期待と失望




私は子供の頃から期待という言葉が嫌いでした。
貧しい両親がいう言葉はいつも叶うことが無く辛い思いをしたからです。
周りの親戚の人達もいつも叶わない夢を子供に与えながら失望させる。
1940年代後半の日本は戦争に負けて全ての人が、期待は待つ物で無く
自分で作らなければならないと知っていました。

私の過去でいちばんの失望は母親の一言です。
「久しぶりにお父さんに会ってから帰っておいで」と言われて栃木の
実家から送り出されて大阪へ行ってそのまま置き去りにされたことです。
これは幼心にとても傷つき大きな失望を受けました。
でも当時は、日本国中貧しくてこれは特別なことでは無く
このような出来事はそこかしこに数多くありました。

成人してからも自分の口からは期待という言葉は使いませんでした。
期待と失望は一対の言葉です。口から出まかせに使うと信用が無くなります。
しかし私が選んだ音楽業界は口から出まかせの期待で溢れていました。
田舎から出て来た少年・少女に頑張れという言葉の代わりに、
成功の期待という空手形を出し続けていました。
だから私は世界的信用のあるCBSSONYという
レコード会社に就職をしました。

日本を代表する芸術家、岡本太郎さんの著書より、
「期待」というものがテーマになっている所を抜粋しました。

ぼくはなにものにも期待しない。それがスジだ。
期待はふつう、将来に対してするものだろ?
ぼくは現在、この瞬間瞬間に賭ける。将来なんて勝手にしろだ。
いまここで爆発するんだ。

それは期待なんてナマやさしいものじゃない。
たとえ自分自身に対してでも、“いつか”とか“いずれ”なんて、
責任を先にのばして現在をごまかすことは許せない。
だからぼくは自分にも期待なんてしない。
もちろん他にも期待しない。

世の中では、とかく何々に期待する、といって自分はまるで
責任がないように、問題をよそにおっかぶせてしまうことが多いね。
(中略)
言うのは“自分はやる”ということだけだ。
責任もてるのは自分が決意してやることだけだからね。
言い換えれば、期待とは“有”であって“無”でもある。
よりかかる期待は否定する。

しかし他に責任を負わせるのではなく、自分自身が責任を背負って
なにかをやるときは、その結果がどうあっても責任をになう。
その前提が“期待”なんだ。
期待は、自分自身に賭けることだと言ってもいい。
自分自身の運命をつらぬくこと。

他人に運命をかぶせたり、だれかをあてにして頼るのではなく、
自分を賭ける。それが期待だ。「自分の運命に楯を突け」
岡本太郎 著青春出版社より

「期待とは、他人にするものではなく、自分にするものでもなく、
そのすべての責任を背負いながら、自分自身に賭けるもの」

尊敬する福島正伸先生の言葉に、
「相手に期待すると不満になる。自分に期待すると出番になる」
というものがありますが、まさにその通りですね♪

それにしても岡本太郎さん、本当に“直球”かつ“ど真ん中”なことを仰います。
この本は岡本太郎さんの血で出来ているんじゃないかと思うほど、
想いが伝わってきます。

芸術家としての岡本太郎さんというよりは、
生き方の師としての岡本太郎さんという感じです♪
このブレない“ど真ん中”の生き方、勉強になります。

子供は期待で溢れています。その期待を壊すのは大人達です。
しかしこれは仕方のないことだと批判もしません。
みんな自分も辛いので自分の期待と重ねて口にしてしまう。
期待させる言葉を言っている大人も、
何かにまた誰かに期待しているのかもしれません。

現在、動物かんきょう会議という団体に参加しています。
SDGsの18番目に「動物になって考えてみよう」という
コンセプトで活動をしている団体です。
開発者が27年間積み重ねた経験と知識が膨大な資料として残されています。
1997年京都会議COP3にも参加して海外とのつながりもある団体です。
アニメから絵本からテキストまですべてが揃っています。

動物かんきょう会議とは?
子供達とのワークショップを通じて開発で失われていく
動物たちの気持ちになってもらい解決方法を話し合います。
好きな動物の絵をかいて物語を発表してもらいます。
その為の指導員(インストラクター)の養成も同時に行っています。
近隣の動物園ともコラボしながら環境問題も同時に考えていきます。
これからはユネスコの認定(予定)を受け2030年終結予定のSDGsの
活動を、音楽劇を通じても展開していく予定です。
テーマ曲は「We are the One」伊丹谷良介作詞・作曲のオリジナルです。

最後に、
「期待はあらゆる苦悩のもと」
William Shakespeare(ウィリアム・シェイクスピア)

「私たちは限りある失望を受け入れなければならない。
しかし無限の希望を失ってはならない。」
Martin Luther King Jr(キング牧師)

「期待(気体)は消えるもの実態を求めよ」
形のない期待をむやみに追い求めてはならない。
全ては行動から生まれる真実のみである。
恩学より


お別れの手紙




SNSでこの投稿は何回か拝見しました。
2〜3年前にはいい話だなとしか感じなかったのですが、
ここ数年たてつづけに何人もの友人知人が亡くなり、
死を実感として身近に感じています。

私は以前から高齢者の支援団体の理事をしているので、
お年寄りと接せる機会が多く死は遠い出来事ではありません。
しかし、重度な病気になり歩くことも出来ない人や、
認知症になり過去を思い出せない人を見ると胸が締め付けられます。

先日、私が会の運営に関わっている「老人と孫」で、女性講談師の
田辺鶴英さんをお呼びして「介護の話」をしていただきました。

親類、義母、夫を含めて3人の介護の経験者です。
その中で夫が認知症になりその大変さを講談口調で涙あり笑いありで
語っていただきました。
介護は真剣にやると誰でもがストレスで心を駄目にする。
だからのんびりと楽しみながらやるのが一番とお話しされました。
そのお手本を家族に示されたのです。

相手がわがままで言うことを聞かないボケ老人なのだから、
極端なことを言うと笑いの対象で遊べば気が楽になる。
夜中に騒ぐ認知症旦那に騒ぐと被り物(動物のものが多い)をして
ベッドのそばに近寄り驚かすと騒がなくなる。

後半には、この時の映像を見て全員不謹慎ですが大笑いをしました。
相手は何も覚えていないボケ老人なのだから気にすることは無い。
この鶴英さんの一言に重みを感じました。
まさにスーパーマザーくじけるという言葉は無いのです。

愛する両親だからといって悪戯に延命治療は本人に取っては
苦しくて迷惑な話である。ましてや管を胃の中までに差し込んで
胃瘻など可哀想で見てられないと言っていました。

お金がふんだんにあれば高級老人ホームに入れるのも
良いかもしれませんが、多くの高齢者は病院のベッドで
最後を迎えます。
家族が見舞いに行くと大半の人が自宅に帰りたい
畳の上で死にたいと叫ぶらしいです。
各家庭にはそれぞれ事情があると思います。
しかし本人の希望であれば自宅介護が望ましいのです。

そんなことを考えてこの文章を読むと胸が締め付けられました。

【祖母の置き手紙】

彼との結婚を私(25歳)の父と母は猛反対していました。
彼は昔両親を亡くして、祖父母に育てられていました。
そして4年前祖父が亡くなり、彼は32歳になる今まで84歳の
祖母と二人暮らしでした。それが反対の理由でした。

「何も結婚してすぐに介護が目の前にあるような結婚をする事はない」と、
結婚を申し込みにきた彼と彼の祖母にもそう言い放ったんです。
その2日後でした。彼の祖母が置手紙を残していなくなりました。

