全てを受け入れる




全てを受け入れる
現状のままを受け入れる
ありのままに受け入れる
鏡の中の自分を受け入れる

他人の世界はお花畑か荒れた大地
お花畑に憧れても荒れた大地を嫌っても何も変わらない
日常に溢れている様々な情報に惑わされずに自分を探し出す

生き方を見直して心の棚卸しをする
決して机に向かって計画するなよ
外に出て大自然に抱かれろ
近くの公園のブランコに揺られてみろ
高く蹴った足元に見える大空に飛び込むのさ

いつもと変わらない同じ状況で考えても無駄だ
君には足があるじゃないか、目があるじゃないか、
聞こえる耳があるじゃないか
小さな自分でも大きく夢を描いても構わないのさ

落ち込む時には落ち込んでいいんだよ
だらしないカッコでいいんだよ
泣いても大笑いしてもいいんだよ
みっともなくてもいいんだよ
それが自分ならボロボロだっていいんだよ

全てを受け入れる
現状のままを受け入れる
ありのままに受け入れる
鏡の中の自分を受け入れる

周りに合わして作り笑いをして
乗り気じゃないのに群れを組む
興味もないのに雑多な話を合わせる
時間の無駄に振り回される
悩みに振り回されるなら
解決の糸口を見つけたいのなら

私から皆様へ「禅語」を読むことを薦めたい。
以前から気になっていたモデルのSHIHOさん。
この方を勝手にご紹介させていただきます。
皆様のお手本になればと思います。

「SHIHOの楽禅ライフ」より
今回の禅語:身心(しんじん)に法いまだ参飽(さんぼう)せざるには、
「法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、
ひとかたはたらずとおぼゆるなり。」

自己の身と心に法が未だ浸透していない時には、
法は満ち足りていると思ってしまう。法がもし身と心に充足すれば、
なにかが足らないと思うものである。

ものごとの本質をしっかりと会得していない時には、
もう全部分かったつもりになってしまい、本当にわかった時には、
まだ何か足らないのではないかと思うのである。
(『正法眼蔵』のうち「現成公案」より)
 
この禅語を読むと、なんでもわかった気になっていても、
物事にはいろいろな立場からの見方や感じ方があることに、
あらためて気付かされます。
船で大海に出て、自らの目で四方(水平線)を見ると
海は円いように見えますが、
人の目の届く範囲では円に見えるだけで、魚にとっては宮殿に見え、
天人には宝石の玉飾りに見え、さまざまな形や性質から成っています。

我々が生きるこの世界全てに、数え切れない側面と性質があります。
人は自分が学んだり、経験したりした範囲だけで、
理解し判断しようとするのではなく、
無限の世界があることを知るべきなのです。

この言葉に、私はふと涙がこぼれました。
なぜって、「こうじゃなきゃいけない」と
自分を責めていた部分に、そうじゃない見方もあるんだよ、
とふと肩の力を抜く隙間を与えてもらったような気がしたから。
私の性格は、こう思ったらこう!と突き進んでしまう部分があり、
なかなか他の見方ができなくなってしまい、
時にそれで苦しんでしまうことがあって。

正しさを追求するあまり、それについていけていない自分がいたり。
したいことができないと極度のストレスを感じてしまったり。
物事ってなんでも思うように進まないのが現実。

そんな時に自分本位の見方だけをしていると苦しくなるのだけど、
視点を変えて、他人本位の見方をすると、
全然違う感情が存在していたり、
気づかなかった事実に出会えたりすることってありますよね。

普段、自己犠牲をして他人本位にしている方は、
自分は、本当はどうしたかったのか、と自分自身の気持ちに立ち返ったり、
寄り添ってみることでも、新しい見方や感情に出会えたりするかもしれません。
そうやって「見えていない部分」 に気づいていくことが、物事の本質を
見抜く力や世の中の真理を知るきっかけになるのかもしれませんね。

以前、ある友人に「自分にとって最も大切なものは何?」と質問をした時、
返ってきたのは「偽りのない自分」という答えでした。
正しいか正しくないかではなく、自分自身に正直かって。
確かに、人は、立場や役割で自分自身を作ってしまうことがあるから、
肩書きを取っ払ったありのままの自分に戻った時の、
そんな正直さや純粋さに向き合ってみると、
本当に自分が求めているものが見つかるかもしれないですよね。

同じ問いを他の人にもしてみたところ、「健康」「自由」「時間」
「愛する人たちと幸せな時間を過ごすこと」など、答えはさまざまでした。
自分にも同じように問うとすれば、私の答えは「愛こそ全て!」
でも「愛」は深すぎて、そこには喜びや平和、辛抱強さ、親切、善良、温和、
自制などいろんな要素が含まれる気がします。
もし「愛ある人」になろうなんて思ったら、満ち足りるどころか、
足りないものだらけ。この禅語にぴったり当てはまります(笑)。

皆さんにとって、今、最も大切なものはなんですか? 
皆さんの中でそれは満ち足りてますか? 
それともまだ足りないと感じるものですか?
禅について学びを深めている、モデルのSHIHOさんの言葉より。

私も道元禅師の言葉を纏めた『正法眼蔵』「現成公案」を深く読み、
禅語から多くの学びを得ました。
有名な書家の相田みつを氏も「正法眼蔵」を愛読していました。
まだまだ修行が足りませんがこれからも精進するつもりです。
全てをありのままに受け入れて人生を歩み続けます。


笑うこと悲しむこと




人間は「喜怒哀楽」を持つ哺乳類サル科ヒトに属する。
誰にでも喜びも、怒りも、哀しみも、楽しむこともが備わっている。
シンプルに笑うことや悲しむことがいかに大切かを五木寛之氏が述べている。

「笑うことと悲しむこと」
※致知2012年12月号 五木寛之さん“大人の幸福論”より

明るく振る舞い、よく笑うほうがいい。
けれども性格的に無理な人もいるでしょう(笑)
ただ、いろいろな外国の本なんか読んでいて面白かったのは、
脳は人間の感情を支配しているけれども、
結構騙(だま)されやすいともいうんです。
だから人と明るく談笑したり、大笑いできないような人は、
一人鏡に向かって「アハハッ」と口を開けて笑うといいそうです。
すると脳はその楽しそうな顔を見て、
あぁこの人はいま喜んでいるんだなと錯覚するらしい。

喜び上手というのはとても大事です。
だけど同時に悲しみ上手も大事なんです。

最近はグリーフケアといって、人の悲しみに寄り添うことの
大切さが論じられるようになりましたが、悲しい時にはちゃんと悲しむこと、
泣くっていうことが大事なんです。
戦後よくなかったのは、なんでもプラス思考で、笑うこと、ユーモア、
明るい気持ち、前向きと、そんなことばかり持てはやしていることです。
でもそれは車の片方の車輪でしかない。
もう片方の深く悲しむ、嘆く、涙をこぼすことも大事なんです。

