若い人からの質問で一番多いのが「成功の法則」ですが、
成功とは目指すゴールにたどり着いた人だけを言うのではないと答えています。
成功は記録として一過性のものであり永遠に成功の余韻にひたる訳にはいきません。
成功に到るまでのプロセスが最も大切で、そこに人間的成長と思考の成長が
兼ね合わされて次のトライに大いに役立つのです。
また成功の法則はエンドレスで無限に続くので終わりはありません。
成功は時期が過ぎると古い自慢話になる恐れがあります。
登山家栗城史多のコメントより
成功の反対は「何もしないこと」
私は山登りを通して、苦しみには3つの特徴があることに気づきました。
1つは、「苦しみと闘おうとすればするほど、その苦しみは大きくなっていく」。
もう1つは、「苦しみから逃げても、どこまでも追ってくる」ということです。
人間の身体器官の中で、酸素の使用量が一番多いのが脳だといわれています。
そのため、苦しい時に焦ったり、熱(いき)り立ったりすると、脳がどんどん
酸素を消費してしまいます。
7500メートル以上の世界では、少ない酸素をいかに無駄なく取り入れるかが
大切なので、体力的に、精神的に本当に苦しい時に、あえてそこで
「ありがとう」と言いながら登るんです。
そうやって苦しみを受け入れると、不思議と心が落ち着いてきて、
無駄な酸素を使わずに山を登ることができるんです。
そして特徴の3つ目は、「苦しみは必ず喜びに変わる」ということ。
例えば、高尾山のような低い山は簡単に登れてしまうので、
登頂してもあまり感動は沸いてきません。
しかし、8000メートル峰を登頂した時は、それまでの苦しみが大きい分、
得られる達成感も半端じゃない。
「苦しみの分だけ、喜びがある」
だから、苦しみは決して悪いものじゃないと考えています。
信条としてきたことはいろいろとありますが、まず「一歩を踏み出す」こと。
そして「諦めない」ということが、私の生きる姿勢かもしれません。
山登りでは1歩を踏み出さないと頂上にはいけません。
登山に限らず、地上のいろいろなチャレンジにおいても、「できる」
「できない」と考える前に、まずはやってみることが大切だと思うんです。
私がエベレストを登頂できずに下山して帰ってくると、周りからは
「失敗した」って言われるんです。でもそれはちょっと違います。
成功の反対は失敗ではなく、本当の失敗とは「何もしないこと」です。
私は山登りを通して、挑戦し続けていく先に必ずや登頂や成功があるのだと
確信しています。
だからこそ、諦めないことの大切さを伝えていきたいと思っています。
“終わりなき頂上への挑戦”より
出典元:(プロフェッショナルへの道 致知出版社)
音楽プロデューサーなので山には登りませんが、
「苦しみと闘おうとすればするほど、その苦しみは大きくなっていく」。
「苦しみから逃げても、どこまでも追ってくる」という経験を何度もしています。
これに対してのアンサーなのですが、自分で立てた企画ならどれほど大変でも
あまり苦しみを感じたことがありません。
しかし会社の命令で無理やりに押し付けられた仕事は苦しみが生まれます。
苦手な分野での仕事はアイデアも出ずに逃げたくにも成ります。
私のような自我の強いプロデューサーはあまりこのようなケースは無いのですが、
一般的なプロデューサーは売り上げを上げるための要求に対して拒否権はありません。
その代わり一度大きなヒットが生まれると周りからの期待が大きくなり
担当アーティストの数が増えて休みなく働き続けなければなりません。
家庭も身体も壊れる危険性があります。
少し報酬が良くなっても失うものの方が大きい気がします。
マスコミから注目されて仕事の依頼は増えるのですが、
自分の首を絞めることになります。
プロデューサーのクリエイティブな能力は代役が効きません。
いくら優秀なアシスタントをつけても営業・宣伝まではこなせないからです。
その上にヒットが出なくなるとすぐに「あいつは終わった」と悪いうわさが立ちます。
その為に休みなくヒットを作り続けなければならないのです。
私はプロデューサーとしてオーディションから制作~宣伝~営業まで
全てをこなしてきました。音源だけを作るのではなく、宣伝用の素材も
時代に印象をのこすキャッチコピーも作ってきたのです。
世界中を飛び回りレコーディングと映像制作、時には現地のアーティストと
交渉してレコーディングに参加もしてもらいました。
マスメディアに対して音楽業界の話題作りと価値観を同時に提供して、
その上に海外の最新情報や様々なトレンド情報もプラスしたので、
一時雑誌の掲載率と深夜番組のゲスト獲得の占有率が独占でした。
私は作曲も作詞もするために多少の印税が入って来たのですが、
サラリーマンがそれを受け取ることは当時就業規則上違反でした。
(その後改正されて社員でも能力のある人は受け取ることが可能になった)
いつも派手に立ち回るために、あらゆるところから悪いうわさが飛び交い
業界中でつるし上げにもあいました。
そして91年にハウスプロデューサーの限界を感じて退職する決心をしました。
その後、独立して10年間頑張ってきたのですが大ヒットに恵まれずに
借金を重ねて最終的にはアメリカの会社から突然契約を切られて倒産に
追い込まれてしまいました。
業界の中ではいよいよ稲葉も完全に終わったと噂が流れたのですが、その後に
韓国でオンデマンドの映画会社を立ち上げて韓国ドラマを手掛けました。
日本に韓流ドラマを紹介した最初の人間です。
また同時期に中国に渡り演奏家グループ「女子十二楽坊」を手掛けて
日本に戻りました。あとはご存じのように世界的な大ヒットを連続して
一大ブームを作りました。
何事も挑戦しなければ成功はありません。しかし成功と失敗は表裏一体です。
先ずは諦めずに恐れずに信じた道を歩き続けるのです。
挫折や失望は自分の感情です。失敗してもあきらめなければチャンスは訪れます。
周りからいかなる誹謗中傷があっても逃げずに戦い続けて欲しいのです。
「成功の法則」は何事も無理と思う感情を捨てて自分には出来ると信じることです。
成功の反対は失敗ではなく、本当の失敗とは「何もしないこと」です。
若者たちよ!無限大の可能性を最大限に利用してください。
9月 7th,2024
恩学 |
成功の法則 はコメントを受け付けていません
過去は変えられない未来は予測できない。
しかし今日は未来への一歩であることは確かです。
今、目の前の様々な出来事が積み重なり明日が作られていきます。
勿論、社会の変化は猛スピードでデジタル化が図られています。
朝から夜までモバイル漬けでネットに振り回されていては駄目です。
私達の思考の大半はアナログ思考ですが10代の子供達は情緒的な判断より
AIのデジタル思考に頼ることになると思います。
自分の感覚よりも論理的に快適指数を見て心地よい温度が数値で
現れる方を優先して皮膚感覚はあまり重要でなくなります。
「未来は、今である」[The future is now.]という言葉を紹介します。
