置かれた場所で生きなさい




運命によって両親の元に生まれ落ちた。
親も子も幸福を目指して共に歩き出す。
予期せぬ幾多の困難を宿命として受け入れながら幸福へと向かう。
理想の教育と現実のはざまで悩みが自然に起こり出す。
そして身体の発達と思考の発達がアンバランスな状態で異性に興味を持つ。

学問を積み重ねることと精神的な成長は別にある。
学校の教育で修身や倫理が無くなり人としてどう生きるのが良いか、
誰も教えてくれない。ましてや異性に対する接し方はタブーな領域だった。
ただ学力のアップダウンに一喜一憂するだけで大切な青春時代が過ぎ去る。

自分は何者か、何をすべきか、人生の目的は、生きるとは、
誰に質問して良いのかも分からない。本を読んでも理解が出来ず
ますます悩みが増えるばかりである。
哲学という言葉は大学に入るまで知らなかった。
若い僕らに哲学や仏教はピンとこない代物であった。
学問への探求はストレスの積み重ねにもなっていた。

現代人のストレスに強くなる私の方法を伝授します。

「三位一体」(さんみいったい)
もし自分の身体の中に3人の自分が居るとすれば悩みは軽減される。
中心軸を担当する自分と、右の翼を担当する自分と、左の翼を担当する自分。
このバランスが上手く機能すれば、
順調に人生の旅(フライト)を楽しむことができる。

中心の機体は年齢に応じた生活をしなければならない。
学習と労働である。ここが最も時間を費やす部分です。
人間関係、ライバル関係、接客等々で疲れてしまいます。
その上に家族が出来れば自分の学習時間がほとんどなくなります。
それでも仕事の学びは必要不可欠です。
社会全般の責任感も大切になります。主要な役割を担当します。


右の翼は文化芸能に興味を持ち楽しい人生を担当します。
仕事から離れて娯楽と快楽に重点を置き芸の世界に触れることです。
私はもともと音楽業界にいたので芸能関係の友人は多くいます。
一般の方であればプロの方と接する機会は少ないと思いますが、
求めて音楽会や能楽や絵画鑑賞へ出かけるのも重要です。
この時には仕事のことは忘れます。ストレス解消の脳が作られます。

左の翼は将来の夢を描き経済活動に専念して貯蓄に励み家族を守る。
20代で仕事を覚えて、30代で役職が付き、40代で経営陣に加わる。
この流れの中で家族との心配をしなければなりません。
子どもが生まれれば進学の事から結婚・就職と親の責任が加わります。
もちろん育ててくれた両親の老後のことも気になります。
自分の健康のこともおろそかにしてはいけません。社会生活の重要性です。

三位一体(トリニュート)の形をとるとストレスがかかりにくくなる。
私は問題が起こると、この問題はどの自分が解決をするべきか考えます。
三人の自分が居れば全員で考えなくて一人の自分が真剣に考えればよいのです。
難しく考える必要はありません。
役割分担を明確にする。いわゆる「割り切る」という事です。

例えば、経歴は過去の自分の人生であり、今の自分の姿でない。
そこに自分のリアルな意思は反映されていないのである。
しかし他人は書かれている記録を見て判断する。
そこに時間の経過と人間性の本質はどこにも見当たらない。
本質は精神性であり、思考であり、人としての歩んできた道である。

「私」と言う字は穀物を両手抱えている姿を表している
象形文字だが本当の「私」で無い。
「僕」と言う字も罪を犯した奴隷が額に刻印を押された様子を
表している象形文字だが本当の「僕」では無い。
私も僕も同じ一人称で男と女で使い分ける。

常に自分の人生が日の当たる場所にある訳ではない。
三人の自分がいればそれぞれの日に合わして役割を
担当してくれれば都合が良い。

私は仕事が順調に進んだ時の自分と、
天気が悪くて憂鬱な日の自分と、
お金儲けの自分と分けている。
調子のよい時には三つとも手に入り、悩みは無いが、
かといって収入が少なくても文化活動で気を紛らわせることは出来る。
その内、収入が増えると思えばストレスは溜まらない。
クリエイティブの仕事は経済力に影響されてはならないのです。

みんな真剣に生きている。そのこと自体に優劣はない。
どんなに恵まれた体力と才能があっても努力がなければ意味がない。
その反対に才能も体力もなくても必死に生きている人の方が素晴らしい。
人は置かれた場所で輝いて花開くことの大切さを知らなければならない。
たとえ名もなく見捨てられても私は自分を見守りたい。

禅語「随所作主立処皆真」
臨済宗の宗祖臨済義玄禅師の言行録『臨済録』の一節に
「随処作主、立処皆真(随処に主となれば、立処皆な真なり)」があります。
それぞれの置かれた立場や環境で、それぞれのなすべき務めを精一杯果たせば、
必ず真価を発揮することができると喝破(かっぱ)します。
 
私たちはともすれば、不遇や環境を嘆き、できない言い訳を他の責任にして、
不満ばかりを募らせます。その瞬間、こころも、行動も一ケ所に淀んでしまい、
同じところをぐるぐると迷いの渦に沈んで行き先を見失ってしまいがちです。
まずは、自分の置かれた環境、条件、境遇をありのままに受け入れる。

そうしていったん立ち止まり、今、此の瞬間、自分にできること、
手を付けられることは何かをしっかりと見据えてみる。
そこを手掛かりとして一歩を踏み出し、後は結果を顧みず、
その瞬間その瞬間にすべてを投げ出して、誠心誠意、弛(たゆ)まず
牛歩の如く取り組んでゆく。いつか気が付けば、思いもかけない
成果を手にしていた!との真実を伝えてくれる一語でしょう。

まさしく
置かれた場所で生きなさい。
禅語の言葉は素晴らしいですね。合掌


羞恥心の始まりが人間の始まり




動物には恥ずかしいという感情は無い。
我々人間に羞恥心が芽生えたのはいつ頃のことでしょうか?
旧約聖書の冒頭にある「創世記」に最初の人類としてアダムとイブが紹介された。
そのアダムとイブがエデンでリンゴを齧らなければ羞恥心は起こら無かった。
そのときに人間は二人しかいなかったのに裸が恥ずかしいという
意識が芽生えたのである。

近年、駅や車内などで地べたに座り込む「ジベタリアン」、
所構わず濃厚なラブシーンを演じる「人前キス」、
電車の中で平気で化粧をする「車内化粧」など、
街中での“迷惑行動”が目につくようになった。
羞恥心のない彼らは人間を放棄しているのである。

かつて、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは
著書「菊と刀」の中で日本を「恥の文化」であると規定した。
しかし、今、日本でこの図式は成り立つのだろうか。
普段、私たちは「恥ずかしい」という感情を毎日のように体験するが、
羞恥心の性質についてはあまり知られていない。

