社会を深く理解したあとの金言



最近のSNS上にある気になる言葉
言葉は理解したうえで記憶すると金言になるが、受け売りで使うと何も伝わらない。
ホームレスの男から素晴らしい言葉を聞いても何も響かないのは、
金言が役に立たないことを自らが証明しているからである。

これは台湾華僑の教えである。
一)もし雨を降らせる権利を傘売る人に任せたら晴れる日はあると思いますか?
ちなみにあなたならどのくらいの頻度で雨を降らせますか?
二)ある問題が適切に解決されない理由は問題を解決する人が
問題を創り出す人であるから。
三)全ての人を尊敬しなくていい多くの成功者は悪い人むしろ悪くないと成功できない。
ルールを作る人は一番それを守らないルールは弱者の足枷であり強者の道具である。
四)社会が悪くなる時は優しい人が稼げない時から始まる良い人が悪く染まるときは
不公平を受けた時から始まる。既得権益層が一般の人の気持ちを無視続けると
いつかちゃぶ台返しが来る。人間は歴史から学んだ唯一のことは、

人間は歴史から何も学んでいない。
「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」ビスマルク(独)

「人間の本質」
A)幸せの形は人それぞれ、でも不幸な形は意外と似ている
B)涙もろい人ほど、実は精神的には強い
C)優しい人の9割は、過去のトラウマの塊
D)「大丈夫」と言う人ほど、実は大丈夫じゃない
E)常に楽な道を選ぶ人は、実は人生最大の苦労をしている
F)怒りっぽい人ほど、実は繊細で優しい
G)口下手な人ほど、頭の中はおしゃべり
H)完璧主義者ほど、実は自信がない
I)人を許せない人ほど、自分を許せていない
J)お金持ちほど、お金にこだわらない
K)他人を批判する人ほど、自分に自信がない
L)返事が遅い人ほど、実は几帳面
M)同情しやす人ほど、実は冷酷になりがち

「幸せ七訓」
一)幸せな事が多いのは、感謝を知っているから
二)楽しい事が多いのは、自分に甘えが無いから
三)嬉しい事が多いのは、人の事も考えているから
四)笑う事が多いのは、思いやりがあるから
五)心が穏やかなのは、今を懸命に生きているから
六)壁を乗り越えて行けるのは、自分が裸になっているから
七)冷静沈着でいられるのは、将来を見据えているから

金言は時には辛辣な言葉としても残ることがあります。
アメリカの大統領トルーマンの言葉
「猿(日本人)を「虚実の自由」と言う名の檻で、我々が飼うのだ。
方法は、彼らに多少の贅沢さと便利さを与えれば良い。そしてスポーツ、
スクリーン、セックス(3S)を解放させる。
これで真実から目を背けさせることが出来る。猿は、我々の家畜だからだ。
家畜が主人である我々のために貢献するのは、当然のことである。
その為に、我々の財産でもある家畜の肉体は長寿させなければならない。
(科学物質などで)病気にさせて、しかも生かし続けるのだ。
これによって、我々は収穫を得続けるだろう。これは勝戦国の権限でもある。」

私はこの文章は30年ほど前に知っていた。
アサヒビールの名誉会長であった故中條高徳氏から聞いていたのである。
この文章を見て怒らない日本人はいない。
この文章を知っていて抵抗出来ない政治家は日本にはいらない。
戦後80年たった今も
WASP(白人至上主義)は有色人種は奴隷としてしか見ていない。

グローバル化が叫ばれている時代に人種差別は過去の話であり、
ましてや友好国である日本人に対してそんな差別は無いと勘違いしている
日本人も多い。
テレビで洗脳されて「世界から日本は素晴らしい国で、日本人の親切と優しさに
触れました。」こんな話は毒にもならないが薬にもならない。

人は誰しも良い話は聞きたいものである。
その言葉を聞いて元気になるのならとやかく言う筋合いではない。
どちらかと言うと私も嫌な言葉より良い言葉を聞く方がハッピーになる。
毎朝Xで嫌な情報が垂れ流されると真実であっても気分はブルーになる。
しかし目覚まし代わりに見ていると腹が立って目が覚める。笑い

聞く耳のさじ加減である。
菓子作りで甘みを増すために少量の塩を入れると甘さが増すのと同じで
良い話の合間に嫌な話をはみ込むと良い話が一層良い話として聞こえる。
だから、嫌な話は幸福における塩の役割を果たしているのである。

全ての経験者が金言を発するのではなくそれを聞いた弟子が書物として
残した場合が多い。とくに宗教関係の本は殆どが弟子の著作である。

私の友人も台湾華僑の流れをくむ一族の息子で、若い時にはことあるごとに
役立つ華僑の教えをしてくれた。
一番印象に残っているのは「水槽より大きくなった魚はいない」と言う言葉です。
事業を始める際に慎重に計画しすぎるとその事業は決して大きくならない。
年商1億円の規模でスタートする事業は間違っても10億円にはならない。
最初から30億円の規模で計画すれば悪くても10億円になると教えてくれた。

