義を見てせざるは勇なきなり




正しい行いを出来ずに生きている事は勇気がないということです。
いくら努力して成功しても世の中の役に立てず、
私利私欲で生きている人は尊敬される事はないのです。
要塞のような豪邸を建てて世間から目立たぬように生きている人は、
頭隠して尻隠さずの愚か者のする事です。
起業して眠るのを惜しんで成功しても身体を壊してしまえば元も子もありません。
また家族に贅沢をさせて子供が堕落して世間から嫌われては元も子もありません。
「義を見てせざるは勇なきなり」を学び行動で示さなければつまらない人間です。

義を見て為ざるは勇なきなりの意味は、人としてやらなければいけないこと、
やるべきことを分かっていて、理解しているにもかかわらず、
それを実行しないのは勇気がないと言う意味です。
ここでいう義と言うのは儒教の五常(義・仁・礼・智・信)の一つであり、
筋道の通った正しい行いのことを指しています。本来やるべき事は人の道として、
やるべきであると説いています。

常に今です。この瞬間に思ったことを形に表さなければ意味がありません。
正しい行いとはタイミングが遅れては意味がないのです。
たとえば川で溺れている子供を今助けなければ命がなくなります。
他人を呼びに行っている時間はありません。
でも義を重んじて力無き人が川に飛び込む必要はありません。

大声をあげて近くにある枝や紐や自分服を切り裂きロープにすることも出来ます。
流されていく子供を見て見ぬふりをしてその場を立ち去る人は勇なきなりです。
このような場面で立ち去る人は人生これから逃げてばかりになります。

今回は中国戦国時代の思想家“墨子”の教えをご紹介させていただきます。
義が、いちばん大切だ。
たとえば、「おまえに冠と履(くつ)をやろう。
その代わり、手と足を切るが、どうだ」といわれて、承知する男はいないだろう。
いくら冠や履が欲しくても、手足にはかえられぬからだ。

あるいは、「おまえに天下をやろう。その代わり、命をもらうがどうだ」
といわれて承知する男はいないだろう。
いくら天下が欲しくても、命にはかえられぬからだ。
しかし、たった一字のために、命を捨てる場合もある。

その一字とは、“義”である。
義を売りわたすくらいなら、命を捨てたほうがましだ。
だからわたしは、義ほど大切なものはないという

義とは、正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と
対立する概念として考えられています。
しかし、墨家では「義とは利なり」と定義し、義とは人民の大利だと考える。
一般的には利を私心からの私利の意にとらえ、墨家は公利ととらえた
為のようです。

人として正しい行いを守る“義”を実践していくのですが、人間ですから“間”が
差すこともあるでしょう。
そんな人たちに対して墨子は言いました。
「いくら義の実践がうまくいかないからといって、義を棄ててはいけない。
大工をみるがいい。材木がまっすぐに削れないからといって、
墨縄を投げ捨てたりするだろうか」どんな立派なモノを持とうが、
どんな立派な地位に就こうが、義がなかったらそれは一瞬で消えてなくなる
泡のようなものになるのでしょう。

「日本人の親切」
聖書学者の塚本虎二先生は「日本人の親切」という、非常に面白い随想を
書いておられる。氏が若いころ下宿しておられた家の老人は、大変に親切な人で、
寒中に、あまり寒かろうと思って、ヒヨコにお湯を飲ませた。そしてヒヨコを
全部殺してしまった。そして塚本先生は「君、笑ってはいけない、日本人の親切とは
こういうものだ」と記されている。私はこれを読んで、だいぶ前の新聞記事を
思い出した。それは若い母親が、保育器の中の自分の赤ん坊に、寒かろうと思って
懐炉を入れて、これを殺してしまい、過失致死罪で法廷に立ったという記事である。
これはヒヨコにお湯を飲ますのと全く同じ行き方であり、両方とも、まったく
善意に基づく親切なのである。山本七平「空気の研究」の一説より。

日本人が気を付けなければならないのは親切から起きる迷惑である。
善意の塊の隣人と悪意の塊の隣人とは同じ地域に住むなら対応が難しい。
善意の隣人は悪気が無いのでいたずらに避けてならないがお節介は困る。
悪意の塊の隣人はあえて付き合うことを避ければ被害を受けることは無い。

「おもてなし」これは厄介な言葉である。礼儀作法を知っている年代では
多少我慢も出来るし時には気分が良くなることもある。
しかし若い世代や外国に人ならば店員の過剰なサービスは押し売りと
受け取ることもある。日本食もゆっくり味わいたいのにお店の都合で次から次へと
出されるとせかされているみたいで怒り出す人もいる。
家族で旅館に泊まり静かに過ごしたいのに突然仲居さんが部屋に来て
館内の案内や近隣の観光案内を説明する。これも不要なお節介である
ここは大変難しいのだが世界から観光客を受け入れている国としては
コミュニケーションとサービスをしっかりと教育をしなければならない。

私が得意とする人間の特性に合わせたコミュニケーション術がある。
これは「気配り、目配り、心配り」の方法を知れば簡単である。
相手が何を求めているか気配りをする。そして少しの動作も見逃さない
目配りを取り入れて、最後にはおおかたの予測して心配りの中
満足の行くケアに心がける。
一番気を付けなければならないのが過剰に反応してしまうことである。
相手の表情を見て迷惑でないか満足しているかの判断が重要です。
ケアとは添えることである。そして支えることでもある。

常に義を取り入れて親切に心がければ喜ばれることは絶対である。
考えと行いが一致する「知行合一」を忘れないことです。
「義を見てせざるは勇なきなり」とは論語にある言葉です。
人として行うべきことがわかっていながら行わないのは臆病者だという意味。
これからも心して義に生きましょう!私も勇気ある人を常に心がけています。