人間はなぜ「恥じらう」のだろうか。
「羞恥心」は何の役に立っているのだろうか。
そして現代社会で何が起こっているのだろう。
「恥」から見えてきたニッポンの今とは。

「他人の目が気になる」から「ジブン本位」「ミニセケン」へ
「電車の中で化粧をするのは恥ずかしくない?」
「恥ずかしくない」
「彼氏の前でも化粧をするの?」「それはありえない」

恥じらい、あるいは羞恥心というのは、
恥ずかしいと感じる気持ちのことである。
つまり恥を感じている気持ちのことである。

日本の心理学者である菅原健介は、羞恥心が生じる重要な要因として、
他者から期待される役割やイメージからの逸脱を挙げている。
人間には所属欲求があり、所属した社会から排斥されないために、
公的な自己像からの逸脱をコントロールしようとする。

羞恥心は、他者からの期待や信頼に背くなど、社会からの排斥を
想像させる苦境場面に自己が置かれていると認識することによって
喚起される、生得的な警告反応である。
この期待と現実のギャップによって起きる反応は、
他者からの期待が現実を大きく超えた賞賛などでも生じる。

罪悪感ないし羞恥心を測定する「TOSCA-A」の項目 “shame” によると、
羞恥心は以下のとおり4つの下位尺度に分類される。

1)自己の存在が取るに足らない物と感じ、自己を否定したいと思う
「全体的自己非難」
2)恥を感じる状況から逃げたい、もしくは恥を感じた記憶を消したいと思う
「回避・隠蔽反応」
3)自分が周囲から孤立したと感じる
「孤立感」
4)人に見られている、人に笑われていると思う
「被笑感」

自己意識的で否定的色彩があることなど共通する要素が多く、
社会的行動に影響を与える感情として、羞恥心はしばしば罪悪感と比較される。
罪悪感が自己の起こした特定の行動の相対的評価を問題視するのに対し、
羞恥心は自己全体への否定的評価を問題視する。

羞恥心を感じやすい人は、罪悪感を持ちやすい人より攻撃的で、
責任を転嫁しやすい傾向があるという。
羞恥心は、外部への帰属、他者への強い焦点、復讐といった感情や行動を
発生させる屈辱感を伴い易いからである。

「羞恥心はどこへ消えた」菅原健介
序章 ジベタリアン現象
蔓延しつつある迷惑行動

「日本人の美徳」が崩れ始めた?/見過ごせない事態/ジベタリアン、
人前キス、車内化粧……/「別に構わないんじゃない」/仮説/
意外な結果/若者たちのこだわり/二つの志向/若者だけの問題か

第一章 恥にまみれた人生
日常生活は常に「警告」されている
「警告」される理由/「恥ずかしい体験例」を集めてみたが…
恥にまみれた人生/“落とし穴”が待っている
/ビデオ店での客の不審な行動/客たちの作戦/四つのツボ/
褒められても恥ずかしいのはなぜ?/「妬み」の心理
/他人の期待を裏切るということ/自分の「鼻」が高くなりすぎないように
/見ているだけで恥ずかしいのはなぜ?/「同類だと思われたら困る」
/見るなの禁/他人のプライバシーと羞恥心/性的視線の禁
/恥の壁/「シャイネス」のリスク/長所と短所/周囲の声を恐れすぎて
/絶大な影響力

第二章 生きていくために必要なもの
人類の歴史的産物

なぜ他者の機嫌をとらなければならないのか/サバイバルに有利に働く能力
/個人が排斥される三つの要因/人類が生き延びるための道具
/自分を知っているということ/ゴリラは自分を知らない
/いつから「自分を知る」ようになるのか/人類共通の表情
/「あらゆる表情の中で最も人間的なもの」/二つのメッセージ
/「ハジ」と「テレ」/誰にも教わっていないのに

第三章 もし誰かに裸を見られたら
恥の基準と多様性

坊っちゃんと天麩羅/女子大生たちのイメージギャップ
/年を取れば羞恥心は消える?/性への恥じらい/年齢と羞恥心
/電車内で「おなら」をしてしまったら/裸を誰かに見られたとき
/日本=恥の文化?/ある国際比較調査/等質的社会の崩壊

第四章 玄関を出ればタニンの世界
ジベタリアン的心性の拡大

誰の目が気になるのか/ほどほどに関係が重要な相手
/「ミウチ」「タニン」「セケン」/現代日本社会に残る規範
/“フツウ”はどこにある?/お金とタニン/地域社会のタニン化
/地域的セケンの基準/「ジブン本位の基準」の台頭/「せまいセケン」の乱立
/ルーズソックスをはかないこと/“二つの常識”の板ばさみ/心の背景
/ジベタリアン現象とは/タニンの空間で勝つ者/ジベタリアン的心性の拡大

如何でしょうか?
項目に興味のある方は書籍を購入して読んでみては如何でしょうか?


時節感当(世阿弥)




売り出しのアーティストをステージに出すときに必ずいう言葉があります。
「音程を外してもお客様の心は外すなよ」
暗転のステージにスポットライトがついてイントロが流れます。
いよいよ舞台の袖から出ていくのですが、下手から上手へ上手から下手へ
移動して中央のマイクスタンドで身構えます。

その時に視線は二階席から一階席、一階席の奥から手前に移動します。
これはお客様から見ると会場の広さの確認として効果的があり、
また盛り上がりの声が四方から届くので高揚感へと繋がります。
最高潮にヒートアップしたところで一瞬音を止めて歌入りを待ちます。
ここで一呼吸おくことで緊張感が生まれて最初の一声から立ち上がるのです。

ボーカリストは歌がうまいだけでは一流になれません。
お客様が喜ぶタイミングの取り方が上手な人がスターになるのです。

「時節感当 (じせつかんとう) 」とは?
能役者が、楽屋から舞台に向かい、幕が上がり橋掛かりに出る瞬間を指しています。
幕がぱっと上がり、役者が見え、観客が役者の声を待ち受けている、
その心の高まりをうまく見計らって、絶妙のタイミングで声を出すことを
「時節感当」と言い、これは世阿弥の造語です。

タイミングを逃さないようにこの言葉は、タイミングを掴むことの
重要性を語ったものです。
どんなに正しいことを言っても、タイミングを逃してしまうと、
他の人には受け入れられません。

商談などの交渉事や、案件を上司に図る時など、
「タイミングを逸して失敗した」といった経験は、誰にでもあるものです。
タイミングが人の心の動きのことだとすれば、人の心を掴む瞬間を
逃してしまったということになるでしょう。

世阿弥はこう言っています。「これ、万人の見心を、シテ一人の眼精へ
引き入る際なり。当日一の大事の際なり。」
(万人の目を主役に引きつけることが、何よりも大事だ。
その「時節」に当たることが必要なのだ。)
正しいだけではだめで、その正しさを人々に受け入れてもらう
タイミングを掴むことが重要というわけです。

