学ぶとは




悪戯に学んでも意味のないことです。
勉強をする目的とそれから得られる価値を見つけ出さなければなりません。
戦前の勉強が戦後に役立つのか、その上にデジタル化された未来にも
役に立つのだろうか?日本の教育制度の見直しの時期にもきている。
多くの哲学者や仏教者は言う。幼き頃の勉強はその意味が理解できなくても
学ぶ心構えと学ぶ作法が身につくので必要である。

その上に知的好奇心が芽生える機会にもなるので学校へは通わせるべきである。
日本流の教育が良いか悪いかの論争が度々起こるが、悪戯に西洋の真似をする
必要は無い。唯一つ言えるのは教育者が学問追及の経験が無いことと
比例して、時代の変わり目に付いて行けないことが問題である。
これからの教師はインストラクターとして子供たちの学びに手を添えるだけになる。

太宰治「正義と微笑」より
勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業して
しまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、
大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り
勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、
将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。
勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。

覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベート
されるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん
暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。
つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、
社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。
学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。

けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの
砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。
そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。
ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!これだけだ、
俺の言いたいのは。~以下略

「真にカルチベートされた人間になれ!」学校の勉強や日々の経験などから
学び、人として耕されていき(洗礼されて)、学校で学んだことを無理に
直接役立てようとせず、焦らず良い人生を歩んでほしい。
といった意味になるでしょうか。
※cultivate=耕す、耕作する、磨く、洗礼する、養殖する、培養する、養う

太宰は日常の生活に役に立たない勉強でも人格を完成させる一つの要素で
あるとし、役に立たないかもしれない学問でも、すぐに忘れてしまった
としても、勉強という行為を通して人としての成長に繋がり、努力を
したことが尊いと語っています。
意味がない・役に立たないと思うことでも勉強を通して、
自分の身になるから人間には勉強というものが欠かせないのです。

子供にこの内容を伝えてもピンとこないかもしれませんが、
勉強に不必要な勉強はなく、勉強を通して成長できることを
この文章を見せて伝えることができるかもしれません。

勉強とは、賢くなることで、より適切な判断力が養える、
そして自分の将来の為になることです。無意味な勉強など存在しておらず、
自分の人間力を鍛えてくれるのです。
もし子供に「なぜ勉強するのか」と聞かれたのならば、しっかりと勉強の
必要性を答えて、子供の勉強のモチベーションをあげられると良いでしょう。

「人間は知るべき存在である」
人類は今、本当に危険な状況にある。6大危機(気候変動、第三次世界大戦の
危機、存在不安存在孤独、貧富の格差、脳疲労、AIの進化)、中でも本当の
危機はAIの進化である。ANI,AGIさらにASIへと進化をする前に、
人間の意識の爆発を起こさなければ間に合わなくなる。
タイムリミットは2030年であろう。もしかしたら前倒しになる可能性もある。

始まりも「知らない」、終わりも「知らない」。
そう、脳で知ることなどデータにすぎない。
人間には知るべきことがある。
いや、知らなければならないことがある。
そしてそれこそが法灯明である。

「ある小学校の校長先生が卒業生に送った言葉」
「ありがとう」の数だけ人は優しくなれる
「ごめんね」の数だけ人は賢くなる
「さよなら」の数だけ人は愛を知る。
学ぶとは知識を取り込むことであり、それをいかに活用するかが重要である。
学問に励み人としての自覚を養うためには心の学びが必要である。
何も難しく考える必要はない。

仏教用語に「百尺竿頭進一歩」というのがある。
この語は『無門関』『景徳伝燈録』などに出る唐代の長沙景岑(ちょうさけいしん)の
言葉で、「百尺竿頭(かんとう)さらに一歩を進む」と読みます。
道元禅師も『正法眼蔵随聞記』巻三に、「古人云く、百尺竿頭如何に一歩を進むと。
百尺の竿頭に登りて、足を放たば死ぬべしと思って、強く取りつく心あるなり。
一歩を進めよと云うは度世(とせい)の業よりはじめて、一身の活計(かっけい)に
到るまで、思い捨つべきなり。
それを捨てざらんほどは、如何に頭燃を払って学道するとも、道を得ること
叶うべからず。」と説かれております。

「百尺竿頭」は、30メートルほどの長い竹竿の先端ということで、
私ども人間が今生きている現実をいいます。私どもは、諸行無常・諸法無我の
ただ中に生きています。存在する全てのものは、時間と空間の束縛を受けますので、
刹那生滅しております。生命あるものは、死に向かって常に現象変化しております。
私どもは、まさに絶体絶命の断崖絶壁を生きる場所としていることを
自覚しなければなりません。

「さらに一歩を進む」は、長い竹竿の先端からさらに一歩を踏み出すことをいいます。
しかし、一歩を踏み出せば、真っ逆様に地上に落下してしまいます。
人生を生きるということは、危険であっても一歩を踏み出すことに他なりません。
私どもは一歩を踏み出せないので強固な「自我」をもつことになります。
しかし、絶体絶命の生命を前にして「自我」は何の役にもたちません。
自己を苦しめるだけです。

「一歩を進む」生き方は、自我を造る生き方を否定して、自然や生命を支える
自己の身心に感謝し、人のために生きる生き方をすることです。

如何でしょうか?
学ぶとは真似ることから始まり更に一歩先へと歩み続けることです。