本居宣長も説いています。
人間は長く生きていると必ず悲しいことに出会うんだと。
悲しいことに出会ったら悲しいと思え。
ごまかさずに真っ直ぐ見据え、あぁ私は今悲しい、
悲しいって声に出して言え。人にも語れ、空に向って拝みもせよ。
それが昇華されて素晴らしい歌になるんだと。
ちゃんと悲しむということは、
笑うことと同じように大事なことなんです。

喜怒哀楽の感情が豊かな人は、人生を愉(たの)しむことができる人だ。
うれしいときには笑い、不正なことに憤(いきどお)り、
悲しいときには涙を流し、楽しいときにはともに愉しむことのできる人。
喜怒哀楽の感情を抑え込んでしまうと、
それはスタンプを集めるようにたまっていき、いつか爆発する。

『災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候(そうろう)。
死ぬる時節には死ぬがよく候。
是(これ)はこれ災難をのがるる妙法にて候』(良寛禅師)
良寛さんは、災難をのがれる唯一の方法は、どんなにひどい状況になろうと、
そこでジタバタせず、すべてを受け入れ、淡々と生きることだと言った。
逃れられない運命だと悟ったら、その中に飛び込むしかない。
そして、悲しくなったら、ただただ思いっきり泣くことだ。
ちゃんと悲しむことは、笑うことと同じように大事なこと。
【人の心に灯をともす】より

フランスのドキュメンタリー映画「アニマル」
<ぼくたちと動物のこと>を鑑賞した。
イギリスの女の子とフランスの男の子が環境問題に取り組み、
そこで死んでいく動物たちをどうすれば絶滅から回避できる?
2人は解決策を探りに世界各地へ回った。

彼らの突撃レポートに逃げる議員、養鶏場の経営者との食糧問題、
ジャングルの開発で犠牲になった絶滅危惧種の話などを専門家に聞く、
大自然の美しさと共に子供の視線がよく理解できる作品です。
そして最後に動物たちのことを調べていくうちに人間のことが
よく理解できたと言い終わった。

私は現在「動物かんきょう会議」アニマルSDGsの一員として所属しています。
人間のエゴを優先するのではなく動物の気持ちになって環境を考える会です。

人類が快適な生活を追い求め、自分たちの欲望を満たしてきた結果、
世界は気候変動、戦争や紛争、貧困格差など明るい未来を描きにくい状況です。
専門家・科学者・環境活動家たちの多くは「人類が技術革新と経済成長の結果、
みずからを滅ぼしている現実」を嘆くばかりで、
解決の糸口がなかなか見えません。
予想を超えたスピードで世界が変化していく中で、
私たちは子供たちに何を教えたらよいのでしょうか?
「せかい?動物かんきょう会議」メソッドでは、さまざまな動物や生きもの
の立場にたち、多角的な視点で対話を重ねることで「考える基盤」を作ります。

AI時代を生きる世代に必要な3つの能力、
「創造力(自ら考え、自発的に行動する力)の向上」「自己肯定感の向上」
「自分と他者との関係性への気づきの醸成」が目的です。
今こそ、自らの未来を自らデザインするための技術と共生の思想を
伝えなければなりません。

現在、山口県宇部市と共同で小学校の授業として正式に取り上げられています。
地元のときわ動物園と組んで課外授業も執り行っています。
「動物かんきょう会議」の講習を受けた専任のインストラクターも大勢います。
既に中学生のインストラクターも育っています。

約27年間の研究成果が一冊の本になりました。
「どうぶつに聞いてみたーアニマルSDGs」
今こそ、発想を転換しよう!
アニマルSDGsは人間SDGsへの逆提案

人間中心の発想はもう限界。
地球上の哺乳類は重量比で人間34%、家畜62%、野生動物4%という
研究報告がある。人間と家畜をあわせると94%!その一方で、世界は気候変動、
紛争や戦争など悪化の一途をたどり明るい未来は描きにくい。
ほとんどの人間は「人類が技術革新と経済成長の結果、自らを滅ぼしている現実」
を嘆くばかりで改善の糸口は見えない状況……。
”もう、人間(おとな)だけにまかせちゃいられない!”
動物たちが、子どもからすべての人間たちへ語りかける。

動物たちは声を上げることも訴えることもできません。
我々人間の様に悲しんだり怒ったりの表現も出来ません。
子供たちが動物に成り切り動物たちの悲痛な叫びを訴えます。
SDGsカテゴリーの18番を加えることを提案します。

ドキュメンタリー映画「アニマル」の少年少女の環境問題に対する
疑問が世界中に届き、日本の子供達も立ち上がる時だと思います。
この地球は人間だけのものではありません。

笑うことと悲しむことが出来る人間が変えていかなければ
世界は何も変わらず何も動きません。


今日は死ぬのにもってこいの日だ




美しい死に方を望む人は多いと思います。
病院で死ぬか、自宅で死ぬか、愛する家族に見守られて死ぬか。
苦しまずに死ねるのであれば安楽死を望む人も多いと思います。

どうせ死ぬのであればと自暴自棄になる人もいます。
しかし仏門に入り心静かに過ごしたいという人もいます。
人それぞれですが大自然に抱かれて死にたいという人はいません。

もし死ぬ日がわかるのであれば私は身辺整理をした後に餓死を望みます。
食べない事は人間の機能を徐々に弱らせて静かに息を引き取る事が
できると聞いています。慌てず騒がずに好きな場所で息を引き取りたい。
叶うのなら少数の身内と気のおけない少数の仲間に囲まれて死にたい。

一般的には老人と言うレッテルを貼られて車いすに座り、子供の様に
あやされて老人ホームで死の順番待ちをしている方が大勢います。
反発する力もなくなすがままにされて「こんなはずじゃなかった」と
後悔する老人の方も多いと思います。

こんなタイトルの本があることを知りました。
インディアンの教えは先祖から伝わる素敵な物語があります。

「今日は死ぬのにもってこいの日だ」
ナンシーウッド著

生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。

わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。

万物は一度死ぬことによって、生を取り戻す。
冬に枯れるから、春に芽吹く自然のように。
母なる大地を切り売りすることなどできない。

「所有」から離れたインディアンの哲学に学ぶところ多い
大自然の中では人間が創り出したものは何もない。
寿命が来れば先祖の霊や森や川の例に囲まれて幕を閉じるだけです。

こんな話もあります。
カナダの北西部地方の総合病院には言葉や習慣の色々異なる
エスキモーやインディアン、それに少数の白人患者が送り込まれて
来ていました。
重症のやけどで、白人なら助かるかどうかで五分五分というような
症状の場合、エスキモーはだいたい生き延びるし回復も早いが、 
インディアン中でもヘアーインディアンは、あっという間に
死んでしまうというのです。

「ヘアーインディアンはちょっとした事で、すぐ生きる意欲とか
執着心とかを失ってしまいます。白人なら絶対死なないような
軽度のやけどや肺炎でも、コロリと死んでいくんですからね。
それに痛いとか苦しいとか、とても大袈裟でね」