このお教えから私はプロデュース方法に取り入れたのです。
トップスターを目指すアーティスト及びタレントと、
そこそこのヒットで満足する人達を区別して力の入れ具合を加減したのです。
そうすることにより無駄な投資と時間を節約出来るので効率が上がりました。
アーティストに最初に聞く質問は「良い音楽と売れる音楽の違いが分かるか?」です。
音楽の目的が明確なアーティストは必ず成功します。
反対に売れることを目標に置いているアーティストは大きくなりません。
「ウサギと亀」の話と水槽の大きさの問題です。

そういえば昔お世話になったSONYの盛田会長も同じようなことを「盛田十訓」で
言っていたことを思い出しました。「計画は出来る限り大きく計画しろ」
そうしなければ周りから無理だとか経費を削減しろとか必ず言われても、
大きく計画していればそこそこの予算は残る。「大風呂敷は広げろ」
これもその時に知った金言です。

私のブログ「恩学」の基本は「恩に始まり恩に終わる」です。
清濁併せ持って人生を考えると我々は悪の中の清です。
生まれた時は誰でもが清なのに世の中に出て悪に染まります。

人はそれぞれ違う考えを持ち、違う価値観で生きています。
それをあの人は気が合わないから「外した」とか「切った」と言います。
間違っても「切るとか切った」と言う言葉を使うなと言われたことがあります。
人を切ると返り血を浴びて恨みを買うことになるから「切ってはならない」と
親しい住職よりたしなめられたことがあります。

どんなに気に入った言葉でも熟成させなければなりません。
経験もしていない人が他人の金言を使うと軽く見られてしまいます。
私もこの年齢になりようやく金言を使えるようになりました。
金言の取り扱いは自分が経験をして実感してから使わないと
間違った解釈を伝えることになります。

最後に恩学より「鋼は叩かれて名刀になる」
これは事業がうまくいかなかった経営者の方に送った言葉です。
鉄の塊はハンマーで何度も叩かれて名刀になる。
しかし叩いているハンマーは決して名ハンマーとは言われない。
いつも叩いてくれる人に感謝してください。
嫌味な人も意地悪な人もあなたを成長させてくれる恩人です。

ふとSNSに目をやると面白い投稿があった。
「本に「酒は体に悪い」」と書いてあったので、
私は読書をやめた」・・・そっちかい!笑い


天地創造




伊丹谷良介うたライブ12月のテーマ「創造」。
私がこの言葉を聞くと最初に思い出すのが「天地創造」です。
創造(クリエイティブ)という言葉ともう一つ想像(イマジネーション)は
同義語のように使われていますが全く別物です。
創造は作り出すことが主として語られるものであり、
もう一つの想像はある物を対象としてイメージしたその変化をいう。
創造は破壊から始まり、想像は予感から始まる。

天地創造とは、
ユダヤ教・キリスト教の聖典である旧約聖書『創世記』の冒頭には、
以下のような天地の創造が描かれている。

• 1日目 神は天と地をつくられた(つまり、宇宙と地球を最初に創造した)
• 暗闇がある中、神は光をつくり、昼と夜ができられた。
• 2日目 神は空(天)をつくられた。
• 3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせられた。
• 4日目 神は太陽と月と星をつくられた。
• 5日目 神は魚と鳥をつくられた。
• 6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくられた。
• 7日目 神はお休みになった

天地創造の類義語としては「創世」あるいは「国生み」「天地開闢」などが
挙げられる。「国生み」は、もっぱら日本神話における国土創成の物語を指す
語として用いられる。「天地開闢(てんちかいびゃく)」は「世界の始まり」や
「宇宙が今の形になった初め」を指す語であり、特に中国神話における創世の
物語を指す語として用いられることが多い。

国生み/国産み[注 2](くにうみ)とは、日本神話を構成する神話の一つで、
日本の国土創世譚である。国生み神話ともいう。
イザナギとイザナミの二神が高天原の神々に命じられ、日本列島を構成する
島々を創成した物語である。

旧約聖書《創世記》の冒頭に述べられた世界の創造をいう。
それによると,神は混沌から,光と闇,水と天,陸と植物,太陽と月と星,
魚と鳥,獣と人間(アダムとイブ)を6日間でつくり,
7日目は安息の日としたという。この天地創造の神話は近代に至るまで,
キリスト教・ユダヤ教的世界観の基本をなした。

天地創造の場面を描くことは古くから試みられてきた。
中世の写本画や教会堂装飾では,アダムとイブの創造の場面が描かれることが多い。
サン・マルコ大聖堂(ベネチア)のナルテックスのドームのモザイクでは,
光の創造からアダムとイブの物語までの一連の場面が見られる。
また,ミケランジェロの描いたバチカンのシスティナ礼拝堂天井画には,
白い髪のたくましい神が現れ世界を創造する雄大な場面が繰り広げられている。
→創世神話

仏教的天地創造
現存するわが国最古の歴史書『古事記』に描かれた「神話の世界」。
そこには「国生み」「天岩戸」「八俣遠呂智」「大國主命」など、
日本人ならだれもが一度は耳にした神話が並ぶ。
それは、古代日本人の宇宙観や世界観を背景に、天地が形づくられ国家が
誕生する過程を、幾多の神々の姿になぞらえ描いた壮大な天地創造の物語である。
その冒頭を飾るのが「国生み神話」。
イザナギ・イザナミの二柱の神様が、生まれたばかりの混沌とした大地を
天沼矛で塩コオロコオロとかきまわし、矛先から滴り落ちた塩の雫が凝り固まった
「おのころ島」で夫婦となって日本列島の島々を生んでいく。
その中で、最初に生まれた“特別な島”が淡路島である。