これは、アメリカの文化人類学者、マーガレット・ミードさんの言葉です。
皆さんは、 「今日は気分が乗らない。明日からやろう」と言い続け、
先送りを経験したことはありませんか。タイムマシンを持たない私たちは、
今この瞬間しか生きることができません。
明日やろう、来月にしよう、来年でも間に合う、そんなふうに過ごしているうちに
どんどん未来が過ぎ去って過去になってしまいます。
つまり、未来は今を積み重ねることで訪れる時間です。
今現在が未来に繋がっている。言いかえれば、今現在を変えることで
未来も変わると言えます。未来を信じて、
「今やることに全力をつくす」ことが大切ではないでしょうか。
また経営の神様といわれた松下幸之助氏の言葉を紹介します。
「どんなに悔いても過去は変わらない。どれほど心配したところで
未来もどうなるものでない。いま、現在に最善を尽くすことである」
10年後のAIは、今よりもさらに高度な技術と広範な応用が期待されている。
AIの能力が人間を超え、より高度な問題解決能力を持つようになる
可能性があるのだ。例えば気候変動や経済不況、病気の流行など複雑で大規模な
問題に対する解決策をAIが提案する日が来るかもしれない。
またAIは、人間の生活をより便利で快適にするための新たなテクノロジーを
生み出すだろう。家庭内の家事や育児、健康管理など日常生活の
あらゆる面においてAIの活用が期待される。AIの進化により、私たちの生活は
大きく変わり人間の可能性をさらに引き出すことになると予測されているのだ。
しかしその一方でAIの進化は新たな問題を引き起こす可能性もある。
人間の仕事がAIに置き換わると雇用の不安定化や経済格差の拡大が
さらに進む可能性も否定できない。
またAIが個人情報を大量に処理することになるとプライバシー侵害や
情報漏洩のリスクも増えるかもしれない。
さらにAIの判断が人間社会に深く関与するようになると、AIの倫理や
AIの判断による誤りに対する対策が重要となる。
AIが進化する一方で、これらの課題へ向けた対策や規制も必要となるだろう。
AIの未来は、大きな可能性と課題を併せ持つ。
私たちはAIの影響を十分に理解した上で適切に対応することが求められる。
今後の10年がAIの進化と社会との新たな関係を築く重要な分岐点となるだろう。
近年、AI技術の発展は目覚ましく、社会に大きな影響を与え始めています。
その先にある未来として注目されているのが「シンギュラリティ」と呼ばれる
概念です。シンギュラリティとは、人工知能(AI)が人間の知能を超え、
制御不能なほどの進化を遂げる瞬間を指します。
この概念は、人工知能(AI)が自らを改良し続け、その進化速度が加速する
未来の時点を想定しています。例えば、AIが医療や経済の分野で人間の
専門家を超える能力を持つようになることを指します。
しかし、シンギュラリティの定義は曖昧であり、明確な時期も定まっていません。
2045年頃に訪れると予測する学者もいれば、もっと先だと考える学者もいます。
こうした技術の進歩は、人間の生活や社会構造に大きな変化をもたらす
可能性があります。シンギュラリティが現実のものとなると、
人間がその変化に追いつくことが難しくなるかもしれません。
シンギュラリティの時代において、人間とAIの共存は社会の重要な柱となります。
AIは人間の知能を超越する可能性がありますが、人間固有の創造性、共感性、
倫理観などはAIにはない貴重な資源です。
AIの役割は、データ解析や決定支援など、特に計算能力や効率性を求められる
分野に集中する一方、人間は創造性や対人スキルが重視される職業で
活躍することが期待されます。
AIの導入により、人間は危険な作業から解放され、より創造的で意味のある
仕事に集中できるようになります。AIは人間の判断をサポートし、
新しい創造的アイデアの生成を助けることも可能です。
しかし、AIに完全に依存することなく、人間は自身の価値と役割を再定義し、
AIとの適切な協働関係を築く必要があります。
このように、人間とAIが共存する未来では、お互いの強みを活かし合い、
協力しながら新しい社会を形成していくことが重要です。
人間はAIを単なるツールとしてではなく、知的能力を拡張する
パートナーとして活用し、共に成長していくことが求められています。
この共存により、より効率的で安全な社会の構築が期待されます。
AIとの共存を実現するためには、教育システムの変革と新しいスキルの
習得が必要です。AI時代の教育では、従来の学習方法を超え、AIを活用した
革新的な教育プログラムの開発が求められます。
これにより、AIの技術を理解しその倫理的な使用方法を学ぶことが可能になります。
また、AIとの協働スキルや、AIにはない創造性、共感性、倫理観などの
人間特有の能力を育てることも重要です。
労働市場においては、AIによる自動化が進む中で、クリティカルシンキングや
創造性、人間関係スキルがより一層重要になります。
AI開発や運用に必要な技術スキルはもちろん、AIに取って代わることのできない
人間独自のスキルを磨くことが求められます。
生涯学習の推進も、AI時代における重要な要素です。
技術の進歩に伴う変化に柔軟に対応するためには、常に新しい知識やスキルを
学び続けることが必要です。
個々人が自身の能力を最大限に活かし、AIと共存するためには、
教育とスキルの両面での進化が不可欠です。
これらの取り組みにより、AI時代を生き抜くための基盤が築かれます。
未来社会では、AIの進化が人間の生活を根本から変え、新たな可能性を
広げることでしょう。
AIが日常の作業を効率化し、人間は創造的な活動や豊かな対人関係により
時間を費やすことができます。この変化は、人間が本来持つ創造力や
感情をより深く探求する機会を提供し、人類が新しい高みを
目指すきっかけとなります。
医療、教育、環境保護など、AIの進歩は社会の多くの分野に革命をもたらすでしょう。
例えば、AIによる疾病の早期発見や教育の個別化が進み、より健康で知的な社会が
実現します。また、環境問題の解決にもAIは大きく貢献する可能性があり、
持続可能な地球の実現に一役買うことでしょう。
さらに、AIと人間の共存は、これまでにない新たな芸術や文化の創造を促します。
AIの持つ分析力と人間の創造力が融合し、新しい音楽、芸術作品、文学などが
生まれることが期待されます。
これにより、人間の感性がより豊かになり、文化の多様性がさらに拡がるでしょう。
未来社会は、AIの力を借りながら、人間が自らの夢や希望を実現する場となり、
AIと人間が協力し合いながら、より平和で豊かな世界を築き上げることが可能です。
この共存は、人類にとって新たな繁栄の時代を開く鍵となることでしょう。
未来は今、今の積み重ねが未来になるのです。
9月 6th,2024
恩学 |
未来は今 はコメントを受け付けていません
私の恩学人生から生まれた言葉です。
1)希望を遠くに置くな!自分の手の中に刻むのだ
2)中心がブレずにあなたのやりたいことは!