「ヘアーインディアンは、ちょっとしたことで大騒ぎするの。
それに患者が、もう死ぬといいだしたら、あっという間に死んでいくのよ。
ヨーロッパ流の医療がよく効くのは、本当に軽いカゼとか、
麻酔で手術してしまえる虫様突起炎とか、お産、
それから乳幼児の栄養指導だわ。肺炎には弱いのよ」

ヨーロッパ流の医学は「死を悪と見て」、避けられるだけ
死を避けようとして来ました。
そのヨーロッパ流の医学と、ヘアーインディアンの生き方、
死に方とがすれ違うのです。

ヘアーインディアンの場合は「死ぬこと」を重視し、それを優雅に、
言い換えるなら生にしがみつく醜い態度を呈することなく、
引き潮のように死にゆくこと。

ヘアーインディアンの世界では生きている者も死者も、
あらゆる言語活動が「死」に向かって動員される。
言祝ぐ。「言祝ぐ」と言ったのは、集団の成員だけでなく、
彼らの祖先が守護霊となって、彼らの「死」に
積極的に関わっているからである。

「ミルトン・エリクソン「魔法使いの秘密の言葉」より」

世界中のどの国も高齢者問題を抱えています。
21世紀は戦いの時代でした。
侵略と略奪を繰り返し多くの人の命を奪ったのです。
その反面に労働力として兵隊として国を支える国造りの一環として
子どもを増やす必要があったのです。

日本でも1945年に第二次世界大戦争が終了後に「産や増やせよ」の
スローガンのもとに我々団塊の世代が誕生したのです。
家族の中に4~5人の兄弟が居て、学校に行けば一クラス50人前後で
学年12~15クラスは当たり前の時代だったのです。

その方々たちが、2020年代に入り「死は身近」になり
死の順番待ちをしている状態です。私もその一人です。
私は死を怖いと思ったことはありません。
お寺で「生老病死」を学んだお陰で死の段階が来たと受け入れます。
それよりも突然記憶が無くなる方が怖いと思います。
愛する家族や友人の顔も思い出せなくなると「生きている存在」が
無くなるからです。

意識を持って死を迎える。
「今日死ぬのにもってこいの日だ」と言える余裕が欲しいですね。
死はそれほど怖いものではありません。
残された人たちも笑顔で手を振って「いってらっしやい」と
送り出してあげてくださいね。


最悪を想定して最高を描く




一体全体最悪とは何をもっていうのか分からない。
人それぞれの価値観で使われる言葉であるから、
その受け取る解釈は千差万別である。
同じように最高も何をもっていうのかは分からない。
特に仕事の状況で願った通りの業績が出れば最高だし、
その反対に何をやっても結果が思わしくない場合は最悪となる。

私の生き方は「All or Nothing」百か零の人生であった。
人生を急いでいたから結果ばかりが気になり
地道な計画と努力を怠っていたのである。
気迫(パワー)と創造力(アイデア)だけでアーティストを
オールラウンドでサポートしてヒットに繋げたからです。
みんなと同じ常識の世界で戦えば流される気がした、
過去には無かった意外性を前面に押し出して功を奏した。

1991年にCBSSONYを退社して独立経営の厳しさを学んだ。
今までは制作だけに没頭していれば仕事が成立していたのに
何もかも(経理・マネージメント・コンサート手配など)
自分でやらなければならない大変さに気づいた。気づくのが遅い!
退職金も印税も自宅も担保に入れてすべて事務所の運営費に回して
10年間で2億5千万円ほどは失った。

10年間死に物狂いで経営を続けたのだが、最後はアメリカの
レコード会社との契約が入金直前で破棄されたので、
やむなく会社をたたむことにした。
所属アーティストやスタッフ及び関係者に多くの迷惑をかけてしまった。
すべて私の未熟さゆえに起こったことである
悔いても悔やみきれない出来事であった。

会社を立ち上げた時に仕事が順調に行かずに資金繰りで
苦しむことを想定しておくべきであった。創業の苦しみである。
それと同時に順調に業績が伸びた場合もどれほど事業の拡大を
図るかも想定すべきである。守成の苦しみである。

敗者になって悔しくて心に刻まれた場面がある。
音楽事業から少し距離を置いてビジネスプロデューサーになった時である。
アパレル会社の顧問として役員同行で百貨店へ売上提案に行ったところ、
先方の社長から「あなたの提案は理想論であってビジネスには役に立たない。
うちの社員も寝ずに業績を上げることを考えている。
百貨店に取って洋服屋の売上はたかが2~3%しかならず
話しあうのは時間の無駄だ」と一言放って会議室から出て行った。
仮にも私は取引先の役員である。その人間に向かって
客商売の百貨店代表が言う言葉ではない。

しかしこのような言葉を投げかけられるのは初めてでは無い。
独立して自社のアーティストの売り込みにTV局へ行ったところ、
「あなたとはSONYの社員ということで一緒に仕事をしたが、
いまはその肩書が無くなり、我々としては付き合うつもりは無い」
見事に手の平返しにあったのである。
どのような努力でトップになろうと人間的未熟は将来が危ぶまれます。

どのフィールド(事業規模)で、どのポジション(役割)かを
把握しなければ上記のようなことを言われても仕方がない。
正論や常識で判断しても社会を知らなければ意味が無い。
社会、特にサラリーマン社会は理不尽なことだらけである。
大学を出たばかりの新入社員が3か月もしないで辞めていくのは、
自分の理想と現実の社会があまりにも乖離しているので
耐えられないからである。

仕事以外にも自分の人生に置き換えることもできる。
一生かけて生きる「目的」を果たさなければならない。
直近の「目標」が見えなければ闇雲に動き回るだけになる。

私は少しの成功体験をしているので役職が上がれば上がるほど
性格が変わるのを実感している。
苦労した人間ほど傲慢になり冷酷になることが多い。
その時に「目標」と「目的」が分かっていれば
短絡的な判断をしなかっただろう。学びが足りなかったのである。

貞観政要に書かれている
「上に立つ者は3人の部下を持たなければならない」
①苦言を呈する身近な部下、
②正論を教えてくれる先生、
③命をかけて守ってくれる仲間。
このことの必要性が分かる人間は道を外すことは無い。
一番側にいる人間の重要性、つねに人の道を教えてくれる先生、
いざとなれば身を盾にしてでも守ってくれる仲間である。

初期の計画が思い通りになって成功というのであれば、
実績はその半分ぐらいになることを想定すれば良い。
いきなり大きな計画を希望しても人脈と資金力が無ければ上手く行かない。
夢を描いても良いが計画の実効性が無ければ意味が無い。
夢の語源は「夕暮れの景色が薄れていくときに見る景色」と
書かれているようにぼやけているからである。

