惨業から産業
悲惨(Misery)なことも経験して太陽(Sun)のような大成功も経験して
初めて一流の人物になる。
「倒産、破産、離散」の三つを経験した人を惨(さん)業人と呼びます。
倒産は債権者にも家族にも取引先にも迷惑をかけます。
破産は全ての人間関係が崩れてしまいます。
離散は愛する家族と離れ離れになる事です。
取引先、債権者、銀行、税務署から追い込みがかかり、
そのうえ世間から叩かれて・叩かれて絶望の淵にたどり着いて、
初めて一流の経営者になれるのです。
「鋼は叩かれて名刀になる」恩学より
艱難辛苦とは、非常な困難に遭ってしまい苦しみ悩むという意味のこと。
艱難辛苦の語源由来には、艱難は艱と難の両方に苦しみや悩みなどといった
意味があり、辛苦にはつらく苦しいことという意味がある。
悩みや苦しみといった言葉を並べていることで、より辛さや困難が
強調された四字熟語である。艱難辛苦を英語で表現すると hardship となる。
人間というのは、困難に直面して、苦しみ悩みながら克服していくことで、
立派な人間になっていくということを意味する。
芥川龍之介の侏儒の言葉では、「艱難汝を玉にすということならば、
日常生活に思慮深い男性というのは、到底玉になることはできない」
とされている。
フランスのことわざである「Vent au visage rend l’homme sage.」
という意訳すれば逆境は人を強くするというような意味になる言葉が
由来となる。13世紀の『薔薇物語』に、逆境のときに真の友人が見つかるため、
逆境は繁栄よりも有益であるというような場面がある。
そして繁栄は人々を無知のままに放置するが、逆境は知恵を与える
というような言葉が見られる。
1557年のラモン・リュイの『諺と金言ならびにその解釈』に
逆風は人を賢くするということわざが収録されている。
ここでの解説では、誰かが逆風を受けている場合には、
何らかの理由で人々に疎んじられて寵愛や愛情を失っているということである。
しかし、このことによってその人は賢くなり慎重になるので、
以後は前よりも一層自分を抑制して制御できるようになるため、
結果として疎んじてきた人々の元に戻ることが
できるようになるとしている。
あらゆる困難を克服して一流の企業人となった
「電力の鬼」松永安左エ門の人間的魅力に迫る。
松永氏は常々に「倒産、投獄、闘病」の三つの経験がなければ
一流の経営者にはなれ無いと公の場で発言をしていた。
卒業間際、安左エ門は福沢諭吉(慶應義塾創設者)に相談した。
学校もなにやらつまらぬ、学校を辞めて実業の世界に入りたいのだがと。
福沢の答えはあっさりしたもので卒業などというのは意味のあるものでない、
そう考えるのなら、それもよかろう。そして福沢が紹介したのは三越呉服店
(後の三越)の朝吹英二専務だった。しかし、それを謝絶し、福沢桃助の斡旋で
日本銀行に入る。総裁秘書役という役職だ。自前で作ったモーニングを
着用し、出仕してみたものの、秘書役の仕事は回ってこない。
日銀務めに飽き飽きしていた安左エ門には渡りに船だった。
こうして安左エ門は神戸支店に赴任する。桃助は意欲的な男で
丸三商会は北海道の木材を北米向けに輸出する仕事を手がけたほか、
もうかりそうなものなら何でも扱った。しかし、そこは素人商売だ。
新興商社はあえなく倒産する。それでも桃助は意気盛んで、
岳父福沢諭吉から借金して、神戸に「ゼネラルブローカー福松商会」を設立。
今度ばかりは会社を潰すわけにはいかぬ。神戸を拠点におくこの会社で
安左エ門は馬車馬のごとく働く。神戸時代に多くの友人を得ている。
生涯の親友ともライバルともいう小林一三(阪急グループの創業者)
との邂逅も、この時代のことであった。危ない仕事もやった。
大量の石炭を買い占め、巨額の利益を上げたこともある。
まあ、事業というよりも、この時代の安左エ門は、その社名が示すように
ブローカーだったのである。
その矢先のこと、安左エ門は市議会議員に対する贈賄容疑で逮捕される。
市電路線認可の斡旋を見返りに株を渡したという容疑だ。
明治のリクルート事件というわけだ。事態を憂慮した桃助が動き、
安左エ門は保釈されるが、この留置所暮らしを「自分にはよい勉強になった、
麦飯も美味かった」と豪気に語っている。しかし、堪えたことは確かだ。
安左エ門は盟友小林一三と同様に文人としての顔を持つ。慶應時代に
学究を志した安左エ門であるが、安左エ門はサミュエル・ウルマンや
アーノルド・トインビーの翻訳者としても知られる。
ウルマンの詩の一節に「年を重ねるだけでは老いではないが、
理想を失うときに初めて老いが来る」という言葉がある。
柳瀬山荘に隠棲して、不遇をかこっているとき、安左エ門は自らの
人生に重ね、この詩を翻訳していたのであろうか。
そう考えると安左エ門のもうひとつの素顔が浮かび上がる。
安左エ門は有名な茶人でもあった。
柳瀬山荘に設えた茶道具は国宝級であった。
その一部は国立博物館に残されている。
昭和47年6月に安左エ門は逝く。享年97歳であった。
受勲を謝絶し、葬儀を行うことも遺言で止めさせ、法名もない。
世俗にまみれながらも、世俗に染まらず、福沢諭吉から薫陶を受けた
自由主義の道をひたすら歩み、
死ぬまで現役を通した。電力中央研究所は安左エ門の偉業を称え、
『松永安左エ門の思い出』を刊行している。
現在の経営者にこのような人物は見当たらない。
渋沢栄一や松下幸之助・盛田昭雄・豊田喜一郎のような
不世出の財界人は日本の経済界から消えたのである。
経済界も政治家も世襲制度で2世・3世の時代である。
苦労を知らない人間は一流の人物にはならない。
松永安左エ門の「倒産・投獄・闘病」の気概を学ぶべきである。
私の大好きな武士山中鹿之助の言葉に「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」
というのがあります。最悪の状況の中でまだ困難を与えてくれと自己を発奮させて
最後の戦いに臨む姿に感動を覚えます。
困難から逃げると困難がずっと付きまといます。
敢えて困難に立ち向かう勇気が必要です。
そのように考えれば人生も捨てたものでは無いですね。