3)働く為に生きるのではなく生きる為に働くのだ
4)自分が強く願えば必ず叶う!叶うまで強く願う
5)努力している人には誰でも応援したくなる
6)99人が右を向けばあなたは左を向く1人になれば良い
7)スターになる人はゴールがハッキリと見えている人
8)一生やり遂げたいことがあれば食べるための仕事は割り切ってやれば良い
9)憧れは心が幼(童)いと書く大人は憧れではなく目標の人を持つ
10)男はロマンに生きて女は現実の中を生きる
11)良い言葉を言い続ければ良い言葉が返ってくる
12)年月を重ねたから歳を取るのでなく戦いを諦めたから歳をとる
13)誰もがやれなかったことをするのがチャレンジと言う
14)出会いの場は思いがけないところから始まる
15)音楽家よ!音程外しても人の心を外すなよ
16)私は運が良かったのではなく運を掴み取ったのである
17)良き言葉は聞いた人の人生を変える力がある
18)明日何をするか考えるより今何をしているかが大事だよ
19)夢を描き出せ!そして今日何をしたか問いただせ
20)君の愚痴を聞きたいのではなく君の笑顔が見たいだけ
21)泣きなさい!涙が枯れれば自然と立ちあがることができる
22)誰かとの比較が大事ではなく自分の夢と比較しなさい
23)恋している人は夢の世界で愛している人は現実の世界にいる
24)外面を見て判断する人は自分の心が貧しい人
25)志とは武「士」の「心」と書く日本人の心である
26)恥ずかしいとは心が耳についているのだ!噂を気にするな
27)今日生きていることに感謝できる人は神様に守られる人
28)挑戦したものだけが言える!想像したよりも簡単だと
29)未来は未来のように見せなければならない
30)自分の仕事に光を当てるなら粋でカッコよくなくてはならない
31)人は見た目で判断される!だからこそ自信が浮き彫りにされる
32)分かり合える大切な心が伝われば分かり合える
33)愛は長く続くが恋は瞬間だから好きになった時を大切に
34)自分が何者かわからない人間は他人に合わせるだけの人生を送る
35)戦おうよ!たまには本気で戦おうよ!短い人生なんだから
36)心優しい人とお節介な人は似ている様で似ていない
37)バラバラだからいいみんなバラバラになろう
38)言い訳すると気が楽になるがそれは反省ではない
39)約束は真実を束ねること嘘を束ねると裏切りとなる
40)子供の時に昆虫を見つけると好奇心が膨らむよ
41)親は「つの教育」を知らないから苦労するんだよ
42)詩人と言われる人がいなくなったから人の心がササクレになった
43)日本人は自分を一番好きで一番愛しているのさ
44)親の優しさが子供を駄目にする
45)安全な道を選ぶなよ危険な道こそ楽しみがある
46)3回失敗したら私と語りあいましょう待っています
47)挫折や不幸の大きさは自らが作り出しているものだ
48)自分の言葉は読んだ読書量で決まるのだから本を読みなさい
49)自然の中へ飛び込め自然は愛に溢れている
50)人生は恩から始まり恩で終わるだからありがとうを言いたい
51)人の言葉や優しさには賞味期限がある
52)自慢は後悔から始まり後悔は自らを磨く
53)憎しみと怒りからは未来は生まれない
54)無駄な一日とは笑顔が少なかった日である
55)愛は与えられるものでなく与えるものである
56)一歩踏み出せ!自動扉は近寄らなければ開かない
57)成功で大切なことは真似と成りきりである
58)人生は回遊魚結局は元のところへ戻って来る
59)親切は時には利用されるそれでも親切をしなさい
60)愛は全能ではない
恩学を書き続けて530編になりました。
私の雑記帳ですが、雑記帳の中にも良き言葉が残されています。
時折読み返して気になる部分は修正しております。
まだまだ未熟者の拙い文章ですがお役に立てればなによりです。
9月 5th,2024
恩学 |
稲葉語録(恩学) はコメントを受け付けていません
人生は穏やかな波の上を行く船のように長閑ではありません。
時には嵐にあい座礁することも想定しなければなりません。
信頼していた友人の裏切りに会い全てを乗っ取られることもあります。
一代で築いた会社も一部の役員と株主によって追い出されることもあります。
悔しさを胸に秘めて再起を図るときにこのような言葉が進路を照らす燈になります。
絶望から逃げるのではなく闘志を燃やして牙を隠すのです。
自ら敗北を認めない限り戦いは続くのです。
【捲土重来】けんど-ちょうらい
一度敗れたり失敗したりした者が、再び勢いを盛り返して巻き返すことのたとえ。
巻き起こった土煙が再びやって来る意から。「捲土」は土煙が巻き上がることで、
勢いの激しいことのたとえ。「重来」は再びやって来ること。
もとは一度敗れた軍が再び勢いを盛り返して攻めて来ることをいった。
「捲」は「巻」とも書く。また、「重」は「じゅう」とも読む。
【臥薪嘗胆】がしん-しょうたん
将来の成功を期して苦労に耐えること。薪の上に寝て苦い肝をなめる意から、
屈辱の日々を忘れずに再起を願うことから成り立つ意味です。
「臥」はふし寝る意。「薪」はたきぎ。「嘗」はなめること。「胆」は苦いきも。
もとは敗戦の恥をすすぎ仇あだを討とうと、労苦を自身に課して苦労を重ねること。
そしていつか苦しみを乗り越えた時にこの言葉の様になるのだろうと信じていること。
【苦尽甘来】くじんがんらい
苦しい時が過ぎ去り、楽しい日々がやって来る。
苦さりて楽来たる。苦しみがやっと去り、良い事がやってくる。
人生は良い事もあれば悪い事もあるとするなら、
苦しみの後には楽しみがあるものです。
そんな期待を持たせてくれる前向きな四字熟語が「苦尽甘来」です。
苦しければ苦しいほど、その後には良い事が待っていると思えるから
頑張れるのです。それが「苦尽甘来」であり、願望だけでなく実際に
楽しい事がやってきていると説いています。
漢字発祥の国、中国には素晴らしい四文字熟語が沢山あります。
私も幾度となくノートにメモをして事ある毎に読み返してきました。
一度や二度の失敗に焦ることもなく何度も再起を果たして来たのは
漢字が持つ言霊のおかげです。それは神社のお札と同じです。
その文字に書かれたことを信じ切ることが大切です。
これからも過去を振り返らずに又過去に縛られることなく
漢字の言霊を信じて前向きに生きて行こうと思います。
世界中が思想・宗教・民族の対立から起こる戦争、地球温暖化による
自然災害、食糧・エネルギー不足、経済不況と混沌とした状態で
打つ術がない中、日本はいまだリーダーシップを発揮できずに
傍観者の立場を取っています。
その為に毎回アメリカに振り回されて援助金や支援金と称して
多額のお金をむしり取られています。
日本国民も現状を知りながらも半ばあきらめムードで
ことの成り行きを見ているだけです。
子どもたちの未来を考えたら大人は逃げるわけにはいかないのです。
周りの大人達は争いを避けたいから「急がず、騒がず、争わず」的な
中庸な生き方を選んでしまうのです。能天気な幸福中心主義者的な選択です。
すべてに無抵抗で同調主義に走ると戦う意欲は無くなるのです。
そこには土埃も立たず悔しさも起こらない。敗北の湖に浸かるだけになる。
しかし最近戦争のニュースを見るたびにこの歌を思い出します。
1972年発売のレコードですのでメッセージの意味が変わります。
加川良「教訓」
命はひとつ 人生は一回だから 命を 捨てないようにネ
あわてると つい フラフラと お国のためなどと言われるとネ
青くなって しりごみなさい 逃げなさい 隠れなさい
お国は 俺たち死んだとて ずっと後まで 残りますヨネ
失礼しましたで 終わるだけ 命のスペアは ありませんよ
青くなって しりごみなさい 逃げなさい 隠れなさい
命を捨てて 男になれと 言われたときには ふるえましょうヨネ
そうよ あたしゃ 女で結構 女のくさったので かまいませんよ
青くなって しりごみなさい 逃げなさい 隠れなさい
死んで神様と いわれるよりも 生きてバカだと いわれましょうよね
きれいごと 並べられたときも この命を 捨てないようにね
青くなって しりごみなさい 逃げなさい 隠れなさい
時代背景としては1972年発売なので、安保闘争の流れがあるものの、
大阪万博など新しい時代の到来により忘れ去られようとした
第二次世界大戦の教訓を歌ったものと思われます。
私も学生集会で何度か歌ったことがありますが、戦争当時は赤紙一枚で
兵役につかなければならなかった時代です。男子は国のために死ぬのが
当たり前という時代です。その為に学徒出陣で多くの若い命が奪われました。
もしアメリカが原爆を落としていなかったら日本人は最後の
最後まで戦い続けていたと思います。
しかし何の罪もない一般市民を巻き添えにして、
一瞬にして15万人の命を奪っても良いという正当性はありません。
アメリカの策略と日本政府と軍部の無能さゆえに負けた戦争です。
1945年8月6日8時15分天皇陛下の玉音放送で日本は敗戦国となったのです。
ここからこの歌詞に添えられていた隅田さんの投稿文を紹介します。
さて、この歌詞ですが、基本的に命が危なくなったら逃げることは
恥ずかしいことではないという歌だと私は自分なりに解釈しています。
2011年3月11日東日本大震災の時に、「釜石の奇跡」、「大川小の悲劇」と
言われている、天国と地獄みたいな出来事がありました。
「釜石の奇跡」とは、釜石市の鵜住居地区で中学生が小学生の手を引いて
避難したこと、地震の大きさから建物の屋上より絶対大きな津波が来ると
感じた先生が点呼を待たないで逃げられる生徒から逃げさせたことが、
津波から全ての生徒の命を救ったというものです。
一方、みんなを待って一緒に逃げよう、一緒にいれば大丈夫、