自分の人生を想像したときにこうなれば良いのにと
想像することが夢である。夢は曖昧である。
しかし事業はそういうわけには行かないので理論化して構想を練り、
市場を見極めなければならない。最重要な課題は資金力である。
人を集めて適材適所に配置する掌握方法も知らなければならない。
いわゆる行き当たりばったりで経営は成り立たないということである。

最悪を想定して最高を描く。
人生においては最悪を避けて無難な道を歩もうとするのは、
誰しもが思うことで、特に親は自分の経験を通じて
子供達に安全な方法を教える(説教する)。
しかし子供達にとっては説教ほど聞いていてつまらないものはない。
将来起こるだろうというあやふやな説明は教師から言われても耳に残らない。

現代では悩みの解決方法はAIに聞けば教えてくれるが、
そこに愛がないので論理的な解決のみで益々理解するのには難しい。
大方、人間は失敗を経験してから最高を描くことができる。
最悪な状態こそ最高を描くことができるチャンスなのである。

「君がつまずいてしまったことに興味はない。
そこから立ち上がることに関心があるのだ」(リンカーン)
「失敗すればやり直せばいい、やり直してダメなら、
もう一度工夫し、もう一度やり直せばいい」(松下幸之助)
「ミスをしない人間は、何もしない人間だ」(ルーズベルト)

最後にイギリス首相ベンジャミン・ディズレーリの言葉を紹介します。
「私は最悪な事態に備え、最良の事態を期待する」
出来れば最悪な状態を経験せずに最高の成功を獲得できれば良いですね。


ペースと間合い




誰にでも自分なりのペース(速度)がある。
行動に出る時にも引く時にも自分の心の指示に従う。
子供の時から親に決められた時間に学校に行き、
学校から決められた時間に下校する。
塾に行く時間も、宿題する時間も、食事をする時間も
毎日同じ時間である。

私はこれらに抵抗しながら生きてきた。
クラブ活動で運動や軽音楽の練習に行っても
自分のペースが掴めない。
ペースが掴めないから除け者になってしまう。
何故自分のペースで生きることができないか不思議だった。

とにかく子供の時から強制的な時間割が苦手であった。
時間割と共に一方的に指示されるのもとても苦手だった。
周りからわがままな奴と思われても仕方ないと思った。
それを指摘する親兄弟も居なかった。

しかし、いつも時間でコントロールするのは
大人(教師&学校)たちの勝手な都合だ。
子供達はコントロールしやすいから、
校則に従わせて一律に同じ子供にする。
子供の自由な発想や行動は無視される。
本当にこれで良いのだろうか?

社会では下から上へいつも同じエスカレーターに乗り込み、
押し出さられるようにして次の人へ場所を明け渡す。
上に上がれば幸福な生活が待っていると嘘をつかれるが、
こんな場所に自分の居場所は見つからない。

江戸時代は大店の商人も文化人も職人も
自分の心(ペース)に従って成功した人が多い。
我儘(わがまま)ではなく拘(こだわ)りなのである。
日本が世界から驚かれたのは無から有を生む想像力の高さである。
代表格は葛飾北斎である。浮世絵のお手本が無い時代に
自からがお手本になった。
北斎は世界中の画家に影響を与えた天才浮世絵師である。
そして現在のアニメや漫画は北斎漫画から始まったのである。

多くの職人は誰に指示をされなくても自分自身の経験と学びで
技術向上に励んだ。そして何よりも極めるための勤勉さである。
私の知る限りでは損得なしに自己実現のために名工を訪ね歩き、
何日も眠らないで仕事をする国民は日本人だけであると思う。

そしてあらゆる物事を決断する時に必要なことは間合い(距離感)である。
知り得た情報をいち早く使う時にも間合いが無ければならない。
今なのか早すぎるのか判断を間違うと大きなリスクにつながる。
人間関係に特に敏感にならなければ利益の負けを生じる。
ビジネス全般に言えることは市場におけるライバルや
競合他社との間合いを話し合う必要がある。

例えば米不足の時に米を買い漁れば莫大な資金が必要であり、
資金が底をつけば安値で売りに出すしかない。
他社がそこを買い占めるのも間合いの技である。
大切なことは自分の間合いで決断したことを後悔しないことである。
おおよそ人の考えていることは皆同じで駆け引きの問題である。
何事にも勝負に出る間合いは駆け引きの基本である。

この間合いの定義は宮本武蔵「五輪書」を読めば理解ができる。
地之巻には、
宮本武蔵が考え出したとされる兵法が記されており、
勝利に到達するための原理原則がまとめられています。
武蔵はまず、その地之巻の冒頭で、文武両道を説いています。
学問と武芸、両方を磨きなさい、ということです。

その真に意味するところは、あらゆる状況に応えることができるよう、
いかなる状況においても最善の選択をできるよう、
多方面から準備をしておくということにあります。
武器一つとっても、刀のみならず、槍や弓や銃も理解しておくべきだし、
それぞれがどんな場面で最も力を発揮するのか、ということも理解して
おくべきだと説いています。

水之巻には、
武蔵が編み出した流派、二天一流における戦いへの構えが、
身体面そして精神面から書かれています。
構え、という型に、はまったものを、形がない水で表現する点、
武蔵の考え方が現れています。

ものの見方には二種類あり、一つは「見の目=目を開いて目に映るものを
現象として見ること」で、もう一つは「観の目=現象として見えるものの
裏側にある本質や相手の心を見ること」です。
本番においては、見の目よりも観の目のほうが重要だと武蔵は考えています。
そのために、ひたすら目の鍛錬と工夫を怠らないように、と説いています。

火之巻には、
戦いにおける戦術・戦略に関する武蔵の考え方がいくつか
記されています。
・場所次第といふこと
まず武蔵は戦いにおける場所選びの重要性を説いています。
相手に不利で自分に有利なポジショニングをとる、ということです。

剣を交える場においては、太陽あるいは火などを自分の背後あるいは右脇に
置くように立ち回るように、あるいは自分の左側は大きく開けて右側は
壁などに沿った位置が好ましい、という具体的な示唆がありますが、要は、
戦う前からポジショニングで相手より有利な状況を獲得せよ、ということです。

風の巻には、
ここには、武蔵による他の剣術流派についての批判が
書かれています。形や見た目にばかりこだわってはいけない、実戦で
使えなければ意味がない、という武蔵の考え方が多くみられます。
達人の域に達するには神秘的なものに頼るのではなく、合理的な方法の
積み重ねでしか到達できない、と説いています。

空の巻には、
武蔵は、剣を極めることで自分が達した境地を「空(くう)」
と表現しています。空とは、定まった形のないこと、
いや、そもそも形を知ることができないものです。
何かを会得するために鍛錬を積み、極めた先に、実は何もないことを
知るのだ、という逆説的な考え方が展開されています。
その時、一切の迷いの雲が晴れ、空の状態に達する、とされています。
そこに、何にもとらわれない無限の広がりを強く感じるだろう、
と武蔵は説いています。