日頃、自分の都合だけで事を進めると、うまくいかないことが多いです。
急がば回れで、周りの状況や相手の心情なども推し量り、
「ここ!」というタイミングで進めたいものです。

観客と自分(役者)。
両者が一体となれる瞬間、これを世阿弥は「時節」と呼んだのでした。
この時節を読める役者が一流で、また的確に読むことを「感当」と
彼は言いました。

「これ諸人の心を受けて声を出だす」、世阿弥はそんな風にも表現していますが、
彼の場合、それを能や役者の世界だけにとどめず、
世の中の全てのことに当てはめているのが特徴です。

時節とは、タイミングです。物事は内容も大事だが、タイミングや
「間」は同じくらい大事だと言っているのです。

よく使われている「空気を読む」という言葉。これは少々拡大解釈されていて
好きじゃありません。空気にも良い空気と悪い空気があって、
悪い空気に無理に従うのはまずいだろう。そう言いたいわけです。

ただそれも、「空気を読めているけど、無視したり逆らったりする」のと
「空気を読めない」は違うわけでして、やはり「空気を読める力」は必要
なのでしょう。それに、逆らうにしても、タイミングは大事ですね。

これらは当たり前のことではあるのですが、ただ世阿弥という人、
父親の観阿弥と共に、伊賀の忍者の出身です。
そして足利3代将軍の義満に寵愛されたわけですが、
その時諜報活動、いわば隠密の仕事もしていたと思われます。

つまり、能役者としてだけじゃなく、人間として、百戦錬磨だったのです。
そんな人物の言葉だからこそ、重みがあるのです。
彼は義満の死後、佐渡に流されますが、脱走に成功するなど波乱万丈な
人生を送ります。

もしあなたがまだ無名でデビューを望んでいるのなら自分磨きが必要です。
音楽的なテクニックは専門学校でも個人レッスンでもできますが、
パフォーマンスは大勢の人を目の前にして歌いこなさなければなりません。
そこで人引き寄せのタイミングを身に着けるのです。

私は72年にロンドンへ行った時にバイトが見つかるまで地下鉄の構内で
歌って小銭を稼ぎました。楽器のソロの方は数人いたのですが、
ボーカリストはとても少ない頃でした。
ボブディランの歌を数曲しか歌えないしギターも下手だったのですが、
通り過ぎる人たちがギターケースに小銭を投げ込んでくれました。

遠い国から来た外国の若者を応援してくれたのです。
下手な英語の歌でも聞いてくれる人がいて嬉しかったことを思い出します。
私はあいにくプロのミュージシャンにはなれませんでしたが、
その後日本初のプロデューサーとして高く評価されたのです。

いわゆる覚悟の問題です。これしかないという覚悟があれば叶うのです。
なんとなくうまくいけばプロになれるのではないかという甘い考えでは
即刻辞めた方がいいです。お客様からお金を頂いて演奏するわけですから、
お客様が感動しなければ失礼に当たります。

世阿弥はこう言っています。「これ、万人の見心を、シテ一人の眼精へ
引き入る際なり。当日一の大事の際なり。」
(万人の目を主役に引きつけることが、何よりも大事だ。
その「時節」に当たることが必要なのだ。)
正しいだけではだめで、その正しさを人々に受け入れてもらう
タイミングを掴むことが重要というわけです。

歌や演奏がうまいだけでは駄目です。そのうまさを人々に受け入れてもらう
タイミングを掴むことが重要というわけです。

皆様も参考にしてみてください。


人格の病




われわれは誰だって、いつだって、精神疾患を出入りする淵にいる。
不安、憂鬱、迷妄、妄想、意志薄弱、意欲の減退。食欲不振、倦怠、
トラウマとフラッシュバック、仕事放棄、引きこもり。
みんな、このうちの何かと一緒にいる。
淵に近づかなかった者なんて、ほとんどいない。

このところ先進諸国の巷には「人格の病」「感情の病」
「不安の病」が乱れとぶ。
なかでも「うつ病」が会社でも学校でもふえている。
先だって大企業の人事部の知り合いに聞いたところ、
データ上では一割ちょっと、実際には三割ほどが
「うつ病」ですよと言っていた。

また、これも知り合いの産業医に尋ねてみたら、
たいていの企業や役所はDSMオンパレードですよ、
統合失調症、パニック障害、ヒステリー、家族暴力、
ストレス過剰、双極性障害、解離、PTSD……
みんなありますと言っていた。

DSMとは米国精神医学会が発行する
「精神障害の診断と統計マニュアル」です。
元々は戦争帰還兵の治療において精神科医が重要な役割を果たしました。

なぜ、そうなったのか。もっと大きな「文明の病い」が広がっているのか。
あるいは社会のコミュニケーションのどこかに機能不全がおこっているのか。
それとも、アメリカ精神医学会のDSMが心の病いの症状を分類認定している
からなのか。

それならわれわれは、香り高い悲哀にもう浸っていられないのだろうか。
原因が特定できないだけに、気になる問題です。

古来、「心の病気」がなかったなどという時期は、無い。
意識の発生とともに併存してきたはずだ。それをどのように呼ぶかは
べつにして、憂鬱も不安も狂気も、ずっと昔から人類の歴史に寄り添ってきた。

それについては中井久夫さんに『分裂病と人類』
(東京大学出版会)という名著がある。 
それなら、二十世紀後半から二一世紀にかけてこのような「心の病気」が、
どんどん増大していることをどう見ればいいのか。

今日の精神医学が分類する精神疾患には
「人格の病」「感情の病」「不安の病」がある。
ただしこれらの相違は、それぞれ処方薬(向精神薬)がちがっているため
顕著にあらわれているだけなのだ。

昔から多くの悲哀や悲嘆が人間の心を苦しめてきた。
その逆に、悲哀や悲嘆こそが人間を成長させてきたとも言える。 

すでに紀元前三千年の古代オリエントの叙事詩『ギルガメシュ』には、
親友エンキドゥの死を知らされたギルガメシュの嘆きが綴られている。
友のパトロクロスの死によって悲嘆のどん底に落とされたアキレウスの
絶望感の描写も、英雄のもつ深い人間性だとみなされる。

アキレウスの前途に悲しみの暗雲がたれこめ、アキレウスは怒りに
打ちのめされて大地に身を投げ出し、いつまでも髪をかきむしりつづけたのだ。 
若きウェルテルの悩みやマルテの彷徨も、『三四郎』の漱石や『舞姫』の鴎外の
作品も、みんな容易には癒しがたい憂鬱をかかえた物語になっている。
優雅なマダム・ボヴァリーやアンナ・カレーニナは、道ならぬ恋に身を焦がし、
心の奥で懊悩し、そしてみずから命を断ってしまった。 