10Mの屋上に皆で登れば大丈夫と逃げない選択をしたことで、
数十名が一瞬にして津波にさらわれたのが「大川小の悲劇」です。
なぜ釜石では助かったのか。それは日ごろから防災教育を行っており、
逃げられるだけ海から遠く、そして高いところに、とにかく早く逃げることを
生活の一部として徹底させていたからできたのです。
さて、加川良の「教訓Ⅰ(Lesson One)」に戻りますが、必要な時は
逃げることが大切であり、それは弱者の特権であり、
決して恥ずかしいことではないという歌であることを教えてくれます。
そして「逃げなさい、隠れなさい」という語り口は、見てみぬふりを
するのではなく、困っている人がほかにもいれば一緒に逃げることも
大切であることを教えてくれます。
人は一人では生きていけない生き物だと思います。
そして人生は一度しかありません。
できれば皆で相談して、協力して、仲良く、楽しく生きていきたいものですが、
過剰な仲間意識が足かせになることもあります。
こうして考えると、軽はずみに人に対して頑張れとは言えなくなるものです。
頑張ることは大切ですが、無理しない人生を送りたいものです。
(ウサミグループ隅田さんという方の文章を一部使用させていただきました)
狭い島国の日本は隠れる場所も逃げる場所もありません。
デジタル社会になりインターネットが社会の隅々まで追いかけてきます。
海外との交流が無くなればすぐに食糧不足、エネルギー不足になります。
他国から侵略されにくい島国は他国の援助が無ければすぐに終わります。
日本は【捲土重来】【臥薪嘗胆】を経て【苦尽甘来】を経験しています。
しかし世界の情勢を見るといつ隣国から侵略されるかも分かりません。
最後は日本人らしく誇りを持って戦うか、戦争放棄の旗を掲げて降伏するか
選択が迫られています。
一部の子どもたちはアメリカの51番目の州でも中国の属国になっても良いと
思っています。その上に核原爆保有国になるべきだと主張する子もいます。
戦争の悲惨さを教えなければテレビの中の世界だと気楽に考えています。
敗戦国の日本はアメリカから「地理・歴史・修身」を教えることを禁止されました。
日本が二度と戦いの心を持たないようにです。
アメリカにとっての恐怖は昔のような強い日本です。
平和は勝ち取るべきであり待っててもやって来ません。
今日本は正しい情報の中で正しい選択を迫られています。
9月 4th,2024
恩学 |
捲土重来 はコメントを受け付けていません
常識にとらわれず柔らかい発想で物事を捉えなさい。
その時に使われる言葉として「柔軟心」と言うのがあります。
現状の生活におけるさまざまな問題をどう解決していくのか、
先人たちはこのテーマをどのように捉えていたか、
またその解決法として何を学んだのかが気になりました。
私の好きな禅の世界ではこのようなテーマをこのように書いています。
「臨済宗の平井住職の言葉より一部抜粋」
禅語に「柔軟心」(にゅうなんしん)というものがあります。
意味は、頭でっかちにならずに、柔らかい考え方をしなさいということです。
今まで「こうあるべきだ」「そうすべきだ」と思っていることを
振り返ってみてください。
何でも良いでしょう、仕事、生き方、恋愛、結婚、お金など。
あえて、それらを書き出してみて、「もしこの考え方が逆だったとしたら」と
考えてみてください。
思考の振り幅が広くなり、悩みや不安が和らぐかもしれません。
広い視点で客観的に捉えることができるので、新しい発想すら出てくるでしょう。
自分の考え方が正義だと思えば他人に価値観を強要したり、
他人の意見に振り回されることもなくなります。
世の中には、こういう考え方や可能性があるんだ、と思えると人生の
見え方がガラッと変わってきます。
そうすれば、自分の言動や行動が自然と変わるので、
今までとは違った風景にたどりつくことができます。
矛盾しているかもしれませんが、変化に早く対応しようとして
焦る気持ちになることはあまりよくありません。
人間はロボットではないので、時に緩急をつけながら、
落ち着いて行動することは大切です。
また禅語に「且緩々」(しゃかんかん)というものがあります。
この意味は「慌てず、急ぎすぎることなく、落ち着きなさい」です。
急ぎすぎても、慌てすぎても、時間は同じだけしか過ぎていきません。
忙しいという漢字は「心を亡くす」と書きますが、
人間ですから心は大切に守っていきましょう
禅語に「百尺竿頭に一歩を進む」(ひゃくしゃくかんとうにいっぽをすすむ)
があります。この意味は、もうこれ以上進めない!というとこで、
思い切ってさらに一歩進んでみなさい、というものです。
新しいことに挑戦したりすることは怖いことです。
しかし、新しいことに踏み出さない限り、新しい可能性は基本的にありません。
さらに、禅語には「主人公」という言葉があります。
これは、まさにドラマや小説に出てくる「主人公」のように
自分が人生の主役であるべきだという意味です。
あなたの人生は、あなたしか生きられません。
勇気を持って、一歩を進んでみましょう。
AIの時代がくる、ロボットに仕事を奪われる、なんて言われてから
早くも数十年ほど経ちました。
私たちの取り巻く環境は大きく変わっていったでしょう。
しかし、変わらないものがあります。それは、人間の本質や感情、思いです。
あなたも何か出来事があれば、怒ったり、悲しんだり、喜んだりしますよね。
目に見えないものだからこそ、分かりづらいですが、確実にそれはあります。
先が見えなくて不安だ、怖い!と思っていても、決して自分の心は失わないように。
そして、余裕などが出てきたら、ぜひ他の方にも思いやりを。
普段の生活では意識してないことだからこそ、大切なものはあります。
それを茶道や禅は私たちに教えてくれます。
ぜひ、この変革の時代に「お守り」として、茶道や禅の考え方をヒントに
考えてみてくださいね。
禅宗では、竹は松や梅とともに「歳寒の三友」といわれ、いわゆる寒さに
耐えるというところから喜ばれる樹木です。
竹と松は常緑樹で寒い中でも翠を失わず、梅は寒さの中で百花に先んじて
花を咲かせていち早く春を告げます。
なかでも竹は、禅宗の宗祖達磨大師がインドから中国に渡り、
禅を普及させた江南の地が竹の名産ということもあってか、
竹にまつわる禅語はいくつもあります。
美しく涼やかな竹林はかつて清談の場であり、
「清風動脩竹」(せいふうしゅうちくをうごかす)とか、
「竹葉葉起清風」(たけようようせいふうをおこす)といった
禅のこころを表現した言葉も多く残されています。
竹にまつわる禅語として恐らくもっとも知られているのは、
「竹有上下節」(竹に上下の節あり)ではないでしょうか。
そしてこの禅語にはいろいろな意味・解釈が加えられています。
文字どおり、竹に上下の節があるように、人間にも区別があって、
どんなに仲が良くてもそれぞれの立場や考え方があり、
礼儀や節度を守らなければ社会の調和は保たれないということです。
また、上下に節があるのは竹の根本・基本のかたちであり、
これをおざなりにしてはならないという教えです。
たとえば、歌舞伎の世界でいう「形無し」と「型破り」の違いと同じで、
基本のかたちを身につけていなければ、型破りな演技として
評価されることはなく、単に形無し(台無し)になってしまいます。
また竹は、上下の節と節の間が中空で、
それが連なったおもしろい構造になっています。
全部が節だと曲がらないし、全部が中空だとすぐに折れてしまいます。
節のもつ堅さと中空のもつしなやかさのバランスがとれていることで、
竹はそのしなやかな強さを保っているわけです。
それぞれが節目を作ることで、過去をしっかりと認識し、
未来を展望するとともに、現在を見つめ直す機会となります。
過去・現在・未来を俯瞰し、自分自身の今を見つめ直して行動を起こす
節目をもつことで、組織や個人が生きていくなかで何かが生じた時、
強い風が吹いて嵐になった時に、その対応力に差が現れると思います。
ますます内憂外患の難しい時代と簡単には片づけられませんが、
硬軟両面をあわせもつ竹のように、力強いしなやかさを身につけたいものです。
(臨済宗全生案庵住職 平井正修氏の言葉より)
未来に恐れるもなく且つ悪戯に憂慮する必要もありません。
今ある日々を大切に生きることが未来につながるのです。
AIが世の中を席巻しても人としての心を失わなければ恐れずに足りぬです。
主人公である自分を大切にして生きていきましょう。
9月 3rd,2024
恩学 |
柔軟心 はコメントを受け付けていません
私がこの年齢になってよく言われる言葉がある。
「何故休まずに挑戦し続けるのか」裏を返せば早くリタイヤしろとも聞こえる。
私は若い頃から他人が無理と思えることばかりに挑戦して来た。その中で
自分の生い立ち、学歴、専門的知識などでコンプレックスを感じたことはない。
特に秀でた能力があったわけではないが挑戦する者にとって意味のないことである。
一般的に人間はそれらのことを気にするが常に人として生きている者には通用しない。
人間とは意識(常識的な判断)をしなければ動けない人たちのことをいう。
人とは無意識(感覚的)に興味があることに惹かれていくだけの人をいう。
いつも私の中には未来確信がハッキリと見えていた。成功への道である。
右側の道を行けば安全ですよ!だから大勢の人も右側を選んでいます。
左側の道は誰も選びません!なぜなら危険だからです。
当然こう言われれば私は迷わずに左側の道を選んできた。
大勢の人が歩いた道には過去の実績はあるが未来への挑戦は無い。
たとえどんなリスクがあっても自分で道を切り開く方を選んできたという事である。
ここに医師長岡美希先生の投稿した文章がある。
子供はなぜ、何度も何度も転びながら歩く挑戦をするのか?