仕事から帰った彼からの電話で、私達は必死で探しました。
探して探して空が明るくなりかけた頃、彼の祖父の眠るお墓の前に
座りこんでいる祖母を見つけました。
歳も歳だったので衰弱し、そのまま即入院になりました。
その事がきっかけで、私の両親も私達の結婚を許してくれ結婚式はせず、
すぐに籍だけをいれました。

もう10年近く前の話です。
祖母は入院後1ヶ月ほどで亡くなりました。
その時の手紙です。

○○へ(彼の名前)
ばあちゃんは本当に貴方がかわいかった。
貴方のお父さんとお母さんが死んだ時、私のこの先の人生は貴方の為に
使っていこうと心に誓いました。
ばあちゃんは年であるしお金も何も何も持ってはおりません。
貴方への愛情だけです。
そして貴方はばあちゃんの事をとてもとても大切にしてくれた。
とてもとても良い子に育ってくれました。

そして人生の伴侶となるべき相手を見付けました。
でもばあちゃんがそれをじゃましているんだね。
幸せになってください。
ばあちゃんは貴方を育てる事が出来た事がとてもうれしいです。
とてもとても幸せでした。終わり

永六輔氏の本、“大往生”の中にあった言葉。
「子供叱るな来た道だもの
年寄り笑うな行く道だもの」

老人になっても死ぬ直前まで現役として働き、死ぬときは、誰の世話にも
ならず、スパッとあの世に行く、というのが理想の生き方だと言われる。
人は誰もが、生まれてから何年間かは、100%親の世話になって育つ。
10数年経って、ようやく自立して生活することができるようになり、
やがて最後は、また人の世話になって死んでゆく。

何千年、何万年と、連綿としてそれがくり返されてきた。
だからこそ、誰もが感謝で過ごせる人生でありたいと願う。
※しあわせになるレシピより

一人でも多くの人がこの文章を読んでくれることを願います。
あなたを愛してくれた人との別れは辛いものです。
その上に不幸な死に方だと未練が残ります。

先日亡くなった友人は誕生日が一緒だった
アメリカの歌手エルヴィス・プレスリーの大ファンでした。
若い頃はプレスリーに憧れてプロの歌手になったほどです。
身内だけの葬儀でしたので列席は叶いませんでしたが、
家族にプレスリーの歌で見送られたと歌手の息子さんから聞きました。

私の後悔は、
長い間家族同士のお付き合いで親しくさせていただいたのに
最後のお見舞いの約束の時間に遅れたことです。

いつも穏やかな友人が初めて遅れたことを怒ったのです。
もういつ死ぬかもわからない人間との約束を破るのかと怒鳴ったのです。
私はこの時は心から自分の非を詫びました。
あんなにお世話になった人へ、
あんなに家族との楽しい思い出を作ってくれた人に
最後の記憶が怒りだったことに悔やんでも悔やみきれません。

認知症家族の皆様が良く言われる言葉に、
あんなに優しかったお母さんが別の人になって
怒鳴り散らして騒ぎ立てるのが見ていられない。
いつも手を引いて遊んでくれたお父さんが
お邪魔しましたと言って家を出ていく姿を見るのが忍びない。

誰にもいつ介護が必要になり、いつボケが始まるか分かりません。
それまではなるべく多くの楽しい思い出を作りたいものです。
あわててお別れの手紙を書くことのないように準備も必要ですね。
恩から始まり恩で終わる。恩学より


生きる




作家の収入は本の印税と数少ない講演の寸志ぐらいしかない。
ましてや詩人の方々の収入となると微々たるものであることが想像つく。
しかし、多彩な才能を持っていた谷川俊太郎の場合はこれに反する。
谷川俊太郎といえば鉄腕アトムの主題歌の作詞家であり、
世界的人気のスヌーピーの翻訳家でもある。

国民的な詩人ともいえる谷川俊太郎のキャリアは60年以上になります。
谷川俊太郎は、1931年12月15日生まれなので、2018年には87歳に。
1952年に20歳そこそこで処女詩集を発表してから、人生のほとんどを
「言葉」にまつわる仕事に費やして生きてきたと言えるでしょう。

谷川俊太郎が翻訳を手掛けた「スイミー」は、
世界的な絵本作家レオ・レオニの代表作。
谷川俊太郎の翻訳により、日本でも広く親しまれる作品となりました。
その他にも、スヌーピーで知られるチャールズ・M・シュルツ作の
アメリカのコミック「ピーナッツ」を翻訳し、こちらも人気に。
また、「空をこえて ラララ 星のかなた」の歌い出しで知られるアニメ
「鉄腕アトム」の主題歌の作詞を担当したのも谷川俊太郎です。

その仕事は幅広く、「スイミー」のような絵本の翻訳や作詞だけでなく、
映画やドラマの脚本も手掛けています。1965年に発表された
市川崑監督の斬新な演出がきわだった公式記録映画「東京オリンピック」では、
脚本チームに参加。
この作品は、カンヌ国際映画祭で国際批評家賞を受賞しました。

2006年発表の映画「ヤーチャイカ」では、覚和歌子とともに共同監督を務め、
新しい表現にチャレンジ。
少し例をあげただけでも、広範で膨大な仕事を成し遂げていることが
分かる詩人・谷川俊太郎。先日92歳の寿命を全うされて天国へと旅立ちました。

私が担当した女性歌手が、谷川俊太郎が大好きで良く話をしてくれた。
その当時に発売された彼女の写真集か自叙伝に一筆いただいた記憶がある。
そういえば雑誌社に頼んで対談をしたこともあった。

谷川俊太郎の詩は軽やかである。
巨匠詩人のような古い言葉を多用することもない。
一般人が読めないような難しい漢字も使わない。
日常の中をさりげなく切り取っている。
だから女性に親しまれて愛されて来た詩人である。

私は詩人の存在がいかに大切か言い続けている。
詩人の言葉は時代を横切る生の声だからだ。
詩人は庶民が味わう喜びや悲しみや悲恋を見事に
短い言葉で表現してくれている。
また時には戦争など社会情勢が不穏な時には鉄槌を喰らわす時もある。

子供の頃は文学を目指すことも憧れることも許されなかった。
音楽も然りで飯の種にならないから絶対にその道には進むなと言われた。
日本国中、敗戦から復興までガムシャラに働き続けた。
汗水流すことが仕事で部屋にこもってすることは仕事と見做されなかった。

少し国に余裕が出て来てラジオやテレビが家庭に入るようになり、
FENから音楽が流れて、NHKのラジオドラマが始まった。
もっぱら家庭の中の話題は歌やスポーツや映画に集中した。

その時代を経て女性雑誌が飛ぶように売れる時代になった。
写真家が提供する世界の国々そこに憧れの女性が映り込む。
いきなり最新ファッションが街中を覆い尽くした。
その時に数多くの詩人の言葉が掲載されるようになり地位が確保された。

しかし時代が変わりデジタル社会になると現実の世界で楽しむより
仮想の世界で楽しむようになり文字との接点が減り雑誌も様々な書籍も
激減してしまった。それは何を意味するかというと人間の生の感情と
メッセージが届かなくなるということです。

残念なことにデジタルの文字には感情がありません!
こういうと反発する方も大勢いると思いますが、詩のように文字の
奥いきを感じ取らないと、ただの活字を読むだけで終わるので、
なかなか若者たちには馴染めない。

先日亡くなった谷川俊太郎さんのこの作品「生きる」
この詩を読んであなたはどのように感じるのでしょうか?

