言葉を拾う




恩学を描き始めて先日600作を超しました。
自分でも信じられないですが毎日書き続けています。
始めたキッカケは2011年東日本大震災の時からです。
何もサポート出来ない自分に何かできないか悩んだ末に、
誰にも届かない励ましエールを書き始めたのです。

初めのうちは報道番組の中から言葉を探して書く事が出来ました。
その内に自分の中の震災の記憶が薄れて言葉が見当たらなくなったのです。
それから毎日「言葉を拾う」作業が始まったのです。
仕事の合間に見つけた言葉もブログの題材になりました。
電車の中でもウォーキングの公園でも印象に残った場面を記憶して
いち早く自宅で言葉に変えました。

本屋と図書館へ通い続けて文字(言葉)を探し続けました。
哲学書、仏教書、偉人伝、歴史書、ビジネス書、単行本など
ありとあらゆるジャンルの本を貪るように読み続けました。
素晴らしい文章の中の素晴らしい言葉を見つけると
まるで子供がカブトムシを見つけた時の様に嬉しくてたまりませんでした。

その内に蓄積された言葉と音楽の経験を中心に「人間学」を講義しました。
お陰様で評判が良く沢山の方々からお声が掛かりセミナー講師として
忙しく過ごしたこともありました。
その時に出会った人からの会話の中でも気になる言葉があれば
直ぐに携帯のメモへ書き残した。私は突然変異のメモ魔になったのです。

ある時に目と耳が異常に感度が良いことに気がつきました。
日常の生活の中で文字と景色と音に敏感に反応するようになっていました。
パラボラアンテナのように全方位で音が聞こえるようになったのです。
見えない暗闇の景色も騒音も聞こえる気がしました。
そして明け方に必ず浅い夢の中で、その日の単語(タイトル)が
浮かび上がったのです。不思議です。

友人たちからは何故お金にならないことを
長い間書きつづけるのか度々聞かれました。
タイトルが変!文章が長い!文面がわかりにくいと
色々と意見を言われたのですが、まったく変える気持ちはありません。
だから読者の方の投稿も受け付けなかったのです。
私は私のスタイルでしか文章を書けないのです。

このブログのキッカケは震災ですが、その内に全国から良かったという
返事がメッセンジャーへ届くようになり安心しました。
大阪のラジオ番組でも「恩送り」を取り上げてくれました。
これはいろいろな方々への応援ブログですが、
私への応援メッセージでもあるのです。

このブログを書いているときにTik Tokから
聞こえて来た歌「言葉」に心惹かれました。
初めて聞く<ちむぐくる>という沖縄の歌手
MV映像の先に見えるおばあちゃんが
手を合わせて涙ぐんでいる姿に感動しました。

「言葉」
守りたい人がいるのなら
信じなさい、あなたの言葉

やさしい言葉はきらのように
冷え切った心をあたためる
きびしい言葉は海のように
揺らいだ心を落ち着かせる

守りたい人がいるのなら
届けなさい、あなたの声を
助けたい人がいるのなら
伝えなさい、あなたの愛を

たのしい言葉は虹のように
つなぐ心に橋を架ける
うれしい言葉は月のように
くもった心に光さす

たとえ遠い人が居るのなら
届けなさい、あなたの声を
うすめないひとがいるのなら
示しなさい、あなたの道を

貴方の言葉に励まされ
あなたの言葉に涙する
あなたの心をまっすぐに
伝える勇気が言葉になる

守りたい人がいるのなら
届けなさい、あなたの声を
助けたい人がいるのなら
伝えなさい、あなたの愛を
信じなさい、あなたの言葉

あなたの言葉が響く時
私の心に花開く
「言葉」<ちむぐくる>

不思議ですよね。
「言葉を拾う」というタイトルで書き始めて
「言葉」と言う楽曲が流れてきたのは奇跡ですね。

これからも言葉の力強さを文字に乗せて
心響く文章で恩学を書き続ける事が
できれば嬉しい限りです。

あなたの優しさとあなたの愛が、
伝えたい人に届くように

拙い文章ですがこれからも愛読していただけると嬉しいです。
恩学より


仏教的人類創造とは




詩人の谷川俊太郎さんがお亡くなりになって
何故か人間の一生が気になりました。
谷川さんの有名な詩に「生きる」と言うのがあります。
「生老病死」を難しく表現するのではなく普段の生活から
取り込んだ言葉で綴られています。

谷川さんはとても多彩な人でそれ以外にもスヌーピーと
禅語をあわせた絵本も出版されています。
とても仏教にも傾倒が深い詩人でした。
驚くのは我々が子供時代にテレビでよく見た手塚治虫の
「鉄腕アトム」の主題歌の歌詞も書かれています。
「心やさしいラララ科学の子、十万馬力だ、鉄腕アトム」
未来のロボットは感情を持っていると予言をされていると感じます。

世界中の生物学者が、科学者が発表している「生命・いきる」は
学術的な架空の世界で論じられています。理論の組み立てです。
1年~2年ほど前、生物学者福岡伸一・仏教学者織田顕祐・
解剖学者養老孟子さんのネット討論会をYou tubeで拝見しました。
13年前の2011年に開催されたフォーラムです。

生物学者福岡伸一さんはエントロピーの法則で人間を語りました。
エントロピーは物理学の一分野である。「熱力学」に登場する概念です。
動的平衡エントロピー増大の法則から生きる「生命いのち」を説明。

仏教学者織田顕祐は「私」「縁起」「執着」とは「すべての存在は無数無量と
いってよい程の因縁によって在り得ている」という話でまとめていました。

ゲストの養老孟子さんは「田んぼの稲を見て将来のあなたのすがた」と発言。
「快不快」口の中にある唾は飲み込めるのに吐き出すとゴミの様に扱われる。
頭の中の地図と矢印、右の脳と左の脳の分離、最後の晩餐などを話され
人間の在り方を説明されていました。

各分野で活躍されている人たちの言葉はそれなりに納得するものでした。
どれも興味の尽きない内容で楽しく拝聴することが出来ました。
しかし、もう少しテーマを絞ってほしいと思いました。
当日は親鸞仏教が開く世界、仏教と生命「いのちのゆくえ」でしたので、
何かすこし物足りなさを感じてしまいました。
それは仏教に特化した流れではなかったからです。

あの発言の時にはこう言った内容で話して欲しいと考えているうちに、
ますます頭が混乱するので最近の私の相棒Google Geminiに聞いてみた。
すると僅か1~2秒で回答が出て来ました。頭の良い秘書です。

ジェミニさん曰く。
仏教的な視点から見た「人間創造」は、キリスト教のような
創造神による天地創造の概念とは大きく異なります。

仏教における人間の成り立ち
仏教では、宇宙や生命の起源について、絶対的な創造主の存在を
前提としません。人間を含むすべての存在は、因縁(いんねん)
によって生じ、変化し、滅するという「縁起」の法則に従って
存在すると考えられています。