それは未来に対する確信があるからだ。必ず歩けるようになることに対して
疑いがないからだ。
もし疑いがあるなら「無理だ」と、どこかの時点で諦めることだろう。
戦国時代を観て思う。北条、武田、上杉・・・と大大名がいる中で、
天下統一に対し未来確信をもって突き進んだのは織田信長ただ一人だった。
彼一人が宇宙自然、歴史文明、時代精神の首に首輪をつけて自らの手で統制した。
歴史を振り返れば、天下統一は当然の流れに思える。
しかし統一される前は誰もが不可能性の只中にあったはず。
多くの者にとって天下統一は「できたらいい」の夢に置かれていたに違いない。
しかしいつの時代でも、不可能性を突破する未来確信を持った者が必ず現れる。
それはアノマリーと呼ばれ、決して常識の物差しでは測れない。
今では織田信長は天下人として人気があるが、当時の人々にとっては
とんでもない奴だったことは間違いない。
他の者たちになく、信長にあったものは何か?それはズバリ、未来確信。
だから出来ることをやるのではなく、出来ないことをやる選択ができた。
転んでも何度でも立ち上がり歩こうとする子供のように、どんな苦境が来ても
未来確信が天下統一に向けて歩ませる。
では、自分自身に問う。「あきらめ不可能な夢があるか?」
「誰が何と言おうが突き進む夢はあるか?」と。答えはYES。
出来るからやるのではない、誰かに認めてもらえるからやるのではない、
お金になるからやるのではない、、、未来確信が己を放さないのだ。
だから私は、日本の天下統一に対し精誠を尽くすしかない。
未来確信とは刀の刃のようなものである。完
与えられた人生、与えられた仕事、与えることばかり強制する社会。
全てがコントロールされて我々は消費ロボットとしての人生を過ごす。
大きな幸福の勘違いの中で本当の幸せは得られるのだろうか?
疑問を持たないように教育されてワクチンを何度も打って、真夏の炎天下でも
マスクをつけて生きている人に真の自由は訪れないだろう。
メディアは何度も戦争の映像を見せつけてこの国にいることは幸せだと洗脳する。
いつ隣の国から侵略されてもおかしく無いと言いながら、街には
化粧して着飾った男たちが闇サイトを通じて犯罪を繰り返している。
マイノリティーを持ちあげることが正義だとして
マジョリティーの考えを押さえつける。
数年前からこのブログでも何度も言っているが、この国の未来を考えれば
本気になって話し合わなければならない時期に来ている。
TVの転職サイトのCMが転職はカッコよい風に宣伝する。
若者たちは会社の規則に縛られるのであれば非正規社員で十分と考える。
若いOLを中心に小口投資で危険が無いからとNISAで投資を煽る。
出会い系サイトで女性たちが危険な目に遭っても利用者は減らない。
一攫千金を狙い宝くじや馬券を買わせようとおもしろく可笑しく宣伝する。
どれもこれもひと昔前では恥ずかしい行為で人前では隠したものである。
これは全て金もうけだけを考える大人たちの責任である。
そしてこれを取り締まらない政府も警察も同罪である。
これからの未来を考える上で常に出てくるのが「AIとの共存」である。
この言葉が出てくるたびにこの話を紹介している
「ジョブズ、禅僧と出会う」
2011年10月5日、一人の天才が世界から消えた。
長年のライバルだった米マイクロソフト社のビル・ゲイツは
「彼のように深い影響力を与えられる人間はめったにいない。
その影響はこれからも多くの世代に受け継がれるだろう」とその死を惜しんだ。
米アップル社創業者、スティーブ・ジョブズ。類いまれな才能が
後世に残す「深い影響力」はiPodやiPhoneだけにとどまらなかった。
ジョブズの死後、にわかに脚光を浴び、雑誌が相次いで特集を組んだのが、
この天才クリエーターに禅を指南した新潟県出身の曹洞宗僧侶、
乙川弘文(おとがわ・こうぶん、1938~2002年)である。
夾雑物(きょうざつぶつ)を排し、洗練さを極めたジョブズのモノづくりは
禅が背景にあるとみられた。
ジーンズにイッセイミヤケの黒いタートルネックといういで立ちも、
シンプルと機能性を備えたジョブズなりの作務衣(さむえ)だったのではないだろうか。
宗教色のない「マインドフルネス」
もともと新しくてスマートなものには目がないIT企業は「ジョブズの禅」に
さらに触発され、こぞって禅を社員プログラムに取り入れ始める。
膨大な情報の海に溺れかかっていた知的エリートたちは
情報と自分を統御する術を、禅、瞑想の一種であるマインドフルネスに見いだす。
グーグル、インテル、IBM、フェイスブック、そしてその流れは米国防総省、
米農務省にも及ぶ。
ジョブズが2005年に米スタンフォード大学の卒業式で行った有名な演説がある。
「私は毎朝、鏡の中の自分に向かって、『今日が人生最後の日だったとしたら、
今日の予定をやりたいと思うだろうか』と問いかける。
『ノー』の日が続いたら、何かを変えなければいけない」
そして最後の言葉として卒業生に向かって、いつまでも「Stay hungry Stay foolish」
の精神を忘れないようにしてくださいと締めくくる。
未来は予測不能である。しかし確実にやって来る。
子どもの様に、戦国武将の様に、ジョブズの様に、
未来に確信を持った人間だけが未来への創造主になるのである。
あなたにとっての「未来確信」は何ですか?