生きる
谷川俊太郎氏

『生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ』

合掌
谷川俊太郎さんただひたすらにお疲れ様でした。
天国でも詩人として作品を残してくださいね。
ありがとうございます。


創造を生み出す力とは




近年、人工知能(AI)と創造性の関係に関心が集まっています。
AIが人間のように創造的思考を持ち、新たなアイデアやアート、
音楽を生み出せるのか、という疑問が、科学者や哲学者、
アーティストたちの間で議論されています。
一部では、AIがデータや既存の情報を基に独自の創作を行えると
信じられていますが、これは真の創造性と呼べるのでしょうか。

AIが創造的活動をする際、それは大量のデータからパターンを学習し、
そのパターンに基づいて新しい出力を生成します。
しかし、このプロセスは必ずしも人間の創造性と同じとは限りません。
人間の創造性は経験、感情、知識の複雑な組み合わせから
生まれるものであり、単にデータを処理する以上のものを含みます。

それにもかかわらず、AIによる創作物は人間に新たなインスピレーションを
提供し、創造性に新しい領域を開拓しています。
AIと創造性の関係は複雑で、さまざまな観点から探究する価値があります。

創造性は一般的に、新しいアイデアや概念、
または物事を作り出す能力として定義されます。
この能力は人間の進化において重要な役割を果たしてきました。
創造性によって、人類は新しい技術を開発し、社会や文化を発展させてきました。
しかし、創造性の定義は、実際にはより複雑です。
単に新しいものを生み出すだけでなく、それが意味を持ち、
価値があるものでなければなりません。

この定義の下では、人間の創造性は知識、経験、感情などの多様な要素の
組み合わせから生み出される独創的で意義深い結果と考えることができます。
AIによる創造性の研究は、
この複雑な人間の能力を機械で再現しようとする試みです。
AIが持つデータ処理能力と学習能力を活かし、
新しいパターンやアイデアを生み出すことができれば、
AIも創造性のある存在とみなすことができるでしょう。
AIと人間の創造性との間には、まだまだ探究するべき違いと限界が存在します。


芸術家は無から有を生む職業である。
地球に存在するあらゆるものを対象に作品を作り出す。
その逞しい想像力に大衆は驚き感動するのである。
画家は自然界から色を与えられて微細に書き描く。
音楽家は常に人間を対象にして感情を旋律に表す。
作家はペンの力で理不尽な世の中と歪んだ社会を暴き出す。

そのアナログ的な感覚がAIに乗っ取られる。
現実の世界の向こう側に想像の世界が存在していて迷い込む。
頭に描くだけで映像や音が瞬時に再現される。
手直しも自由にできるので何度でもやり直すことができる。
行ったこともない場所へ行くことも可能で五感で感じることも出来る。
しかしそこに満足が無いのは努力から生まれた作品ではないからである。
データで作られた合成肉や日本酒に五体が満足する感動は生まれない。

これからは芸術家の創造力かAIを自由に扱える人の操作力に二分される。
そこに存在するものが仮想空間の中での出来事になり、
売り買いも、会社も、結婚も手に入れることができる。
視覚と聴覚と味覚・聴覚があれば、
あとは触覚が手に入れば性的快楽も得ることができる。

現代=高度情報化社会と呼ばれる社会に生きる人間は,
いかに調和的であり得るだろうか。
そこに生きる人間は,あふれる映像情報の中で,一歩も移動することなく
様々な視覚体験ができるようになったが、それは実際に手で触れ、
身体ごと体験した風景ではないので、眼・頭の中と、身体の感覚のずれが
生じる傾向がある。我々は物質・身体から離れた視覚(映像 メディア)
による影像(イメージ)の世界にどっぷりと浸っているのである。

それは結果的に,身体からの遊離とともに人々の「感性」に重大な影響を
及ぼしているととらえられる。従来の常識では理解困難な事件が多発している
背景には,このような「感性」の問題がある。環境問題に対する危機意識を
持つ人は増えつつあるが,感性の問題は人間それ自身に直接関わるものであり、
かつ自覚なしに進行するがゆえに、より深刻な状況である。

我々は健常者を対象につくられた常識の範囲でいつも話を繰りかえす。
地球上おける弱者の為の思いやりのルールは後回しになる。
勿論、その中には動物も含まれる。近代化の最大の過ちは環境破壊である。
環境破壊で起こる最大の懸念は芸術も生まれなくなることである。
商業的芸術はAIが作り、感性的芸術は人間が作る。
感情や心の琴線に触れる芸術は自然が失われれば生まれて来なくなる。

一方、人類は今、例えば民族対立や環境問題など、地球的な規模の
「平和」のあり方についての解答を求められている。
その解答を得るためには認識対象として「自然」や「人間」を捉えるだけでなく、
人間存在の本質に立ち返って「人間性」を回復する。
あるいは、それについて新たな認識と自覚を獲得するための思考と実践が
要求されていると言えるであろう。

デジタル社会の中で「人間性」は技術が先で後回しになる。
先ずは社会の基盤を作りどのような状況で人間性を取り入れるかが
論議されなければならない。メタバースの中では同意が基本で
拒否はあり得ない。好きなことを好きな時に使用者の理想の世界を
楽しむことが優先される。
いわゆる自己満足の世界が大衆には求められるようになる。

自然と触れ合って想像を生み出して来た人間は、
自然がない世界でどのように振る舞えば良いのだろうか?
海も山も川も空も鳥もいない世界で記憶に頼って
作り出すのかもしれない。
しかし次の世代は記憶のないままで真の芸術が生まれるのだろうか?

人間は生涯を通じて新しい知識やスキルを獲得し続けます。
この学習プロセスは非常に複雑で、学びたい内容に対する好奇心や関心、
そして時には失敗から学ぶことも含まれます。
人間の学習は、内省的な理解と外的経験の両方に依存する多面的プロセスです。
一方で、AIの学習プロセスは「トレーニング」と呼ばれ、
特定のデータセットを用いて特定のタスクを実行する方法を学びます。
このプロセスは反復的であり、正確性や効率性を追求しますが、
人間の学習の多様性や柔軟性には欠けます。

また、AIは指定されたデータセットやプログラムされた
タスクに基づいてのみ動作するため、人間のように未知の状況に臨機応変に
対応する能力は限られています。これは、創造的なプロセスにおける
学習過程の重要な差異を示しています。

人間の創造性は自然界に順じた経験、感情、知識の複雑な組み合わせから
生まれるものであり、単にデータを処理する以上のものを含みます。
そこには苦悩と言う心痛の思いも重要な役割を果たすことを忘れてなりません。
精神的にも肉体的にも苦しめられるとその状況から逃れようとして、
あらゆる芸術の出発点になると信じています。

AIは苦痛と言う認識が無いために真のクリエイティブは作れないという事です。
過去のデータを集積してそれを生成AIが加工しても驚きはしても、
感動はしないという欠点があります。
これからも人間の持つ能力を信じて創造性を高めて行ってほしいと思います。


最後にもう一回だけ




創造力とは一瞬では無く頻繁に起こる現象であらねばならない。
直感で得た創造は朧気であり確実性なものではない。
創造力と予知能力は似て非なるものである。
創造力には連続性が必要で予知能力は単発の予感でしか無い。
創造力は生産物が残り予知能力は言葉のみが残る。