この「五輪書」から受け取った学びにより、
自分のペース(速度)と間合い(距離)はいかに重要か
お分かりになりましたでしょうか?
思考を論理的にしてしまうとどうしてもペースがつかめません。
そして利益を中心にしてしまうと間合いが短くなります。
自分の人生ですから自分のペースと間合いで過ごしてください。

今日も自分のペースと間合いで一日を過ごしたいと思います。


言葉を拾う




恩学を描き始めて先日600作を超しました。
自分でも信じられないですが毎日書き続けています。
始めたキッカケは2011年東日本大震災の時からです。
何もサポート出来ない自分に何かできないか悩んだ末に、
誰にも届かない励ましエールを書き始めたのです。

初めのうちは報道番組の中から言葉を探して書く事が出来ました。
その内に自分の中の震災の記憶が薄れて言葉が見当たらなくなったのです。
それから毎日「言葉を拾う」作業が始まったのです。
仕事の合間に見つけた言葉もブログの題材になりました。
電車の中でもウォーキングの公園でも印象に残った場面を記憶して
いち早く自宅で言葉に変えました。

本屋と図書館へ通い続けて文字(言葉)を探し続けました。
哲学書、仏教書、偉人伝、歴史書、ビジネス書、単行本など
ありとあらゆるジャンルの本を貪るように読み続けました。
素晴らしい文章の中の素晴らしい言葉を見つけると
まるで子供がカブトムシを見つけた時の様に嬉しくてたまりませんでした。

その内に蓄積された言葉と音楽の経験を中心に「人間学」を講義しました。
お陰様で評判が良く沢山の方々からお声が掛かりセミナー講師として
忙しく過ごしたこともありました。
その時に出会った人からの会話の中でも気になる言葉があれば
直ぐに携帯のメモへ書き残した。私は突然変異のメモ魔になったのです。

ある時に目と耳が異常に感度が良いことに気がつきました。
日常の生活の中で文字と景色と音に敏感に反応するようになっていました。
パラボラアンテナのように全方位で音が聞こえるようになったのです。
見えない暗闇の景色も騒音も聞こえる気がしました。
そして明け方に必ず浅い夢の中で、その日の単語(タイトル)が
浮かび上がったのです。不思議です。

友人たちからは何故お金にならないことを
長い間書きつづけるのか度々聞かれました。
タイトルが変!文章が長い!文面がわかりにくいと
色々と意見を言われたのですが、まったく変える気持ちはありません。
だから読者の方の投稿も受け付けなかったのです。
私は私のスタイルでしか文章を書けないのです。

このブログのキッカケは震災ですが、その内に全国から良かったという
返事がメッセンジャーへ届くようになり安心しました。
大阪のラジオ番組でも「恩送り」を取り上げてくれました。
これはいろいろな方々への応援ブログですが、
私への応援メッセージでもあるのです。

このブログを書いているときにTik Tokから
聞こえて来た歌「言葉」に心惹かれました。
初めて聞く<ちむぐくる>という沖縄の歌手
MV映像の先に見えるおばあちゃんが
手を合わせて涙ぐんでいる姿に感動しました。

「言葉」
守りたい人がいるのなら
信じなさい、あなたの言葉

やさしい言葉はきらのように
冷え切った心をあたためる
きびしい言葉は海のように
揺らいだ心を落ち着かせる

守りたい人がいるのなら
届けなさい、あなたの声を
助けたい人がいるのなら
伝えなさい、あなたの愛を

たのしい言葉は虹のように
つなぐ心に橋を架ける
うれしい言葉は月のように
くもった心に光さす

たとえ遠い人が居るのなら
届けなさい、あなたの声を
うすめないひとがいるのなら
示しなさい、あなたの道を

貴方の言葉に励まされ
あなたの言葉に涙する
あなたの心をまっすぐに
伝える勇気が言葉になる

守りたい人がいるのなら
届けなさい、あなたの声を
助けたい人がいるのなら
伝えなさい、あなたの愛を
信じなさい、あなたの言葉

あなたの言葉が響く時
私の心に花開く
「言葉」<ちむぐくる>

不思議ですよね。
「言葉を拾う」というタイトルで書き始めて
「言葉」と言う楽曲が流れてきたのは奇跡ですね。

これからも言葉の力強さを文字に乗せて
心響く文章で恩学を書き続ける事が
できれば嬉しい限りです。

あなたの優しさとあなたの愛が、
伝えたい人に届くように

拙い文章ですがこれからも愛読していただけると嬉しいです。
恩学より


仏教的人類創造とは




詩人の谷川俊太郎さんがお亡くなりになって
何故か人間の一生が気になりました。
谷川さんの有名な詩に「生きる」と言うのがあります。
「生老病死」を難しく表現するのではなく普段の生活から
取り込んだ言葉で綴られています。

谷川さんはとても多彩な人でそれ以外にもスヌーピーと
禅語をあわせた絵本も出版されています。
とても仏教にも傾倒が深い詩人でした。
驚くのは我々が子供時代にテレビでよく見た手塚治虫の
「鉄腕アトム」の主題歌の歌詞も書かれています。
「心やさしいラララ科学の子、十万馬力だ、鉄腕アトム」
未来のロボットは感情を持っていると予言をされていると感じます。

世界中の生物学者が、科学者が発表している「生命・いきる」は
学術的な架空の世界で論じられています。理論の組み立てです。
1年~2年ほど前、生物学者福岡伸一・仏教学者織田顕祐・
解剖学者養老孟子さんのネット討論会をYou tubeで拝見しました。
13年前の2011年に開催されたフォーラムです。

生物学者福岡伸一さんはエントロピーの法則で人間を語りました。
エントロピーは物理学の一分野である。「熱力学」に登場する概念です。
動的平衡エントロピー増大の法則から生きる「生命いのち」を説明。

仏教学者織田顕祐は「私」「縁起」「執着」とは「すべての存在は無数無量と
いってよい程の因縁によって在り得ている」という話でまとめていました。

ゲストの養老孟子さんは「田んぼの稲を見て将来のあなたのすがた」と発言。
「快不快」口の中にある唾は飲み込めるのに吐き出すとゴミの様に扱われる。
頭の中の地図と矢印、右の脳と左の脳の分離、最後の晩餐などを話され
人間の在り方を説明されていました。

各分野で活躍されている人たちの言葉はそれなりに納得するものでした。
どれも興味の尽きない内容で楽しく拝聴することが出来ました。
しかし、もう少しテーマを絞ってほしいと思いました。
当日は親鸞仏教が開く世界、仏教と生命「いのちのゆくえ」でしたので、
何かすこし物足りなさを感じてしまいました。
それは仏教に特化した流れではなかったからです。

あの発言の時にはこう言った内容で話して欲しいと考えているうちに、
ますます頭が混乱するので最近の私の相棒Google Geminiに聞いてみた。
すると僅か1~2秒で回答が出て来ました。頭の良い秘書です。