その背景には、大陸や朝鮮半島と畿内を結ぶ大動脈“瀬戸内の海”の東端で、
畿内の前面に横たわる瀬戸内“最大の島”として、古代国家形成期に重要な
役割を果たした“海の民”の歴史があった。それは、古代国家成立の原点ともいえる
紀元前の弥生時代に始まる。

遠い遠い神代の昔…。まだ世界には形がなかった頃…。
国土創世の為、天より遣わされた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二柱の神は、どろどろの世界を凝り固める為、
「天の沼矛(あめのぬぼこ)」で大海原をかきまわした。
すると、その矛より滴る雫が、自ずと凝り固まって島となったという。
「自凝島(おのころじま)」である。
二柱の神はこの島に天下り、そこで夫婦の契りを結び、
国生みの儀式を執り行った。
そして二柱は次々と島をお生みになり、やがて誕生したのが
「大八州(おおやしま)の国・日本」であるという。(国生み神話より)

この神話を今に伝える「古事記」「日本書紀」によると、そのとき世界で
最初に生まれたのが「淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)」
すなわち淡路島であるといいます。
国土創生の神、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が
最初にお生みになられたという淡路島。
ここには、我が国の始まりの時を刻んだ、国生み神話ゆかりの場所が数多く存在し、
訪れる人々を悠久の彼方へと誘います。

伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)は、国生みに始まる全てのご神功を果たされた
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、後に余生を過ごされたという住居跡に
建てられた日本最古の神社。
他にも、神話の中の「おのころ島」だとされる「おのころ島神社」
「絵島」「沼島」など、島内のあちこちで神話の浪漫が漂っています。

我々が日常暮らしているこの世界はどのようにして作られたのかを
想像することも、国作りの創造へと繋がっていきます。
西洋的(キリスト教)な天地創造と東洋的(神話)な天地創造を
比較しながら悠久の浪漫の旅を楽しんでみては如何でしょうか?


何もかも全て




いつの頃からか世の中を達観してしか見れなくなった。
自分の過去の時間と未来の時間を比べると圧倒的に過去の時間が長い。
これからは残り少ない未来への時間を大切にして生きていかなければならない。
少しでも生活の無駄を取り除いて有意義に暮らさなければならない。
だから子供の時の嫌な時間も、大人になってからの忍耐の時間も、
ライバルとの戦いも、今となっては些細なことのように思える。

自分が大切にしてきた思い出も秋の枯葉のように道路の隅に転がっている。
青々としていた青春の緑の葉も月日と共に色変わりして、
この時期から終焉を迎え小枝から地上に落ちていくだけになる。
私の人生はいつも心地の良い秋風にふらふら吹かれているだけだった。

必死になって守ってきた成功話も笑い話のひとつである。
数々のスターと写る記念写真以外何も残せないで過去の人になる。
もう過去に頑張った人みたいに持ち上げられるのは無理がある。
しかし、たとえ病気になっても生きざまのプライドだけは残していたい。

人の評価は夏の公園の噴水と同じで一瞬のやすらぎを与えても
歓喜で騒いでいる割にはすぐに消えてしまう。
今は束縛される暮らしから好き勝手な暮らしになって、
我儘に生きてきた私にも少しだけ冬の厳しさが身近に迫る。
残り僅かな命と、去っていく友人と、少なくなった金銭と、
惜しまれる声も、いつまで残るのだろうか。

人間「無一物」生まれた時も死ぬ時も何も持たない無一物なのである。
しかし無一物とは何も持たないという事ではなく、
わが物として執着すべきものはなに一つもないことをいう。
一切のものから自由自在になった心境である。
宗教家は、こぞって来世は良くなるというけれど生き証人は何処にもいない。
気休めの空手形を出すだけで保証はしてくれない。

あんなに心ときめいた初恋の人も記憶の外に消えた。
仲間と組んだバンドの写真もセピア色に染まりちぎれていく。
1人で過ごした異国の夜の開放感が懐かしい。
ハイドパークで聞いたツェペリンの「天国の階段」
いまはもう路地裏に消えてどこにも見当たらない。
アルバムの中にも静寂があるだけで笑顔は戻らない。

思い出せばNYのライブハウスで、ロンドンの街角で、
ブルックリンの地下鉄でギャングに囲まれた。
あの頃は目立つ為にわざと災難を求めていたような気がする。
危険な経験をすることによって世の中に宣戦布告していた。
綺麗ごとだけで大衆に響く文化を作れないと。

70年代から80年代にかけて高度成長の波に乗り、
仕事も順調に進んだが金は一銭も残らなかった。
スロットマシンの絵柄のように回るだけ回って明け方に消えた。
情報を得るために自己投資のためにと理由をつけて散財した。