プロデューサーやアーティストは無から有を生み出す仕事である。
悪戦苦闘しながらこれでもかと練り上げながら音を紡ぐ。
心地よさは一瞬であり持続性を持たないから感動に照準を合わせる。
感動とは聞く者の心の琴線を振るわせなければならない。
琴線を震わすほどの感動は脳の奥深く心に深く刻まれる。
聞く人の精神状態は時間の中でも移り変わる。
同じ精神状態で一日を過ごすのではなく朝から夜へと変化が伴う。

歌の中で一番作りやすいのがラブソングである。
恋愛をしている者の心は音楽を受け入れやすい。
聴衆はラブソングにすぐに反応するので良し悪しが即わかる。
制作者は特定の人を思い浮かべながら新しい旋律を作り出す。
対象とする相手の姿かたちや心情を織り込まなければならない。
その場合には当然アーティストの経験や知識が必要になる。

逆に歌作りで一番難しいのはメッセージソングである。
個人へのメッセージなのか、社会を対象としてのメッセージなのか、
世界規模(愛と平和)へのメッセージなのかで大きく作り方が変わる。
勿論、想像力とボキャブラリーが豊富に越したことはないが、
現実を嘆くだけではなくて、そこに希望の歌詞が含まれないと
ヒット作品にするのは難しい。
メッセージの発言者としては実際に活動しているのかも重要である。

英語は単語自体に旋律を感じ一音に意味を持たせることが出来る。
例えばLOVEは一音に乗るが愛は二音必要である。
PECEも同じ一音に乗るが平和は三音必要である。
日本語はメロディーに乗せるのは簡単なのだが、
言葉に意味を持たせなければならないので、
音の響きと長さを同時に考えなければならない。
英語の歌詞は一曲の中に繰り返しが多いが、
日本語の歌詞はストリー性がないと楽曲の完結がしない。
これらのことをすべて考えて五線紙に書き込んでいく。
そして旋律は歌手の声にもよって奥ゆきが変わる。声は楽器である。
誰しもがヒットに恵まれるのではなく、
かといって運を天に任せるのではなく、
楽曲が多くの人に受け入れられている姿を想像しなければならない。

私のプロデュースの方式は一作目の作品からヒット望まない。
だいたい三作目辺りで大ヒットを狙う。
最初は聴衆に歌い手の声と、メロディーを覚えてもらう。
次は、聴衆に歌い手の存在&言葉(歌詞)のオリジナリティーを伝える。
そして、三作目は世相や世代の感覚を意識した覚えやすい歌を発表する。
その為には代理店やテレビ局に頼んでCMや主題歌を取り付ける。

アーティスト育成上に必要なことはお客様と触れ合うことである。
先ずは小さなライブハウスで訓練をして、中規模なホールでメディアを集め、
ヒットが出ると加速的に応援者へアプローチして大ホールへとつなげる。
これに要する期間は凡そ三年間はかかる。
しかし、現代ではSNSを屈指して架空の中でファンを動員して、
現実の世界で大ホール・デビューから始める人も少なくない。
しかしすぐに花開く花はすぐに枯れる。ゆっくり育てることである。

一作目から三作目までにバンドの場合は反応が無ければ解散である。
ソロ歌手なら諦めるか違う路線で再デビューするしかなくなる。
アイドルの場合はモデルかトレンド・ドラマの役者になるしかない。
だから、急ぎ過ぎて失敗に終わることを避けなければならない。
売れなくてもあきらめずに最後にこの言葉を言う芸能人も多い。
「最後にもう一回だけ」挑戦させてください。

「最後にもう一回だけ」
作家の北方謙三氏の心に響く言葉より…
大学時代に書いた純文学が文芸誌に掲載されたのが、僕の作家デビュー。
学生の作品が文芸誌、それも商業雑誌に載るなんてごく稀(まれ)だったんで、
まわりから天才だって言われましたよ。
自分でも「俺は天才だ!」って思ってたんで、それから10年間、
アルバイトをしながら小説を書き続けたんです。

ところがその間、活字になったのは4本のみ、
編集者に原稿を持って行っては返され、持って行っては返され…の繰り返し。
5年経って自分は天才ではないことがわかり、
10年経って自分はその辺の石ころに過ぎないことがわかりました。

それで自分の人生や読書体験を振り返ってたどり着いたのが、
エンターテイメント小説だったんです。
最初のエンターテイメント小説は、横浜を舞台に退職刑事が活躍する物語。
それでも編集者に文学の尻尾を引きずっていると言われたんで、さらに
それを切って切って切り捨てていったら、3作目で賞を受賞したんです。

それからは注文が殺到するようになって、気がつけば“ハードボイルド小説の
旗手”なんてもてはやされるようになっていた。
でも、ハードボイルドとは何なのか、実はまったく知らなかったんですよ。

作家は自分がもっている創造力を発揮できる場所を絶えず
探し続けなければならない。創造力が枯渇した時、作家は死ぬ。
“火事場の底力”って言われるけど、僕はいつもそれを出していると思っています。

人間、自分の力はこれまでと思った瞬間、終ってしまうもの。
火事場の底力を発揮し、どれだけ潜在能力を引き出せるかが勝負。
今の自分にあぐらをかいてしまったらおしまいです。
だからどんな時も自分に真剣に向かい合って、潜在能力が引き出せるような
仕事がしたい、そう思っています。

まさに松下幸之助翁の「失敗して辞めるのが一番の敗北で、
失敗を繰り返して勝ち上がるのが成功」である。

どのような仕事にも創造力が無ければ道は開かないのである。
苦しんで苦しんで立ち上がる時に創造力が無ければ立てないのである。

発明王のエジソンは、「私たちの最大の弱点は諦めることにある。
成功するのに最も確実な方法は、常にもう1回だけ試してみることだ」と言う。
エジソンは、電球のフィラメントには京都の竹が最適なことを発見した。
それには、1万回の実験を要したが、「それは失敗ではなく、1万通りの
うまくいかない方法を発見したのだ」とエジソンは語ったという。

「最後にもう1回だけ」
あきらめそうになったとき、この言葉を思い出してほしい。
私も何度もこの言葉を口にして困難を乗り越えてきました。
まさに、「失敗したところでやめてしまうから
失敗になる。 成功するところまで続ければ、それは 成功になる」です。
多くの人は、この失敗が永遠に続くのかと暗澹(あんたん)たる
気持ちになり、途中で辞めてしまう。

「愛語よく回天の力あり」恩学より


創造力「土器とAI」




人間の創造力は古代16000年前から始まっていた。
土を練り合わせて作られた縄文土器はどの様にして作られたか。

日本列島では、土器は約1万6000年前の縄文時代から使われはじめました。
これらは縄文土器とよばれ、世界でもっとも古い土器の一つです。
作りはじめたころの土器は、あみ籠や獣の皮で作った革袋などの形をまねて
作られたのではないかと考えられています。 縄文土器は約1万年もの長い間、
おもに煮炊きをする鍋として使われましたが、その形は地域によって特徴
があり、飾られる模様も、土器のように複雑なものから、土偶のように
特徴的なもの、埴輪のようにシンプルなものまで、実にさまざまです。
だから、土器をみたら、どこの、いつごろのものかがわかります。

土器は、おもに煮炊きをする鍋や、食べ物を入れておく食器として
使われました。ほかにも、物を入れて運んだり、保管したりするときにも
使われたことでしょう。また、墓に葬られた人に食べ物を供えたり、
棺に入れたり、儀式や祭りの場面で使われたりするような
特別な土器もありました。
約2800年前の弥生時代には、米づくりとともに、朝鮮半島の土器づくりの
技術が伝わりました。そして、それまでの縄文土器づくりの
伝統と合わさって、弥生土器が誕生しました。
朝鮮半島からきた渡来人と縄文人は、一緒に土器をつくったのでしょうか。

