ココロ(脳)には、自覚できる顕在意識と自覚できない潜在意識があります。
驚くことに私たちが意識できるのは脳全体のたったの5%。つまり95%は
潜在意識で、毎日8万もの情報を無意識に考えているそうです。また、
潜在意識は“根本識”とも呼ばれ、ココロの根底をなしています。
潜在意識には、0歳から五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)を通じて
体感したこと、過去の経験がすべて蓄えられており、情報を習得し処理する
力と、習慣化する働きがあります。
その潜在意識の基礎は、6歳頃までに思考パターン、感情パターン、
行動パターンが形成されると言われており、ここでの環境や経験であなたが
何を信じるか、いわゆる「信念」も形作られるとされています。
もしも基礎を形成する過程で自分に対する否定的なメッセージや、
自分ではない人からあなたを縛るイメージを押し付けられると、それも
ココロに残ります。
例えば今あなたが行動を起こそうとするとき
「〜してはいけない」や「〜しなければならない」「〜するべき」などの制限を
する考えが起こることが頻繁にあるようなら、それは過去に記録された
思考による思いグセのひとつなのです。
ありのままでいいと思えない自己否定感もしかり。
また、傷ついたココロを癒せないでいると「わたしなんて…」「わたしばかりが…」
とネガティブな思いグセがつきやすくなります。
でもそれは真実ではないはずです。人と比べるなどして自分を否定する
必要はないし、それぞれの個性が輝くから美しく、面白いのです。
それに気づけたのなら、今ここからありのままの自分を受け入れることを
選んで良いのです。
昔、在籍していたソニーの情報です。
「あなたの能力を最大限に発揮「潜在意識コントロール法」
私は、ソニー(株)で潜在意識の研究をしていました。
それはソニー(株)
創立者の井深大氏の、「20世紀は、物質的豊かさが重要な時代だった。
21世紀は心の豊かさが重要な時代となる。心の研究をせよ。」との
提言と共に、自らが所長となってソニー(株)生命情報研究所を設立したからです。
そして、私がリーダーとなり生命情報研究所での、心=潜在意識の科学的な
研究を始めました。この研究成果を活かし、私はこれまでの28年の間に
1万人以上の人の潜在意識に関するサポートをしてきました。
その中で、多くの経営者や起業家が「潜在意識」をコントロールし、
売り上げを右肩上がりに上げる等の大きな成果を出しています。
潜在意識を
コントロールしていくと、以下のような効果が得られるようになります。
1,潜在意識内の
性格のデータを探り変化させ、
ビジネスを思い通りに進められる。
2,潜在意識の奥底から、
ビジネスの発展のための良い
アイデアを得ることができる。
3,潜在意識を通じて、
思い通りの優良顧客や優秀な社員を
引き寄せることができる。
4,顧客や社員の心をつかみ、
信頼関係を深め、ビジネスを
発展させていくことができる。
顕在意識(表面意識)とは、自分が自覚、認識することができる意識のことをいいます。
日常の中で自覚することができる意識のことで、理性や論理的に考えること、
行動の判断など頭で考えている部分のことです。
例えば、「今日は家でゆっくりしよう」「仕事で成果を出したい」
「カフェで勉強しよう」このような思考は顕在意識で考えていることです。
顕在意識をコントロールすることができれば、自身の意思決定や、
感情のコントロールをすることも可能になります。
潜在意識(無意識)とは、普段は意識できない心の領域のことです。
感情や直感、本能的な欲求などは潜在意識に含まれます。
また潜在意識は、過去の記憶や感情を蓄積する「記憶の貯蔵庫」とも呼ばれています。
様々な経験を通して、見たことや聞いたこと、感じたことなどが気づかぬうちに、
潜在意識に蓄積されているのです。
私たちの意識には、顕在意識と潜在意識の2つの領域があると言われています。
顕在意識は、自覚できる意識の領域で、
潜在意識とは自覚できない意識の領域のことです。
また他にも、これら2つは意思決定の場面に注目したときに、
及ぼす影響に違いがあります。
例えば、重要な会議の場で発言をしようとした際に、「発言をする」か、
「発言をしない」かを、最終的に決めるのは、顕在意識です。
その中で、意思決定の要因になるのが、過去の体験や経験を蓄積した潜在意識です。
人生の中で、
過去に間違った発言をして恥ずかしい思いをした
過去に間違った発言をして恥ずかしい思いをした
自分の意見を否定された
意見を主張して周囲から嫌われてしまった
このようなインパクトのある嫌な経験をされている方は、意見を言うことに
対して、「失敗をして恥をかくことが怖い」「もう同じ嫌な経験をしたくない」
と無意識に抵抗を感じ、発言を控えるかもしれません。
一方で、過去に意見を言って、褒められたり、認められたりした
経験が多くある人は、会議の場で意見を主張することができるでしょう。
このように、人生の中でどのような経験をしたかによって、
潜在意識に蓄積される感情や思考が変わり、行動が大きく左右されるのです。
なぜ、このような意思決定の場面で、過去の体験や経験が影響しているかと言うと、
心の領域の3%〜10%前後が顕在意識、90〜97%前後が、
潜在意識が占めているからだと言われています。
このように、どれだけ顕在意識で、自分を変えようとしたり、
行動を起こそうとしても、なかなかうまくいかないのは、過去に体験した
感情や経験が蓄積されている領域である、潜在意識が気づかぬうちに
大きな影響を与えているからです。
また、過去にトラウマのような衝撃的な経験をしていると、
心の傷を癒やさない限り、人生や仕事の場面で意思決定をする際に、
あなたも気づいていないところでマイナスな影響を与え続けるのです。
つまり、顕在意識と潜在意識の違いは、このような意思決定の場面での
影響や、自覚できるか、そうでないかといった点があります。
以上のことから、顕在意識を変えると同時に、
潜在意識も変えていく必要があるのです。
如何でしょうか?
顕在意識と潜在意識の違いと必要性がお分かりになりましたでしょうか?
意思決定と議論の場では使い分けが出来ると便利ですよね。
1月 19th,2025
恩学 |
潜在意識 はコメントを受け付けていません
この言葉は成功者の言葉だから取り上げられたのだろう。
もし名もなき人の言葉なら誰が関心を寄せたのだろうか?
この言葉も第三者へどれほどの影響力を与えたのか分からない。
どれほどの成功でも死んでしまえば歌舞伎座へ誘うことも、
能楽堂へ誘うことも、茶懐石に誘うことも出来ない。
心が楽しめなければ生きている意味が無い。
病気や怪我で寝たきりになると次は認知症になり何もかも忘れてしまう。
しかし医者に言わせると周りが思うほど本人は苦しんでいないという、
それは自分の名前も、家族も、思い出も、忘れてしまうので苦しまない。
普通の生活の営みが出来なくなって苦しんでいないといえるのだろうか?