もうすぐ何もかも全て平面の写真記録になり記憶の立体は消える。
テキーラもズブロッカも胃袋を溶かしてホテルのトイレに消えた。
メタバースの世界では寿命が無いという。
登録すれば永遠に生きていられるという。
これじゃいつまでもモダンタイムは終わらない。
杖振りおじさんはいつまでも歩き続ける。

夕焼けに見える景色も見えなくなり、握りしめる指先にも感覚がなくなり、
補聴器をつけた耳も聞こえなくなり、入れ歯だらけの口では味も消えてしまう。 
もうすぐ全てが幻になる。トリップした幻想の空間で涎を垂らす。
しかし後悔の念は微塵もなく反対に清々しい程である。

残り少ない秋の色づき、刻々と迫る冬の足音、花咲く季節の春の訪れ、
嫌いになれない解放的な夏の灼熱。日本の四季に溺れた人生である。
引いては迫る波のように作られて消えていく無常の世界。

いつかはこれらも記憶から消えてチューブに縛られるかもしれない。
肉体も精神も時間と共に必ず失うことになる。刹那の世界に入り込む。
多くの経験も、学んできた知識も、必死に繋ぎ止めてきた人間関係も、
愛する家族も、まるで終電のように止まったままになる。

願わくば!平和な社会が地球上に残っていてほしい。
殺伐とした人間社会に入り込む悪魔の囁きに翻弄しないでほしい。
民族間の争いが戦争を引き起こし、地下組織がワクチンをばら撒き、
経済マフィアが景気の上げ下げをする、些細な事件に国家で大騒ぎする現象は
ノストラダムスの予言のように人間の心に不安を植え付けるだけである。
自分たちで使い切った地球上のエネルギーも、大量に生産した食料も、
奪い合いの中で残りわずかになり過激な人殺しが始める。

最後は人間の尊厳を残したままで静かに過ごしたい。
自分で必死に守ってきた地位や名誉や財産などチリと消えた方が良い。
動物的な欲に縛られて最後を迎えるなら餓死を選びたい。

肉体と共に衰える感情も意識も川の水が流れるように穏やかに消えてほしい。
全ては失われて新しい世界が始まる。年老いた人間に必要なものは愛である。
最後は孫たちの声を聞いて手を繋いで迎えたい。こんなささやかなことも
得られない人たちが大勢いることも事実である。

負けるなよ!悪魔の囁きに負けるなよ!身体の中のウイルスのように
じわじわの入り込む悪魔の囁きに惑わされるなよ。
彼らは泣き声を喜び、笑い声を嫌うから、大声で笑うのだ。
子供達と共に笑い続ければ天国は手に入るのだ。みんなで天国の扉を叩くのだ。
天国の扉は正しき人を喜んで向かい入れてくれるから、心配する必要はない。

何もかもすべて終わりを迎えることになる。
「私」の全てを失った時、すべてがここにあったことに気づく。
頭の中に残る思い出だけが永遠に忘れることは無い。
何もかもすべて終わり亡霊が記憶を持ち出していく。

何もかもすべてと考えながら朝の珈琲を飲んでいる。
生きている喜びがここにある。


直感力とは




日常我々の会話にも「直感」という言葉は多く出てくる。
「直感」という言葉が出てくる前には「勘」とも言っていた。
あの人の勘はよく当たるよね。
直感は論理的で継続性があり、勘は思い付きの瞬発である。
勘で馬券を買ったら万馬券になった。
しかし直感で馬券を買ったら万馬券になったとは言わない。

世間では直感を大切にという言葉が頻繁に使われるが、
果たして直感とは鍛えられるものでしょうか?
「脳のメカニズムからとらえた場合、直感力とは何ですか?」
この質問に脳学者中野信子さんは答える。

脳の中にはものごとを判断する機構(システム)が二つあります。
一つは迅速に判断を下す機構、もう一つは論理や理性に
基づいてゆっくりと慎重に判断を下す機構です。
前者をXシステム、後者をCシステムと呼びますが、
いわゆる「直感」を決めているのはXシステムだといってよいでしょう。
正しい決断を下すには、Cシステムによって論理的にゆっくりと考えて
結論を出したほうがいい、と多くの人は思うかもしれません。

Cシステムは知性と呼ばれるものを働かせるシステムで、受験勉強に
よって鍛えられるのもこちらです。だから「頭がいい」ということは
Cシステムの働きが優れていることであるととらえられがちなのですが、
意外と見落とされがちなのがXシステムの力、すなわち、直感の力です。

例えば、目の前に美味しそうなものがあっていつのまにか手にとって
口に入れていたという経験や、いわゆる一目惚れなどは、
直感=Xシステムの選です。もちろん、直感の判断が間違うことも
しばしば起こります。

判断を下すとき、私たちはどんな情報を集めているのでしょうか。
論理で決めている遅い判断機構であるCシステムの場合は、
その人の来歴とか、これまでの仕事とか、どういう人と友達なのかといった
既存の情報を総合して判断します。
しかし、Xシステムの場合はもっとわかりやすくて、
「見た目」がほとんどです。香りとか声などの情報も多少加味していますが、
判断の根拠の大半は視覚を通して得た見た目の情報です。