縁起の法則: すべてのものは、他の様々な要因と相互に関係し合い、
その結果として生じます。人間も例外ではなく、過去の因縁の結果として
生まれ、様々な経験を重ねながら、現在の姿になったと考えられています。

輪廻転生: 仏教では、生命は死と生の繰り返しである「輪廻転生」を
繰り返すと考えられています。
人間は、過去の行い(業)によって、人間、動物、神、鬼など、
様々な存在に生まれ変わるとされます。

無常: すべてのものは常に変化し、永遠に変わらないものはないという
「無常」の概念も重要です。人間も例外ではなく、生老病死を繰り返し、
常に変化し続けています。

仏教と進化論
現代の科学では、進化論が生物の多様性を説明する有力な説として
受け入れられています。仏教の「縁起」の概念は、この進化論と
一見矛盾するように思われるかもしれませんが、
実は共通点も少なくありません。

漸進的な変化: 仏教の「縁起」は、生命が突然に創造されたのではなく、
長い時間をかけて少しずつ変化してきたという考え方を示唆しています。
これは、進化論の考え方に近いものです。

多様な生命: 仏教では、人間だけでなく、あらゆる生命が尊重されます。
これは、進化論がすべての生物が共通の祖先から進化してきたという
考え方を示していることと共通しています。

仏教における人間の目的
仏教では、人間は単に生まれ、そして死ぬ存在ではなく、
より高次の存在へと成長していく可能性を秘めていると考えられています。

苦からの解放: 仏教の目的は、生老病死といった苦しみから解放され、
涅槃(ねはん)と呼ばれる悟りの境地へと到達することです。

自己実現: 人間は、自分自身の内なる可能性を開発し、
仏となることができる存在であると考えられています。

まとめ
仏教は、人間がどのようにして生まれたのかという問いに対して、
絶対的な創造主による創造という答えではなく、
縁起の法則に基づいた変化と成長のプロセスとして捉えています。
人間は、過去の因縁の結果として生まれ、現在の姿になっただけでなく、
未来に向かって成長し続ける可能性を秘めている存在なのです。

如何でしょうか?
仏教的観点から見た人類創造とはまだまだ謎が残ります。
しかし、科学で割り切られるよりロマンを感じませんか?
次は西洋思想から考える人類創造を取り上げたいと思います。

最後に、
「学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや、朋あり遠方より来る、
亦楽しからずや、人知れずしていきどらず、亦君子ならずや」孔子
学んだことを時に復習するのはより理解が深まり楽しいことなのだ。
友人が遠くから訪ねてきてくれて学問について話し合うのは喜ばしいことだ。
他人に理解されなくても気にしないというのはとても立派な事だ。

今回のブログもお役に立ちましたでしょうか?
学びは常に繰り返すことにより創造力が沸き起こり、
会話を重ねるごとに学問が楽しくなります。
知り得た情報を共有することも「生きる」喜びに変わります。


求感性とは




ロックシンガー伊丹谷良介のうたライブで出てきた言葉に強く惹かれた。
「求感性」どの書見から出てきた言葉かと調べたら感性哲学の創始者と出てきた。
昭和51年(1976年)に「感性論哲学の世界」を出版。
この書籍を手にした日本BE研究所所長の行徳哲男先生との出会いにより
経営者の方々に講演活動が始まる。

私と長年のお付き合いのある哲学者行徳哲男氏と交流があったことを知った。
そういえば以前行徳先生から芳村さんをご紹介された気がします。

芳村思風(哲学者)
感性哲学の創始者。日本哲学会会員。
「思風庵哲学研究所」を設立。

これまでの哲学は、人間の本質は理性であるし、
理性と合理性、合理的であることだけを追い続け、
競争して勝つことが成長の原理だとされてきました。
感性哲学は、感性が生命の本質であり、人間の本質であり、
宇宙の究極的実在であるとする感性を原理とした哲学を
世界で初めて体系化。

感性論哲学は、成功と幸せと健康を実現する実践哲学。
勝つことよりも力を合わせることを成長の原理とした新しい時代をつくる。
愛の哲学。愛は理性に変わる問題解決能力と考えた唯一の哲学。
考え方や宗教の違いを乗り越え、どの哲学とも対立しない全肯定の哲学。
愛は人間の能力だから愛の実力を成長させることで、
核兵器をなくすことを超えて戦争のない世界を目指す。

これからの人間のテーマは平和。
唯一の被爆国である日本が広島に遷都し、世界平和の発信地とする。
科学技術文明の集大成として、世界中から科学者を集めて、
広島か福島に研究所を作り、核を否定するのではなく、
核廃棄物や放射能の無害化、
さらには有効利用策を創り出す時がきていると提唱。

「求感性とは」
芳村思風先生曰く
命から沸いてくる欲求が強ければ強いほど、理性が働き、
実現の方向へと進んで行きます。
理性だけでは、意志の強さは生まれません

食事も忘れ、寝るのも忘れるほど打ち込むことは、
理性で考えてもできません。
「感受性」よりも「求感性」なのですと言われている。

求めなければ入って来ません。受け身ではないのです。
求感性とは、自分が生きるために必要な情報を積極的に
求めて感じ取ろうとする力です。
命から沸いてくる欲望・欲求・興味・関心・好奇心の事です。

欲求・欲望こそが生きる力になります。
欲を捨てる必要はありませんし、なくなりません。
与えられたもの、持っているものに感謝する。
その上で、理性を手段にして、物欲を人間的な品格のあるものにする。
理性を使わず、欲望のままに動くのは野獣。
理性を手段能力として、使う事が大切です。

強い意志があれば、自分が納得できる人生を歩むことができるのです。
意志の強さは、何事もやり遂げる理性の力だと思います。
ワクワクドキドキがなければ楽しくない。

芳村思風先生はユネスコ検証前文「戦争は、人間の心の中で生まれるもの
であるから人間の心の中に平和の砦を築かなければならない」を引用して
日本人が、政界平和の盟主にならなければならない、なぜなら
世界で唯一の原爆を体験した国民だから平和を訴える権利がある。
21世紀はすべてに「平和」がキーワードになるという考えです。
これからの人間のテーマは平和。

先日宇部ユネスコ協会の会長と面談をする機会を得ました。
世界に向けて環境問題をミュージカルで提案できないかとの相談であった。
現在私が構成員として参加している「動物かんきょう会議」のキャラクターを
使って音楽劇を展開してほしいとのことでした。
私からの提案はテーマソングとして「We are the One」を使う事である。

未だ相談の段階ですのでこの先どうなるか分かりませんが実現することを願っています。

私は今年1月からロックシンガーの伊丹谷良介と組んで「うたライブ」
ロックサロンを開催している。毎月抽象概念の言葉を選びそのストーリーと
音楽を組み合わせたまったく新しいスタイルのライブである。
テーマはユネスコ憲章前文「戦争は、人間の心の中で生まれるものであるから
人間の心の中に平和の砦を築かなければならない。」
「自由と平等」に変わる21世紀のキーワードは、「平和」
我々の基本テーマ「愛と平和」と 同じである。