私は生活用途以外に自分たちの能力を他部族に知らしめるための物として、
又、一族のみで生活を共にしてきた為に婚姻の必要性が迫られ時の
結納品として地方に分散したのではないかと推測します。

これらの文化的技術をAIに質問したところ以下の回答を得ました。

AIで縄文土器を作れるか、という質問は非常に興味深いですね。
AIは、画像生成、音楽作曲、文章生成など、様々な分野でクリエイティブ
な成果を出していますが、縄文土器のような伝統的な工芸品を制作できるのか、
という問いには、AIの能力と創造性の限界を問う上で非常に重要な視点と
言えるでしょう。

現状のAIと縄文土器制作
現在のAIは、大量のデータを学習し、その特徴を捉えて新たな作品を
生成することができます。画像生成AIであれば、既存の縄文土器の
画像データを学習し、新たなデザインの縄文土器を生成することは
理論上可能です。しかし、いくつかの課題が考えられます。

触感や質感を再現する難しさ:
縄文土器は、粘土の質感や焼き物の温かみなど、触覚的な要素が重要です。
現在のAIでは、これらの要素を完全に再現することは困難です。
意図的な不完全さ: 縄文土器には、意図的な歪みやムラなど、
人間の手によって作られた温かみのある不完全さが特徴として挙げられます。
AIがこのような不完全さを再現することは、まだ難しいと言えるでしょう。
文化的な背景: 縄文土器は、当時の社会や文化を反映したものであり、
単なる形状の再現だけでは、その本質を捉えきれない可能性があります。

今後の可能性
しかし、AI技術は日々進化しており、将来的には縄文土器のような複雑な
形状や質感を持つものを生成できるようになる可能性も十分にあります。
例えば、 触覚センサーの活用: AIに触覚センサーを取り付けることで、
粘土の感触を学習し、よりリアルな質感の縄文土器を生成できるように
なるかもしれません。

生成モデルの高度化:
より複雑なパターンを生成できる生成モデルの開発が進めば、
縄文土器のような複雑な形状も再現できるようになる可能性があります。

人間との協働:
AIが生成したデザインを元に、人間が手作業で仕上げることで、
より温かみのある作品を生み出すことも考えられます。

結論
現在のAIでは、縄文土器のような複雑な形状や質感を持つものを、
人間の手と同じように作れるとは言えません。
しかし、AI技術の進歩とともに、その可能性は広がっていくでしょう。
AIが縄文土器を作ることは、単に技術的な課題を克服するだけでなく、
AIと人間の創造性、そして文化との関わりについて深く考える
きっかけとなるはずです。

如何でしょうか?
人間の作り出す創造物を真似ることが出来ても完璧に作ることは出来ません。
人間と言っても、人それぞれ、文化それぞれ、美的価値観はそれぞれです。
私たち人間は面倒なことや危険なことなどAIに頼もうとしています。
図書館としてAIを使ったり、データ分析を頼んだり、軍事目的で予測する
作業をこなす為には無くてはならない存在になりました。

例えばそれ以外にも伝統工芸品の西陣織など作り手の高齢化によって
失われてしまう危機のある分野にも応用ができるかも質問しました。
勿論、縄文土器と同じ様に以下の回答がありました。

AIと伝統工芸の融合
AIが縄文土器を作るという試みは、伝統工芸と最先端技術の融合という
新たな可能性を示唆しています。AIが生成したデザインを基に、伝統的な
技法を用いて作品を制作することで、伝統工芸に新たな価値を与えることが
できるかもしれません。

AIが縄文土器を作れるかという問いは、技術的な可能性だけでなく、
文化、芸術、そして人間と機械の関係性といった、より深い問題へと
つながります。AIの進化とともに、この問いに対する答えは、
今後も変化し続けていくでしょう。

AIによって人間の仕事が奪われる。
街には失業者が溢れて暴動が起きるなどに心を奪われるより
AIを徹底的に使いこなし未来を創造していく方が
どれほど有意義か知れません。そのための教育改革が急ぎ必要です。

時代は目の前に新しい難問を突きつけると共に一つの価値観で生きて来た
人間に挑戦状を突きつけて来ています。
もう古いコートを脱ぎ捨てて新しいコートに着替える時が来ました。
良いか悪いかではなく必要か必要でないかで考えてください。
もう目の前にAIとの共同作業の時代がやってきます。


創造と破壊




あらゆるものが創造されてあらゆるものが破壊される。
人間関係も社会構造もビルも道路もすべからず破壊から始まる。
たとえば芸術作品の場合はどうであろうか?

想像と破壊で生まれた芸術作品:創造と破壊の狭間で
想像力と破壊的な行為が融合することで生まれる芸術作品は、
観る者に強烈な印象を与えます。既存の価値観や美の概念を打ち破り、
新たな表現を生み出すこれらの作品は、しばしば論争を巻き起こし、
芸術の領域を拡げてきました。

想像と破壊が共存する芸術作品例
1. ラウシェンバーグ《消されたデ・クーニングのドローイング》
ラウシェンバーグ 消されたデ・クーニングのドローイング
ラウシェンバーグは、デ・クーニングが描いたドローイングを消しゴムで
消すという行為自体を作品として発表しました。
既存の作品を消すという破壊的な行為は、芸術とは何かという問いを
投げかけ、アート界に大きな衝撃を与えました。

2. ミケランジェロ《ピエタ》のハンマー襲撃事件
ミケランジェロ ピエタ 損傷
1972年、精神疾患を抱えた男がミケランジェロの傑作《ピエタ》を
ハンマーで破壊する事件が発生しました。この事件は、芸術作品の
脆弱性と、それを守ることの難しさを浮き彫りにしました。

3. レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》への攻撃
モナリザへの攻撃
《モナリザ》は、世界中で最も有名な絵画の一つですが、
何度も破壊の対象となってきました。スプレー塗料をかけられ、
投げつけられたりした歴史があり、芸術作品の普遍的な価値と、
それを守る難しさを象徴する存在となっています。

4. ピカソ《ゲルニカ》とベトナム反戦運動
ピカソ ゲルニカ ベトナム反戦運動
ベトナム戦争中に、反戦運動の抗議として、
ピカソの《ゲルニカ》のコピーが破壊される事件が発生しました。
この事件は、芸術が政治的なメッセージを伝える力と、
その脆弱性を同時に示しています。

なぜ想像と破壊が芸術を生み出すのか?
既存の概念からの解放: 既存の価値観や美の概念を打ち破り、
新たな表現の可能性を探求するため。
社会への批判: 社会問題や不平等に対して、
芸術を通して批判や抗議を行うため。

自己表現: 芸術家自身の内面の葛藤や感情を、破壊的な行為を通して
表現するため。想像と破壊が芸術にもたらすもの
芸術の多様化: 従来の芸術の概念を超え、新たな表現形式を生み出し、
芸術の領域を拡大します。

社会への影響: 芸術を通して社会問題に目を向けさせ、
社会変革を促すことがあります。
観る者の思考を刺激: 既存の価値観を揺さぶり、
観る者に新たな視点を与えることで、思考を深めます。

想像と破壊は、一見矛盾する概念のようですが、芸術の世界においては、
互いに補完し合い、新たな表現を生み出す原動力となっています。
これらの作品は、私たちに芸術の持つ力と、その脆さを同時に教えてくれます。

其れでは人間関係の創造と破壊の場合はどうであろうか?
なぜ人間関係が文章の題材として魅力的なのか?

