正しい認識とは




あなたが悲惨な光景に遭遇した時に脳はどの様に判断するのか?
そのままの現象を捉えて可哀想だと思うか、注意が足りなかったとか思うか、
もっと前に予測できなかったのかと、様々な考えを巡らせます。
さて認識はどの様にして行われるのかを考えたことがあるでしょうか。

そこに見えるモノはあるのか。われわれはふつう「そんなことは当たり前だ」と思う。
しかしながら、仏教的な立場からすると、この「常識」は途端に「真」とは
言えなくなる。仏教では、自分の見ているモノや考えているコトが、
唯一の真実であると思い込み執着してしまうことから、怒りや争いなどが起こり、
結果として苦悩を引き起こしてしまうと考える。
逆に言えば、自分の見解や認識の誤りを修正し、モノを「あるがままに」正しく
認識することができたならば、当然 そうした苦悩もなくなる。

そこで仏教は、自己の認識の誤謬を排除し、 物事のありようを
正しくしかと見ることで苦悩の消滅を図るという手法を採る。
では、仏教における「モノの正しい見方」とは何であろうか。

目の前のものをペンと思うかはあなたが決めている。
ペンは書くものと思うのもあなたが決めている。
もしこのペンを子犬が見たらおもちゃだと思い咥えてしまう。
それは子犬にペンの認識はないからである。
部屋の中にあるものは、本当はただのものだが、これを認識するから
道具に変わる。仏教ではこのことを「空」というのです。
そこに全てはないが全てのないところに全てがある。「色即是空・空即是色」

私たちの脳の中にある常識が認識しているものを言葉として捉えている
だけである。ここに一つの世界があるとしたらもう一つの世界もあることが
理解できるのだろうか?これが真実ですと言われたら、当事者には真実かも
しれないが、国も文化も育ちも違う人にとっては真実でないかもしれない。

反日教育で育った中国人や韓国人の若者の一部は過激にそれを反応する。
真実を知ろうとしないで反日行為を繰り返すと、ただの暴力が戦争に
つながる危険性がある。良識的な大人と言われている大人は、
何もことを起こさなくて平気なのか?その内に子供達に被害が及ぶのです。

キング牧師の言葉に「暴力を見て何も語らない人が一番悪い」
という言葉を今一度考えるべきである。

今、知らないこと、わからないことばかりであるところの人生を
はっきりと知って、自信を持って「知らない」と言えるようになった
この世の中、じつにわからないことばかりである。

世界とは何なのか、自分とは何なのか、自分の存在とは何なのか。
問うて考えることばかりの現実を知って、答えを知らないことなど
恥ずかしいことでも何でもなく、当たり前のことであることを知るべきである。

そもそも、知っているかどうかではなかったのである。
重要なのは、知ろうとしているかどうか。「問うて考える」という、
その行為それ自体が大切なのだった。

知らないことを知っていると嘘をつくことが空虚なものであるのは
もちろんだが、知らないということを知らないで生きていることも
また同等に虚しい。知ろうとしなければ、何も知らないままで
人生を終えるよりほかにない。自分について考えることなく、
自分の人生を終える。
それでいいのだろうか。それは一体「誰」の人生だったのか。

この世界や自分といった存在、それが「ある」ことは、じつはとんでもなく
不思議なことだ。この不思議を、不思議と感じるか。それとも自明のこととして
通り過ぎるか。分かれ道はそこかもしれない。

ただし仏教はその「ある」ことを否定した。
そうかといって「ない」と考えることもまた同様に否定した。
存在は、あるのでもないのでもない。あるのでもないのでもないのなら、
存在とは何なのか。今ここにいる「私」は何なのか。

真理を知りたいという好奇心、探究心、から学問が生まれた。
そんなものは実生活に役立たないとして、社会に暮らす人。
しかしその社会ですら、問わなければ実体はわからない。
社会とは何なのか。社会というものが本当に「ある」のか。

社会という言葉によって社会という概念が生まれ、社会という言葉に
馴染むことによって、社会という概念を実体視していく。
言葉に依らずして思考することは不可能であるが、思考を経ない言葉は、
迷妄を生み出す元凶にもなる。言葉ほど有益で、かつ、有害なものは
ないのかもしれない。人は言葉を使うが、その実、言葉に支配されてもいる。

「私」という言葉があるから、私は私を認識する。
もし「私」という言葉がなかったら、私は私を私と認識することができない。
「私」という言葉によって、私は他の人とは異なる「私」として区別される。
それが言葉の機能であり、魔力でもある。

ないものをあるかのごとくに示して識別可能にする言葉の作用を知って
いなければ、人は往々にしてそれが本当に「ある」ものだと誤認する。
知っているかどうかより以前に、知るとはどういうことなのか、
言葉の魔力を理解した上で、その魔力を使って考えていくのである。

私が「私」という言葉によって私を「私」と認識する。
では、言葉がなかったら、私は何なのか。言葉以前に存在する私は、
何なのか。

一言も発せずに窮するところに到って、禅はいよいよ追い打ちをかけてくる。
「さあ、言え、言え!」と問い詰めて来る。

これからの時代はAIが人間を問い詰めることになる。
分からなくて答えに窮すると「なぜなぜこれが答えだ!分からないのか?」
世界の中で社会適応脱落者として登録するぞと脅される。
早く未来を認識した方が賢明です。
果たして私は私として認識しているのだろうか?