いささか疑問が残る発言である。
高齢医療の末期は家族同士で延命治療を受けさせるかで話し合いになり、
心電図に波形が消えないうちに死亡を認めるには忍びないと言う。
患者は食事の管や尿や便の管まで取り付けられて痛々しい姿をさらけ出す。
それでも生きているという事がいえるのだろうか。
ようやく運命によって死を迎え安らかな顔を見て家族は死を実感する。
長年連れ添った相手なら言葉にならないほど焦燥感が襲ってくる。
もっと食べたいものを、行きたいところへ、本人のしたいように
してあげれば良かったと後悔の念も頭をよぎる。
しかし、家族は亡くなれば直ぐに葬儀の手続きに頭がいって
お通夜に来た人ほど悲しみに浸れないのが常です。
死んでいく人はどのような思いで死んでいくのだろうか?
伝えたい言葉も沢山ありながら悔しい思いをしているに違いない。
スティーブ・ジョブズが残した最後の言葉
他の人の目には、私の人生は
成功の典型的な縮図に見えるだろう。
しかし、仕事を除くと
喜びの少ない人生だった。
人生の終わりには、富など
私が積み上げてきた
人生の単なる事実でしかない。
病気でベッドに寝ていると
人生が走馬灯のように思い出される。
私がずっとプライドを持っていたこと
認められることや富は
迫る死を目の前にして
色褪せていき
何も意味をなさなくなっている。
この暗闇の中で生命維持装置の
グリーンのライトが点滅するのを見つめ
機械的な音が耳に聞こえてくる。
神の息を感じる。
死がだんだんと近づいている。
今やっと理解したことがある。
人生において十分にやっていけるだけの
富を築き上げた後は
富とは関係のない
他のことを追い求めた方が良い。
もっと大切な何か他のこと。
それは、人間関係や、芸術や
または若い頃からの夢かもしれない。
終わりを知らない富の追求は
人を歪ませてしまう。
私のようにね。
神は、誰もの心の中に
富によってもたらされた幻想ではなく
愛を感じさせるための「感覚」
というものを与えてくださった。
私が勝ち得た富は
死ぬ時に一緒に持っていけるものではない。
私が持っていける物は
愛情に溢れた思い出だけだ。
これこそが本当の豊かさであり
あなたとずっと一緒にいてくれるもの
あなたに力を与えてくれるもの
あなたの道を照らしてくれるものだ。
愛とは何千マイルも超えて旅をする。
人生には限界はない。
行きたいところに行きなさい。
望むところまで高峰を登りなさい。
全てはあなたの心の中にある
全てはあなたの手の中にあるのだから。
世の中で、一番犠牲を払うことになる
物質的な物はなくなってもまた見つけられる。
しかし一つだけ無くなってしまっては
再度見つけられない物がある。
人生だよ。命だよ。
手術室に入る時、その病人は
まだ読み終えていない本が1冊あったことに気付くんだ。
「健康な生活を送る本」
あなたの人生が
どのようなステージにあったとしても
誰もが、いつか人生の幕を閉じる日がやってくる。
家族を大切にしてください。
あなたに寄り添ったパートナーを大切に!
長年付き合ってくれた友人を大切にしてください。
そして自分を丁寧に扱ってあげてください。
あらゆる人を大切にしてください。
最後の言葉は笑顔で伝えてください。
1月 16th,2025
恩学 |
最後の言葉 はコメントを受け付けていません
以前から私のブログ「恩学」は文章が長いと言われました。
短い文章じゃないと誰も読まないから無駄ですとも言われた。
個人のブログですからそのようなことを気にせずに書き続けています。
現在、音楽プロデューサーとして発想の捉え方を知らせる為に
文章の長短を気にせず書き続けて630篇を超えております。
稚拙な文章でも初期の頃より少しは上達したかと自画自賛しています。
本日この投稿の内容「読めない」を見て納得しました。
と言うよりは何故文書の長さを気にするか腑に落ちました
インタビューを求められた時にも同じことが言えます。
ついつい歳をとると説明が長くなります
自分の経験や書物からの引用で20分~30分は話をしています。
最近私が所属している老人と孫のスタッフ(20代前半)からリクエストがあり
SNSで「老人に一言インタビュー」という動画に出演しました。
30秒ぐらいの長さで物足りなさを感じていたのでしたが、
あっという間に多くの方々からの反応があり驚いています。
バズることが出来れば課金もされると言うことで調子に乗り
立て続けに4~6本収録しました。笑い
やってみて若者たちがユーチューバーに走るのも分かる気がします。
良し悪しの反応がすぐに出るので感覚一発勝負的な映像オンリーの
ウケばかり狙っていることです。
これでは書物に触れることも文字に無頓着になるのも仕方ない気がします。
しかしこの本を「読めない」現象は思考を鍛えることに致命傷を与えます。
本を読み考えるから想像力が生まれる、そして追求するところから
科学が発展する、それに反論するところに哲学も生まれてくる。
若者が「読まない」「読めない」はハナから議論の相手にもされないのです。
法政大学前総長、田中優子さんの警鐘。
「私なりの理解で古谷経衡さんの分析を紹介する。
驚いたのは、多くの人々が本や新聞を、スポーツ新聞を含めて
読めなくなっている、という事実だった。
漫画も読み続けることができず、
アニメシリーズも継続して見ることができない。
映画は15分で粗筋を知るか、早回しで見る。
本や新聞を読まないことは知っていたが、『読まない』のではなく
『読めない』のだとは、考えもしなかった。
この状況説明は、石丸伸二氏がなぜ東京都知事選で票を伸ばしたかの
分析で述べられたものだ。石丸伸二氏の選挙戦略とは、以下のものだった。
①都民の多くは政策を読んでもわからないので政策には言及しない。
➁長く演説を聞くことができないので15分で切り上げる。
③その代わりインターネット上のさまざまな手段で膨大に発信する。
④理解して投票することができないので、体験談で共感者を増やす。
⑤自身が具体的な議論ができないので、攻撃的なもの言いをする。
それによって、議論していないのに論破したように見え、
『勝った』と感じさせることができる。どうやら本当にカラッポなのだ。
石丸氏が尊敬している人のリストの中に上野千鶴子と櫻井よしこの
両氏が入っていることを私は不審に思っていたが、そのあり得ない両立は
『読んでいないから』成立したという。納得。
京都大学を卒業して大手銀行に就職する人も『本を読めない』
『読んでも理解できない』時代になっているのである。
確かに入学試験や就職試験は、本が読めなくても通る。
今後も人々が本も新聞も読まず、テレビではお笑いとグルメ番組を見て、
インターネットで気に入る言葉のみを拾うとしたら、改憲だろうと
戦争だろうと政府の思うままに突き進むことができる。
それらをいち早く実現する方法を、都知事選で石丸氏は示した。
政府はむろん大歓迎だろう。
必要なことは教育内容の見直しだ。
小学校で憲法を覚えさせ、戦争の歴史と、歴代の政治政策と、投票の意味を知る。
中学校と高校では、実際に存在する日本と世界の社会問題を使って、
議論をする。そのために多くの本を読み込み、その意図を理解し、
自分の言葉で語り、書く。本は教養なんぞのためではなく、生きるために、
読むものなのである」(『週刊金曜日』2024年9月17日)