伊丹谷良介は「すべての武器を楽器に!」をシャウトして声を張り上げる。
平和を求めるのには真の感性が必要である。
強く求めてこそ平和は手に入ると信じている。
まさしくここにも「求感性」が存在する。
私も好奇心よりも強い「求感性」で生き抜いてきた。
皆様も心の中から沸き起こる「求感性」を大切にしてください。


船がある




そこに船があるから旅に出よう。
旅に出るため船を用意しよう。
お金ができたらボランティアに参加しよう。
ボランティアに参加するためにお金を作ろう。
夢があるから前向きに頑張ろう。
前向きに頑張れるのは夢を追い求めるからだ。

「曰わく仁者は難きを先にして獲ることを後にす仁と謂うべし」論語
(のたまわくじんしゃはかたきをさきにして
かることをあとにすじんというべし)
「先義後利」義から初めて後に利がついてくる。

旅に出るためには船を用意しなければならない。
しかし立派な船を用意しても先に操縦技術を学ばなければならない。
操縦技術を学ぶためには海を知らなければ始まらない。
海図と実際の波を見て動きと力を実感しなければならない。

大人になったら勉強すれば良いという考えで生きる子は、
大人になって成功すると傲慢になり人から嫌われる。
それは敬意と尊敬を最初に学ばないからです。
人に感謝されるにはどうすれば良いかを頭に入れれば、
その後に成功しても謙虚さは無くなることはない。
人に接するためには先に儀礼を学び、しかる後に利となる事を考える。
このことが「先義後利」である。

老後の安心安全を得るために働いて得たお金を全て貯蓄に回す。
食べたいものを我慢して、欲しい服も我慢して、行きたい旅行も我慢して、
人との付き合いも遠ざける。そしてようやく定年を迎えて楽ができると
思ったら家族も友達とも心の通じ合わない仲になっていた。

そして気がついたら身体が癌に侵されて余命いくばくもない
と医者から告げられた。枕元には溜め込んだお金の通帳が何冊もある。
「もっと好きなことをやっておけば良かった」
「もっと食べたいものを食べて、行きたいところに行けば良かった」
「もっと家族や友達と仲良くやっていれば」
これらは老人たちの最後の言葉として一番多く残された言葉です。

最近高齢者の読書会が増えている。いわゆる学び直しである。
高齢者たちが集まり本の中から言葉を選び読み合わせをする。
例えば森信三の言葉の中から章句を選びみんなで話し合う。
「人の出会いは一瞬早からず~」この時の森信三の心境を語り合う。
時代背景や作者の心理やその時に誰に向かって発したかを探る。

このような知的会話をすることにより、
認知症予防に繋がるので大いに奨励している。
私は呼ばれれば何処へでもお邪魔するのがモットーです。
読書好きな人との会話は映画を見るより楽しいのです。
最近、友人達と一緒に「糸紡ぐ会」を立ち上げました。
吉田松陰研究者を通じてご縁が生まれました。

現代の戦争について思う事。
物を奪ってでも豊かになりたいと考える人は平気で人を殺します。
西洋人の多くは神が作った人間を神に断りもなしに殺してしまう。
老人から殺して若者を残す。男は殺して女は生かして雑用をさせる。
その上に女に子供を作らせて民族まで変えてしまう。
このような悪魔の所業が長く続くわけでない。
ロシアもパレスチナも今すぐに戦争を終わらせる義務がある。

悪徳商法で金儲けをする人について思う事。
人の怨みを買って残した財産はまた人に奪われる。
一瞬の快楽を求めて生きる人には未来はない。
もちろん末代まで恨みの祟りは残る。
豊かさの意味が分からずに快楽を求める。
人間として最悪の行為である。

「和を以て尊しと為す」を理解する人は物を分け合うことから始める。
東洋人多くは仏教から学び、分け合うことを基本として教わる。
分かち合えばあり余り、奪い合えば足りなくなる。
全般的に小欲知足の精神が根付いているのです。
日本的霊性を強く信じるべきです。
この国、日本から世界を変えなければ何も変わらない。

もう地球には時間がない。そして人間の知恵にも限界を感じる。
AIとの共存共栄で解決しなければ各国のトラブルは終わらない。
人が多く死んでいく。動物も多く死んでいく。
環境が破壊されて貧困が広がり飢餓や犯罪が頻繁に起こる。

地球も人間との付き合いの限界に来ている。
エネルギーや食料や新鮮な空気も自然からの恩恵はもう望め無くなる。
自然災害が頻繁に起こるのは地球の<いかり>そのものです。

残された人間たちは新しい船を作らなければならない。
21世紀版ノアの方舟を作らなければ手遅れになる。
地球の怒りが収まるまで宇宙に逃げ出すしかない。
新しい船には新しい水夫が必要です。
もう地球には時間がない。

中国の最高指導者孫文の思想は、一種の愚民観に貫かれています。
民の自立性を認めない、超エリート主義です。
彼は、「人間や民族は生まれながらにして平等である」という
考え方を否定して、「人間の能力はもともと不平等である」という
視点から出発しています。

なぜ、この、人を馬鹿にしたような区分を設けたのでしょうか。
孫文の優劣主義は、決して愚かな大衆を蔑視するためではない。
大衆は自らを管理する能力に欠けているから、自覚に富み、
全体を見渡すことが出来る「聖人」や「賢人」が、国家や社会を管理、
統率しなければならないというのです。
それを「賢人支配の善性主義」と名づけられます。

孫文の「知難行易」にて、
第一種の人「先知先覚者」は発明家であり、
ヤフーの創設者ジェリー・ヤンとデビッド・ファイロは先知先覚者。
第二種の人「後知後覚者」は宣伝家であり、
ソフトバンク代表孫正義は後知後覚者。
第三種の人「不知不覚者」は実行家である。
Xのイーロンマスクは不知不覚者。
世界における進歩はすべてこの三種の人にかかっている。

世界が混沌として混乱しているときには
トランプ大統領のような「不知不覚」の人物が必要なのです。
果たして、日本の国にはいるのでしょうか?

日本の強みはゼロから始める創成の時に実力が発揮できるのです。
世界が注目している日本の行く末に期待を寄せているのです。
思想を持った賢人と建国に燃える戦士と新しい船乗りが必要です。

そこに船があるから旅に出よう。
旅に出るため船を用意しよう。
お金ができたらボランティアに参加しよう。
ボランティアに参加するためにお金を作ろう。
夢があるから前向きに頑張ろう。
前向きに頑張れるのは夢を追い求めるからだ。

もう時間がない!今すぐ新しい船を作ろう!