見た目が判断に与える影響を調べた実験はたくさんあります。
例えば、見た目の魅力度を写真で判断させて学生に点数をつけさせ、
その結果、点数の高かった人の写真と低かった人の写真を
それぞれまた別の被験者に見せながらMRIで脳の画像をとる。
すると学生が高い点数をつけた写真だけに反応する脳の領域というのが
あります。そこが、直感で選ぶときに判断を下している脳の領域です。

このときに必要になるのは、直感で選んだ答えを正解にする力であって、
必ずしも正解を選ぶ力ではないんです。

直感力があってなおかつそれが正しいという人は、
正しい答えを選んでいるのではなくて、選んだ答えを無理やり
正解にしているんだと思います。

例えば、織田信長がやったことは正しいと思いますか?
評価できないですよね。ココ・シャネルのやったことはどうでしょうか?
鼻持ちならない女だという人もいるでしょうが、
少なくともブランディングには成功して、商業的にも成功をおさめ、
今でも燦然と輝く不朽の名前になっています。
直感に従った結果をブレズにやり通す力が直感を裏打ちするものだと
教えてくれます。

だから、直感による判断も必要なんです。それを、専門用語で
ヒューリスティクスといいます。例えば、官僚の意思決定について、
どう思います?

官僚はすごく頭のいい人の集団ですよね。
超難関の国家公務員試験に合格した人たちです。
そんな彼らの意思決定がなぜ微妙になってしまうのか?
ヒューリスティクス=直感が欠けているからです。

知識と前例だけを手がかりにしていると、判断は常に遅れますし、
前例のないデータが出現すると対応できません。
これは、現時点のレベルでのAIが行う意思決定と同じです。

「フレーム問題」の例に出される有名な事例ですが、例えばAIに
「世界平和はどうやったら実現できるか」と尋ねると、
「世界中に核爆弾を落として人類を滅亡させてしまえば平和になる」
という答えが出てきてしまう。問題解決にならない答えだけれど、
今のAIはそれをおかしいとは思わない。

では、人間はなぜこの答えをおかしい、ダメだと思うのか。
その人間的な感覚こそがヒューリスティクスです。

直感で選んでダメ男と結婚した場合、相手を消すわけには
いきません。
後悔しつつ、でも結婚してしまったのだから結婚してよかったことに
しなくてはという気持ちが働くのが人間です。
「私は好きになったんだから、このことを無駄にしないために納得しよう」
という気持ちが働く。みんなが「あの人はダメな人だね」と言えば言うほど、
「いや実はいいところもあるのよ」と擁護する。
この状況が認知的不協和です。

直感力や判断力に男女の差はありますか?
あると思いますよね?ところがそうでもないんです。

研究もあって「自分は直感力があると思いますか?」と聞くと、
「あると思います」と答えるのは、男性より女性のほうが多い。
つまり、男性のほうが直感に自信がない。ところが、嘘を見抜かせる
実験をすると、意外なことに少しだけ男性のほうが成績がいい。
男性は直感が働いても、言わないんですね。

直感力が優れているといわれる人は、「こんなこと思いついたけど、
すごいと思わない?」とすぐに口に出してしまうのだと思います。
誰も思いついていなかったわけではなくて、周りの誰かしらは
必ず「それ、私もそう思ったよ」と思っているはず。
でも「これ、すごいと思わない?」と言った人の勝ち。
「すごいでしょ」と言って回って、動き回って「こういうふうにしようよ」
と働きかけていく。そうして実現し始めたら、それはもうその人の
手柄なんです。

だから、思っているだけではだめ。ひらめきは誰にでもある。
それを形にする力があるかどうか。それが、最終的に「直感力がある」
ということなのです。

直感力を養うために大切なこと。
1.正解を選ぶ力ではなく、直感で選んだ答えに取り組み続けて
正解にする力をつける。
2.直感に従った結果をブレずにやり通す力は、論理的な力の裏打ちから
生まれる。
3.直感力に必要な自分をメタ的に見る力は、マインドフルネスで鍛えられる。

如何でしょうか?
直観を自慢する人は上記の三つの項目を実行されているのでしょうか。
思い付きを形にして裏付けを残せば直観のある人と言われます。
あなたも直観を大切にして行動を起こしてください。


指揮者になれ




AI時代に対抗するにはAIに従うのでは無く従わせるのだ。
AIの最大の特徴は質問者の答えを素早く回答する事だ。

俳句を楽しんだ事はあるだろうか?
五七五の十七文字でその場の情景を書き込む。
基本は季語を取り入れて自分の思いをスケッチする。
上手な人と下手な人の違いは言葉選びと感情の乗せ方である。
普段は室内で行う俳句の会と時折名所旧跡を訪ねる吟行がある。
私は吟行が得意で景色を見るだけで素敵な句を書くことが出来た。
たった2~3文字で世界観がガラリと変わるのである。

AIは質問者の内容次第では全く違う回答が届くことになる。
質問の要点を簡潔にまた核心をついてなければ意味をなさない。

オーケストラの指揮者も同じようなものである。
作品の楽譜を見て、作品の意図や作曲家が書いた背景、時代など
学ばなければいけません。
そして、指揮者自身が思い描いた理想の音を演奏するオーケストラに
伝えるのも簡単なことではなく、細い指示を出して作品を作り上げていきます。
楽器ごとにテンポや音量、表現の仕方までこだわり、オーケストラを
まとめていく指揮者は非常に重要な人物です。