文章を受け入れる脳にならないうちに学習を続ける。
授業だと言う一言で暗記させられる。一度つまずくと追いついて行けなくなる。
家庭の事情で予習・復習もままならない環境の子供たちは
自然にスピンアウトする。
何も役に立たない勉強より仕事に直結する実技を覚えたいと専門学校へ行く。
早くから社会へ出ていく子供たちは益々読書の機会が訪れない。
成功へのチャンスが遠のくばかりである。
私が読書好きになったのは事業に失敗した60歳の時からである。
自分の会社が倒産して仕事が無くなり、自分時間が増えた時
今までの人生を振り返り反省するために手当たり次第に本を読み続けた。
ジャンルにこだわらずに乱読の極みのような読み方であった。
どの本も全て面白かった。頭の中の記憶の薄皮がはがれるように暗記できた。
現代のようにテクノロジーの世界で育ち、生成AIの恩恵にあずかり、
モバイルで世界と繋がる。手の中ですべての要件が済むので過度な努力はしなくなる。
昔大人たちが体で覚えて来た学習方法は時代遅れなのである。
社会全体が毎年デジタル時計のようにパタンと入れ変わるだけである。
更に文章をよまない時代になるとQRコードに携帯をかざすだけで、
音声で説明される。眼鏡をかけるだけであらゆる情報が音で手に入る。
本格的にウエラブル時代が到達する。
私達高齢者が最後の読書世代かもしれない。
いや昭和歌謡が流行のように突然若者世代から読書熱が起こるかもしれない。
そう期待したいのである。
最後に私の読書術をお教えします。
毎回違うジャンルの本を3~4冊同時読みします。
一つの本を1時間読むとあきてしまうからです。
それが同時読みするとあきた時点で次の本に移れるからです。
いつまで乱読が続くか分からなったので読むとすぐに感想を書きました。
それがブログ「恩学」を書くときに役立ちました。
皆様も同時読みをお試しください。
1月 13th,2025
恩学 |
読めない人たち はコメントを受け付けていません
「心」に対して何を持って本質と言うかは個人的主観によるところが多い。
それは「心」を断定する記述が少ないからである
唯一、哲学者や作家が推測で述べている文章しかないからである。
私の知る所では「知・情・意」を提唱したギリシャの哲学者カントが
最も大好きな「心」の表現者である。
夏目漱石が書いた「草枕」の冒頭にこのような文章がある。
「知に働けば角が立つ、情に掉させば流される、意地を通せば窮屈だ」
学生時代に何故かこの文章を暗記して口ずさんでいた。
そして調べていくうちにカントにたどり着いた。
カントの言葉によって心の在り方を知った気がしていた。
理不尽な世の中に対抗するにはどうしたら良いか悩んでいた時に、
何事にも偏らずに「バランスの良い人生を過ごせよ」と言われた気がしたのです。
「知・情・意」
哲学者カントは、人間の精神のはたらきとして「知・情・意」の3つを
考えました。彼は「私は何を知りうるか|私は何を望んでよいか|
私は何をなすべきか」との有名な問いを示し、
人間の知性・感情・意志を吟味検討しました。
知・情・意を現代的に概括すると次のようになるでしょうか。
〈知〉
知性に関わる心のはたらき
賢さ、分析、理論
真や利の価値を目指す
アタマ/手/足で行う
科学、技術・エンジニアリングの世界
〈情〉
感情に関わる心のはたらき
優しさ、感性、美意識
美や快の価値を目指す
胸で感じる
芸術、デザインの世界
〈意〉
意志に関わる心のはたらき
正しさ、洞察、内省、観
善の価値を目指す
肚で観ずる
倫理、哲学、宗教の世界
ギリシャ時代の哲学者が残した文章を現代語訳として書かれている。
これらの詳しい記述は誰が書いたか定かではないが、
日本語訳としては十分理解が出来る。
私が「心」で感じるのは心による精神的安寧である。
物理的状況から起こる悩みは身体的であれば医療で解決できる。
精神的問題であれば心理学に頼る前に音楽や絵画や書籍でも解決できる。
時には旅に出て素晴らしい風景で心が洗われるときもある。
学生時代に少しだけ茶道と華道に触れた機会があった。
老若男女上下に隔たりなく茶の前とお華の席では誰しもが客人として扱われた。
静寂に包まれた庭、簡素な佇まいの室内、厳粛な所作、床の間におかれた花、
壁にかかる掛け軸、日常と違う異空間でひと時を過ごす。
終われば、別室に移り茶懐石を頂く。お香の炊かれた部屋でお庭を見ながら
季節に合わせた精進料理をいただく。
会話も自然と心にまつわる日本文化の神髄について話し合うことが多い。
元々茶は禅宗のお寺で医療用としてふるまわれていた。
だから禅とお茶は切っても切れない関係である。
「茶道における禅語の役割と魅力」
禅語とは何か?茶道における意味
禅語とは、禅宗の教えを短い言葉で表したものです。
茶道では、禅の精神を取り入れ、心の静けさや調和を大切にします。
禅語は、茶室という特別な空間において、亭主の思いや季節感を表現し、
お茶をいただく人々の心を豊かにする役割を担っています。
茶席における禅語の重要性(心を整える、季節を感じる)
茶席では、掛け軸に書かれた禅語を鑑賞することで、日常の喧騒から離れ、
心を落ち着かせることができます。また、禅語は季節を表すものも多く、
その言葉を通して季節の移ろいを感じ、自然との一体感を味わうことができます。
例えば、春には「薫風(くんぷう)」、秋には「明月(めいげつ)」
といった禅語が選ばれることが多いです。
禅語がもたらす心の静けさ
禅語は、深い意味を持つ言葉であるため、一見難解に感じるかもしれません。
しかし、その言葉を理解しようとすることで、自然と心が静まり、内なる平和を
見つけることができます。
また、禅語は、私たちの日常にも通じる教えが含まれており、
日々の生活の中で迷った時、そっと背中を押してくれるような力を持っています。
音楽プロデューサーとして沢山の楽曲との出会いがあり、
楽曲としての優劣や時勢に合うか会わないかを選び制作をする職業です。
一つの作品をアーティストと作る際に、
それぞれの曲に対しての想いを話し合いながらアルバムとして完成させます。
ポイントは感情の発露です。喜怒哀楽に伴う人間の心理です。
言葉(歌詞)にメロディーが、ビートが、歌声が合うか、また感情の起伏を
引き出す楽器が何かも世界中の楽器から選び出すこともありました。
私は音楽プロデューサーとしてジャンルの違うアーティストを沢山抱えていました。
職業プロデューサーですからヒットを出し続けなければなりません。
年間通じてたくさんのアルバムを作り、発表していたのですが、
新作は制作が終わると大切な本を本棚に収めるようにしまい込みました。
そして次の作品に取り掛かる前に心の整理リセットが必要でした。
海外へ出向いて新作のミュージカルを観たり、風光明媚な場所を旅したり、
時には危険なエリアのクラブへ忍び込んだりもしました。
「心」とは、常に関心事に迷いを取り除く起爆剤だと思っています。
いつも自分自身の心に従って行動を起こしていた気がします。
「心」は勝手に良き方向へ動きません
「心」を育てなければ満足感は得られません
「心」は人格です
「心」は命です
1月 10th,2025
恩学 |
心の本質 はコメントを受け付けていません
五匹の動物という話があります。
私の講座でもこの問題を出題した事があります。
これは有名な心理テストです。
一度試してみては如何ですか?