ジェミニさん曰く。
仏教的な視点から見た「人間創造」は、キリスト教のような
創造神による天地創造の概念とは大きく異なります。

仏教における人間の成り立ち
仏教では、宇宙や生命の起源について、絶対的な創造主の存在を
前提としません。人間を含むすべての存在は、因縁(いんねん)
によって生じ、変化し、滅するという「縁起」の法則に従って
存在すると考えられています。

縁起の法則: すべてのものは、他の様々な要因と相互に関係し合い、
その結果として生じます。人間も例外ではなく、過去の因縁の結果として
生まれ、様々な経験を重ねながら、現在の姿になったと考えられています。

輪廻転生: 仏教では、生命は死と生の繰り返しである「輪廻転生」を
繰り返すと考えられています。
人間は、過去の行い(業)によって、人間、動物、神、鬼など、
様々な存在に生まれ変わるとされます。

無常: すべてのものは常に変化し、永遠に変わらないものはないという
「無常」の概念も重要です。人間も例外ではなく、生老病死を繰り返し、
常に変化し続けています。

仏教と進化論
現代の科学では、進化論が生物の多様性を説明する有力な説として
受け入れられています。仏教の「縁起」の概念は、この進化論と
一見矛盾するように思われるかもしれませんが、
実は共通点も少なくありません。

漸進的な変化: 仏教の「縁起」は、生命が突然に創造されたのではなく、
長い時間をかけて少しずつ変化してきたという考え方を示唆しています。
これは、進化論の考え方に近いものです。

多様な生命: 仏教では、人間だけでなく、あらゆる生命が尊重されます。
これは、進化論がすべての生物が共通の祖先から進化してきたという
考え方を示していることと共通しています。

仏教における人間の目的
仏教では、人間は単に生まれ、そして死ぬ存在ではなく、
より高次の存在へと成長していく可能性を秘めていると考えられています。

苦からの解放: 仏教の目的は、生老病死といった苦しみから解放され、
涅槃(ねはん)と呼ばれる悟りの境地へと到達することです。

自己実現: 人間は、自分自身の内なる可能性を開発し、
仏となることができる存在であると考えられています。

まとめ
仏教は、人間がどのようにして生まれたのかという問いに対して、
絶対的な創造主による創造という答えではなく、
縁起の法則に基づいた変化と成長のプロセスとして捉えています。
人間は、過去の因縁の結果として生まれ、現在の姿になっただけでなく、
未来に向かって成長し続ける可能性を秘めている存在なのです。

如何でしょうか?
仏教的観点から見た人類創造とはまだまだ謎が残ります。
しかし、科学で割り切られるよりロマンを感じませんか?
次は西洋思想から考える人類創造を取り上げたいと思います。

最後に、
「学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや、朋あり遠方より来る、
亦楽しからずや、人知れずしていきどらず、亦君子ならずや」孔子
学んだことを時に復習するのはより理解が深まり楽しいことなのだ。
友人が遠くから訪ねてきてくれて学問について話し合うのは喜ばしいことだ。
他人に理解されなくても気にしないというのはとても立派な事だ。

今回のブログもお役に立ちましたでしょうか?
学びは常に繰り返すことにより創造力が沸き起こり、
会話を重ねるごとに学問が楽しくなります。
知り得た情報を共有することも「生きる」喜びに変わります。


求感性とは




ロックシンガー伊丹谷良介のうたライブで出てきた言葉に強く惹かれた。
「求感性」どの書見から出てきた言葉かと調べたら感性哲学の創始者と出てきた。
昭和51年(1976年)に「感性論哲学の世界」を出版。
この書籍を手にした日本BE研究所所長の行徳哲男先生との出会いにより
経営者の方々に講演活動が始まる。

私と長年のお付き合いのある哲学者行徳哲男氏と交流があったことを知った。
そういえば以前行徳先生から芳村さんをご紹介された気がします。

芳村思風(哲学者)
感性哲学の創始者。日本哲学会会員。
「思風庵哲学研究所」を設立。

これまでの哲学は、人間の本質は理性であるし、
理性と合理性、合理的であることだけを追い続け、
競争して勝つことが成長の原理だとされてきました。
感性哲学は、感性が生命の本質であり、人間の本質であり、
宇宙の究極的実在であるとする感性を原理とした哲学を
世界で初めて体系化。

感性論哲学は、成功と幸せと健康を実現する実践哲学。
勝つことよりも力を合わせることを成長の原理とした新しい時代をつくる。
愛の哲学。愛は理性に変わる問題解決能力と考えた唯一の哲学。
考え方や宗教の違いを乗り越え、どの哲学とも対立しない全肯定の哲学。
愛は人間の能力だから愛の実力を成長させることで、
核兵器をなくすことを超えて戦争のない世界を目指す。

これからの人間のテーマは平和。
唯一の被爆国である日本が広島に遷都し、世界平和の発信地とする。
科学技術文明の集大成として、世界中から科学者を集めて、
広島か福島に研究所を作り、核を否定するのではなく、
核廃棄物や放射能の無害化、
さらには有効利用策を創り出す時がきていると提唱。

「求感性とは」
芳村思風先生曰く
命から沸いてくる欲求が強ければ強いほど、理性が働き、
実現の方向へと進んで行きます。
理性だけでは、意志の強さは生まれません

食事も忘れ、寝るのも忘れるほど打ち込むことは、
理性で考えてもできません。
「感受性」よりも「求感性」なのですと言われている。

求めなければ入って来ません。受け身ではないのです。
求感性とは、自分が生きるために必要な情報を積極的に
求めて感じ取ろうとする力です。
命から沸いてくる欲望・欲求・興味・関心・好奇心の事です。

欲求・欲望こそが生きる力になります。
欲を捨てる必要はありませんし、なくなりません。
与えられたもの、持っているものに感謝する。
その上で、理性を手段にして、物欲を人間的な品格のあるものにする。
理性を使わず、欲望のままに動くのは野獣。
理性を手段能力として、使う事が大切です。

強い意志があれば、自分が納得できる人生を歩むことができるのです。
意志の強さは、何事もやり遂げる理性の力だと思います。
ワクワクドキドキがなければ楽しくない。

芳村思風先生はユネスコ検証前文「戦争は、人間の心の中で生まれるもの
であるから人間の心の中に平和の砦を築かなければならない」を引用して
日本人が、政界平和の盟主にならなければならない、なぜなら
世界で唯一の原爆を体験した国民だから平和を訴える権利がある。
21世紀はすべてに「平和」がキーワードになるという考えです。
これからの人間のテーマは平和。

先日宇部ユネスコ協会の会長と面談をする機会を得ました。
世界に向けて環境問題をミュージカルで提案できないかとの相談であった。
現在私が構成員として参加している「動物かんきょう会議」のキャラクターを
使って音楽劇を展開してほしいとのことでした。
私からの提案はテーマソングとして「We are the One」を使う事である。