9月 1st,2024
恩学 |
未来確信 はコメントを受け付けていません
現代人間科学研究所所長飛岡健先生が放った一言です。
「子供達は未来から来た留学生」なのだ。
その子達を迎い入れるために大人達はより良い環境を作らなければならない。
この素晴らしい地球の大地を使って「農業」を教えなければならない。
そしてテクノロジー社会の構造を「脳業」として学ばさなければならない。
最後はそれぞれの大人達が持っている職能と言われる「能業」を
全員で話し合い伝えなければならない。この三つの「のうぎょう」を
三耕塾として教えて未来へ立ち向かう子供達を育てなければならない。
この時代に急ぎ三耕人を育てていかなければならないと言われています。
子どもたちの未来を考える時にいつもこの詩が思い浮かびます。
坂村真民先生の「あとからくる者のために」という詩です。
「あとからくる者のために」
あとからくる者のために
苦労をするのだ
我慢をするのだ
田を耕し
種を用意しておくのだ
あとからくる者のために
しんみんよお前は
詩を書いておくのだ
あとからくる者のために
山を川を海を
きれいにしておくのだ
あああとからくる者のために
みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々(それぞれ)自分で出来る何かをしてゆくのだ
という詩であります。
この詩は真民先生が六十五歳の時に書かれたものですが、
九十二歳の時に「決定詩」として書き改めたものもございます。
六十五歳の時の詩は、自分に向かって書かれていますが、
九十二歳の時の詩は、人々に向かって書かれているところが
大きな違いだというのであります。
「社会の人々への「それぞれが少し我慢をして、少し苦労をして、
自分にできる何かをしてゆこう」という真民の呼びかけがより届く詩に
なっていると思います」というのであります。
では、九十二歳の時の決定詩「あとから来る者のために」を紹介します。
「あとから来る者のために」
あとから来る者のために
田畑を耕し
種を用意しておくのだ
山を
川を
海を
きれいにしておくのだ
ああ
あとから来る者のために
苦労をし
我慢をし
みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
みなそれぞれ自分にできる
なにかをしてゆくのだ
私もこれからは、こちらの「決定詩」を使うようにしますし、
皆さまもそのようにお願いします。
西澤真美子さまの手紙には、愛媛新聞のコピーが同封されていました。
「一〇年目の震災後論」という記事で、若松英輔先生が書かれています。
「つながり育てられず 安心して悲しめる社会を」
という題で書かれています。
若松先生は、あの「震災後、しばらくの間、この国には強烈なつながりがあった。
巨大な痛みをみんなで背負い、みんなで何とかしようとした。」
と書かれています。
しかし、新型コロナウイルスという危機に遭遇し、大切なものを
失っているのではないかと指摘されています。
「物事を自分の見たいように見る「都合のいい個人主義」も横行しています。
自分が無事なら社会全体も無事に見えてしまう人。
「今は自分の面倒をみるだけで精いっぱい」と周囲に無関心な人。」
などが見られるようになったというのです。
震災の写真にも見慣れてしまったのか、もう悲惨な情景は見たく
なくなったのでしょうか。
「そうじゃない人もいるけれど、世間の空気は総じて冷たい」と書かれています。
「この一〇年、どこで間違え、何を見落としたのか。静かに考える必要があります。
「五輪をやるんだ」とやみくもに前に出たつもりで、私たちは迷路に入り込んでいる。
本当に未来に進みたいなら、その扉は過去にある」と指摘されています。
あとからあとから続いてくる者たちのために、このままでいいのだろうか、
何ができるのだろうかと。
臨済宗円覚寺「今日の言葉」より
子どもの自信を育てることは大切なことです。でもそのとき同時に教えて
あげないといけないのは「あなたが今そうやっていろいろなことができるのは、
みんなの協力があってこそなんだよ」ということです。
「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」という禅語があります。
「自分の足元をきちんと見なさい」という意味です。
何でも自分の力だけでできているわけではない。
まわりにいるみんなのおかげで、
与えられた環境が恵まれているおかげで、今の自分があるんだよ。
うぬぼれたりしてはいけないよ。調子に乗ったりしてはダメなんだよ。
子どもが大きくなる過程で、私もこの禅語は自分の子どもたちに
きちんと伝えていこうと思っています。
私の祖父・松原泰道禅師も100歳のときにこう言っていました。
「メガネをかけても文字が見えなくなることがある。そんなときに
部屋の明かりを強くしてもらうと、また文字がはっきり見えて
読めるようになる。どんなにいい目があっても、
そしてどんなにいいメガネがあっても、
まわりが暗かったら文字は読めないよ。文字を読めるのは、
照らしてくれる明かりがあってこそなのだよ」と。
それと同じことで、人はどんなにすぐれた能力を持っていても、
まわりからサポートしてくれる人間がいなかったら、ひとりで能力を
伸ばしていくことは絶対にできません。
これはいくつになっても言えることですが、
ものごとがうまくいったとき、自分だけで才能を開花させた……
などと思うのは大きな間違いです。私たち大人も気を付たいものですね。
子どもと向き合うときは「正念相続(しょうねんそうぞく)」の心が
大事かもしれません。
正念相続という禅語は、正しい念を続けると書きますね。
「念」という字は「今」の「心」と書きます。つまりこの禅語は
「正しい今の心を持ち続けなさい」
「今目の前にあることで心を充満させなさい」という意味なのです。
和尚の子育て禅語より
そして重要なことはデジタル社会で生まれた子供たちが気軽に使う
SNSで何気なく多くの人を傷つけてしまうことです。
言葉には力があり、愛や勇気を届ける素晴らしいもものでありますが
時には武器となり人を傷つけてしまう恐ろしいものであることを
忘れないで欲しいという事です。「愛語よく回天の力あり」恩学より
8月 18th,2024
恩学 |
子どもは全てが未来だ はコメントを受け付けていません
「 愛とは何か」?という問いかけに誰も明確な答えを持っていない。
それは「愛」という言葉が抽象概念であるから
人によって愛の解釈が異なるからだ。
愛とは親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。
愛とは性愛の対象として特定の人をいとしと思う心。
愛とは個人的な感情を超越した幸せを願う深く温かい心。
人は恋すると饒舌になり、愛すると沈黙する。
言葉による愛の説明は無意味で行動で愛を伝える人はおおくを語らない。
悲しい愛を知る人ほど柔らかな慈悲のエネルギーを発することができる。
慈悲は慈しむ心だから自分よりも相手のことを気にかける愛である。
神や仏が人類をいつくしみ、幸福を与えること、生あるものすべてに
恩恵を施し、見返りを求めない無条件の愛にこそ真実の愛がある。
また愛のチャンスは万人に平等に与えられるのか?
恋愛は必ず相手を必要とするから
一方的で強引な愛は罪に問われることがある。
お互いの心の開放がない内に恋愛を始めると暴力的な関係で終わる。
たとえば絶世の美女が野獣に恋するように
愛は見た目ではなく突然の愛の感情で花開くものである。泥沼に咲く蓮のように
運命に従い自分に最適な場所を選ぶのである。(美女と野獣)
アメリカ人作曲家のクリスチャンは貧しいキャバレーのスター、サティーンに
恋をする。しかし横恋慕した貴族のデュークが二人の間を引き裂くのである。
パリのキャバレーを舞台にした恋の駆け引き。(ムーランルージュ)
日本の悲恋物語としては江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で
放火事件を起こし火刑に処された少女の話もある。(八百屋お七)
いくら努力しても簡単に手に入らないのが愛である。
人びとが愛の経験に失望するのは、愛のなにかが間違っているからではない。
彼らは愛の範囲を狭めていって、愛の大海はそこにとどまれなくなってしまう。
あなたは海を抱え込むことができない。それは小さな川ではない。
愛はあなたの全の存在だ。愛はあなたの神聖さだ。
人は自分が愛情に満ちているかどうかを考えるべきだ。
あなたは愛だ。愛は対象に依存するのではなく、あなたの主体から放たれる輝きだ。
あなたの魂が放つ輝きだ。この放出される輝きが広大なほど、あなたの魂は
より大きい。愛の翼を大きく広げるほど、あなたの存在の天空はさらに
広大になる。あなたはすべての人間に共通した誤解のもとに生きてきた。
今あなたは尋ねている、「私はあなたを愛することができるのだろうか?」と
またしても同じ誤解だ。
それは状況による。人間の数と同じだけの愛がある。愛はヒエラルキーだ、
最低の段から最高の段まで、セックスから超意識までの、いくつもいくつもの
階層が、数多くのレベルが愛にはある。すべてはあなたしだいだ。
最低の段にいたら、あなたは愛に対して最高の段にいる人とはまったく
違った考えをもつだろう。アドルフ・ヒットラーは愛についてある考えを
抱くし、ゴータマ仏陀は別の考えを抱く。それらは正反対だろう。
なぜなら、彼らは両極端だから。
あなたは愛について語るが、深いところには相手を搾取しようとする
欲望がある。私はあなたがそれを意図的か意識的にやっていると言って
いるのではない。あなたはまだそんなに意識的ではない。
あなたはそれを意図的にできない。それは無意識のメカニズムなのだ。
これは愛がもっともっと瞑想的になって初めて可能となる。
薬(medicine)と瞑想(meditation)は同じ語源から来ている。
あなたが知っている愛は病気のようなものだ。それは瞑想という薬を
必要とする。瞑想を経過すれば、それは浄化される。
そして浄化されればされるほど、それは歓喜に満ちたものになる。
「禅」の世界はけっして愛に言及しない。私の理解によれば、
禅を実践する人はまさに息をするように愛する。
それはなにか特別なことではない、あえて言及しなくてもいい。
私はそのことをひとつも言っていないが、あなたは私の愛を感じないかね?