普遍性: 人間関係は、誰しもが経験し、共感できる普遍的なテーマです。
喜び、悲しみ、葛藤など、様々な感情が生まれ、読者の心に響きやすいでしょう。

多様性: 人間関係は、家族、友人、恋人、職場など、様々な場面で起こり、
それぞれ異なるドラマを生み出します。この多様性によって、
読者は自分の経験と重ね合わせたり、新しい視点を得たりすることができます。

深層心理: 人間関係には、人間の深層心理が複雑に絡み合っています。
愛、憎しみ、嫉妬、孤独など、人間の心の奥底にあるものを探求することができます。
成長と変化: 人間関係を通して、人は成長し、変化していきます。
この成長の過程を描くことで、読者に感動や希望を与えることができます。

人間関係は、文章を書く上で非常に魅力的なテーマです。読者の心に響く
作品を生み出すためには、具体的なエピソード、登場人物の心情、対比と変化、
読者への問いかけなどを意識して文章を作成することが重要です。
さらに、文章を書く上で役立つ情報として、以下のような点も考慮できます。
読者層: どのような読者に読んでもらいたいのかを意識することで、
より効果的な表現を選ぶことができます。

如何でしょうか?AIは質問に直ぐに回答をしてくれます。
常識や理屈は過去のデータから割り出して文章になります。
これらにイラストやデザインや画像をつけることもできます。
我々がため込んだ知識はただの情報となります。
賢い人とは記憶力だけの評価ならもう賢い人はいりません。
いかに未来を想像できるかです。
そしてそれに沿って形が出来るかの創造力です。

現在あることはすぐに過去になりいまのAIも破壊されて
次のAIが進化して我々の目の前に現れます。
果てしない人間の欲求をどこまで満たせば満足するのでしょうか。
ただこれらの進化で人間がコントロールされてしまう恐れがあります。
疑いを持たなければ意のままに操られてしまうのです。
一番恐れるのは武器として利用されていることです。
ドローン攻撃も、誘導ミサイルも、攻撃用ロボットもますます進化しています。

逆にこれからは人間が作ったものに評価が下される時代になると思います。
たとえAIがどの分野の緻密な素晴らしい創造物を作ろうと、
人間の作る「不揃いのリンゴ」の方が、価値が尊ばれる時代です。
コンピューターゲームに興じるよりも外で「鬼さんどちら」の遊びを
している子供の方が未来を創造することが出来る気がします。

「不揃いのリンゴ」とは規格外のために店頭に並べられないリンゴ、
すなわち落ちこぼれの意味です。
これは学歴至上主義の時代にあり、所属する学校や会社の名前だけで
人間性まで判断され、それゆえ悩み傷つく若者たちの等身大を描いた
テレビドラマ。1983年~1997年まで続いた超ロングランの放映でした。
山田太一原作で主題歌はサザンオールスターズの「いとしのエリー」。

世界中がAIの実力至上主義に傾倒すると、
人間はみな「不揃いのリンゴ」状態になります。
今までは学歴と経験が一番とされてきた時代はなくなり、
AIをいかに使いこなせられるかの能力が評価されることになります。
益々、技術能力の格差社会になると思います。

私は命尽きるまで不揃いのリンゴのままで挑戦を続けます。
人間が作る音楽を人間が演奏して歌い人間が喜ぶ音楽を作り続けます。
今回は創造と破壊のテーマでお送りしました。
如何だったでしょうか?


歌う禅




この素晴らしい歌う禅を一度は体験したいと思います。
文章からでも伝わる禅の奥深さに感動しました。

横田南陵禅師
私が参加したのは、歌う瞑想からでした。
歌うことが瞑想になるかと不思議に思ったのです。
歌を歌うことはお釈迦様以来僧に禁じられているはずであります。
しかし、ティック・ナット・ハン師は、ベトナム戦争で傷ついた
人を癒すためにも歌を取り入れたということです。

手振りをまじえながら、呼吸のうたをみんなで歌いました。
「はいる、出て行く、深い、ゆっくり、静か、やすらぎ、ほほ笑む、
手放す、今この時、すばらしい、この時」という歌詞です。
とてもゆったりとしたリズムで、息を吐いたり吸ったりします。
たしかにこれだけでも心が安らぐものです。

午前中はファップカム師の
『マインドフルネス、戒律、喜びと幸せを生む実践』
という法話を拝聴しました。戒と律についてお話下さいました。
印象に残ったのは、五戒についての話なのです。
プラムヴィレッジの僧は皆二百五十の戒を守っておられるのですが、
この五戒を大切になさっているのです。

五戒については、
「不殺生戒」命あるものをむやみに殺さない
「不偸盗戒」人のものを盗み取ることをしない
「不淫欲戒」道に逆らった愛欲を犯さない
「不妄語戒」嘘偽りを口にしない
「不飲酒戒」酒に溺れて生業(なりわい)を怠ることをしない。の五つなのです。
これをプラムヴィレッジでは、五つのマインドフルネストレーニングとして
説いています。これが素晴らしいのです。

不殺生は、「いのちを敬う」です。
当日いただいた資料から一部を抜粋しますと、
「いのちを破壊することから生まれる苦しみに気づき、
相互存在を洞察する眼と慈悲とを養い、人間、動物、植物、鉱物の
いのちを守る方法を学ぶことを誓います。
私は、けっして殺さず、殺させず、自分の心と生き方において
世界のいかなる殺害行為も支持しません。」ということなのです。

それから、不偸盗は「真の幸福」です。
これは「搾取、社会的不正義、略奪、抑圧による苦しみに気づき、
自分の心、発言、行動をもって寛容さを実行することを誓います。
私はけっして盗まず、他に属するものを所有せず、私の時間、エネルギー、
持ちものを、必要とする人とわかち合います。」という内容です。

それから不邪淫は、「真実の愛」です。
「性的な過ちによる苦しみに気づき、責任感を育て、個人、カップル、
家族、社会の安全と誠実さを守る方法を学ぶことを誓います。
性欲は、愛ではなく、貪りによる性行為は、つねに自分と相手を
傷つけることを知ります。
真の愛と家族や友人から認められた深く長期的なかかわりなしには、
けっして性的な関係を結びません。
力を尽くして子供たちを性的虐待から守り、性的な過ちからカップルや
家族が崩壊しないように防ぎます。」という内容です。

そして不妄語は、「愛をこめて話し、深く聴く」です。
「気づきのない話し方と、人の話を聴けないことが生む苦しみに気づき、
愛をこめて話し、慈悲をもって聴く力を育てます。
自分をはじめとして、人びとや民族や宗教集団や国家間に存在する
苦しみを見抜き、和解と平和をうながすことを誓います。
言葉が幸せも苦しみもつくりだすことを自覚し、信頼、喜び、希望を与える
言葉を使って、誠実に話すことを誓います。」という内容です。

最後に不飲酒戒は、「心と体の健康と癒し」です。
「気づきのない消費によって生じる苦しみに気づき、マインドフルに
食べ、飲み、消費することを通して、自分と家族と社会に心身両面の
健やかさを育てていくことを誓います。
食べもの、感じ方、思い、意識という四種の栄養の消費のしかたを深く
見つめる実践をします。
私は賭けごとをせず、アルコール飲料、麻薬の他、特定のウェブサイトから、
ゲーム類、テレビ番組、映画、雑誌、書籍、会話にいたるまで、
毒性のあるものはけっして摂取しません。」という内容なのです。