未だ相談の段階ですのでこの先どうなるか分かりませんが実現することを願っています。

私は今年1月からロックシンガーの伊丹谷良介と組んで「うたライブ」
ロックサロンを開催している。毎月抽象概念の言葉を選びそのストーリーと
音楽を組み合わせたまったく新しいスタイルのライブである。
テーマはユネスコ憲章前文「戦争は、人間の心の中で生まれるものであるから
人間の心の中に平和の砦を築かなければならない。」
「自由と平等」に変わる21世紀のキーワードは、「平和」
我々の基本テーマ「愛と平和」と 同じである。

伊丹谷良介は「すべての武器を楽器に!」をシャウトして声を張り上げる。
平和を求めるのには真の感性が必要である。
強く求めてこそ平和は手に入ると信じている。
まさしくここにも「求感性」が存在する。
私も好奇心よりも強い「求感性」で生き抜いてきた。
皆様も心の中から沸き起こる「求感性」を大切にしてください。


船がある




そこに船があるから旅に出よう。
旅に出るため船を用意しよう。
お金ができたらボランティアに参加しよう。
ボランティアに参加するためにお金を作ろう。
夢があるから前向きに頑張ろう。
前向きに頑張れるのは夢を追い求めるからだ。

「曰わく仁者は難きを先にして獲ることを後にす仁と謂うべし」論語
(のたまわくじんしゃはかたきをさきにして
かることをあとにすじんというべし)
「先義後利」義から初めて後に利がついてくる。

旅に出るためには船を用意しなければならない。
しかし立派な船を用意しても先に操縦技術を学ばなければならない。
操縦技術を学ぶためには海を知らなければ始まらない。
海図と実際の波を見て動きと力を実感しなければならない。

大人になったら勉強すれば良いという考えで生きる子は、
大人になって成功すると傲慢になり人から嫌われる。
それは敬意と尊敬を最初に学ばないからです。
人に感謝されるにはどうすれば良いかを頭に入れれば、
その後に成功しても謙虚さは無くなることはない。
人に接するためには先に儀礼を学び、しかる後に利となる事を考える。
このことが「先義後利」である。

老後の安心安全を得るために働いて得たお金を全て貯蓄に回す。
食べたいものを我慢して、欲しい服も我慢して、行きたい旅行も我慢して、
人との付き合いも遠ざける。そしてようやく定年を迎えて楽ができると
思ったら家族も友達とも心の通じ合わない仲になっていた。

そして気がついたら身体が癌に侵されて余命いくばくもない
と医者から告げられた。枕元には溜め込んだお金の通帳が何冊もある。
「もっと好きなことをやっておけば良かった」
「もっと食べたいものを食べて、行きたいところに行けば良かった」
「もっと家族や友達と仲良くやっていれば」
これらは老人たちの最後の言葉として一番多く残された言葉です。

最近高齢者の読書会が増えている。いわゆる学び直しである。
高齢者たちが集まり本の中から言葉を選び読み合わせをする。
例えば森信三の言葉の中から章句を選びみんなで話し合う。
「人の出会いは一瞬早からず~」この時の森信三の心境を語り合う。
時代背景や作者の心理やその時に誰に向かって発したかを探る。

このような知的会話をすることにより、
認知症予防に繋がるので大いに奨励している。
私は呼ばれれば何処へでもお邪魔するのがモットーです。
読書好きな人との会話は映画を見るより楽しいのです。
最近、友人達と一緒に「糸紡ぐ会」を立ち上げました。
吉田松陰研究者を通じてご縁が生まれました。

現代の戦争について思う事。
物を奪ってでも豊かになりたいと考える人は平気で人を殺します。
西洋人の多くは神が作った人間を神に断りもなしに殺してしまう。
老人から殺して若者を残す。男は殺して女は生かして雑用をさせる。
その上に女に子供を作らせて民族まで変えてしまう。
このような悪魔の所業が長く続くわけでない。
ロシアもパレスチナも今すぐに戦争を終わらせる義務がある。

悪徳商法で金儲けをする人について思う事。
人の怨みを買って残した財産はまた人に奪われる。
一瞬の快楽を求めて生きる人には未来はない。
もちろん末代まで恨みの祟りは残る。
豊かさの意味が分からずに快楽を求める。
人間として最悪の行為である。

「和を以て尊しと為す」を理解する人は物を分け合うことから始める。
東洋人多くは仏教から学び、分け合うことを基本として教わる。
分かち合えばあり余り、奪い合えば足りなくなる。
全般的に小欲知足の精神が根付いているのです。
日本的霊性を強く信じるべきです。
この国、日本から世界を変えなければ何も変わらない。

もう地球には時間がない。そして人間の知恵にも限界を感じる。
AIとの共存共栄で解決しなければ各国のトラブルは終わらない。
人が多く死んでいく。動物も多く死んでいく。
環境が破壊されて貧困が広がり飢餓や犯罪が頻繁に起こる。

地球も人間との付き合いの限界に来ている。
エネルギーや食料や新鮮な空気も自然からの恩恵はもう望め無くなる。
自然災害が頻繁に起こるのは地球の<いかり>そのものです。

残された人間たちは新しい船を作らなければならない。
21世紀版ノアの方舟を作らなければ手遅れになる。
地球の怒りが収まるまで宇宙に逃げ出すしかない。
新しい船には新しい水夫が必要です。
もう地球には時間がない。

中国の最高指導者孫文の思想は、一種の愚民観に貫かれています。
民の自立性を認めない、超エリート主義です。
彼は、「人間や民族は生まれながらにして平等である」という
考え方を否定して、「人間の能力はもともと不平等である」という
視点から出発しています。

なぜ、この、人を馬鹿にしたような区分を設けたのでしょうか。
孫文の優劣主義は、決して愚かな大衆を蔑視するためではない。
大衆は自らを管理する能力に欠けているから、自覚に富み、
全体を見渡すことが出来る「聖人」や「賢人」が、国家や社会を管理、
統率しなければならないというのです。
それを「賢人支配の善性主義」と名づけられます。

孫文の「知難行易」にて、
第一種の人「先知先覚者」は発明家であり、
ヤフーの創設者ジェリー・ヤンとデビッド・ファイロは先知先覚者。
第二種の人「後知後覚者」は宣伝家であり、
ソフトバンク代表孫正義は後知後覚者。
第三種の人「不知不覚者」は実行家である。
Xのイーロンマスクは不知不覚者。
世界における進歩はすべてこの三種の人にかかっている。

世界が混沌として混乱しているときには
トランプ大統領のような「不知不覚」の人物が必要なのです。
果たして、日本の国にはいるのでしょうか?