私に何度も何度もそれを言ってほしいかね?
禅はそれを言わない、それは禅が理解していることの明らかな証しだ。
愛は口にされるのではなく、あらゆる仕草に示されるべきだ。
あなたの目を通して、あなたの手を通して、あなたの沈黙を通して。
それはあなたの周囲に放射されるべきだ。慈愛についても同じことだ。
それもやはり言及されない。
私たちは自分の愛するものの不幸を目の前にして、
手を拱いて傍観しているより外何事も許されない場合に、しばしば遭遇する。
そして静かに思えば、これまで幾人の人々と交わっては、別れ、別れして、
今は何処にいかなる生活をしているものやら、わからない人々があることだろう。
そしてそれらの人々をいかにして愛しようか。
この時、もし愛の深い人であるならば、耐えがたき無常を感ずるであろう。
その時殆ど私たちは愛する力も、知恵も無いことを感ずる。
そして、ただ愛したい願いだけが高まっていく。そして運命の力を感ずる。
「歎異抄」のなかにも、何人も知るごとく、慈悲に聖道浄土の変わりめあり。
聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもふが如く助けとぐること。きはめて有難し、
ほんとうの愛にはみずからを表現する言葉がない。
ほんとうの愛は存在であり、あなたはそれを感じる。
それはあなたを風のように包み込む、それはあなたに雨のように降り注ぐ。
「禅」は愛であり、禅は慈悲だが、宣言をする必要はない、声明をしなくてもいい。
愛が最初にあなたの存在のもっとも深い核心で起こらねばならない。
それはひとりでいることの、幸せにひとりでいることの、歓びに満ちて
ひとりでいることの質だ。それは無心でいることの、静寂でいることの質だ。
それはからっぽの意識の空間であり、その状況のなかで、
あなたのなかに愛が起こってくる。
そう、あなたの言うとおりだ、愛は世界でただひとつの希望だ。
そして私たちはその転回点に近づきつつある。全面的な戦争か、
それとも全面的な愛か。これはどちらを選ぶかの問題であり、
第三の選択肢はない。もはや妥協できるものはなく、あなたは真ん中に
とどまれない。人は選ばなければならない。それは生きるか死ぬかの問題だ。
戦争は死であり、愛は生命だ。
人と人との接触に関心する人々の心に在って最も重き地位を占めるものは
言うまでもなく愛の問題である。愛は初め花やかになる一団の露のごとくに、
たのしく、胸を躍らす魅力を備えて私らの前に現れる。
愛を凝視せよ、愛を生きよ、その時私たちは初めて愛の種族に気が着くのであろう。
即ち母子の愛と、男女の愛と隣人の愛とが区別されて感ぜられるようになるだろう。
この差別の目に見えるようになるまでは愛のディレッタントである。
未だ愛を知っているとはいえない。そしてこの区別の見えるようになるには
人は多くの冷めたい涙と苦い経験を味わうものである。
愛の問題を真実に、自己の問題として生きる人は必ずこの区別が見えるように
なるに違いない。その時から後に真実の愛が生まれるのである。
音楽の世界にとって愛なくして語れるものは無い。
参考資料
OSHO&
「愛と認識との出発」倉田百三より
8月 7th,2024
恩学 |
愛の問いかけ はコメントを受け付けていません
自己愛、家族愛、隣人愛、自然愛、動物愛、自由愛と
本物の愛は受け取ることだけを望むのでは無く与えることである。
恩愛、敬愛、慈愛、純愛、溺愛、愛慕、博愛と
恩を感じて敬い、慈しみ、純粋に溺れるほどの愛を共有することである。
愛にまつわる漢字は山ほどある。
それほどまでに人々には愛が必要なのである。
愛について仏教経典を解くとまずこの言葉が思い出されます。
「愛別離苦」愛する人と別れる苦しみ、四苦八苦の中の一つの苦です。
「四苦八苦」とは、四苦「生・老・病・死」と以下の四つが加わり八苦になります。
「愛別離苦」(あいべつりく)とは、大切な人や大好きな人であっても、
いつかは離れなければならない苦しみ。
「怨憎会苦」(おんぞうえく)とは、
逆に大嫌いな人、顔も見たくない人でも出会ってしまう苦しみ。
「求不得苦」(ぐふとっく)とは、求めるモノ・コトが手に入らない苦しみ。
嫉妬心と欲望にまみれる苦しみ。
「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)とは自分の心や、自分の身体すら思い通りに
ならない苦しみ。健康が行動に繋がらない苦しみ。
この「四苦八苦」は人間が生きている上で避けては通れない
根源的な苦として表します。
そして私の座右の銘「愛語よく回転の力あり」道元禅師:
愛の言葉、優しい言葉はその人の人生も変える力がある。
道元禅師のこの言葉が「恩学」を描き始めるキッカケになったのです。
「面(むかい)いて愛語を聞くは、面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくする。
面(むか)わずして愛語を聞くは、肝に銘じ、魂に銘ずる。
愛語よく回天の力あることを学すべきなり。」道元禅師
面と向かって優しい言葉をかけられれば、自然と顔に喜びがあふれ、
心が楽しくなる。また、人づてに優しい言葉を聞いたら、
その言葉が心に刻まれ、魂がふるえる。
それは、愛語が人を愛する心から生まれ、人を愛する心が、
他人をたいせつに思う心の中から、芽生えてくるものだからです。
本当に、優しい言葉というのは、世界を変えるほどの力だということを、
私たちはよくよく学ばなければいけません。
希望を与える言葉は直接相手に伝えた方が心に響きます。
褒める言葉は直接よりも第三者を通じて伝えた方が心に響きます。
戒めの言葉は誰も居ない所で教える方が心に響きます。
伝え方を間違えれば相手に屈辱を与えることにもなります。
そして心に傷をつけてしまう事もあります。
愛といえばこの方を思い出します。
「嫌いな人ほど愛しなさい」マザー・テレサの言葉より
『あなたの中の最良のものを』
人は不合理、非論理、利己的です気にすることなく、人を愛しなさい。
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善を行いなさい。
目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。
善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
気にすることなく、し続けなさい
あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう気にすることなく、
作り続けなさい。
助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく、助け続けなさい。
あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい。
たとえそれが十分でなくても気にすることなく、
最良のものをこの世界に与え続けなさい。
最後に振り返ると、結局はあなたにもわかるはず、
全てあなたと内なる神との間のことなのです。
あなたと他の人の間のことであったことは、一度もなかったのです。
マザー・テレサ
そうしてもう一人名前を上げるとすればガンジー以外にいません。
第一次世界大戦後のインド独立運動の指導者。第一次世界大戦後から
国民会議派を率いてインドの独立運動を、非暴力・不服従という戦術で展開し、
第二次大戦後に独立を達成した。
ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の融合を一生追求したが、
ヒンドゥー狂信者によって暗殺された。
チャルカで糸を紡ぐガンディー。
Mohandas Karamchand Gandhi(1869-1948) 一般にはガンジーと表記する。
インド独立の父、マハートマ(偉大な魂の意味)といわれる。
第一次世界大戦後、非暴力・不服従を掲げたインドの反英闘争(20世紀)を開始、
国民会議派を率いて独立運動を展開し、激しい弾圧を受けながら、
第二次世界大戦後の1947年に独立を実現させた。
しかし、その独立は彼が念願した統一国家での独立ではなく、
パキスタンとの分離独立となり、失意のうちに翌年ヒンドゥー教徒過激派の
青年に暗殺された。
ガンジーは熱心なヒンドゥー教徒であったが、その真摯な姿はイスラーム教徒をも
引きつけ、またカースト外の不可触民を神の子(ハリジャン)と呼んで
その解放を訴えた。
如何だったでしょうか?