戒というのは、良い習慣をつけることだと
私はいつもお話していますが、
五戒が実に素晴らしい習慣として説かれているのです。
そのあと、みんなで昼食をいただきました。

五観の偈を、五つの祈りという分かりやすい言葉で表現されていました。
これをとなえて、いただきます。
ティック・ナット・ハン師はご生前、日本のお坊さんは早く食べるので、
ひとくち四十回くらい噛むようにと言われたらしいのです。
そこで、ひとくちひとくち箸を置いて、四十回を目安にゆっくり噛んで
いただきました。はじめの二十分は、完全に沈黙でいただきます。
二十分経つと、少し会話をしながらいただいてもよろしいのでした。
食事は食べる瞑想なのです。

そのあと、横たわる瞑想(トータルリラクゼーション)がありました。
約四十分ほどでした。
これはボディスキャンというマインドフルネスの方法であります。
これが実にゆったりと脱力できて、
頭の中も空っぽになった思いでありました。
そうして私の講演が九十分、そしてプラムヴィレッジのファップカム師
との対談と質疑応答が九十分で、合計三時間行いました。
円覚寺横田南陵禅師ウェブサイトより(一部割愛)

皆様はどう思われたでしょうか?
私は今、ロックシンガー伊丹谷良介とうたと学びを取り入れた
ロックサロンを開催しております。
毎月第二土曜日に恵比寿のバーVoicesにて行っています。
1月ブッダ2月生命3月芸術4月科学5月こども6月音楽
7月自然8月愛9月未来10月和11月人間12月創造です。

毎月抽象概念的な言葉を定義に添って語り「うた」を通じて情感に訴えます。
左脳が刺激されて右脳が目覚める。日本で初めてのロックサロンです。
特に終演後の対話集会はテーマに沿ってお客様と話し合います。
遊びに来たミュージシャンが飛び入りでセッションをして
会場全体が大盛り上がりになります。

11月は東京(2Day)・京都・横浜で開催。
過去には大阪・名古屋でも開催しました。
来年は様々なイベントに呼ばれています。
大きく活動の場を広げて行きます。
お時間があれば是非とも一度は覗いてみてください。
お待ちしています。


魂を振るわせろ




老人と孫(問答集)

「人前で話すのが苦手」
人前で話すのが苦手だというのは、その経験が無かっただけさ!
気にすることは無い!嫌な奴の前では一言も話さなくていいのだ。
無理に話そうとするから頭が拒否するのだ!
だから無理に話さなくてもいいのだ。

「話が苦手だと将来損をするから頑張れ」なんていう奴は嘘つきなのだ。
自分の好きなことをコツコツ黙々とやっていれば問題ない。
技術者の様に会話が必要のない仕事もあるから心配ない。
話すことが苦手な人のとっておきの手は海外で暮らすことさ!
海外では自分から話さなければ誰も話しかけてはこないから
無理に話さなくても楽しく暮らしていける。

海外では興味のあることには集中が出来るので
自分の意識を高めることが出来る。
そこで専門的な学びも、技術力も、新しい仲間とも
片言で話し合いながら少しずつ前に進めばよい。
だから無理に話が上手にならなくても大丈夫なのだ。

「人に影響されやすい」
人に影響されやすい!
構わないんだよ!
ガンガン影響されればいいんだ。
だけどくだらない奴らに影響されるなよ!

ドラッグやっている連中や闇バイトやオレオレ詐欺の
手先になるような奴らに影響されると一生後悔するぞ!
あ!それとホストクラブにハマるような女とは付き合うなよ。
自分の身体を売るような連中の未来には暗闇しかないからね。

夜中にファミレスで小さな子供と一緒に家族が食事をしている。
仕事柄仕方ないだろうと言うならば、
夜中でも面倒を見てくれる私立の保育園へ預ければよい。
子供の成長期に夜ファミレスの食事をさせるのは
百害あって一利なしなのだ。健全な子供に育てるのは親の責任だ。

貧乏だから仕方ないというやつらに限って
高級車のワンボックスカーに乗っている。
そんなの愛でも何でもない!間違っているのさ。
分かっているよな。生きるためには仕方ないと
言い訳するような連中に影響されるなよ。

「何をやっても適当にしか出来ない」
そう、それなら適当に生きればいいだけさ。
ストレスを抱えて生きていくのは辛いだけさ!
しかしそんな連中が増えると国がガタガタになるのさ。
分かるよな!

もし警察も消防士も医者も適当に仕事をしたらどうなるのさ、
お前も家族も仲間もみんな被害を受けることになる。
それでもいいのなら勝手に適当にやればいいのさ。

アホな政治家がのさばっているような国じゃ
将来はないからみんなで適当にやるか!
それしかないよな。
こんな話も適当に聞いていりゃいいのさ。
しかし、このままじゃこの国は滅びるのさ。

「これからの日本は大丈夫」
日本は昔技術大国で世界に群を抜いて頑張っていた時代があった。
世界から尊敬の眼差しで見られていた国だったのさ。
町工場から大手企業まで技術開発には力を入れていた。
それが政府の無能により技術大国から観光大国になった為に
ふざけた外国人が大量にやって来る。

観光客の感想で日本は平和で清潔で優しい国と言っているのは
捏造メディアの嘘ばかりだ。「YOUは何しに日本へ」に騙されるな。
チンピラまがいの外人ユーチュバーというのが
電車の中や街中であろうことか神社の鳥居の中で
やりたい放題で騒いでいる。

間違っても人道的に移民を受け入れるのは善いことだ、
海外からの労働者も日本の労働者不足に貢献してくれる。
だから、受け入れるのは当然だと思っていなよね。
いいか困っている海外の人は命懸けで日本へやって来る。
家族全員が移住する覚悟でやって来る。
それをホイホイ受け入れると必ず様々な犯罪が起きる。

自分たちの街を作り日本の法律など守らずに権利を要求して来る。
海外の国ではそうなっている。だから殺し合いが始まるのさ。
生きる為に犯罪をするなんてどうも思っていない連中が
街を徘徊し始めるのさ。
いたずらに怖がる必要はないが警戒する必要はある。

「日本の未来はどうなる」
平和ボケの国日本!今が最高だと勘違いしていたら大変なことになる。
全員が茹でガエル状態で未来はない国になってしまう。
ワクチンをガンガン打たれて後遺症で苦しんでいる人たちが、
大声で叫んでいるのにメディアは報道しない。

政府と製薬会社の癒着により我々の健康が脅かされる。
一部の医者も政治家も殺人兵器のワクチンを国民に
打たせないでくれ。と大声あげて各地で集会を開いているのに
マスコミは無視をする。しかし今はSNS上で真実が暴露される。
この国はまだ海外(アメリカ)の顔色を伺っている。

おいみんなどうしちゃったんだい!
サムライの国日本!正義を人一倍叫んできた
日本はどこへ行ったのだ。「忠・義・孝」は無くなってしまったのか?
他国の戦争に金をばら撒いていて安心している場合じゃないのに、
政治家は自分の金じゃないから平気の顔をして大金を配り続けている。
もう立ち上がらなければ本当に手遅れになるぞ!
戦える人間から立ち上がれ!
他人を期待するな!自分たちでアクションを起こそう!