これらの主人公たちの症状をDSMでチェックすれば、
それなりの病名があてはまるのだろうが、
それでは大きく欠落してしまうものがある。
それが「悲しみ」というものだ。
その「悲しみ」は二週間とか一ヵ月では区切れない。

日本でも、古代このかた歌人たちが「いぶせ」(憂鬱)な気分を歌っていた。
「たらちねの母が飼ふ蚕の眉ごもり いぶせくもあるか妹にあはずして」。
気分が晴れないこと、厭わしいこと、気詰まりなこと、
なんとなく悲しいことが「いぶせ」なのである。

大伴家持は「いぶせみ」(鬱悒)という名詞をさえつくり、
「こもりのみ居れば鬱悒なぐさむと出で立ち聞けば来鳴くひぐらし」
という歌を詠んだ。
『源氏物語』もまた、桐壺帝の憂鬱なさまを
「なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを云々」とあらわし、
「さまざま乱るる心の中をだにえ、聞えあらはし給はず、いぶせし」
とも表現した。

何故先進諸国の巷に「人格の病」「感情の病」「不安の病」が乱れとぶのか。
原因は簡単でデジタル社会に心を預けるからである。
そこには様々な感情データがあり、勝手に解決の方法が書かれているからである。
人との関わり合いが極端に少なくなった現代では本音は弱みと取られてしまう。
弱みとして取られるとあらゆるチャンスを逃すことになるのではないかと、
恐怖心が生まれ強い自分を演じることに疲れて病が起こるのである。

百冊の本を読むより信頼できる一人の大人を探してください。
その方の持つ教養と経験を聞くのがいちばん早い手段です。
その昔にはメンターと言う言葉が流行語になりましたが相談役の事です。
私はプロデューサーとして企業の顧問として長年勤めてきました。
多くの人間関係の経験からまた多くの書物から学んだことがあります。
それをお話ししています。

もし「恩学」を読んでいる方の中に相談を望まれている方が居れば、
ご連絡ください。いつでもお受けします。


おおらか




皆様は「おおらか」という言葉をご存知ですか?
クヨクヨ小さなことには気にしないということです。
豪放磊落に生きながら細事にはこだわらない精神。
誰しもがおおらかな人生を歩みたいですよね。

おおらかの意味
「おおらか」とは、心がゆったりとしているさまをいいます。
こせこせしておらず、些細なことにも動じない。そんな雰囲気ですね。
この言葉は、基本的には人柄について述べるときに使われるもので、
男性、女性問わず用いられます。

おおらかな人の特徴「性格」
「おおらか」な人の性格的な特徴として、
まず思いつくのが「落ち着き」があることです。
些細なことには決して動じず、じっくりと事態を把握してから
行動に移します。

また、「おだやか」な性格の持ち主であるともいえます。
人前で激しく怒ったり、泣いたりという姿は見せません。
いつも柔和な笑顔が見られる、そんな印象ですね。

おおらかな人の特徴「行動」
「おおらか」な人は、人によって態度を変えたりしません。
どんな人ともいい関係を築くことができるので、「あの人は嫌い」
「あの子は苦手」というような選り好みもしません。

また、「おおらか」な人は許すことができる人ともいえます。
人のミスや失敗をにこやかに許し、落ち着いて適切な対処方法を
考えようとします。人のミスを自然にカバーできるという頼りになる
存在でもあります。

さらに、せかせかしていないというのも「おおらか」な人の行動の
特徴だといえます。本当は忙しいはずなのに、いつも余裕に
見えてしまうのが「おおらか」な人。真似したいですね。

おおらかな人の特徴「言動」
「おおらか」な人がよく使う言葉があります。
それは「ありがとう」と「いいよ」「大丈夫」の3つ。
「おおらか」な人は感謝上手。ちょっとしたことでも人に感謝することを
怠りません。「ありがとう」といわれて気を悪くする人はいませんよね。

そんな魔法のような言葉でもある「ありがとう」をたくさん発するからこそ、
「おおらか」な人は人に好かれるのかもしれません。

また、行動面の特徴でも述べたように、「おおらか」な人は人に対して寛容です。
相手のミスや失敗を責めることはせず、「いいよ、大丈夫だよ」と
次に取るべき行動を一緒になって考えてくれるのです。

禅語は漢字が連なり堅苦しい印象もあるかもしれませんが、
これほど含蓄に富んだものはありません。
日常のしがらみから抜け出して、いつもおおらかに、
明るく笑って過ごせるような、軽やかに生きるための
禅のことばをいくつか集めてみました。

「両忘」りょうぼう
私たちは日常生活の中で、生と死、喜と怒、哀と楽、好きと嫌い、
美と醜、善と悪、真と偽、そして幸と不幸など、対立する二つの
価値観の間で右往左往しています。
あれかこれかという決断を迫られ、どうしたらよいかの判断に
窮してしまうこともしばしばです。
これは生きていく中で避けられない事態だとも言えましょう。

しかし、この「両方忘れる」という禅語は、そうした対立的な
価値観へのこだわりを忘れ、二元的な思考を乗り越えるべきことを
教えたものです。白か黒か、自分の内か外か、というようなこだわりを捨て、
時には「どっちだっていいではないか」と大らかな気持ちになることによって、
清新な気持ちで物事を見つめ直すことができるかもしれません。

「知恩」ちおん
自分が今ここにあるのは他あってのことで、
一人では生きられないことを自覚し感謝する。
まずは両親あっての自分、囲りの人々、はては自分を
取りまく大自然全ての力あっての御蔭である。

たとえ食卓に一品の食事であっても、その食材の種を蒔き、育て、運び、
またそれを調理する者がいる。他からなされる恵み、慈しみの心を感じ取り、
常に感謝の気持ちを忘れてはならない。

「看脚下」きゃっかをみよ
人は他(人)と自分を比較し、その優劣をもって幸不幸の尺度とし、
自らの悩みの種とする。他と比較する必要はない。
足を地にしっかりつけた自己の確立こそが、
全てを凌駕することの源泉となる。
そのためには、自己追求を怠るな、ということである。

禅寺の玄関などに「看脚下」と書かれたものが、貼られている。
ぬいだ履物を揃えなさいということであるが、その語句の裏には、
修行僧ばかりではなく、あらゆる人達が真理、幸福を求めるに、
遠くばかり求めることを諫める意が籠められている。
真実、幸福は自分の中にあるからである。

私の「おおらか」は、生まれ持った性格ではなく
人生の経験から身に付いたものです。
沢山の失敗から学ぶことが多くありました。
その中で他人を恨むことなく自分の責任だと戒めたのです。
そうすることでくよくよすることが無くなりました。

いつも笑顔でいると自然にチャンスが巡ってきました。
反対にいらいらしてしかめっ面をしていると
チャンスは逃げて行ってしまうのです。
どんなに裏切り行為があっても、その人にはその人の事情が
あったのだろうと思うと怒りは無くなります。