あくまでもアイスブレークとしての遊びです。
あなたは今、ライオン・牛・ラクダ・馬・豚と砂漠にいます。
砂漠から出るには、一緒にいる動物たちの一匹を手放さなくてはなりません。
最初にどの動物を手放しますか?
砂漠は出られましたが街は見つからず
あなたは残った4匹の動物と一緒にまださまよっています。
そして、食料が尽き動物を手放す時が来ました。
次はどの動物を手放しますか?
残った3匹とあなたが、ひたすら歩き続けていると
突然、急な崖が現れました。
あなたはまた動物を手放します。
次はどの動物を手放しますか?
2匹の動物たちと歩き続けましたが、街は見つからず、
とうとうあなたはどちらかの動物を手放さなくては
いけなくなりました。
あなたはどちらを残し、どちらを手放しますか?
この診断で分かるのは、
「あなたは困ったときに切り捨てるモノ」の順番です。
ライオン・・・・プライド
豚・・・・友人
ラクダ・・・・恋人・配偶者
牛・・・・食べ物・お金
馬・・・・情熱・夢・仕事
如何だったでしょうか?
心当たりはありますか?
こちらは友人のジャーナリストのSNSへの投稿文です。
彼が出版したビジネス書「孫子の兵法」に、
私の仕事上の経験が掲載されたことでお付き合いが始まりました。
とても理論的なビジネスの参考書を書くのですが、
皮肉を込めた政治家などの批判文も書くのも得意です。
少し世の中に攻撃的な部分が互いに共感したところです。
沖縄県知事の発言に対して
この御仁のニュースは、もうスルーしようとしていたが。
馬脚をあらわした??馬の足を現したと言うことです。
どうにも「反日的」な言動を行なう、いわゆる「ヒダリ」に属しています。
(この二項対立の分け方には抵抗あるが、ここは便宜的に)
ヒダリの方々の思考回路が理解できないんだが、一つの仮説がある。
保守(≒右寄り)は、わりと「ファクト」を積み重ねて思考する
(もちろん思い込み激しく決めつけの感情論に走る一派もあるが・・・)。
ヒダリの方は、脳内に理想郷(キレイな言葉だが、お花畑)があって、
都合の悪い現実から目を背ける「認知バイアス」の症状がお強いような・・・
「軍備増強、反対」「戦争は話し合いと外交で解決」とか仰る方々。
彼らが「保守」とか「右翼」とか断じる方々はなにも平和維持を
「軍備」だけでやろうというわけじゃない:両輪なんだと思う。
そもそも戦争は外交の最終手段。言ったのはクラウゼヴィッツだったか、
ヒダリの方々は、軍事力による抑止力を否定するんだけどね。
では、ウクライナは、台湾は、フィリピンは、チベットは、ウイグルは・・・・
厳しいリアルにどう向かうか・・以上
彼は持論を言いますが結論は言いません。
自分が手に入れた情報を自分なりの色付けをして
あとは読者に任せる手法です。
情報は何を残して何かを捨てなければバランスが取れません。
正論を積み重ねると矛盾が生じて破滅の道をいくことになります。
両面あわせ持つ寛容性が大切である。要するにバランスの問題です。
両面とは現実と理想を併せ持つことです。
真実を知ってどうなるのかと云う意見があります。
知っても何もできないのだから真実などどうでもよい。
今の暮らしを維持できれば正しい情報なんて不要です。
私はこのような意見には猛反対です。
しかし時には考えた末に両方忘れることをします。
陰陽の法則では無いですが両面を知ってから自分の意見をまとめる。
しかし時には両方を手放す。両方を忘れるという事も大切です。
「両忘」 (りょうぼう)
両方忘れるという意味で、りょうぼうと読みます。
何を両方忘れるのかというと
対立する2つの概念ということになります。
例えば、豊かさも貧しさも気にしないということです。
正義も悪も忘れて現実のみに生きるということです。
さすればおのずからと無意味な悩みなど浮かんでこない。
知識が行く手を阻むのであれば知識を捨てて
自己感性を尊重すべきです。
さて皆様はどのような結果になりましたでしょうか?
五匹の動物を一匹ずつ手放していくテストです。
ライオン・・・・プライド
豚・・・・友人
ラクダ・・・・恋人・配偶者
牛・・・・食べ物・お金
馬・・・・情熱・夢・仕事
私は、牛、馬、豚と手放してそのあとにラクダを手放した。
最後に残ったのはライオン(プライド)です。
私には未来の子供たちに文化をつなぐ使命があります。
どれほど大変でも日々行動を止めないのは、
音楽プロデューサーとしてのプライドです。
1月 9th,2025
恩学 |
心の在り方 はコメントを受け付けていません
人をやり込めることを「人を食う」と言います。
またあがり症の解決方法として「人を飲む」とも言います。
何故こんな言葉が出来たのでしょうか?