聞くと聴くと利く



先日「老人と孫」の孫から「説明をよく聞きなさい」と言われますが、
本来の聞くとはどうゆうことですか?と質問された。
改めてここで検証したいと思います。

「聞くとは」
「聞く」とは「音や声が自然と耳に入る」という意味、
また「聴く」とは「理解しようと自ら進んで耳を傾ける」という意味をもつ。
つまり、「聞く」と「聴く」の違いは
「本人が意図的に行っているかそうでないか」の違いと言えるだろう。

「聞く」と「聴く」は、似て非なる、相反する言葉というよりも、
広くカバーする「聞く」の一部に「聴く」があるという関係だ。
「聞」と「聴」の意味の違いを知るには、漢字の成り立ちをみると
理解しやすいだろう。

「聞」は、「門」と「耳」によってできている。
このうち、「門」は立ち上がった二人の直立した人間の側面を表した
象形文字。この二人の人間の間には「耳」がついており、
「響いてくる神の声をきく」というのが「聞」の原義だ。
もっと古い字形だと、「門」の上に耳があったという。
天からのありがたい声を、二人の人間が聞いている形というわけだ。

「聴」も「聞」と同じく神の声をきくという意味だが、神の声を、
よりはっきりきくことができる「神の声をきく能力がある」と、
「聞く」よりも一歩踏み込んでいる。
より能動的に意図的にきこうとする様子を表すのが「聴く」だ。

漢字「聞」の甲骨文字は象形文字であるが、実に巧みに「聞く」
という行動を描写しており、古代人の観察力と表現力に改めて感じ入る。
古代文字を分析すると、「聞・聖・聴」が同一の言葉で、
同じ語源を持っているとは驚きだ。

これに付随してきくに関連した言葉も取り上げました。

目利きとは、「目の性能が高いこと」または「目の性能が高い人」
という意味だが、美術や骨董の世界の造詣が深く、
物の価値をよく知っていること、知っている人のことをいい、
決して、大平原の狩猟民族のように、遠くまでよく見える人のことではない。
その証拠に、蝙蝠(こうもり)のように耳がよく聞こえる人を
「耳利き」とも、警察犬のように鼻の性能のよい人を「鼻利き」ともいわない。
また器物・刀剣・書画などの真偽・良否について鑑定すること。
また、その能力があることや、その能力を備えた人。
人の才能・性格などを見分けることにもいう。

目利き「心を沈めて聴き分ける」
花の声を聴く、酵母の香りを聴く、香りを聴く
お茶を聴く?花が聴く?目が聴く?
花がいかされているかを確認する問い
一つひとつの花が呼吸をしているか
花同士が互いに対話しているか
作品に風が通っていると体で感じられるのか

「聴き分ける」とは真髄を追求するところから始まり
心静かに楽しむことをいう。
私も音楽プロデューサーとして目利き(本物)に強くこだわった。
多くのものを好きにならず好きになったものを徹底的に追求した。
心静かに楽しむものとして一時ワインにのめり込んだ。
数多くの高級ワインを飲む機会に恵まれて味を聴き分けた。

しかしコロナ以降外食の機会が少なくなり
高級ワインを飲む機会も無くなったので今は試飲に自信がもてない。
常に本物と対峙していなければ低級ワインと混同することがある。
最近のチリワインはクリスタル・デキャンタに移し替えたら、
私でも即答できないかもしれない。

「聞く」とは「音や声が自然と耳に入る」という意味、
「聴く」とは「理解しようと自ら進んで耳を傾ける」という意味をもつ。
つまり、「聞く」と「聴く」の違いは
「本人が意図的に行っているかそうでないか」の違いと言えるだろう。

ラジオから流れてくる音楽を聞く。街の喧騒を聞く。
会議で怒る上司の声を聞く。子供の鳴き声を聞く。
無意識の中に聞こえてくる音の塊である。

クラッシックコンサートでショパンを聴く。
モーツワルトとの違いを聴き比べする。
意識と関心の中で脳の奥から聞こえて来る音の粒である。
この音の粒を聴き分けて指揮者を聴き分ける。

絵画館で無名の画家と著名な画家の違いを目利きする。
骨董市で真贋を恐れながらも購入した目利きの陶器類。
刀剣市で名刀と騙されて後生大事に押し入れに隠した目利きの刃物類。
素人の目利きより真贋の是非は専門家に任せるしかない。

目利きになるためには子供のころからその環境にいなければならない。
少し勉強したぐらいで贋作を見分けることは出来ない。
本物を見て、触って、箱を見て、趣を捉えて、講釈が出来なければ
一流の目利き師にはなれない。

私も音楽プロデューサーとして名乗るのであれば
最高級バイオリンのヴュータンとストラディバリュウスの
音色の違いを聞き分けたい。

ヴュータンは、18世紀に活躍した弦楽器製作者
「ジョゼッペ・ガルネリ一族」の一人。
父の「アンドレーア・ガルネリ」はアントニオ・ストラディバリウスの
兄弟子にあたる人物で、アンドレーア・ガルネリのジョゼッペ・ガルネリは
末息子でした。16億円の価格がついたヴュータンは、1741年に製造されたもので、
現在に至るまでに修理痕が一つもついていません。
もちろんひびわれなども起こっておらず300年近く前のバイオリンが
ほぼ完ぺきな状態で残っています。

ストラディバリウスは、イタリアのストラディバリウス親子が
制作したバイオリン。高額なバイオリンは多くありますが、
ストラディバリウスだけが群を抜いて高額です。
理由そのⅠ「現在が最高の状態」だからです。
ストラディバリウスの表板は「スプルース」という希少な木材を
使用しているのですが、このスプルースは切り落とされてから
約350年目辺りで最高の状態になるといわれています。
つまり、17世紀~18世紀に製造されたストラディバリウスは
現在最高の状態を迎えているのです。

理由そのⅡ「音の響き」です。ストラディバリウスと、
それ以外のバイオリンの音の響きは、比較すると違いが
すぐに分かると言われています。
その違いは音楽素人でも聞き分けることが出来るくらいで、
ストラディバリウスの音の響きそのものに
高額な価値がつけられています。

素人でもわかる音と言われてしまうと
プロが本物を外すわけにはいかないですね。
お正月に芸能人の格付け番組がありますが、普段から聴き分けを
自慢しているので子供達からワインは本物、楽器は本物かと問われますが、
画面の中のモノを見て真贋はさすがに分かりません。笑い

今回のテーマ「聞くと聴くと利く」は参考になりましたか?
喜んでいただけると嬉しいです。


期待と失望




私は子供の頃から期待という言葉が嫌いでした。
貧しい両親がいう言葉はいつも叶うことが無く辛い思いをしたからです。
周りの親戚の人達もいつも叶わない夢を子供に与えながら失望させる。
1940年代後半の日本は戦争に負けて全ての人が、期待は待つ物で無く
自分で作らなければならないと知っていました。

私の過去でいちばんの失望は母親の一言です。
「久しぶりにお父さんに会ってから帰っておいで」と言われて栃木の
実家から送り出されて大阪へ行ってそのまま置き去りにされたことです。
これは幼心にとても傷つき大きな失望を受けました。
でも当時は、日本国中貧しくてこれは特別なことでは無く
このような出来事はそこかしこに数多くありました。