名指揮者というのは、演奏家たちの能力を引き出し、まとめ、そろえて、
自分の思い描いた理想の音楽をつくりあげます。
ですので、ただ音楽の知識がある、
音楽の才能があるだけではいけません。
信頼することができる常人以上の人間力が求められます。

お分かりになりますか?
一般知識いわゆる常識で質問するとAIも一般常識で回答します。
広く浅く聞いても核心に触れる内容で無ければ
本来求める回答にはならないということです。
同じメーカーのパソコンでも使う人によっては宝の山かゴミの川です。
ゴミの川にならないように注意しましょう。

例えば「指揮者になれ」を違う角度で添削するとこうなります。
集団の中の指導者も同じようなものである。
何を目的として人々を導くのかが明確に分からなければ前に進めません。
問題の元を見て、解決の方法を探り、起こった背景、原因など
探らなければなりません。
そして、指導者自身が思い描いた理想の領域をスタッフたちへ
伝えるのも簡単なことではなく、細い指示を出して理想を作り上げていきます。
各人の能力ごとに働き方や仕事にこだわり、あらゆる集団(グループ)を
まとめていく指導者は非常に重要な人物です。

名指導者というのは、人々の能力を引き出し、まとめ、導き、与えて
自分の思い描いた理想の世界をつくりあげます。
ですので、ただビジネスの知識がある、統率の能力があるだけではいけません。
信頼することができる常人以上の人間力が求められます。

目の前の問題をAIに質問するとその問題の解決方法を教えてくれます。
そして、人間の想像力で未来のあるべき姿を質問すると、
現状のデーターの中からあらゆる可能性を導き出してくれます。
更にAIの凄いところは答えを限定しません。
何回かのやり取りの中で質問を進化させる能力があることです。

たとえば料理のレシピを教えてくださいと入力すれば、
手元にはどんな材料がありますかと聞いてきます。
しかしもっと具体的にワインに合う料理のレシピと打ち込めば、
より具体的な内容で瞬時に教えてくれます。
料理を作る場所が自宅なのか友人宅なのかアウトドアなのかも
重要なファクターになります。
なるべく具体的な情報を入力すると母親のように細かく教えてくれます。

AIに頼るばかりでなく解答の求める領域の質問力も重要です。
そして何よりも咀嚼力0→1でなく考える能力が必要になります。
質問力を養うのは想像力が必要です。想像力は好奇心です。
目の前の景色と音と臭いを組み立てる能力があれば全てが可能になります。

もう一つは言葉や文字に敏感になり真偽を確かめることも重要ですが、
物語を作り出すストーリーテラーの能力も必要です。
自分なりのあるべき姿のストーリーを創り出すのです。

例えば最近この文章を見つけました。
1972年に一週間に渡ってアメリカで放映された人気番組
「マイク・ダグラス・ショー」を、今の視点で振り返り再構成したもの。
私もこの番組について部分的には知っていたが、これだけまとまった
フィルムを見るのは初めて。ここでのジョンレノンはいつになく饒舌だ。
時には司会のマイク・ダグラスよりも番組全体を引っ張っている。
憧れのチャック・ベリーに初めて逢った感激もあったのだろう。
ジョンはチャック・ベリーについて「50年代チャックの詞は知的で
社会的なメッセージが内包されていた。驚くほど優れた韻律で
ボブ・ディランや僕に大きな影響を与えた」と語る。
そして「ロックンロールの別名はチャック・ベリーだ」とも。

音楽に興味のない人には全く意味がわからないと思いますが、
音楽ファンなら分かる内容です。ここに登場する名前は全て伝説の人です。
私は現在51歳のロックアーティストをプロデュースしています。
一般常識で言うと年齢も高く知名度もないアーティストのプロデュースは
誰も行いません。しかし彼の才能は必ず時代が求めていると信じているから
全力で取り掛かっているのです。良い音楽に年齢は関係ありません。

今まで伝説のアーティストたちは世間から批判された人たちばかりです。
しかしその人たちがいたから今の音楽シーンが生まれたのです。
無理だと言う人たちの言葉に従っていれば時代は変わらないのです。
昔だからと笑う人もいるけれどイノベーターの役割は変わりません。

大切なことは何を目的として何の為の行動かと言うことを
知らなければなりません。それに必要な知識と能力は何かを探り、
その為に必要な人・物・金を割り出すのです。
これらをAIに質問するとどうゆう答えが出てくるのでしょう。
私は専門家ですのでだいたい分かります。

これからは常に指揮者の目線で考えることが必要です。
オーケストラの大半がAIになっても指揮者は1人です。
楽しい場面は作れたとしても心を震わす感動の場面は、
人間にしか作れないのです。
AIの時代には誰しもが指揮者になる訓練を受けるべきです。


全てを受け入れる




全てを受け入れる
現状のままを受け入れる
ありのままに受け入れる
鏡の中の自分を受け入れる

他人の世界はお花畑か荒れた大地
お花畑に憧れても荒れた大地を嫌っても何も変わらない
日常に溢れている様々な情報に惑わされずに自分を探し出す

生き方を見直して心の棚卸しをする
決して机に向かって計画するなよ
外に出て大自然に抱かれろ
近くの公園のブランコに揺られてみろ
高く蹴った足元に見える大空に飛び込むのさ