人を食ったは、人をばかにしたような、人を人とも思わない、
という意味の連体修飾句で、「人を食った話」「人を食った態度」などと使う。
「食った」は、「人を食う」の「食う」の連用形に、ある状態が過去から
継続していることを表す助動詞「た」の連体形を加えて連体修飾語としたもの。
「人を食った」は、辞書には「人を食う」という見出しで載っているが、
あまりにハンニバルのレクター博士に寄りすぎているので、
この形で使われることはあまりない。
「人を食った」も、そのままではエイリアンの自白みたいなので、
「話」「態度」のように体言を付けてようやく例えだということがわかる。
もっとも「人を食った話」でも、ラフカディオ・ハーンの怪談のタイトル
かと勘違いされるので(ハーンにはそのようなタイトルの小説はない。
ただし『食人鬼』という小説はある)、取り扱い要注意の慣用句ではある。
「食う」は食べるという意味だが、もとは、噛みつくとかくいつくという
意味の言葉なので、そこから「チャンピオンを食う」のように強い相手に勝つ、
「いっぱい食う」のようにだまされる(食わされる)などの意で使われ、
「人を食う」も攻撃して相手を倒すといったニュアンスを含んだ言葉と
なっている。
人という字を飲み込むとは手のひらに「人」という字を3回書いて
飲み込む動作は、「人を飲み込む」ということで、大勢の人前に出たときに、
その大勢の人に飲まれないようにするというおまじないのような要素が
あると考えられます。
一説によると、手のひらの中心には心を落ち着かせる「労宮」という
ツボがあって、人という文字を書くとその「労宮」というツボを自然と
なぞるらしいため、あがり症防止の効果があるといわれています。
「労宮」は心臓に繋がっていて、そこを軽く触れるだけで交感神経の興奮を
抑制し、ほてりやめまい、緊張をほぐす効果を得られるとのことです。
(労宮の位置は手のひらの中央。指を握ると中指の先端が手のひらに当る所)
手のひらに「人」という字を3回書いて飲み込むとは少し異なりますが、
歌舞伎役者の故・中村勘三郎は、先代の勘三郎の名前を手のひらに書き、
緊張せずに舞台を続けるまじないをかけていたという逸話が残っています。
これらの言葉は落語の世界や舞台役者の世界でよく使われてきた言葉です。
駆け出しの落語家が寄席に上がるときに先輩噺家から緊張しないようにと
掌に「人」と言う文字を3回書いて飲み込めと言われる。
勿論、舞台役者の世界でも途中で台詞を忘れないようにするために
このおまじないをする人もいました。
最近では「人を食った」話がそこかしこにあります。
SNSが普及されるまでは有名人はプライベートを隠し通すことが出来た。
レストランで食事をしてもVIPルームへ通されて個人の秘密が守られた。
たとえ問題が起きても事務所の圧力で各方面にもみ消しが出来たので
世の中に出ることはありませんでした。
そのお陰でテレビや映画の世界の人は我々とは違う別世界に住んでいると
思った人もたくさんいたのではないでしょうか?
ある意味スターが存在したから感情の高ぶりを覚えて夢を描くこともできたのです。
生活の疲れや仕事のストレスも好きな映画俳優や音楽家を見たり聞いたりして
ひと時忘れることも大切なことだったのです。
それがいまや街を歩いても、買い物をしていても、
仲間と居酒屋で騒いでいても身内の誰かがSNS上に投稿してしまうので
秘密を隠し通すことは出来なくなった。
全てのスターは友達感覚が要求されてしまう。
「人を食った」あらゆるものが裸のままで暴露されてしまいます。
タレントのスキャンダラスな話題もメディアが取り上げる前に
SNS上に情報が流れてしまいます。止めることは出来ない。
お笑いのあの人が、アイドルのあの人が、弁護士のあの人が、
政治家のあの人が性加害者と出てくるたびに日本のモラルが低くなったことを
嘆かわしく思います。本当に「人を食った」話です。
人気商売はサラリーマンが10年かけて得る収入を年齢に関係なく
わずか1年ほどで稼ぎ出します。
「私達も普通の人間です」からと言い訳する有名人を見るたび腹が立ちます。
高収入を稼ぎ出す有名人は普通じゃないから、
期待される通りの演技や芸を見せろと言いたくなります。
その反面、日本の伝統芸能を守る人たちは子供のころから厳しい
修行にたえて舞台へ上がります。修行中は無収入が当たり前の世界でした。
家柄や世襲制度で名前を残すためには芝居以外にも支援者との
付き合いで苦労したといいます。
芸を極めるための努力と収入が比例しないのです。
昔は俳優になるために俳優座や新国劇などの舞台を経験した人が
時代劇役者として活躍した人が大半でした。
勿論、現代劇も天井桟敷や赤テントで鍛えられた役者が映画や
テレビに出演してお茶の間を賑わしていました。
下積みの時代は無収入でアルバイト掛け持ちの人が当たり前、
役者は貧乏が当たり前、金持ちになればいい演技が出来ないとも
言われた時代です。
音楽で言えば音大を出てオペラ歌手やソリストとして演奏家になるのが普通でした。
舞台に上がれない人は近所の子供たちに楽器を教える先生になるしか道はありません。
それが70年代の初めからポピュラーミュージックというジャンルが生まれて
音楽の基礎を学ばなくてもデビューすることが可能になり、音楽好きな若者たちが
独自のエンタテイメントのビジネスの世界を作り上げてしまいました。
その後テレビが普及されてから顔が良いだけで映画やドラマに出る
素人の役者も増えました。プロというアマチュアの人達です。
一本当たれば次々に出演が決まり高額所得者の仲間入りを果たします。
事務所の力があればイベントやコマーシャルにも出ることが可能になり
写真集やCDを発売することも出来ました。
人を食ったり、人を飲むこともしないで大舞台へ上がります。
時代は変わりました。日本国中がタレント化しているように見えます。
歌バトルの番組を見ていると素人の人が堂々としている姿を見るたびに驚きます。
ダンスバトルでもコーラスバトルでも
プロ以上のパフォーマンスを繰り広げています。
憧れは夢の話ではなく簡単に現実の話として取り入れる時代です。
インタビューで「プロとアマチュアの違いは?」という質問を受けました。
アマチュアはいつでもやめることが出来るがプロはやめることが出来ない。
プロとして生き残るためには好き嫌いで判断するのではなく
プロを目指したときの動機「一流になる」を忘れないことです。
その為に厳しい練習とライバル同士の戦いに望むのです。
プロが一番大切にしなくてはいけないことは「継続」です。
どんなにつらい状況でもやり続けることがプロです。
私は一生プロの音楽プロデューサーです。