辛い時には心身ともに健康でいられることを感謝していました。
空に向かって、太陽に向かって「ありがとう」を連呼するのです。
スーツと気分が落ち着き「おおらか」な気分になります。
解決できない悩みをいつまでも持ち続けても仕方ないですよ。
現実には未だ起こっていない不安を抱え込まないでください。

人間って少しぐらいは能天気な方が良いですよ。
女性の方は宇野千代さんや瀬戸内寂聴さんの本を参考にしてください。
なんとも気持ちが良くなるくらいにおおらかな人生をお過ごしになりました。

今日も一日おおらかに生きていきましょう。


人の処世術




今見える人をどの様に判断しますか?
容姿ですか?経歴ですか?仕事の実績ですか?
それとも自分にとって好意的か戦闘的かですか?
その人の才能や人間性は見た目だけでは分かりませんよね。
同じように自分も誰かに上辺だけを見られているのです。

森に生まれた人は森の全てを掌握しています。
海で生まれた人も海の全てを把握しています。
森や海で育った人は自然が相手ですから、人間の力で作為的に
変化させることはしてはいけないことを知っています。

また都会で生まれた人は情報の洪水の中にいます。
そこには真実は無く虚栄の社会が潜んでいるだけです。
早く自分なりの情報を取り込み、戦う準備をしなければなりません。
自分を知って自分の方向を決めるのです。

例えば目の前の混んでいる電車に乗るべきか一本遅らせるべきか
考えた時に、あなたは飛び乗りますか、それとも次の電車を待ちますか?
若い時の私は何がなんでも飛び乗りました。
少しでも早く到着場所に着きたいために無理に身体を車内へ押し込んでも、
乗り込むことをしていたのです。しかしここに心の余裕はありません。

団塊の世代は高度成長期の真っ只中で「我先に!」が合言葉でした。
人を押し除けてでも前に出ることが一番と勘違いをしていたのです。

人は自分本位の価値観で行動を決めます。
自分が正しいと思うので迷いはありません。
本来は他人と身体を触れ合うことも嫌うのに通勤だからといって我慢します。
確かにそれで日本はGNP第二位のランクまで上がり、人々の暮らしは
良くなったのですが、調子に乗り株やギャンブルに手を出して、破滅する人も
多くみられました。その上にバブルが弾けて一文無しになった人も大勢いました。

これと同じ様に人とのお付き合いも仕事だから仕方なく
承認するのが大人の行動だと考えて我慢をします。
しかしそれらの辛さを我慢するのが人生ではありません。
自分の成し遂げたいことを目標として生きるのが人生です。
浮かれた情報に惑わされて自分を見失わないようにしなければなりません。

以前のブログでもご紹介したのですが、
吊り橋の前で老婆がいて「危険な吊り橋を渡るのも、
少し遠回りして向こう岸に渡るのも自分で選びなさいと
問いかけられます」あなたはどちらを選ぶタイプですか?

人生で悩む時には必ず自分本位で決断を迫られます。
成功する人は必ず急ぐことでは無く良き答えを探します。
失敗する人はとりあえず急いで渡り切ろうとして結果を求めます。
その時の気分で決めるのでは無く
計画に沿った考え方で選ばなければなりません。

その為には時流を読むという力が必要になります。
季節も人もその時の時流を読まなければならないという事です。
時流とは、その時代の社会一般の風潮や思想の傾向を指します。
向こう岸へ渡るときには季節の変化も考慮しなければなります。

この様な禅語があります。

禅の逸話に「放下著(ほうげじゃく)という語がある。
 「本来無一物」=(全てに対する執着を捨て切った)
お悟りを自負する弟子の厳陽尊者は、師匠である趙州和尚に尋ねた。
「私は全てを捨てて、もはや拘泥する何ものをも、もっておりません。
この先どんな修行をすれば良いのでしょう?」と。
すると師匠は間髪入れず「捨て去ってしまえ!」。
弟子は納得のゆかず「一体何を?」。最後には「その、なにもないとの意識を
どこまでも担いで行け!」と一喝されてしまいます。 

とかく過去への未練やプライド、培ってきた思い込み、先入観、
苦手意識が楔(くさび)となり、言い訳となって、新たな自分への脱皮を妨げ、
自分で自分を苦しめてしまう私達。 満開の花びらが散り終わって葉桜となる
染井吉野に対し、山桜の一種「大山桜」がある。 

大ぶりな少し濃い桃色の花弁が開くと同時に滑滑(ぬめぬめ)とした
立派な葉がその存在感を際立たせて見事だ。 
新たな環境に踏み出したのには、必ずやむを得ない理由があり、
決して甘美な過去には戻れない。
しかし、その離別の最中、既に新たな環境に適合できる力を
私たちは内部に育んできているのだ。

それを信じて、まっさらな裸の心で、目の前の一つ一つの事柄に、
誠実に取り組んでゆくことで、必ず事態は切り開かれる。 
潔(いさぎよ)く次の季節に向かう自然の移ろいにじっくりと目を凝らし、
わたくしに内在する大いなる命の営みを感じ取る好時節でもあろうか。

先を急いだからといって人よりも早く幸福になるわけではありません。
その時期にはその時期の花しか咲かないのです。無理に急いでも桜は、
その季節にしか咲きません。あなたの人生にとって花開くときは必ず来るのです。
慌てても無理なものは無理なのです。
凡人の欲も執着もかなぐり捨てて「無一物」になる事が必要です。

若き人が順調な時に「無一物」といわれてもピンときません。
自分が選ばれし人間だと過信する心が無謀な選択をするのです。
残念ですが「悟り人は教義に学び凡人は経験に学ぶ」ことしかできません。
その為に苦労が襲い掛かる危険な道を選んでしまうのです。

お気を付けて人生の選択をしてください。


井戸の中のロバ




「災い転じて福となす」という言葉があります。
災難だと思っていたことが後に好転して福(幸福)を成すことです。
手に入れたいと思った仕事を逃したら思いがけずに大きな仕事が舞い込んだ。
搭乗予約をした飛行機に遅延したおかげで事故に遭遇しなかった。
階段を踏み外して病院へ行ったら違う病気を発見してもらった。

現象をネガティブに捉えると災難だと思えるが、
ポジティブに捉えると難が有って有難(ありがたい)となる事がある。

「井戸の中のロバ」
ある農夫のロバが、枯れ井戸に落っこちた。
ロバが哀れな声で鳴き続ける間、農夫はどうしたら良いか考えをめぐらせた。
結論はこうだ。
ロバはもうかなりの歳で、この井戸はいずれ埋めなければならない井戸だ。
ロバを引っ張り上げることに、意味はない。

農夫は近所の人々全員を呼び集め、手伝いを頼んだ。
人々はショベルを手に取り、土を井戸に放り込み始めた。
初めの頃は、ロバは何が起こっているのか気付いているようで、
ひどく鳴いていた。
ところがその後 …皆が驚いたが… ロバは静かになった。

その後、何杯か土を放り込んでから、農夫は井戸の中を覗いてみた。
すると、驚愕(きょうがく)の光景がそこにあった。
ショベルで落とされた土がロバの背中に当たる度に
ロバは体を震わせて土を落とし
踏み固めて登っていたのである。

農夫の隣人達がショベルで土をかける度に、
ロバは土を振り落としてまた登る。
そのうちに ロバはついに井戸の縁にまで達し、
嬉しそうに地面に駆け降りたのだった!

