日本的霊性
神田の古本市へ行って予てから念願の鈴木大拙全集を買い求めた。
といっても小本ばかりの六冊シリーズである。
禅の思想・禅問答と悟り・禅による生活・金剛教の禅・禅への道・禅百選・
禅堂の修行と生活・禅の世界。
今までも数冊愛読していたが古書の作品は初めてである。
見るからに古本の様相を呈して開くと独特のカビの匂いがした。
カビの匂いと、カビの胞子なのか鼻と目にまとわりつく。
マスクと眼鏡を着用しなければ読むことのできない曲者であった。
これも古本を読む醍醐味である。
鈴木大拙は日本人の精神の根本である「禅の世界」を英語版で
世界へ紹介した仏教研究家であり哲学者である。
鈴木大拙(だいせつ、1870〜1966)は、禅をはじめとする仏教、
広くは東洋・日本の文化や思想を海外に伝えたことで知られる。
本名は鈴木貞太郎だが、居士号の大拙「Daisetz」の「D」、貞太郎「Teitaro」の
「T」をとった英文表記「D. T. Suzuk」の方が、
ZENに関心を抱く欧米人にとってはなじみがあるだろう。
大拙の業績は、禅の紹介だけではない。
浄土真宗の宗祖・親鸞の『教行信証』を英訳した意義は極めて大きいし、
妙好人(浄土真宗の在俗の信者)に関する
研究成果は『日本的霊性』(1944)などにも現れている。
しかし、禅の真髄を欧米諸国に知らしめたことで、
ZENの紹介者として認知されているようだ。
海外では彼を禅僧だと思っている人も多いが、そうではなく、
そもそも布教の意図や禅の理論や哲学を語る意図は持っていなかった。
「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」、
つまり、全てのものを救おうという誓いに基づき、大拙は彼個人の
参禅体験から導き出された思想を生涯において語り続けたのである。
鈴木大拙は、霊性という言葉を宗教意識というような意味で使っている。
というのも大拙は、霊性という言葉を感性や知性と並列する形で
使っているからだ。
感性が感覚についての、知性が知的認識についての意識であるように、
霊性は霊即ち宗教的な対象についての意識であると考えているわけだ。
この霊性というものは、民族ごと宗教ごとに違う形をとると
大拙は考えていた。キリスト教的、インド仏教的霊性がある一方、
日本には日本人的な独特の霊性がある。
それを大拙は日本的霊性と名づけて、その生成と本質について議論する。
「日本的霊性」と題した著作がそれである。
この著作の中で大拙は、日本的な霊性が芽生えたのは
鎌倉時代だったと言っている。
それ以前の日本人には深い宗教意識はなかった。
仏教や神道が存在したではないかとの反論があるかもしれぬが、
仏教は上層階級に限定されて一般庶民とはあまり係わりがなかったし、
日本古来の神道は、宗教と言うよりは、
「日本民族の原始的習俗の固定化したもので、霊性には触れていない」。
ある民族が霊性に目覚めるためには、「ある程度の文化段階」に進む必要がある。
日本人の場合、鎌倉時代に至って初めてそのような文化段階に至り、
全民衆的な規模で霊性に目覚めたというのである。
鎌倉時代に目覚めた日本的霊性を大拙は、禅と浄土系思想がもっとも
純粋にあらわしていると考えた。
両者とも大陸から伝えられた仏教系の思想をもとにしているが、
鎌倉時代の日本人は、それを外来の思想として受け入れたのではない。
それらを日本人独特の宗教意識とマッチさせるような形で、内面化した。
ということは、外来の思想が日本人の宗教意識を高めたというよりは、
もともと日本人の中に潜在的にあった宗教意識が、
これら外来の思想を触媒として花開いた、というべきであると大拙は主張する。
そこで何故、鎌倉時代以降の日本人が、絶対者との超越的な係わりを
主題にした宗教を発展させるようになったのか、が問題となるが、
大拙はそこまでは触れていない。
終戦直前の1944年に出版された「日本的霊性」は、
一般に、大拙の代表作とされています。
つまり、禅は、日常の活動の中での悟りを重要する
動態的なものであるということです。
また、禅の思想を「無分別の分別」、禅の行為を「無功用」という
言葉などに代表させています。
単なる「無分別」ではなく、「分別」があること、
そして、それが行為において働きとなることがミソなのです。
人類が今、第一に優先すべきことがある。
それは地球温暖化を止めることよりも、核戦争の危機を回避することよりも、
闇の勢力が云々と言うよりも、目先のお金のことを考えるよりも大切なこと。
それは鈴木大拙が1945年焼け野原になった日本国土を見つめながら言ったこと
「日本には日本的霊性的自覚が足りなかった」、この言葉と繋がりであり、
今人類には日本的霊性的自覚が欠如している。
では日本的霊性とは何か?それは物質に対比した精神ではない。
物質-精神などという二元を超克した「一」の世界、無分別智である。
そこに繋がらない限り、人類はヤ・バ・イのだ。
そして特に日本人であるならば、日本的霊性的自覚に目覚めなければ
ならない使命がある。
日本は他国を真似してはならない。
他の国が武力や経済力で自国を守ったとしても、日本はその道を選ばない。
日本は徹底的に日本的霊性に繋がることを命とする。
だから1945年8月15日の昭和天皇の終戦宣言があったのだ。
過去の歴史の解析はいろいろとできるだろう。
しかし最も高い視座からみた時にはやはりこの国は「知っている」のだと
感心する。鈴木大拙が言っていた「二元論は対立理論であり、
それが世界を平和にできるわけがないのだ。」と。その通りである。
今人類がしなければならない唯一のことは、「一」との接続。
これに尽きるのだ。
そしてそれは難しいことではない。
何も痩せ我慢して悟った良き人のフリをすることでもない。
脳の錯覚世界と心の実在を明確に分け、
世界を脳で捉えるのではなく心で捉えるだけである。
そしてこの技術の秘密が「言語」にあるため、新しい「言語」を
習得するだけのことなのだ。
初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
この言葉は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
次の時代への鍵は間違いなく、「言語」です。
それは歴史を知り、日本的霊性を知り、無分別の分別を知るところから始まる。
言語と共に日本的霊性再認識の時代へ突入したのである。