いつもと変わらない同じ状況で考えても無駄だ
君には足があるじゃないか、目があるじゃないか、
聞こえる耳があるじゃないか
小さな自分でも大きく夢を描いても構わないのさ

落ち込む時には落ち込んでいいんだよ
だらしないカッコでいいんだよ
泣いても大笑いしてもいいんだよ
みっともなくてもいいんだよ
それが自分ならボロボロだっていいんだよ

全てを受け入れる
現状のままを受け入れる
ありのままに受け入れる
鏡の中の自分を受け入れる

周りに合わして作り笑いをして
乗り気じゃないのに群れを組む
興味もないのに雑多な話を合わせる
時間の無駄に振り回される
悩みに振り回されるなら
解決の糸口を見つけたいのなら

私から皆様へ「禅語」を読むことを薦めたい。
以前から気になっていたモデルのSHIHOさん。
この方を勝手にご紹介させていただきます。
皆様のお手本になればと思います。

「SHIHOの楽禅ライフ」より
今回の禅語:身心(しんじん)に法いまだ参飽(さんぼう)せざるには、
「法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、
ひとかたはたらずとおぼゆるなり。」

自己の身と心に法が未だ浸透していない時には、
法は満ち足りていると思ってしまう。法がもし身と心に充足すれば、
なにかが足らないと思うものである。

ものごとの本質をしっかりと会得していない時には、
もう全部分かったつもりになってしまい、本当にわかった時には、
まだ何か足らないのではないかと思うのである。
(『正法眼蔵』のうち「現成公案」より)
 
この禅語を読むと、なんでもわかった気になっていても、
物事にはいろいろな立場からの見方や感じ方があることに、
あらためて気付かされます。
船で大海に出て、自らの目で四方(水平線)を見ると
海は円いように見えますが、
人の目の届く範囲では円に見えるだけで、魚にとっては宮殿に見え、
天人には宝石の玉飾りに見え、さまざまな形や性質から成っています。

我々が生きるこの世界全てに、数え切れない側面と性質があります。
人は自分が学んだり、経験したりした範囲だけで、
理解し判断しようとするのではなく、
無限の世界があることを知るべきなのです。

この言葉に、私はふと涙がこぼれました。
なぜって、「こうじゃなきゃいけない」と
自分を責めていた部分に、そうじゃない見方もあるんだよ、
とふと肩の力を抜く隙間を与えてもらったような気がしたから。
私の性格は、こう思ったらこう!と突き進んでしまう部分があり、
なかなか他の見方ができなくなってしまい、
時にそれで苦しんでしまうことがあって。

正しさを追求するあまり、それについていけていない自分がいたり。
したいことができないと極度のストレスを感じてしまったり。
物事ってなんでも思うように進まないのが現実。

そんな時に自分本位の見方だけをしていると苦しくなるのだけど、
視点を変えて、他人本位の見方をすると、
全然違う感情が存在していたり、
気づかなかった事実に出会えたりすることってありますよね。

普段、自己犠牲をして他人本位にしている方は、
自分は、本当はどうしたかったのか、と自分自身の気持ちに立ち返ったり、
寄り添ってみることでも、新しい見方や感情に出会えたりするかもしれません。
そうやって「見えていない部分」 に気づいていくことが、物事の本質を
見抜く力や世の中の真理を知るきっかけになるのかもしれませんね。

以前、ある友人に「自分にとって最も大切なものは何?」と質問をした時、
返ってきたのは「偽りのない自分」という答えでした。
正しいか正しくないかではなく、自分自身に正直かって。
確かに、人は、立場や役割で自分自身を作ってしまうことがあるから、
肩書きを取っ払ったありのままの自分に戻った時の、
そんな正直さや純粋さに向き合ってみると、
本当に自分が求めているものが見つかるかもしれないですよね。

同じ問いを他の人にもしてみたところ、「健康」「自由」「時間」
「愛する人たちと幸せな時間を過ごすこと」など、答えはさまざまでした。
自分にも同じように問うとすれば、私の答えは「愛こそ全て!」
でも「愛」は深すぎて、そこには喜びや平和、辛抱強さ、親切、善良、温和、
自制などいろんな要素が含まれる気がします。
もし「愛ある人」になろうなんて思ったら、満ち足りるどころか、
足りないものだらけ。この禅語にぴったり当てはまります(笑)。

皆さんにとって、今、最も大切なものはなんですか? 
皆さんの中でそれは満ち足りてますか? 
それともまだ足りないと感じるものですか?
禅について学びを深めている、モデルのSHIHOさんの言葉より。

私も道元禅師の言葉を纏めた『正法眼蔵』「現成公案」を深く読み、
禅語から多くの学びを得ました。
有名な書家の相田みつを氏も「正法眼蔵」を愛読していました。
まだまだ修行が足りませんがこれからも精進するつもりです。
全てをありのままに受け入れて人生を歩み続けます。