成人してからも自分の口からは期待という言葉は使いませんでした。
期待と失望は一対の言葉です。口から出まかせに使うと信用が無くなります。
しかし私が選んだ音楽業界は口から出まかせの期待で溢れていました。
田舎から出て来た少年・少女に頑張れという言葉の代わりに、
成功の期待という空手形を出し続けていました。
だから私は世界的信用のあるCBSSONYという
レコード会社に就職をしました。

日本を代表する芸術家、岡本太郎さんの著書より、
「期待」というものがテーマになっている所を抜粋しました。

ぼくはなにものにも期待しない。それがスジだ。
期待はふつう、将来に対してするものだろ?
ぼくは現在、この瞬間瞬間に賭ける。将来なんて勝手にしろだ。
いまここで爆発するんだ。

それは期待なんてナマやさしいものじゃない。
たとえ自分自身に対してでも、“いつか”とか“いずれ”なんて、
責任を先にのばして現在をごまかすことは許せない。
だからぼくは自分にも期待なんてしない。
もちろん他にも期待しない。

世の中では、とかく何々に期待する、といって自分はまるで
責任がないように、問題をよそにおっかぶせてしまうことが多いね。
(中略)
言うのは“自分はやる”ということだけだ。
責任もてるのは自分が決意してやることだけだからね。
言い換えれば、期待とは“有”であって“無”でもある。
よりかかる期待は否定する。

しかし他に責任を負わせるのではなく、自分自身が責任を背負って
なにかをやるときは、その結果がどうあっても責任をになう。
その前提が“期待”なんだ。
期待は、自分自身に賭けることだと言ってもいい。
自分自身の運命をつらぬくこと。

他人に運命をかぶせたり、だれかをあてにして頼るのではなく、
自分を賭ける。それが期待だ。「自分の運命に楯を突け」
岡本太郎 著青春出版社より

「期待とは、他人にするものではなく、自分にするものでもなく、
そのすべての責任を背負いながら、自分自身に賭けるもの」

尊敬する福島正伸先生の言葉に、
「相手に期待すると不満になる。自分に期待すると出番になる」
というものがありますが、まさにその通りですね♪

それにしても岡本太郎さん、本当に“直球”かつ“ど真ん中”なことを仰います。
この本は岡本太郎さんの血で出来ているんじゃないかと思うほど、
想いが伝わってきます。

芸術家としての岡本太郎さんというよりは、
生き方の師としての岡本太郎さんという感じです♪
このブレない“ど真ん中”の生き方、勉強になります。

子供は期待で溢れています。その期待を壊すのは大人達です。
しかしこれは仕方のないことだと批判もしません。
みんな自分も辛いので自分の期待と重ねて口にしてしまう。
期待させる言葉を言っている大人も、
何かにまた誰かに期待しているのかもしれません。

現在、動物かんきょう会議という団体に参加しています。
SDGsの18番目に「動物になって考えてみよう」という
コンセプトで活動をしている団体です。
開発者が27年間積み重ねた経験と知識が膨大な資料として残されています。
1997年京都会議COP3にも参加して海外とのつながりもある団体です。
アニメから絵本からテキストまですべてが揃っています。

動物かんきょう会議とは?
子供達とのワークショップを通じて開発で失われていく
動物たちの気持ちになってもらい解決方法を話し合います。
好きな動物の絵をかいて物語を発表してもらいます。
その為の指導員(インストラクター)の養成も同時に行っています。
近隣の動物園ともコラボしながら環境問題も同時に考えていきます。
これからはユネスコの認定(予定)を受け2030年終結予定のSDGsの
活動を、音楽劇を通じても展開していく予定です。
テーマ曲は「We are the One」伊丹谷良介作詞・作曲のオリジナルです。

最後に、
「期待はあらゆる苦悩のもと」
William Shakespeare(ウィリアム・シェイクスピア)

「私たちは限りある失望を受け入れなければならない。
しかし無限の希望を失ってはならない。」
Martin Luther King Jr(キング牧師)

「期待(気体)は消えるもの実態を求めよ」
形のない期待をむやみに追い求めてはならない。
全ては行動から生まれる真実のみである。
恩学より


お別れの手紙




SNSでこの投稿は何回か拝見しました。
2〜3年前にはいい話だなとしか感じなかったのですが、
ここ数年たてつづけに何人もの友人知人が亡くなり、
死を実感として身近に感じています。

私は以前から高齢者の支援団体の理事をしているので、
お年寄りと接せる機会が多く死は遠い出来事ではありません。
しかし、重度な病気になり歩くことも出来ない人や、
認知症になり過去を思い出せない人を見ると胸が締め付けられます。

先日、私が会の運営に関わっている「老人と孫」で、女性講談師の
田辺鶴英さんをお呼びして「介護の話」をしていただきました。

親類、義母、夫を含めて3人の介護の経験者です。
その中で夫が認知症になりその大変さを講談口調で涙あり笑いありで
語っていただきました。
介護は真剣にやると誰でもがストレスで心を駄目にする。
だからのんびりと楽しみながらやるのが一番とお話しされました。
そのお手本を家族に示されたのです。

相手がわがままで言うことを聞かないボケ老人なのだから、
極端なことを言うと笑いの対象で遊べば気が楽になる。
夜中に騒ぐ認知症旦那に騒ぐと被り物(動物のものが多い)をして
ベッドのそばに近寄り驚かすと騒がなくなる。

後半には、この時の映像を見て全員不謹慎ですが大笑いをしました。
相手は何も覚えていないボケ老人なのだから気にすることは無い。
この鶴英さんの一言に重みを感じました。
まさにスーパーマザーくじけるという言葉は無いのです。

愛する両親だからといって悪戯に延命治療は本人に取っては
苦しくて迷惑な話である。ましてや管を胃の中までに差し込んで
胃瘻など可哀想で見てられないと言っていました。

お金がふんだんにあれば高級老人ホームに入れるのも
良いかもしれませんが、多くの高齢者は病院のベッドで
最後を迎えます。
家族が見舞いに行くと大半の人が自宅に帰りたい
畳の上で死にたいと叫ぶらしいです。
各家庭にはそれぞれ事情があると思います。
しかし本人の希望であれば自宅介護が望ましいのです。

そんなことを考えてこの文章を読むと胸が締め付けられました。

【祖母の置き手紙】

彼との結婚を私(25歳)の父と母は猛反対していました。
彼は昔両親を亡くして、祖父母に育てられていました。
そして4年前祖父が亡くなり、彼は32歳になる今まで84歳の
祖母と二人暮らしでした。それが反対の理由でした。

「何も結婚してすぐに介護が目の前にあるような結婚をする事はない」と、
結婚を申し込みにきた彼と彼の祖母にもそう言い放ったんです。
その2日後でした。彼の祖母が置手紙を残していなくなりました。

仕事から帰った彼からの電話で、私達は必死で探しました。
探して探して空が明るくなりかけた頃、彼の祖父の眠るお墓の前に
座りこんでいる祖母を見つけました。
歳も歳だったので衰弱し、そのまま即入院になりました。
その事がきっかけで、私の両親も私達の結婚を許してくれ結婚式はせず、
すぐに籍だけをいれました。