人生は愛から始まって愛に終わるのです。
そして、恩から始まって恩に終わります。
ひらがなは「あ・い・う・え・お」の「あい」から始まり、
最後は「を・ん」「おん」で終わります。
日本の全てが「愛」と「恩」に包まれているのです。
8月 1st,2024
恩学 |
愛別離苦 はコメントを受け付けていません
義妹のソフィイ・ハイベルはモーツァルトに対して、
「彼はいつも落ち着きのない人で、手足をばたつかせ、独り言を言い続けたり
じっとしていない人だった」。モーツァルトは失語症であり、学習障害であり、
その上にひどいてんかん症であったと書かれている。
モーツァルトは自分で自分の病を癒すためにピアノ曲を多く残している。
一番好きなピアノ曲が「ソナタ二長調(K448)」と言われている。
いつもこの曲を弾くと落ち着きを取り戻したと言われています。
薬物耐性てんかん患者がモーツァルトの
「2台のピアノのためのソナタニ長調(K.448)」を30秒間以上聴くことが、
脳内でてんかんに関連した電気的活動のスパイクの頻度が低下することと
関連している可能性が明らかになった。
今回の研究結果は、この曲に対してポジティブ感情を伴う応答が生じることが、
この曲の治療効果に寄与している可能性のあることも示唆している。
研究の詳細が記述された論文は、Scientific Reports に掲載される。
てんかん患者の場合、「2台のピアノのためのソナタ ニ長調」を聴くことが、
脳内でてんかんに関連した電気的活動のスパイクの頻度が低下することと
関連していることが、これまでの研究によって明らかになっていた。
しかし、この曲を聴いている時間が、この関連性にどのような影響を及ぼすのか、
そして、その理由については明らかになっていなかった。
今回、Robert Quonたちは、薬物耐性てんかんの成人患者(16人)に、
「2台のピアノのためのソナタ ニ長調」を含むいろいろな楽曲の断片
(長さ15秒または90秒)を続けて聴かせた。
そして、Quonたちは、脳波記録法(EEG)を用いて、楽曲を聴いている患者の
脳内の電気的活動を測定した。その結果、「2台のピアノのためのソナタ ニ長調」
を30~90秒聴いた場合にてんかんに関連する脳全体の電気的活動のスパイク数が
平均66.5%減少し、他の楽曲の断片では、こうした効果が認められなかった。
スパイク数の減少が最も大きかったのは、情動応答の調節に関与する
脳の部位である左右の前頭皮質だった。
また、この曲の長い繰り返しの部分が終わるところを聴いた被験者の前頭皮質で、
電気的活動の一種であるシータ活動が増加した。
これまでの研究から、シータ活動は、音楽に対するポジティブ感情を伴う
応答と関連している可能性のあることが示唆されていた。
Quonたちは、「2台のピアノのためのソナタ ニ長調」をわずか30秒間
聴くだけで、音楽に対するポジティブ感情を伴う応答に関連しており、
前頭皮質によって制御される脳内ネットワークが活性化されると考えられるという
仮説を提起している。Quonたちは、これらのネットワークの活性化は、
薬物耐性てんかん患者の脳内におけるてんかん関連の電気的活動のスパイクの
減少に寄与している可能性があると考えている。
知り合いの音楽好きの元大学教授と音楽談義をする事があります。
教授は色々な事を良くご存知でいつも楽しい会話となります。
その中でも、特に興味をそそられたのは偉大なる作曲家達が抱えていた
持病や亡くなられた原因です。
大作曲家達であれ、同じ人間ですから色々病気になるのは当たり前ですが!
現代になって遠い昔の作曲家達の本当の病気が次々と解明されているそうです。
大作曲家達ついて結構病を患いながら作曲していた方が多いようなのです。
今回は、改めて教授に教えていただいた作曲家達の病気や死因の
お話しをしてみようと思います。
1:まずは、バッハ
バロックの代表的な作曲家バッハ!かねてより患っていた内障眼が
悪化したことにより視力もほとんど失っていた。
65歳の時に脳卒中で亡くなられたそうです。
2:ベートーヴェン
耳が聞こえなくなった理由は、鉛中毒だった事がわかつたそうです。
ベートーヴェンは、ワインが大好きで毎日相当量呑んでいたそうです.
当時の安いワインの甘味料は鉛だった事から、鉛中毒で聴覚を失ったとの事です。
しかし、最近の調査では本当の死因は「B型肝炎」だったと言われています。
そして有名なのは、ベートーヴェンは重度の梅毒患者だったという説もあります。
3:モーツァルト
サバン症候群だったと言う事ご存知の方もいらっしゃると思います。
こちらは、病気というより個性と言えるかもしれませんが!
知的障がいや、発達障がいと引き換えに、ある分野だけに特別な素晴らしい
能力を授かる!モーツァルトは大作曲家と言う能力を授かったようですね!
それに重度のてんかんで引き攣り割れるような頭痛持ちで悩んでいました。
苦しみだすと自分の作曲した「ピアノソナタ」を弾いて癒していたと言います。
4:ハイドン
鼻の中にポリーブがあって悩まされていたそうです。
当時は手術で取り除くことができなかったのですね。
現代医療では簡単に切除できたのでしょう。
老衰のために77歳で生涯を閉じました。
5:シューマン
精神障害(躁鬱その他)を持ちながら数々の、素晴らしい作品を残しました。
当時は精神障害の人が働ける環境が少なかったと思います。
そのうえに彼は梅毒を患っており、梅毒治療に用いられた水銀中毒が
直接原因ではないかと言われています。
また歌曲の王と称されたシューベルトも梅毒治療で用いられて水銀中毒で
命を締めた可能性があるとされています。
6ショパン:
ピアノの詩人と言われたショパン
肺に病気を抱えてそれが原因で亡くなったそうです。
いわゆる現代の肺結核病患者であったと思われています。
39歳の若さでパリにて死亡が届けられました。
7:ロッシーニ
有名なウイリアムテルな作曲家ですが一方かなりの美食家で
糖尿病を患っていたそうです。料理名で曲も書かれています。
晩年は極度の肥満となり体調を崩すことも多くなり、躁鬱病や慢性気管支炎
さらに直腸癌を手術したことにより丹毒によってこの世を去りました。
このような事が分かると大作曲家達に失礼とは思いますがなんだか、
偉大な作曲家達もやはり人間だと思い身近に感じてしまいます。
どんな偉大な方々も人間である限り病気にならない方はいないのだと
当たり前の事なのに何だか納得している自分が変です〜(笑)
過去の素晴らしい大作曲家達は、現代だったら治った病気もあった事でしようね。
いつの時代も後もう少し医学が進歩していたら〜と思うのは同じ事!
ただ、過去の偉大な作曲家達の曲の中には病気であつたからこそ
素晴らしい作品が出来た事も事実のようです。
たまには、このような雑学的なお話しをワイン片手に楽しいと思って
聞いてくれる方がいらしたら嬉しいのですが?如何でしたでしょうか?
今回はクラビアートピアノ教室 講師 田原礼子のお話に加筆させていただきました。
是非とも私と大学教授と三人でワイン片手にお話をしたいですね。
注釈
サヴァン症候群とは、知的障害(知的発達症)やASD(自閉スペクトラム症)
などの発達障害がある中で、特定の分野において突出した才能を持っている状態や、
その人を意味する言葉です。サヴァン症候群の概念は1887年に、
イギリスの医師であるJ・ラングドン・ダウン博士がその概念を提唱し、
のちに「サヴァン症候群」と呼ばれるようになりました。
なお、サヴァン症候群とは概念であり、医学的な用語ではありません。
そのため、明確な診断基準もありません。
7月 24th,2024
恩学 |
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