日本の強みはゼロから始める創成の時に実力が発揮できるのです。
世界が注目している日本の行く末に期待を寄せているのです。
思想を持った賢人と建国に燃える戦士と新しい船乗りが必要です。

そこに船があるから旅に出よう。
旅に出るため船を用意しよう。
お金ができたらボランティアに参加しよう。
ボランティアに参加するためにお金を作ろう。
夢があるから前向きに頑張ろう。
前向きに頑張れるのは夢を追い求めるからだ。

もう時間がない!今すぐ新しい船を作ろう!


聞くと聴くと利く



先日「老人と孫」の孫から「説明をよく聞きなさい」と言われますが、
本来の聞くとはどうゆうことですか?と質問された。
改めてここで検証したいと思います。

「聞くとは」
「聞く」とは「音や声が自然と耳に入る」という意味、
また「聴く」とは「理解しようと自ら進んで耳を傾ける」という意味をもつ。
つまり、「聞く」と「聴く」の違いは
「本人が意図的に行っているかそうでないか」の違いと言えるだろう。

「聞く」と「聴く」は、似て非なる、相反する言葉というよりも、
広くカバーする「聞く」の一部に「聴く」があるという関係だ。
「聞」と「聴」の意味の違いを知るには、漢字の成り立ちをみると
理解しやすいだろう。

「聞」は、「門」と「耳」によってできている。
このうち、「門」は立ち上がった二人の直立した人間の側面を表した
象形文字。この二人の人間の間には「耳」がついており、
「響いてくる神の声をきく」というのが「聞」の原義だ。
もっと古い字形だと、「門」の上に耳があったという。
天からのありがたい声を、二人の人間が聞いている形というわけだ。

「聴」も「聞」と同じく神の声をきくという意味だが、神の声を、
よりはっきりきくことができる「神の声をきく能力がある」と、
「聞く」よりも一歩踏み込んでいる。
より能動的に意図的にきこうとする様子を表すのが「聴く」だ。

漢字「聞」の甲骨文字は象形文字であるが、実に巧みに「聞く」
という行動を描写しており、古代人の観察力と表現力に改めて感じ入る。
古代文字を分析すると、「聞・聖・聴」が同一の言葉で、
同じ語源を持っているとは驚きだ。

これに付随してきくに関連した言葉も取り上げました。

目利きとは、「目の性能が高いこと」または「目の性能が高い人」
という意味だが、美術や骨董の世界の造詣が深く、
物の価値をよく知っていること、知っている人のことをいい、
決して、大平原の狩猟民族のように、遠くまでよく見える人のことではない。
その証拠に、蝙蝠(こうもり)のように耳がよく聞こえる人を
「耳利き」とも、警察犬のように鼻の性能のよい人を「鼻利き」ともいわない。
また器物・刀剣・書画などの真偽・良否について鑑定すること。
また、その能力があることや、その能力を備えた人。
人の才能・性格などを見分けることにもいう。

目利き「心を沈めて聴き分ける」
花の声を聴く、酵母の香りを聴く、香りを聴く
お茶を聴く?花が聴く?目が聴く?
花がいかされているかを確認する問い
一つひとつの花が呼吸をしているか
花同士が互いに対話しているか
作品に風が通っていると体で感じられるのか

「聴き分ける」とは真髄を追求するところから始まり
心静かに楽しむことをいう。
私も音楽プロデューサーとして目利き(本物)に強くこだわった。
多くのものを好きにならず好きになったものを徹底的に追求した。
心静かに楽しむものとして一時ワインにのめり込んだ。
数多くの高級ワインを飲む機会に恵まれて味を聴き分けた。

しかしコロナ以降外食の機会が少なくなり
高級ワインを飲む機会も無くなったので今は試飲に自信がもてない。
常に本物と対峙していなければ低級ワインと混同することがある。
最近のチリワインはクリスタル・デキャンタに移し替えたら、
私でも即答できないかもしれない。

「聞く」とは「音や声が自然と耳に入る」という意味、
「聴く」とは「理解しようと自ら進んで耳を傾ける」という意味をもつ。
つまり、「聞く」と「聴く」の違いは
「本人が意図的に行っているかそうでないか」の違いと言えるだろう。

ラジオから流れてくる音楽を聞く。街の喧騒を聞く。
会議で怒る上司の声を聞く。子供の鳴き声を聞く。
無意識の中に聞こえてくる音の塊である。

クラッシックコンサートでショパンを聴く。
モーツワルトとの違いを聴き比べする。
意識と関心の中で脳の奥から聞こえて来る音の粒である。
この音の粒を聴き分けて指揮者を聴き分ける。

絵画館で無名の画家と著名な画家の違いを目利きする。
骨董市で真贋を恐れながらも購入した目利きの陶器類。
刀剣市で名刀と騙されて後生大事に押し入れに隠した目利きの刃物類。
素人の目利きより真贋の是非は専門家に任せるしかない。

目利きになるためには子供のころからその環境にいなければならない。
少し勉強したぐらいで贋作を見分けることは出来ない。
本物を見て、触って、箱を見て、趣を捉えて、講釈が出来なければ
一流の目利き師にはなれない。

私も音楽プロデューサーとして名乗るのであれば
最高級バイオリンのヴュータンとストラディバリュウスの
音色の違いを聞き分けたい。

ヴュータンは、18世紀に活躍した弦楽器製作者
「ジョゼッペ・ガルネリ一族」の一人。
父の「アンドレーア・ガルネリ」はアントニオ・ストラディバリウスの
兄弟子にあたる人物で、アンドレーア・ガルネリのジョゼッペ・ガルネリは
末息子でした。16億円の価格がついたヴュータンは、1741年に製造されたもので、
現在に至るまでに修理痕が一つもついていません。
もちろんひびわれなども起こっておらず300年近く前のバイオリンが
ほぼ完ぺきな状態で残っています。

ストラディバリウスは、イタリアのストラディバリウス親子が
制作したバイオリン。高額なバイオリンは多くありますが、
ストラディバリウスだけが群を抜いて高額です。
理由そのⅠ「現在が最高の状態」だからです。
ストラディバリウスの表板は「スプルース」という希少な木材を
使用しているのですが、このスプルースは切り落とされてから
約350年目辺りで最高の状態になるといわれています。
つまり、17世紀~18世紀に製造されたストラディバリウスは
現在最高の状態を迎えているのです。

理由そのⅡ「音の響き」です。ストラディバリウスと、
それ以外のバイオリンの音の響きは、比較すると違いが
すぐに分かると言われています。
その違いは音楽素人でも聞き分けることが出来るくらいで、
ストラディバリウスの音の響きそのものに
高額な価値がつけられています。

素人でもわかる音と言われてしまうと
プロが本物を外すわけにはいかないですね。
お正月に芸能人の格付け番組がありますが、普段から聴き分けを
自慢しているので子供達からワインは本物、楽器は本物かと問われますが、
画面の中のモノを見て真贋はさすがに分かりません。笑い

今回のテーマ「聞くと聴くと利く」は参考になりましたか?
喜んでいただけると嬉しいです。