「周りに合わせて生きる」
自責か他責かで結果が変わる。自責なら慎重に取り掛かるのに
他責の場合は他人の言葉を信じて行動するので軽く考えてしまう。
もし失敗しても責任者に問題をなすりつけることが出来るので
ことの真意を確かめないで命令に従うだけ。

闇バイトの襲撃班が逮捕された時に指示役から言われて
行動したので、自分たちには罪がないような他責の言い訳をするよね。
彼らに顔写真と住所を送ったので組織から逃げられなかった。
自責の意識がある人間はいっときのお金よりも将来のことを考えるよね。
デジタル社会で顔の見えない相手を絶対に信用するなよ。
悪い奴らに合わせて一生棒に振るようなことはするなよ!

「魂を振るわせろ!覚悟はいいか!」
綺麗ごとばかり言う大人の言葉を信じるなよ。
自分達の未来は身近に取り入れろ。想像ではなく現実として描くのさ。
得意なことも苦手なことも、得手不得手でも準備をしろよ。
仲間を集めて新しい船を作るのだ。

未知の世界を怖がるなよ。恐怖は自分で作るもの、
本当の恐怖は何もできない自分との戦いなのさ。
夜道を歩きながら大声を出して泣いても良いいんだよ。
強がりなふりはするなよ。誰でも一人は怖いのだから。
助けてくれと叫んでいいんだよ。

老人の私は強いから能力があったから横浜から船に乗って
英国へ行ったのではない。
弱いから能力が無かったから経験を積むために
ロンドンへ行ったのだ。
日本にまだ音楽プロデューサーと言う言葉が無かった時代に
音楽プロデューサーを語って日本一の音楽プロデューサーになった。

それは抑えきれないほど魂が震えていたからなのだ。
こんな俺でも小さな世界ぐらいは変えることは出来ると
信じていたのだ。

いつでも来いよ!話を聞かせてやるから、
しかし説教はするつもりは無い。
ひとりで生きる方法と戦える技術を教えてあげるからいつでも来いよ。
老人達は孫たちの悩みを少しでも解決してあげるから。
たつ爺の「老人と孫」より


感即動




心で感じた事を直ぐに行動へ移す。
感性が働き、理性で処理をする。
感即動の感は志の事であり、即は急ぐ事であり、動は目的に向かう事である。
またその感性で人が動くことも言います。

私は願ったことがかなり思いのままに叶う人生でした。
それはそういう環境で育ったので特別な能力ではありません。
普通の人が苦労することは人並み以上に苦労を重ねたので、
月並みの苦労を辛いと思わなくなったのです。
可愛い子には旅をさせろと言う言葉通り貧乏という旅を続けたのです。
貧乏の中だからこそ自分の人生を真剣に考えることが出来たのです。
試練こそ人間性を高めるのです。

今の若者たちは可哀想です。作られた架空の世界に囲まれているからです。
Netflixを見れば気が紛れるから、YouTubeで音楽と映像が無料で楽しめるから、
Google mapsで世界の景色が簡単に手に入るから、Amazonで欲しいものは簡単に
買えるから、行動しなくても居ながらにしてすべてが手に入ってしまうのです。
満足を満たす欲に対して強く願う必要が無くなったのです。

ここでもっとも大切な「求感性」という言葉を紹介します。 
食事も忘れ、寝るのも忘れるほどに打ち込むことは、
理性で考えてもできません。
「感受性」よりも「求感性」です。

求めなければ入ってきません。受身ではないのです。
求感性とは、自分が生きるために必要な情報を積極的に
求めて感じ取ろうとする力です。
命から湧いてくる欲望・欲求・興味・関心・好奇心のことです。

欲求・欲望こそが生きる力になります。
欲を捨てる必要はありませんし、なくなりません。
与えられたもの、持っているものに感謝する。
その上で、理性を手段にして、物欲を人間的な品格のあるものにする。
理性を使わず、欲望のままに動くのは野獣。
人としては理性を手段、能力として使うことが大切です。

興味も関心も好奇心も欲求も欲望も、みんな命の底から湧いてくるもの。
意志の強さは、理屈を超えたところから生まれてくる。
強い意志があれば、自分が納得できる人生を歩むことができるのです。
芳村思風「求感性」より

求感性には行動力が必要です。
いくら心で願っても行動がなければ成果は生まれません。
強い思いは紙に書いて壁に貼り出し自分を追い込むのです。
しかし理性無くして個人の欲を全面に掲げると卑しい人になります。
物質欲ではなく精神欲を高めることで他者から評価が得られるのです。

数多くのアーティストの担当になれたのも求感性のお陰です。
早く一流のプロデューサーとして認められたくて
ガムシャラに行動して休みも取らずに働きました。
その甲斐あって担当アーティストが次々とヒット作品に恵まれたのです。
いつも時代の感性を求め続けたのです。

お手本が無い時代でしたから自分で道を開拓してデーターとしていました。
日本全国、北海道から沖縄までメディアマップを作製したのです。
全国の放送局・新聞社・有線放送・レコード店店長など担当者の名前を
リストアップして、新曲が出るたびにその方たちへ電話や手紙を出しました。
今ならメールとオンラインで済む作業です。

私はとても個性が強くて私を嫌っていた人も多かったと思います。
しかしただの一度も人を裏切ったことはありません。
人間本気になれば誤解も生まれることも仕方ありません。
仕事は人間関係を良好にするためではなく、
目的(ヒット作品)達成に徹底的に絞ったからです。

時代の変動期70年代~90年代まで音楽業界の発展のためには
少しは役立ったのかと思っています。
また仕事は年齢に応じて役割が違ってきます。
75歳になっても音楽プロデューサーをしているのは奇跡に近いです。
今の私はそれ以外に高齢者問題、環境問題、子供達の将来を考える
団体の幹部として活動させていただいています。
地味な活動に思われるかもしれませんがとても重要な事ばかりです。
座して変化を求めても何も変わりません。行動のみが変化を創り出すのです。

この恩学ブログもプロデューサーとして培った感性の元に書き続けています。
「恩学とは」
音楽プロデューサーとして生きてきた中で、常に人の心を見つめながら、
感情の発露を気に留めてきました。時代によって移り変わる人としての価値観、
その価値観によって変わる感情。自分から作り出す精神的な強さや脆さ、
他人から影響を受ける感情の起伏。

喜怒哀楽は個人の中にあり、それぞれが喜怒哀楽の針を持っているのです。
些細なことで喜んだり悲しんだりするのは、
そのガラスの針が左右に振れるからです。

その為に先人達は仏教書や哲学書を読み、切磋琢磨しながら苛酷であり
又游楽な人生を過ごしてきたわけです。

日本人としての心の在り方を調べていくうちに
「恩」という文字に強く惹かれました。
人として「生老病死」の人生です。生まれて、老いて、病気になって、
死んでいく中で、他人から受けた思いやり、やさしさ、心づくしが、
どれ程勇気づけられた事か、誰でもが経験している事です。

その受けた「恩」を返さなければなりません。
私自身の経験から出た「恩返し」話や、様々な本で読んだ話、人から聞いた話、
それらを文字にして書き連ねてみようと思います。
徒然なるままに稚拙な文章ではありますが、ご一緒して頂けると嬉しいです。
2010年2月24日ブログ開始
2024年11月18日現在投稿数588作

強い願いは石をも砕くと言われています。
これからも求感性を絶やさずに多くの困難に体当たりしていきます。
まだまだやりたいことややらなければならないことが沢山あります。
もう地位や名誉や財産を望むのではなく社会へ「恩返し」することに全力を尽くします。
機会があれば皆様もご一緒しませんか?

「感即動」心で感じたことをすぐに行動へと移してください。