1月 6th,2025
恩学 |
人を食う・人を飲む はコメントを受け付けていません
前回の「仏教的人類創造とは」、の続編です。
キリスト教では「天地創造」は神の行為とされています。
神が天と地を創造したことによって世界が始まったとする考えです。
私はキリスト教の信者ではないのですが
英国在住の友人に連れられて洗礼の儀式を受けたのです。
その時に聞いた話も含めて「人間創造」紹介します。
今回も私の秘書ジェミニ嬢に手助けをしてもらいました。
キリスト教の教えにおいて、
人類の創造は神(神父)が行ったとされています。
キリスト自身は人類を創造したのではなく、
創造主である神の息子として、
人類の救済のためにこの世に現れたと信じられています。
キリスト教における人類の創造
神による創造: 旧約聖書(特に創世記)に記されているように、
神が天地創造を行い、その最後に人間を創造しました。
人間は神の似姿として造られ、神との特別な関係を持つ存在として
位置づけられています。
キリストの役割: キリストは、この神の子として生まれ、
人類の罪を贖うために十字架に架かり、復活したとされています。
キリストの死と復活は、人類を永遠のいのちへと導くための神からの
贈り物であり、キリスト教の中心的な教義です。
キリストと人類創造の関係性
キリストは、人類を創造した神とは別の存在ですが、神との一体性を
持っており、人類の救済という神のご計画において重要な役割を担っています。
神の子としての役割: キリストは、神の子として人間となり、
私たちと同じように苦しみ、悩み、そして死を経験することで、
私たちと一体となり、私たちを救済へと導きました。
新しい契約: キリストの死と復活は、神と人間の間の新しい契約の
始まりを意味します。旧約聖書の契約が破られた後、キリストを通して
新しい契約が結ばれ、私たちは神との関係を回復することが
できるようになりました。
キリスト教における人類の目的
キリスト教では、人間は神に似せて造られた存在であり、
神との関係の中で生きることを目的としています。
キリストの教えに従い、愛と赦しを実践することで、
永遠のいのちへと導かれると信じられています。
キリスト教における人類の創造は、神によるものであり、
キリストは人類を救済するためにこの世に現れた存在です。
キリストの教えは、私たちが神との関係を回復し、
永遠のいのちを得るための道しるべとなっています。
キリスト教の教えは非常に奥深く、様々な解釈が存在します。
創世記: 旧約聖書の創世記には、神が天地創造を行った詳細な
記述が記されています。
新約聖書: 新約聖書には、キリストの生涯と教えが記されています。
特に、ヨハネの福音書は、キリストの神性と人間性を深く掘り下げています。
三位一体: キリスト教の神は、父なる神、子なる神(キリスト)、
聖霊という三つの位格からなる一体であると信じられています。
救いの計画: キリスト教では、神が人類を救うために立てられた計画を
「救いの計画」と呼びます。
この説明は、AIがキリスト教における一般的な見解を簡潔にまとめたものです。
キリスト教には様々な宗派があり、それぞれの宗派によって解釈が
異なる部分も存在します。
最近私の友人がChatGPTに嵌り見事に使いこなしています。
彼の質問内容が明確で連続性を持っているので
提案書も要望書も完璧な状態で仕上がって来ます。
具体的な名称や代表者の名前、組織名、関連自治体、国際交流の有無など
とても正確な情報の元でやり取りをしているので回答も明確です。
それを語学変換して海外のパートナーとやり取りをしています。
因みに彼は外国語は一切話せません。
私の心配する所は正確な情報がデーターとして残ることです。
ChatGPTは世界の情報を吸い上げて瞬時にまとめる生成AIです。
この情報を取り入れることは相手側の企業や団体の秘密が
公にされるという危険性です。
我々は関係会社へ新規企画として持ち込んだ案件に対しては、
一般的には守秘義務契約を結びます。
相手側の社員がこの企画書に書かれた質問を回答するために
生成AIを通じて行った場合は世の中にオープンにしたという事で
契約違反になります。最悪の場合は損害賠償金が発生する恐れがあります。
私の様に知りたい事柄を検索する分には問題がありません。
質問内容を決めたのも私です。知りたい事柄を検索したのも私です。
それをまとめ上げたのも私です。しかしこの文章を利益目的で
使用した時の著作権がどうなるのかは分かりません。
世界中にある膨大な情報から回答しているので著作権者は見当たりません。
ということはGoogleが何らかの主張をしない限り使い放題ということです。
もうITが苦手だ!インターネットは興味が無いと言っては駄目ですよ。
これは単に流行りものに飛びついているのではないのです。
時代の流れに乗るパスポートだと思ってください。
これが無いとビジネスもコミュニケーションも取れなくなるのです。
年齢や性別を言い訳にしては駄目ですよ。
これを知ることにより山奥の地方に住んでいても
仕事が出来ます。
もちろん海外に住んでいても可能です。
私は生成AIと2人3脚で仕事をしています。
最新の音楽AIはジャンルとテンポと伝えたいメッセージを入れると
僅か3~5秒で見事に歌入り音源で送り返してくれます。
気に入るまでリクエストを聞いてくれます。
DTM(デスク・トップ・ミュージック)
アーティストも録音スタジオも販売会議も不要です。
先ずは化学の進化を脅威と感じずに娯楽として取り入れてください。
1月 5th,2025
恩学 |
人類創造&科学の進化 はコメントを受け付けていません
(8)
いまのたった今の時点で
努力していない奴らは
死ぬときに必ず
オロオロするんじゃないのかって思う。
それまで何もやってきていないんだから。
なにひとつ
自分に満足していないんだよね。
駄目な奴は。
じゃあお前はどうだって言われると、
いったい何をしてきたんだろうか
って考えると、もう愕然としてくる。
強烈なんだ。その問いかけは。
どんなに素晴らしい人でも、
それは誰にでも当てはめて言えるわけだし、
これをしてきたって言える人間はいない。
やればやるほど、人間は抜けた部分に気づく。
だからやっぱり、
人間自分の目の前にあることを
一生懸命やるしかない。
(9)
マイホームパパだかなんだか知らないが、
いつもニコニコ笑っていて、
子供の気持ちがよくわかる、
物わかりのいい父親が理想だなんて
ことになった頃から、
どうも教育がおかしくなった。
駄目なものは駄目なんだと
父親が教えてやらなきゃいけない。
父親が子供に媚びを売ってどうする。