教訓:
人生はあなたの上から土を落としてくる。土の種類は様々だ。
井戸から脱出するためには、土を振りはらい、踏み固めて登るのだ。
全てのトラブルは、踏み台であると考えよう。
休まず、あきらめなければ、どんなに深い井戸からでも脱出できる!
振りはらって登るのだ。

幸せになるための5つのルールを覚えておこう。
1. あなたの心を、憎しみから解放してあげよう。敵を許すのだ。
2. あなたの心を、不安から解放してあげよう。不安な事の大半は、
実際には起こりはしない。
3. シンプルに生きよう。そして、あなたが持っているものに感謝しよう。
4. 自分からいくらでも与えよう。奉仕の心を忘れないようにしよう。
5. 人々に期待を寄せるのを控えめにしよう。その代わり、
神様にもっと期待しよう。
私たち全ての者に、神の恵みがありますように。
By: Hormuzd J Dadinath
(筆者註:インド、ムンバイの方です)

中国には「人間万事塞翁が馬」は、「じんかんばんじさいおうがうま」と
読みます。「塞翁が馬」と表されることもあり、人の人生の幸・不幸は
予測し難く、幸運も喜ぶに足らず、不幸もまた悲しむにあたらない
ということを意味しています。

「人間万事塞翁が馬」は紀元前の中国の書物『淮南子(えなんじ・わいなんし)』
に由来します。この『淮南子』の中に、「人間万事塞翁が馬」の由来の
逸話があります。「塞翁が馬」の「塞翁」は、塞(とりで)に住んでいる
翁(おきな)という意味で、「人間万事塞翁が馬」の由来となった
あらすじは以下のようなものです。

塞に住む老人の馬が逃げたところ、老人は「これは福となるかもしれない」と
言いました。そしてしばらくすると、その馬が駿馬(足の速い馬)を連れて
戻ってきたのです。周りの人は喜んだのですが、老人は、
「これは禍となるかもしれない」と言います。そして今度は、老人の子供が
その駿馬から落ちて骨折をしてしまいました。

老人は再び、「これは福となるかもしれない」と言うのです。
その後、戦争で男子は兵役で連れて行かれたのですが、骨折が幸いして
老人の息子は兵役を免れ、命が助かったというものです。

これは、天邪鬼(あまのじゃく)な老人の話ではなく、
「禍福は予測ができないものだ」ということを伝えるものです。
このことから生まれたのが「塞翁が馬」、
「人間万事塞翁が馬」の教訓です。

この「人間万事塞翁が馬」には、さまざまな解釈があります。
「幸不幸は予測し難い」、さらには「幸不幸は予測し難いので、
安易に悲しんだり喜んだりするべきではない」という意味や、
「幸運も喜ぶに足らず、不幸もまた悲しむにあたらない」という意味、
また、「幸不幸は予測できず、何が禍福に転じるかはわからない」という
意味にも使われます。

順風満帆な人生を送っていたところ突然の出来事で転落してしまう。
それまでの地位や名誉や財産までもが無くなり路頭に迷う。
私も2000年にそのような経験をしました。
しかし、そのお陰で韓国に映画配給会社を作り日本に韓国ドラマを紹介しました。
その後すぐに中国から音楽関係の仕事が入ってきてまたプロデューサーとして
復活をしました。そこで再び大成功するのですが、音楽学校設立の野心が芽生えて
全額投資をして突然の反日運動で一文無しになりました。

2012年に日本に戻り腹をくくりました。
何もかも無くなりマイナスになって自分なりの下座業を開始しました。
そのお陰で講演依頼やセミナー講師の話も来るようになり、
挙句は10数年音沙汰が無かった会社の会長よりお声がかかり
顧問として働くことも出来ました。
まさに「人間万事塞翁が馬」を経験したのです。

今、不幸だなと思っている皆様は私の経験を参考にしてください。
不幸の後には必ず幸福がやってきます。
問題は自分の中にあるので乗り越える勇気を持ってください。
幸不幸も自分のイメージが作り出しているので
諦めることなく幸福を手に入れてください。

「恩学」のブログは人生の一番大変な時期からスタートしました。
困難のさなかに良き言葉を求めて良き言葉を発信してきたのです。
この恩学が少しでも皆様のお役に立つことになれば嬉しいです。


静かに生きる




私はいつも「静かに生きる」という文字を見る度に、
このお二人のことを想っていました。
人間として生まれ僧侶になられ、そして人間味を残して亡くなる。
最後はジタバタしても始まりません。泣き笑いの人生を楽しみたいですね。
皆様もこの恩学をお読みになり静かに歩いて来た人生を振り返り、
残る人生を考えてみては如何でしょうか。

一休禅師
1481(文明13)年の大燈国師の命日に、マラリアに罹った一休は
この世を去りますが、その時「一休の禅は、一休にしか分からない。
朦々淡々(もうもうたんたん)として60年、末期の糞を晒して梵天に捧ぐ」
という辞世の句を残しました。何とも強烈な辞世の句です。

そして、臨終の言葉は「死にとうない」だったとか…。
禅の道を極め、悟りを得た高僧には相応しくない言葉ですが、
一休の88年間の波乱に満ちた人生を思えば、一休らしい
最期の言葉だったと言えるのではないでしょうか…。

生涯を通じて鋭く社会を批判し、名声利欲にとらわれず、庶民の中に分け入り、
禅の民衆教化に尽くした一休。禅僧でありながら、女性を愛し、肉を喰らい、
酒を呑み、頭も剃らず、権威に反発し、弱者に寄り添い、民衆とともに、
笑い、泣き、生きた一休は、なんとも人間味溢れる男だったのです。

良寛和尚
良寛は道元の道を実践するため、草庵で一人暮らしをはじめ、
所持品は文字どおり、一衣一鉢(いちねいっぱつ)、着のみ着のまま、
すり鉢一つであったようです。

このすり鉢が調理道具であり、食器であり、托鉢の鉢だったわけですが、
それを見かねた村人が着物や食物を施しますが、
良寛はそれをもっと貧しい人たちに与えてしまう。
なんとも凄い坊さんがいたものです。

