演奏終了後には観客と対話をする。
あえて小人数の場所で東京・京都・名古屋と展開をしているが、
今どき採算の合わないライブをやるアーティストはいないが決行している。
50歳を迎えたロックシンガーと75歳のプロデューサーの挑戦である。
熱い男たちの終わらない挑戦でもある。
音楽は常に市民活動の中にあって時代の主張がなければならない。
だから観客は決して音楽好きだけではなく一般の人たちを対象にしている。

1月「ブッダ」・2月「生命」・3月「芸術」・4月「科学」・5月「こども」
のテーマで行われた。6月は「音楽」で7月は「自然」です。
あなたには想像つくだろうか?このタイトルでライブが行われていることを?
毎回終了後の観客は周りの観客と対話を始めるのである。
まるで良質の芸術と触れ合ったあとの心地よさが言葉に変わるからです。
良質の音楽とは演者も聴衆者も垣根のない世界である。
左脳と右脳が同時に刺激されると思考は言葉に変わるのです。

音楽も教育も理屈ではない。誰もやっていないから無理だと決めつける
症状主義では何も変わらない。我々はあえて原点に挑戦しているのである。
音楽から紡ぎだされる感動は静かに伝わり市民を動かす。
そして国も変えることも出来ると信じているのです。

膠着した脳の原因を見つけることが出来れば簡単なのである。
症状で騒ぐのではなく、原因を探し出すことが大切である。
あなたも今悩んでいることの原因が見つかれば楽になります。