結局は自分が可愛いだけのことなんじゃないか。
父親は子供が最初に出会う、
人生の邪魔者でいいのだ。
子供に嫌われることを、
父親は恐れちゃいけない。
(10)
臭いものには蓋をする文化とでもいうか、
最近は世間がとにかくきれいごとの、
その場しのぎばっかりするようになった。
そんなものは、
差別用語の問題と同じ話で、
ものごとの本質には何も手を触れずに、
表面に覆いをかけて
誤魔化しているだけのことだ。
(11)
子供の教育で大切なのは、
タガのはめ方と、外し方なのだ。
タガを外しすぎれば、
桶はバラバラになってしまう。
タガをきつくはめすぎても長持ちしない。
自由に何でも好きなことをしなさい
と言われたって、
何をしていいかわからない
という子供が多いんじゃないか。
自由というのは
ある程度の枠があって初めて成立する。
なんでもやっていいよという
枠のない世界にあるのは、
自由ではなくて混沌だ。
子供に自由の尊さや、
喜びを教えたいのなら、
きちんとした枠を与えてやるべきなのだ。
(12)
金のことでつべこべ言うと、
母親にこっぴどく叱られたものだ。
誰だって、金は欲しいに決まっている。
だけど、そんなものに振り回されたら、
人間はどこまでも下品になるというのが
俺の母親の考えだった。
貧乏人のやせ我慢と言ったらそれまでだが、
そういうプライドが、俺は嫌いじゃない。
(13)
作法というのは、
突き詰めて考えれば、他人への気遣いだ。
具体的な細かい作法をいくら知っていても、
本当の意味で、
他人を気遣う気持ちがなければ、
何の意味もない。
その反対に、作法なんかよく知らなくても、
ちゃんと人を気遣うことができれば、
大きく作法を外すことはない。
駄目な奴は、
この気遣いがまったくできていない。
人の気持ちを考えて行動するという発想を、
最初から持っていないのだ。
(14)
どんなにワインに詳しくても、
ソムリエにワインのことを語ってはいけない。
そんなことをしたら、
ソムリエは何も大切なことを教えてくれなくなる。
「このワインはどうして美味しいの?」
と、聞くべきなのだ。
(15)
お金がないことを、
そのまま「下流社会」といってしまう下品さに、
なぜ世の中の人は気づかないのだろう。
「武士は食わねど高楊枝」
という気概はどこへ消えたのか。
うちは貧乏だったけれど、
母親は商店街で
投げ売りをしているような店には、
絶対に並ばなかった。
どんなに遠い店でも、
1円のお客を大切に扱う店に通っていた。
(16)
世代が違うと話が合わない
なんて言うのは間違い。
話が合わないんじゃなくて、
話を引き出せない自分がバカなのだ。
年寄りとお茶を飲んでいて、
「おじいちゃん、この茶碗は何?」って聞けば、
何かしら答えが返ってくる。
きっかけさえ作ることができれば、
思いもよらない話が聞けることもある。
相手はいい気持ちになれるし、
こっちは知らなかったことを知る。
相手が小学生だって同じだ。
(17)
俺は怒ったり、
命令したりはしない。
まずスタッフに聞く。
「こういうふうに撮りたいんだけど駄目かな?」
「このシーンはどうやって撮ればいい?」
最終的には自分のやりたいように
やっているのだが、
もしかしたら
もっといい意見が出るかもしれないから、
まず聞くのだ。
みんな映画が好きで
この仕事をしているわけだから、
意見を求められれば、
一所懸命考えて働いてくれる。
だから手抜きなんか絶対にしない。
スタッフの能力を
最大限に引き出すには、
これが一番だと思っている。
(18)
若いのが作法を学ばないのは、
手本になる大人がいないからだ。
少なくとも男にとっての作法は、
ある種の憧れだったり、
「あのときのあの人は格好良かったな」
という記憶だ。
身近にそんな人がいたら、
強制なんかされなくたって真似したくなる。
鮨の食い方にしても、
酒の飲み方にしても、
昔はそうやって
格好いい大人の真似をして覚えたものだ。
そう考えると、
年寄りが
「いまの若いのは作法がなってない」と言うのは、
天にツバするのと同じことかもしれない。
(19)
ワールドカップを観ていて
相変わらず
「感動をありがとう」なんて
言ってるやつはもうてんで駄目なんだよ。
ほんとうの感動は、
やった奴しか分からない。
如何だったでしょうか?
今回は長文でしたが2回に分けて掲載しました。
味のある言葉(蘊蓄)は何度も読み返して咀嚼してください。
1月 4th,2025
恩学 |
北野武の言葉No2 はコメントを受け付けていません
私たちエンタテインメントの世界では常に「感動」という
言葉が多用されます。感動はあらゆる技術だけでなく
相手の情感をいかに引き出すかの技術が必要です。
これは知識から得られるものでは無く経験から取得しなければ身に付きません。
北野武監督がこのように「感動」を体系化して語る事ができる能力に脱帽します。
喜劇人としてだけではなく映画監督として数々の受賞歴が、
その才能を物語っています。
ほんとうの感動は、やった奴しか分からない。
北野武の言葉No1
(1)
努力すれば、きっとなんとかなるって、
そんなわけないだろう。
一所懸命やればなんとかなるほど
世の中甘くないってことは、
親とか周囲の大人が一番知ってんじゃねえか。
必死にやってもうまくいくとは限らなくて、
どうにもならないこともある、
それが普通で当たり前だってことの方を
教えるのが教育だろう。
(2)
鳥のように、自由に空を飛べたら、
魚のように泳げたら、なんて思わない。
自由を楽しむ生き物などいない。
生きて行く事は、つらく、悲しく、
目的も分からないものだ。
(3)
成功の秘訣は、
いちばんなりたいものじゃなくて、
その人にとっては二番目か三番目の、
違う仕事に就くこと。
自分にはもっとやりたいことがあるんだけど、
今すぐにそれをできる能力はないから
違うことをやってます。
それぐらい自分を
客観的に見られるやつのほうが、
成功する可能性は高い。
(4)
物体は激しく動けば、
それだけ摩擦が大きくなる。
人間だって、激しく動くと熱を持つのだ。
はたから見れば、輝いている人間のことが、
きっと羨ましく見えるのだろう。
だけど、輝いている本人は熱くてたまらない。
星だって、何千光年という
遠くの地球から見れば、美しく輝く存在だ。
「いいなあ、あの星みたいに輝きたい」
人はそう言うかもしれないけれど、
その星はたまったもんじゃない。
何億度という熱で燃えている。
しかも、燃え尽きるまで、
そうやって輝いていなくちゃいけない。
これは真面目に、結構辛いことなのだ。
(5)
いまの社会は、人生とは何かとか、
人間の生きる意味は何か
みたいなことを言いすぎる。