良寛が詠んだ句に
『たくほどは 風がもてくる 落葉かな』というのがありますが、
落葉を集めようと、あくせくすることはない。
必要なぶんだけ風が運んでくれるものだ。

釈迦はこう述べている。
『(人は)ひとりで生まれ、ひとりで死に、ひとりで去り、
(生まれ変わって)ひとりで来る(ものなのだ)』
(独生、独死、独去、独来)。
そんな身に余分なものは必要ない、良寛はそう考えていたのかもしれません。

「生き方の底にあるもの」
良寛は自分で「僧に非ず、俗に非ず」と言いきり、酒を好み、タバコも
たしなんでいたといい、晩年には、40も歳の離れた若い尼僧、
貞心尼と恋に落ちています。

良寛は本音で行動し、何ものにも執着しない生き方だったようです。
死期のせまった良寛に対し、貞心尼は「生死など超越したつもりなのに、
いざ別れとなると悲しい」という意昧の歌を送ったとき、
良寛は次のように詠み返したということです。
 
『うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ』

散っていくもみじでさえ、おもての葉も裏の葉もすべてをさらけ出して、
隠すことなく散っていく。

良寛さんも貞心尼との短い4年間のお付き合いであったけれど、
正直に包み隠すことなく過ごしてきましたという辞世の句でしょう。
そして、良寛は最愛の貞心尼に看病され、蒲団の上に坐り直し静かに
1831年、74歳で亡くなったということです。

良寛には、もう一つ、辞世の歌が残されている。

 形見とて
  何か残さむ 春は花
    山ほととぎす 秋はもみじ葉
桜の季節に詠んだ
    散る桜 残る桜も 散る桜
というのも記憶に残る良寛さんの言葉です。

このお二人の歴史を読んで同世代は納得して
若い世代の方は笑うかもしれない。
二人の辞世の句、最後の言葉を未練がましいと
思うか潔いと思うかは分かりません。

私の人生も陰で家内が支えてくれた人生だった。
夫婦のことは夫婦にしか分からない。
迷惑をかけても逃げられないのが夫婦である。
裏も表も見せられるのはやはり家内しかいない。

私の辞世の句は「恩学」です。
まだまだ書き残さなければならない言葉があります。
言霊の力を信じて「愛語よく廻天の力あり」を贈り続けます。


100人いると思え




提案された企画が会議に通り新しい事業が始まる。
発表をして広く大衆に知れ渡ったところで、
他のメーカーから類似商品が発売される。
市場があることを確認してからの発売だから
商品内容も価格も高品質・低価格で棚に並べられる。
次の商品開発に手を付けなければ敗北になる。

会社役員は開発費用とそれに割いた人員の経費に頭を痛める。
自由経済では誰にでもチャンスはある。他メーカーの動向も気になる。
生き馬の目を抜いても勝たなければビジネスが成立しない。
その時に学んだのが「会議室に提案された内容は我々だけのものではない」
同日・同時刻に国内外を問わず100人以上の人が同じ内容で話し合っている。

知人から耳元でこの情報はオフレコであなただけに教えます。
これを信じた人は自信たっぷりに他人に伝える。
自分だけの情報だからビジネスの先手を打てるから成功すると目論む。
投資家から資金を調達して意気揚々と会社で発表する。
「あ、それ知っているよ」「有名な話だよね」とスタッフから言われる。
ここで最大のミスを犯したことに気づくが手遅れである。

アメリカの戦略の方法の一つ「OODA」(ウーダ)がある。
これはビジネスの「PDCA」の進化版で政府が採用している考え方である。
最初のOはオブザーブのOである。観察・徹底的調査
次のOはオリエンとのOである。調査結果・状況判断
そしてDはデシジョンのDである。参加者の意思決定
最後のAはアクションのAである。実行・行動開始

これを、時間の経過とともにループ状に何度も繰り返す。
「PDCA」だと計画に沿って動くのでスピードと変化に遅れてしまう。
「OODA」は常に状況の変化に対応する戦略と戦術である。
アメリカが得意とするデータードリブンを活用する。

本日のテーマは「100人いると思え」です。

あなたが今日受けた恩は何処かで同じように100人の人も受けている。
あなたが昨日受けた心の傷は何処かで同じように100人の人が受けている。
あなたの喜びも悲しみも何処かで同じように100人の人が感じている。
何が起こっても同じように100人の人が感じていると思えば心強い。

あなたの人生はあなただけのものだが同時刻に同じ考えの人もいる。
あなたに舞い込んだ素敵な話も同時刻に同じ体験をしている人もいる。
だから喜びも苦しみも1人で抱えているのじゃなくて誰かと共有している。
あなたは孤独になる必要はない。そして難しく考える必要はない。

幸福になろうとして人と比べて生きることは無意味である。
あなたはあなたなりに自分をもっと知らなくてはならない。
そして自分との約束で計画したことは絶対に破らないこと。
何よりも誰よりも自分を愛することを守りなさい。
周りを見すぎると疲れるから空を見る習慣をつけなさい。
生きていることに敏感になり使命感を感じて毎日を過ごしてください。

日本人と西洋人の考えに大きな違いがあるのを知っていますか。
日本人は「無」の世界があり、西洋人は「有」の世界だけで生きているのです。
仏教の「無一物」空(くう)の世界が日本人の奥深さに繋がるのです。
西洋人は狩猟と略奪を繰り返し手に入れることが生きることでした。

日本人は自然と共存共栄しながら自然に合わせて生きてきたのです。
西洋の一神教の考えでは「天・地・海」全てが神の創造物です。
そして西洋人は森や山や湖には魔物が住んでいると教えるのです。
しかし我々は自然界には神々が住んでいるので神聖な場所としてとらえています。
環境豊かな日本と環境劣悪な西洋との思考の違いです。

「色即是空、空即是色」そこには何も無いだが何も無いところに全てがある。
日本では文化が花開き、西洋では化学が発展した。
E=mc2は究極の「有」の追求である。そこまで手に入れる必要はあるのか?