もう10年近く前の話です。
祖母は入院後1ヶ月ほどで亡くなりました。
その時の手紙です。

○○へ(彼の名前)
ばあちゃんは本当に貴方がかわいかった。
貴方のお父さんとお母さんが死んだ時、私のこの先の人生は貴方の為に
使っていこうと心に誓いました。
ばあちゃんは年であるしお金も何も何も持ってはおりません。
貴方への愛情だけです。
そして貴方はばあちゃんの事をとてもとても大切にしてくれた。
とてもとても良い子に育ってくれました。

そして人生の伴侶となるべき相手を見付けました。
でもばあちゃんがそれをじゃましているんだね。
幸せになってください。
ばあちゃんは貴方を育てる事が出来た事がとてもうれしいです。
とてもとても幸せでした。終わり

永六輔氏の本、“大往生”の中にあった言葉。
「子供叱るな来た道だもの
年寄り笑うな行く道だもの」

老人になっても死ぬ直前まで現役として働き、死ぬときは、誰の世話にも
ならず、スパッとあの世に行く、というのが理想の生き方だと言われる。
人は誰もが、生まれてから何年間かは、100%親の世話になって育つ。
10数年経って、ようやく自立して生活することができるようになり、
やがて最後は、また人の世話になって死んでゆく。

何千年、何万年と、連綿としてそれがくり返されてきた。
だからこそ、誰もが感謝で過ごせる人生でありたいと願う。
※しあわせになるレシピより

一人でも多くの人がこの文章を読んでくれることを願います。
あなたを愛してくれた人との別れは辛いものです。
その上に不幸な死に方だと未練が残ります。

先日亡くなった友人は誕生日が一緒だった
アメリカの歌手エルヴィス・プレスリーの大ファンでした。
若い頃はプレスリーに憧れてプロの歌手になったほどです。
身内だけの葬儀でしたので列席は叶いませんでしたが、
家族にプレスリーの歌で見送られたと歌手の息子さんから聞きました。

私の後悔は、
長い間家族同士のお付き合いで親しくさせていただいたのに
最後のお見舞いの約束の時間に遅れたことです。

いつも穏やかな友人が初めて遅れたことを怒ったのです。
もういつ死ぬかもわからない人間との約束を破るのかと怒鳴ったのです。
私はこの時は心から自分の非を詫びました。
あんなにお世話になった人へ、
あんなに家族との楽しい思い出を作ってくれた人に
最後の記憶が怒りだったことに悔やんでも悔やみきれません。

認知症家族の皆様が良く言われる言葉に、
あんなに優しかったお母さんが別の人になって
怒鳴り散らして騒ぎ立てるのが見ていられない。
いつも手を引いて遊んでくれたお父さんが
お邪魔しましたと言って家を出ていく姿を見るのが忍びない。

誰にもいつ介護が必要になり、いつボケが始まるか分かりません。
それまではなるべく多くの楽しい思い出を作りたいものです。
あわててお別れの手紙を書くことのないように準備も必要ですね。
恩から始まり恩で終わる。恩学より


生きる




作家の収入は本の印税と数少ない講演の寸志ぐらいしかない。
ましてや詩人の方々の収入となると微々たるものであることが想像つく。
しかし、多彩な才能を持っていた谷川俊太郎の場合はこれに反する。
谷川俊太郎といえば鉄腕アトムの主題歌の作詞家であり、
世界的人気のスヌーピーの翻訳家でもある。

国民的な詩人ともいえる谷川俊太郎のキャリアは60年以上になります。
谷川俊太郎は、1931年12月15日生まれなので、2018年には87歳に。
1952年に20歳そこそこで処女詩集を発表してから、人生のほとんどを
「言葉」にまつわる仕事に費やして生きてきたと言えるでしょう。

谷川俊太郎が翻訳を手掛けた「スイミー」は、
世界的な絵本作家レオ・レオニの代表作。
谷川俊太郎の翻訳により、日本でも広く親しまれる作品となりました。
その他にも、スヌーピーで知られるチャールズ・M・シュルツ作の
アメリカのコミック「ピーナッツ」を翻訳し、こちらも人気に。
また、「空をこえて ラララ 星のかなた」の歌い出しで知られるアニメ
「鉄腕アトム」の主題歌の作詞を担当したのも谷川俊太郎です。

その仕事は幅広く、「スイミー」のような絵本の翻訳や作詞だけでなく、
映画やドラマの脚本も手掛けています。1965年に発表された
市川崑監督の斬新な演出がきわだった公式記録映画「東京オリンピック」では、
脚本チームに参加。
この作品は、カンヌ国際映画祭で国際批評家賞を受賞しました。

2006年発表の映画「ヤーチャイカ」では、覚和歌子とともに共同監督を務め、
新しい表現にチャレンジ。
少し例をあげただけでも、広範で膨大な仕事を成し遂げていることが
分かる詩人・谷川俊太郎。先日92歳の寿命を全うされて天国へと旅立ちました。

私が担当した女性歌手が、谷川俊太郎が大好きで良く話をしてくれた。
その当時に発売された彼女の写真集か自叙伝に一筆いただいた記憶がある。
そういえば雑誌社に頼んで対談をしたこともあった。

谷川俊太郎の詩は軽やかである。
巨匠詩人のような古い言葉を多用することもない。
一般人が読めないような難しい漢字も使わない。
日常の中をさりげなく切り取っている。
だから女性に親しまれて愛されて来た詩人である。

私は詩人の存在がいかに大切か言い続けている。
詩人の言葉は時代を横切る生の声だからだ。
詩人は庶民が味わう喜びや悲しみや悲恋を見事に
短い言葉で表現してくれている。
また時には戦争など社会情勢が不穏な時には鉄槌を喰らわす時もある。

子供の頃は文学を目指すことも憧れることも許されなかった。
音楽も然りで飯の種にならないから絶対にその道には進むなと言われた。
日本国中、敗戦から復興までガムシャラに働き続けた。
汗水流すことが仕事で部屋にこもってすることは仕事と見做されなかった。

少し国に余裕が出て来てラジオやテレビが家庭に入るようになり、
FENから音楽が流れて、NHKのラジオドラマが始まった。
もっぱら家庭の中の話題は歌やスポーツや映画に集中した。

その時代を経て女性雑誌が飛ぶように売れる時代になった。
写真家が提供する世界の国々そこに憧れの女性が映り込む。
いきなり最新ファッションが街中を覆い尽くした。
その時に数多くの詩人の言葉が掲載されるようになり地位が確保された。

しかし時代が変わりデジタル社会になると現実の世界で楽しむより
仮想の世界で楽しむようになり文字との接点が減り雑誌も様々な書籍も
激減してしまった。それは何を意味するかというと人間の生の感情と
メッセージが届かなくなるということです。

残念なことにデジタルの文字には感情がありません!
こういうと反発する方も大勢いると思いますが、詩のように文字の
奥いきを感じ取らないと、ただの活字を読むだけで終わるので、
なかなか若者たちには馴染めない。

先日亡くなった谷川俊太郎さんのこの作品「生きる」
この詩を読んであなたはどのように感じるのでしょうか?