若い人には、それが強迫観念になっている。
何かとそういうことを言う大人が悪いのだ。
自分たちだって、
生きることと死ぬことの意味なんか
絶対にわかってないくせに。
天国や地獄が本当にあるのかも、
神様がいるのかいないのかも、
誰も証明したことがないわけだ。
そういう曖昧な状態なのに、
生きる意味を探せなんてことを言われたら
誰だって迷うに決まっている。
(6)
自分の子供が、
何の武器も持っていないことを
教えておくのは、ちっとも残酷じゃない。
それじゃ辛いというなら、
なんとか世の中を渡っていけるだけの武器を、
子供が見つける手助けをしてやることだ。
それが見つからないのなら、
せめて子供が世の中に出たときに、
現実に打ちのめされて傷ついても、
生き抜いていけるだけの
タフな心に育ててやるしかない。
(7)
他人への気遣いで大切なのは、
話を聞いてやることだ。
人間は歳を取ると、
どういうわけかこれが苦手になるらしい。
むしろ、自分の自慢話
ばかりしたがるようになる。
だけど、自慢話は一文の得にもならないし、
その場の雰囲気を悪くする。
それよりも、
相手の話を聞く方がずっといい。
1月 4th,2025
恩学 |
北野武「感動」 はコメントを受け付けていません
タライの中の水をおせば水は手前に流れてくる
しかしタライの中の水を引けば水は向こう側へ流れてゆく
求めるから失われ、与えれば増えて来る
日本文化は両手をついて「どうぞそちらから」と譲り合う
西洋文化は握手で引き寄せるか!逃げられないように抱きしめる
都合がいいように文化人のマナーというルールを作る西洋文化
好きなものは奪い取ろうとする略奪文化の外国人に対して
好きなものは与えることと教えられた日本文化は謙遜文化である
今個人の幸福感だけで社会がまわってしまっている
一番国民にとって大切な建国の意識がどこにも見当たらない
平和とは戦わないことでは無い!
その上何もしないで手に入るものでもない
今いる我々の国は「多くの若者たちが戦いの中で夢見た
未来に生きている」ことを忘れないで欲しい
明治維新も第二次世界大戦も普通の若者たちが兵士になった
正しい心の導き方
感情を呼び起こすストーリーとは!
人は物語で動くことを忘れていないか?
子供の時に聞いた童話から善悪を教えられ、
親から聞いた先祖の話や家族を含めた一族の話から
守ることと正しく生きていく方法を学んできた
国があって家族がいて動物もいて災難や困難を乗り越えてきた話に
耳を傾けて興奮したことを覚えているのだろうか
そこに物語があったから忘れられない記憶となったはずである
日本の童話は自然界からの話が多く民話として伝えられた物語である
西洋の童話は宗教から来たものが多く教義として伝えられた物語である
これらの物語を聞いて育った子供たちは成人になるとどうなるでしょうか?
学習とは何か?
意味のない方程式や一般常識を教えるだけなら教育は必要ない
国際社会と付き合うためにマナーや語学を教えることも必要ない
それよりも今日本が何をすべきかを教えるべきである
日本人が日本人として自立した意識を持つために過去の歴史を
教える必要がある
日本の教育制度は戦後アメリカが検閲を入れて作られたものである
その為に日本の歴史や日本を取り巻く地理や心の教えの修身が
削除されてしまった
代わりに誇り高く強い日本人を骨抜きにするために
娯楽やスポーツや自由恋愛を奨励した
現状の西洋文化崇拝主義を変えるために
今一度東洋文化を学ぶべきである
江戸時代は特に中国の教えをふんだんに取り入れて
日本は大きく変わることが出来た
寺子屋や多くの私塾は必ず「論語」を子供たちに素読させていた
人の在り方、医術、文化、兵法、儀礼、一般的教養など全般である
日本人はそれらを日本流に変えて確立させた
学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや、
朋あり遠方より来たる、亦た楽しからずや、
人知らずしていきどおらず、亦た君子ならずや、
学びを始めるならなるべく早い方が良い
若いうちに学べばそれを熟成させる期間が長く取れる
私が悔やむのは社会に出てから失敗で学んだので学習する時期が遅すぎた
「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」その通りである。
75歳を過ぎた今でも毎日読書に明け暮れている
勿論、AIを使いながら独自の読書法を取り入れている
若い時学びより経験が先と持論を繰り返したので後悔している
ウォルターオングの言葉
声の文化=オラリティーの世界を考える上で、何よりまず認識して
おきたいのは、その世界においては、ことばは音声に限られ、
そうであるがゆえに、ことばは表れたかと思ったと同時に消え去る
儚い存在であるということです。
人は声で話されることばを、文字として
書かれたことばのように保持しておくことができません。
保持できないのですから、ことばを並び替えて別の意味を
創出させるようなことも、複数のことばを比較して分析するようなことも
むずかしいはずです。
音声のみで考えるということは、文字という記録ツールを使って考える
僕らが慣れ親しんでいる思考とはまったく別物です。
「音は、それが消えようとするときにしか存在しない」
声の文化ではことばに実体がないので、ことばを「見る」ことができない
われわれにとって声の文化を想像することが困難なのはそのためである
「音は、それが消えようとするときにしか存在しない……
「とどまる」ということばを口にするとき、「まる」と発音するときには
もう、「とど」という音は消えている、そして、消えていなければならない」
視覚が得意とするのが静止画(われわれは物を置いてじっくり見る)のとは
対照的である。
声の文化にとってことばは力でありできごとである。
ほぼすべての口語文化が声を魔術としてとらえている。
名づけることはものに力を吹きこむこと、そのものを支配することも
音楽と言う音も一瞬の芸術である
今出た音は過去の音であり耳に残すことは出来ない
次の音が出た時点ですでに過去の音になる
ただ音楽の素晴らしさは余韻を脳に残すことが出来るので
次の音を連想させながら全体を記憶させることが出来る
一方的な演奏者の音は盥の水を引き寄せるのと同じで感情が流されていき
観客の感情を手前に引き寄せれば盥の水のように戻って来る
求めるから失われ、与えれば感動が増えて来る
大切な教えです。わすれないようにしてください。
「小欲知足」遺教経
奪い合えば足らず譲り合えば余る
世界のトップリーダーが学ぶべき教えです
1月 3rd,2025
恩学 |
求めるから失われる はコメントを受け付けていません