第1の心のわかり方はことごとく意識を通す。その内容はすべて言葉で云える。
それでこれを「有(う)」という。これに反して、第2の心のわかり方は、
決して意識を通さない。またその内容は、決して言葉では書けない。
だからこれを「無(む)」という。しかしながら、無が根底にあるから、
有が有り得るのである。東洋人はこれをずっと知っていた。

日本人も少なくとも明治までは知っていた。
そしてよくわかる人は、そのことが非常によくわかったのである。
何でもすべて本当に大切な部分は無である。
だから日本本来のよさというのは無である。
ギリシャ人や欧米人は有しか知らない。無のあることを知らない。
戦後すっかりアメリカやソビエトに同調してしまって、
言葉で云えないものは何もないと思っている。

戦後に生まれた人達には、学校も家庭も社会も子供達に有ばかり教えた。
無を教えなかった。ところが日本というのは、一言に云えば無である。
だから戦後に生まれた人には、日本というものがわからなくなってしまった。
つまり、日本を知らないのである。
それではもはや、日本人ではないと云ってもよい。
それで世代の断層というものが出来てしまった。

だがそれでも日本民族だから、日本人の頭頂葉を持って生まれてきている。
これは健在なようである。だから、
なんとなくそれでいけないものを感じはする。
しかし、言葉で云えるものが大事なものだと思っている。
それが根本的な間違いである。言葉で云えるものなどに、
それほど大事なものはない。

第2の心の世界を「無」と云い、第1の心の世界を「有」と云う。
「真、善、美」はすべてその源を無の世界に発して、
有の世界へ流れこんでいる。
有の世界に入って後、言葉で云えるのである。

全ては民族の意識調査から始めて適時・適材の商品開発が重要である。
あなたのアイデアは100人の人との共有であることを知っておいてください。

常に100人の人がそばにいるのです。


哲学を考える




大切なことは自分自身で考える

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは哲学的な思考を、面白いもので
譬(たと)えています。それは、風です。風にははっきりとした形がありません。
風がどこにあるのか、どこからやってくるのか、そしてどこへ行くのかは、
目には見えません。でも、それは確かに存在します。そこにあるにもかかわらず、
実体の摑めないもの考えるという営みは、そうしたものだと彼は考えたのでした。
でも、果たして本当にそうでしょうか。

たとえば、考えたことを言葉にして、本にすることができたら、
それは思考に形を与えたことになるのではないでしょうか。
ソクラテスの考えでは、おそらく、そうはならないでしょう。
なぜなら、たとえ私たちが思考を言葉で表現しても、私たちの思考は
その言葉を通り抜け、あるいは解体してしまうからです。
たとえば、何かが存在する、ということの意味を考えて、
「存在とは○○である」という結論に行き着いたとしましょう。
そのとき私たちは、自分の思考を言葉で表現し、その思考に形を与えた
ことになります。

一時は、そのことに満足し、私たちは考えることを止めるかも知れません。
しかし、時間が経ってくると、だんだんとまた風が吹き始めるのです。
「あれ、そもそも○○ってなんだっけ」と。
哲学は「当たり前」を問い直す営みであり、それはもう少し堅い言い方を
すれば、概念のネットワークを解体し、相対化し、検証する営みです。

それに対して、言葉で言い表されたものは、すべて、何らかの概念の
ネットワークに落とし込まれます。そうでなければ意味が伝わらないからです。
だからこそ、思考は形にならないのです。このことは、哲学について
書かれた本を読むときには、特に注意するべき点です。

私たちは、つい、偉い哲学者が言ったことをそのまま信じようとして
しまいます。あるいは、信じるまでいかなくても、
「この哲学者はこう言ったのだ」と、ただ引用することだけで
満足してしまいます。でも、その言葉そのものには、正直に言って
あまり意味がありません。大事なのはあくまでも考えることなのです。

しかし、当然のことながら、哲学者が考えていたことを、言葉になる前に
遡って知ることなんて、誰にもできません。私たちにできることは、
その本を糧にして自分で思考することでしかありません。

哲学者が何を言ったのかよりも、その言葉から自分が何を考えたのか、
ということの方が、哲学にとってははるかに重要です。
ですから、そこに思考が伴(ともな)っていないなら、本を一冊、
初めから終わりまで全部暗記しても、あるいは、ものすごいスピードで
速読し、何冊もの哲学書を読んでも、あまり意味はないのです。

では、どういう読み方をすればいいのでしょうか。
本を読み直すとき、あるいはこれから新しい別の哲学書に挑戦するとき、
どんなことに注意すればいいのでしょうか。私が大切だと思うのは、
書かれていることに対して問いを連想しながら読むことです。

もしもあなたが、本を一回読み終えることができたなら、
ぜひもう一度、最初に戻って、今度はもっとゆっくりと読み直して
みてください。私は最初に読んだ時に気になる文言に付箋を貼ります。
そして解決するごとに付箋を一枚一枚とはがすのです。楽しいですよ。
探偵になったつもりで文章を追ってください。そして、ちょっとでも
違和感を抱いたら、その感覚を、決して手放さないでください。

ソクラテスも言う通り、思考は風です。それは急にあなたのもとにやってきます。
でも、何もしないでいたら、すぐにどこかに消えてしまいます。
だからそれを手のなかに包み込み、じっくりと吟味(ぎんみ)してほしいのです。

私のオススメは、読書に疲れたら思い切って本を閉じてしまうことです。
ぱたん、という音が、自分の思考が始まる合図になります。
ソファーに腰掛けたり、畳の部屋で寝っ転がったり、お風呂に浸かったり
しながら、違和感を言葉にし、なぜ自分がそう思うのかを、問い直してみて
ください。私が思うに、これが、哲学的な思考の一番クラシックな
スタイルです。たぶん、古代ギリシャの哲学者たちも、
そんなことをしていたのではないでしょうか。

当然ですが、そんな読み方をしていたら、いつまでたっても
本を読み終われません。でもそれでいいのです。
先ほども述べましたが、哲学書に関して、
早く読み終えることには何の価値もありません。

大学の専門的な哲学教育では、一週間かけて数行の文章を
読む授業が行われるくらいです。焦らず、自分のペースで、
じっくりと思考すること、それが哲学の営みにとって
もっとも重要なことなのです。
そんなことを言うと、次のような疑問を持つ方もいるかも知れません。
「そんなことをして、いったい何の役に立つんだろうか」と。

科学の進化はあるゆる物を簡略して使いやすくしました。
商品の中身を知らなくても電源のオン・オフだけですべてが動き出します。
科学は人間が思考する楽しみを奪ったのです。
我々は自然界の美しい景色を時間の移り変わりの中で、
楽しむことが出来る能力を持っているのです。
ゆっくりと何も考えずにその変化を楽しむことが日本の文化です。

哲学書の答えをすぐに求めるようにしても意味がありません。
哲学書は何度も吟味しながら繰り返し読み進めるのが正しいのです。

「老人と孫」の対話集会でも議題はあるのですが答えはありません。
世代も性別も経験も違う人たちと話し合うのです。
議論し合うことに意義があるのです。まるでギリシャのスタジアムの様に
円形になり自由に意見を交換するのです。ときには大人たちの意見に
孫の意見が重なりたじたじになります。

哲学の英語表記フィロソフィーは「知識を愛する」です。
智慧や叡智を確かめるという事です。
老人たちの言葉は意味が理解できるまでに時間がかかります。
それでも孫たちと話し合うことに意義があるのです。

老人と孫の会場には心地よい風が吹いています。
あなたもその風を感じに来ませんか?
見えない風を探すのです。