生きる
谷川俊太郎氏

『生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ』

合掌
谷川俊太郎さんただひたすらにお疲れ様でした。
天国でも詩人として作品を残してくださいね。
ありがとうございます。


創造を生み出す力とは




近年、人工知能(AI)と創造性の関係に関心が集まっています。
AIが人間のように創造的思考を持ち、新たなアイデアやアート、
音楽を生み出せるのか、という疑問が、科学者や哲学者、
アーティストたちの間で議論されています。
一部では、AIがデータや既存の情報を基に独自の創作を行えると
信じられていますが、これは真の創造性と呼べるのでしょうか。

AIが創造的活動をする際、それは大量のデータからパターンを学習し、
そのパターンに基づいて新しい出力を生成します。
しかし、このプロセスは必ずしも人間の創造性と同じとは限りません。
人間の創造性は経験、感情、知識の複雑な組み合わせから
生まれるものであり、単にデータを処理する以上のものを含みます。

それにもかかわらず、AIによる創作物は人間に新たなインスピレーションを
提供し、創造性に新しい領域を開拓しています。
AIと創造性の関係は複雑で、さまざまな観点から探究する価値があります。

創造性は一般的に、新しいアイデアや概念、
または物事を作り出す能力として定義されます。
この能力は人間の進化において重要な役割を果たしてきました。
創造性によって、人類は新しい技術を開発し、社会や文化を発展させてきました。
しかし、創造性の定義は、実際にはより複雑です。
単に新しいものを生み出すだけでなく、それが意味を持ち、
価値があるものでなければなりません。

この定義の下では、人間の創造性は知識、経験、感情などの多様な要素の
組み合わせから生み出される独創的で意義深い結果と考えることができます。
AIによる創造性の研究は、
この複雑な人間の能力を機械で再現しようとする試みです。
AIが持つデータ処理能力と学習能力を活かし、
新しいパターンやアイデアを生み出すことができれば、
AIも創造性のある存在とみなすことができるでしょう。
AIと人間の創造性との間には、まだまだ探究するべき違いと限界が存在します。


芸術家は無から有を生む職業である。
地球に存在するあらゆるものを対象に作品を作り出す。
その逞しい想像力に大衆は驚き感動するのである。
画家は自然界から色を与えられて微細に書き描く。
音楽家は常に人間を対象にして感情を旋律に表す。
作家はペンの力で理不尽な世の中と歪んだ社会を暴き出す。

そのアナログ的な感覚がAIに乗っ取られる。
現実の世界の向こう側に想像の世界が存在していて迷い込む。
頭に描くだけで映像や音が瞬時に再現される。
手直しも自由にできるので何度でもやり直すことができる。
行ったこともない場所へ行くことも可能で五感で感じることも出来る。
しかしそこに満足が無いのは努力から生まれた作品ではないからである。
データで作られた合成肉や日本酒に五体が満足する感動は生まれない。

これからは芸術家の創造力かAIを自由に扱える人の操作力に二分される。
そこに存在するものが仮想空間の中での出来事になり、
売り買いも、会社も、結婚も手に入れることができる。
視覚と聴覚と味覚・聴覚があれば、
あとは触覚が手に入れば性的快楽も得ることができる。

現代=高度情報化社会と呼ばれる社会に生きる人間は,
いかに調和的であり得るだろうか。
そこに生きる人間は,あふれる映像情報の中で,一歩も移動することなく
様々な視覚体験ができるようになったが、それは実際に手で触れ、
身体ごと体験した風景ではないので、眼・頭の中と、身体の感覚のずれが
生じる傾向がある。我々は物質・身体から離れた視覚(映像 メディア)
による影像(イメージ)の世界にどっぷりと浸っているのである。

それは結果的に,身体からの遊離とともに人々の「感性」に重大な影響を
及ぼしているととらえられる。従来の常識では理解困難な事件が多発している
背景には,このような「感性」の問題がある。環境問題に対する危機意識を
持つ人は増えつつあるが,感性の問題は人間それ自身に直接関わるものであり、
かつ自覚なしに進行するがゆえに、より深刻な状況である。

我々は健常者を対象につくられた常識の範囲でいつも話を繰りかえす。
地球上おける弱者の為の思いやりのルールは後回しになる。
勿論、その中には動物も含まれる。近代化の最大の過ちは環境破壊である。
環境破壊で起こる最大の懸念は芸術も生まれなくなることである。
商業的芸術はAIが作り、感性的芸術は人間が作る。
感情や心の琴線に触れる芸術は自然が失われれば生まれて来なくなる。

一方、人類は今、例えば民族対立や環境問題など、地球的な規模の
「平和」のあり方についての解答を求められている。
その解答を得るためには認識対象として「自然」や「人間」を捉えるだけでなく、
人間存在の本質に立ち返って「人間性」を回復する。
あるいは、それについて新たな認識と自覚を獲得するための思考と実践が
要求されていると言えるであろう。

デジタル社会の中で「人間性」は技術が先で後回しになる。
先ずは社会の基盤を作りどのような状況で人間性を取り入れるかが
論議されなければならない。メタバースの中では同意が基本で
拒否はあり得ない。好きなことを好きな時に使用者の理想の世界を
楽しむことが優先される。
いわゆる自己満足の世界が大衆には求められるようになる。

自然と触れ合って想像を生み出して来た人間は、
自然がない世界でどのように振る舞えば良いのだろうか?
海も山も川も空も鳥もいない世界で記憶に頼って
作り出すのかもしれない。
しかし次の世代は記憶のないままで真の芸術が生まれるのだろうか?

人間は生涯を通じて新しい知識やスキルを獲得し続けます。
この学習プロセスは非常に複雑で、学びたい内容に対する好奇心や関心、
そして時には失敗から学ぶことも含まれます。
人間の学習は、内省的な理解と外的経験の両方に依存する多面的プロセスです。
一方で、AIの学習プロセスは「トレーニング」と呼ばれ、
特定のデータセットを用いて特定のタスクを実行する方法を学びます。
このプロセスは反復的であり、正確性や効率性を追求しますが、
人間の学習の多様性や柔軟性には欠けます。

また、AIは指定されたデータセットやプログラムされた
タスクに基づいてのみ動作するため、人間のように未知の状況に臨機応変に
対応する能力は限られています。これは、創造的なプロセスにおける
学習過程の重要な差異を示しています。

人間の創造性は自然界に順じた経験、感情、知識の複雑な組み合わせから
生まれるものであり、単にデータを処理する以上のものを含みます。
そこには苦悩と言う心痛の思いも重要な役割を果たすことを忘れてなりません。
精神的にも肉体的にも苦しめられるとその状況から逃れようとして、
あらゆる芸術の出発点になると信じています。

