人間性とは




人間性とは性格なのでしょうか?
それとも個人の思想なのでしょうか?
行動の結果として生まれるものでしょうか?
自分の能力に対する他人の評価なのでしょうか?
周りと同一の価値観を持たなければ、
人間性が欠けているというのでしょうか?

親が子を手放す!子は生きる為に大人との順応性を身に付ける。
最初は周りが受けいれてくれなくて仲間外れにあう。
同じ境遇の子供達が群れの中に入れと言い寄って来る。
ここで楽な道を選べば一生後悔することになる。
まともな人間性など作れたものじゃない。

弱い犬が人間に飼われて吠えることを忘れる。
警戒心の強い猫が腹を見せて横たわる。
餌を与えられた猿が街に出てウロウロ徘徊する。
殴られても蹴られても鹿は公園をのんびり歩く。
人に飼われて野生の本能を失いペットとして順応性が身につく。

誰しもがほんの一瞬「自分は何者であるかを知る」時がある。
「自分はこういう人間だから」という思い込みをなくす。
未来への可能性の中で「自分はこうありたい自分」と確信を持つ瞬間である。

平井 正修(ひらい しょうしゅう)
臨済宗国泰寺派全生庵住職

そうですね。禅に限らず仏教ではよく「仏(ほとけ)」とは「ほどける」
ことであると説かれます。例えば、ここに水の入ったコップが置いてあれば、
ほとんどの人は水を飲むためのコップだと認識するでしょう。
しかしそれに一輪の花を活けて花瓶にする人もいる。
水があってちょうどいいと、灰皿にする人もいるかもしれません。
ある人はコップ、別の人は花瓶、もう一人は灰皿だと言う。

このように同じものを見ても人それぞれ「これはこうだ」と思い込むものです。
世の中の争いのほとんどは、そうした思い込みに起因しているのでは
ないでしょうか。そのような思い込み、固まった心のもつれがほどけて、
「これはコップでも花瓶でも何にでもなるじゃないか」ということに
気づけば、争いの種はなくなります。
心が平らかで整った状態、つまり「ほとけ」というものになる。

マインドフルネスとは、そういう思い込みをいったんすべて流してしまう
ことをめざすものではないでしょうか。対して禅は、仏教ですから、
取り除いたあとに自分の心の中にある「自在な仏なるもの」に気づくことを
めざすのです。お釈迦様は悟りを開いたとき、「一切衆生悉有仏性
(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」、生きとし生けるものは
みんな生まれながらにして仏になりうるとおっしゃいました。

しかし、いろいろな煩悩や固まった心が、内なる仏の存在に気づくことを
妨げているのです。それらを修行によって取り除いていけば、いちばん底に
仏が残るということに気づく。ここがやはり仏教である禅の精神の核です。

ころころ転がるから「心(こころ)」なのだとも言われますが、
心は水のように形を変える自由自在なものです。
それを好き嫌いや損得、是非や善悪で呪縛して、嬉しい、悲しい、
苦しいといった状態で固めてしまうから不自由になる。
その固まりをほどく方法を教えてくれるのが、仏教であり、
禅であると考えています。

坐禅をすれば無心になれるわけではないとも書かれていますね。
「無心」とは「何も考えない」ということではないと。
「何も考えない」というのは不可能ではないでしょうか。
これも言葉の難しさですが、私は無心というより「一心(いっしん)」になると
表現しています。一心とは、今、自分が行っていることに対して集中する、
心と体が一つになっている状態です。

あるいは「初心に還る」と言ってもいいかもしれません。
山岡鉄舟先生は「剣術の妙處を知らんとせば、元の初心に還るべし。
初心は何の心もなし」と書いておられます。
仕事でも坐禅でも、最初に「さあやるぞ」と思った心には雑念がありません。
「人から見られるからうまくやってやろう」とか、逆に「なぜこんなことを
しなければいけないのか」といった雑念や疑いの念がない
「素直な心」が初心です。

われわれは修行道場へ行くと、まず徹底的に叱られるのですが、
修行とはまず「自分」というものを否定し、捨てることから始まるからです。
「自分が」という心の固まりをほどくことで、多少揺れ動いても最後には
元の場所へ還る、自在でぶれない心を養うことができるのです。

「人間性」とは、「人間として生まれつき備えている性質」や「人間らしさそのもの」
を指す言葉です。その人自身がもつ思想信条や社会的なステータス、外見などとは
関係ない、人としての「本性」を示し、「あるべき理想の姿」の意味でも用いられます。

具体的に言うと?「人間性が高い」といわれる人の「特徴」
「人間性」という言葉は、私たちが「あるべき理想の姿」を意味する言葉でもあります。「人間性が高い人」とは、「目指すべき理想像」、つまり「人格者」であると
言うことができるでしょう。そのため、周囲から「人間性が高い」との評価を
受けるのは、愛情の深さや他者への気遣い、知性や品格などが備わった人であることが
多いようです。とはいえ、本来「人間性」のとらえ方は、個人や社会、時代によっても
異なるため、優劣をつけるべきではありません。

私なりの「人間性」の捉え方は単純に動物と人間を区分するために作られた
言葉かと思っています。
その中でも「人間性が高い」と言う人は自分の価値観と考え方と行動が
一致している人をいうのです。
常に柔軟性を持った思考で価値観を固定するのではなく、
環境に合わせて人間関係を築ける人を「人間性が高い」と評するのです。

私達も地位や名誉や財産に執着する成功者よりも、貧富の差別をすることなく、
老若男女だれとでも話が出来る人間性の高い人になることを目指しましょう。