AIは苦痛と言う認識が無いために真のクリエイティブは作れないという事です。
過去のデータを集積してそれを生成AIが加工しても驚きはしても、
感動はしないという欠点があります。
これからも人間の持つ能力を信じて創造性を高めて行ってほしいと思います。


最後にもう一回だけ




創造力とは一瞬では無く頻繁に起こる現象であらねばならない。
直感で得た創造は朧気であり確実性なものではない。
創造力と予知能力は似て非なるものである。
創造力には連続性が必要で予知能力は単発の予感でしか無い。
創造力は生産物が残り予知能力は言葉のみが残る。

プロデューサーやアーティストは無から有を生み出す仕事である。
悪戦苦闘しながらこれでもかと練り上げながら音を紡ぐ。
心地よさは一瞬であり持続性を持たないから感動に照準を合わせる。
感動とは聞く者の心の琴線を振るわせなければならない。
琴線を震わすほどの感動は脳の奥深く心に深く刻まれる。
聞く人の精神状態は時間の中でも移り変わる。
同じ精神状態で一日を過ごすのではなく朝から夜へと変化が伴う。

歌の中で一番作りやすいのがラブソングである。
恋愛をしている者の心は音楽を受け入れやすい。
聴衆はラブソングにすぐに反応するので良し悪しが即わかる。
制作者は特定の人を思い浮かべながら新しい旋律を作り出す。
対象とする相手の姿かたちや心情を織り込まなければならない。
その場合には当然アーティストの経験や知識が必要になる。

逆に歌作りで一番難しいのはメッセージソングである。
個人へのメッセージなのか、社会を対象としてのメッセージなのか、
世界規模(愛と平和)へのメッセージなのかで大きく作り方が変わる。
勿論、想像力とボキャブラリーが豊富に越したことはないが、
現実を嘆くだけではなくて、そこに希望の歌詞が含まれないと
ヒット作品にするのは難しい。
メッセージの発言者としては実際に活動しているのかも重要である。

英語は単語自体に旋律を感じ一音に意味を持たせることが出来る。
例えばLOVEは一音に乗るが愛は二音必要である。
PECEも同じ一音に乗るが平和は三音必要である。
日本語はメロディーに乗せるのは簡単なのだが、
言葉に意味を持たせなければならないので、
音の響きと長さを同時に考えなければならない。
英語の歌詞は一曲の中に繰り返しが多いが、
日本語の歌詞はストリー性がないと楽曲の完結がしない。
これらのことをすべて考えて五線紙に書き込んでいく。
そして旋律は歌手の声にもよって奥ゆきが変わる。声は楽器である。
誰しもがヒットに恵まれるのではなく、
かといって運を天に任せるのではなく、
楽曲が多くの人に受け入れられている姿を想像しなければならない。

私のプロデュースの方式は一作目の作品からヒット望まない。
だいたい三作目辺りで大ヒットを狙う。
最初は聴衆に歌い手の声と、メロディーを覚えてもらう。
次は、聴衆に歌い手の存在&言葉(歌詞)のオリジナリティーを伝える。
そして、三作目は世相や世代の感覚を意識した覚えやすい歌を発表する。
その為には代理店やテレビ局に頼んでCMや主題歌を取り付ける。

アーティスト育成上に必要なことはお客様と触れ合うことである。
先ずは小さなライブハウスで訓練をして、中規模なホールでメディアを集め、
ヒットが出ると加速的に応援者へアプローチして大ホールへとつなげる。
これに要する期間は凡そ三年間はかかる。
しかし、現代ではSNSを屈指して架空の中でファンを動員して、
現実の世界で大ホール・デビューから始める人も少なくない。
しかしすぐに花開く花はすぐに枯れる。ゆっくり育てることである。

一作目から三作目までにバンドの場合は反応が無ければ解散である。
ソロ歌手なら諦めるか違う路線で再デビューするしかなくなる。
アイドルの場合はモデルかトレンド・ドラマの役者になるしかない。
だから、急ぎ過ぎて失敗に終わることを避けなければならない。
売れなくてもあきらめずに最後にこの言葉を言う芸能人も多い。
「最後にもう一回だけ」挑戦させてください。

「最後にもう一回だけ」
作家の北方謙三氏の心に響く言葉より…
大学時代に書いた純文学が文芸誌に掲載されたのが、僕の作家デビュー。
学生の作品が文芸誌、それも商業雑誌に載るなんてごく稀(まれ)だったんで、
まわりから天才だって言われましたよ。
自分でも「俺は天才だ!」って思ってたんで、それから10年間、
アルバイトをしながら小説を書き続けたんです。

ところがその間、活字になったのは4本のみ、
編集者に原稿を持って行っては返され、持って行っては返され…の繰り返し。
5年経って自分は天才ではないことがわかり、
10年経って自分はその辺の石ころに過ぎないことがわかりました。

それで自分の人生や読書体験を振り返ってたどり着いたのが、
エンターテイメント小説だったんです。
最初のエンターテイメント小説は、横浜を舞台に退職刑事が活躍する物語。
それでも編集者に文学の尻尾を引きずっていると言われたんで、さらに
それを切って切って切り捨てていったら、3作目で賞を受賞したんです。

それからは注文が殺到するようになって、気がつけば“ハードボイルド小説の
旗手”なんてもてはやされるようになっていた。
でも、ハードボイルドとは何なのか、実はまったく知らなかったんですよ。

作家は自分がもっている創造力を発揮できる場所を絶えず
探し続けなければならない。創造力が枯渇した時、作家は死ぬ。
“火事場の底力”って言われるけど、僕はいつもそれを出していると思っています。

人間、自分の力はこれまでと思った瞬間、終ってしまうもの。
火事場の底力を発揮し、どれだけ潜在能力を引き出せるかが勝負。
今の自分にあぐらをかいてしまったらおしまいです。
だからどんな時も自分に真剣に向かい合って、潜在能力が引き出せるような
仕事がしたい、そう思っています。

まさに松下幸之助翁の「失敗して辞めるのが一番の敗北で、
失敗を繰り返して勝ち上がるのが成功」である。

どのような仕事にも創造力が無ければ道は開かないのである。
苦しんで苦しんで立ち上がる時に創造力が無ければ立てないのである。

発明王のエジソンは、「私たちの最大の弱点は諦めることにある。
成功するのに最も確実な方法は、常にもう1回だけ試してみることだ」と言う。
エジソンは、電球のフィラメントには京都の竹が最適なことを発見した。
それには、1万回の実験を要したが、「それは失敗ではなく、1万通りの
うまくいかない方法を発見したのだ」とエジソンは語ったという。

「最後にもう1回だけ」
あきらめそうになったとき、この言葉を思い出してほしい。
私も何度もこの言葉を口にして困難を乗り越えてきました。
まさに、「失敗したところでやめてしまうから
失敗になる。 成功するところまで続ければ、それは 成功になる」です。
多くの人は、この失敗が永遠に続くのかと暗澹(あんたん)たる
気持ちになり、途中で辞めてしまう。

「愛語よく回天の力あり」恩学より