笑うこと悲しむこと




人間は「喜怒哀楽」を持つ哺乳類サル科ヒトに属する。
誰にでも喜びも、怒りも、哀しみも、楽しむこともが備わっている。
シンプルに笑うことや悲しむことがいかに大切かを五木寛之氏が述べている。

「笑うことと悲しむこと」
※致知2012年12月号 五木寛之さん“大人の幸福論”より

明るく振る舞い、よく笑うほうがいい。
けれども性格的に無理な人もいるでしょう(笑)
ただ、いろいろな外国の本なんか読んでいて面白かったのは、
脳は人間の感情を支配しているけれども、
結構騙(だま)されやすいともいうんです。
だから人と明るく談笑したり、大笑いできないような人は、
一人鏡に向かって「アハハッ」と口を開けて笑うといいそうです。
すると脳はその楽しそうな顔を見て、
あぁこの人はいま喜んでいるんだなと錯覚するらしい。

喜び上手というのはとても大事です。
だけど同時に悲しみ上手も大事なんです。

最近はグリーフケアといって、人の悲しみに寄り添うことの
大切さが論じられるようになりましたが、悲しい時にはちゃんと悲しむこと、
泣くっていうことが大事なんです。
戦後よくなかったのは、なんでもプラス思考で、笑うこと、ユーモア、
明るい気持ち、前向きと、そんなことばかり持てはやしていることです。
でもそれは車の片方の車輪でしかない。
もう片方の深く悲しむ、嘆く、涙をこぼすことも大事なんです。

本居宣長も説いています。
人間は長く生きていると必ず悲しいことに出会うんだと。
悲しいことに出会ったら悲しいと思え。
ごまかさずに真っ直ぐ見据え、あぁ私は今悲しい、
悲しいって声に出して言え。人にも語れ、空に向って拝みもせよ。
それが昇華されて素晴らしい歌になるんだと。
ちゃんと悲しむということは、
笑うことと同じように大事なことなんです。

喜怒哀楽の感情が豊かな人は、人生を愉(たの)しむことができる人だ。
うれしいときには笑い、不正なことに憤(いきどお)り、
悲しいときには涙を流し、楽しいときにはともに愉しむことのできる人。
喜怒哀楽の感情を抑え込んでしまうと、
それはスタンプを集めるようにたまっていき、いつか爆発する。

『災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候(そうろう)。
死ぬる時節には死ぬがよく候。
是(これ)はこれ災難をのがるる妙法にて候』(良寛禅師)
良寛さんは、災難をのがれる唯一の方法は、どんなにひどい状況になろうと、
そこでジタバタせず、すべてを受け入れ、淡々と生きることだと言った。
逃れられない運命だと悟ったら、その中に飛び込むしかない。
そして、悲しくなったら、ただただ思いっきり泣くことだ。
ちゃんと悲しむことは、笑うことと同じように大事なこと。
【人の心に灯をともす】より

フランスのドキュメンタリー映画「アニマル」
<ぼくたちと動物のこと>を鑑賞した。
イギリスの女の子とフランスの男の子が環境問題に取り組み、
そこで死んでいく動物たちをどうすれば絶滅から回避できる?
2人は解決策を探りに世界各地へ回った。

彼らの突撃レポートに逃げる議員、養鶏場の経営者との食糧問題、
ジャングルの開発で犠牲になった絶滅危惧種の話などを専門家に聞く、
大自然の美しさと共に子供の視線がよく理解できる作品です。
そして最後に動物たちのことを調べていくうちに人間のことが
よく理解できたと言い終わった。

私は現在「動物かんきょう会議」アニマルSDGsの一員として所属しています。
人間のエゴを優先するのではなく動物の気持ちになって環境を考える会です。

人類が快適な生活を追い求め、自分たちの欲望を満たしてきた結果、
世界は気候変動、戦争や紛争、貧困格差など明るい未来を描きにくい状況です。
専門家・科学者・環境活動家たちの多くは「人類が技術革新と経済成長の結果、
みずからを滅ぼしている現実」を嘆くばかりで、
解決の糸口がなかなか見えません。
予想を超えたスピードで世界が変化していく中で、
私たちは子供たちに何を教えたらよいのでしょうか?
「せかい?動物かんきょう会議」メソッドでは、さまざまな動物や生きもの
の立場にたち、多角的な視点で対話を重ねることで「考える基盤」を作ります。

AI時代を生きる世代に必要な3つの能力、
「創造力(自ら考え、自発的に行動する力)の向上」「自己肯定感の向上」
「自分と他者との関係性への気づきの醸成」が目的です。
今こそ、自らの未来を自らデザインするための技術と共生の思想を
伝えなければなりません。

現在、山口県宇部市と共同で小学校の授業として正式に取り上げられています。
地元のときわ動物園と組んで課外授業も執り行っています。
「動物かんきょう会議」の講習を受けた専任のインストラクターも大勢います。
既に中学生のインストラクターも育っています。

約27年間の研究成果が一冊の本になりました。
「どうぶつに聞いてみたーアニマルSDGs」
今こそ、発想を転換しよう!
アニマルSDGsは人間SDGsへの逆提案

人間中心の発想はもう限界。
地球上の哺乳類は重量比で人間34%、家畜62%、野生動物4%という
研究報告がある。人間と家畜をあわせると94%!その一方で、世界は気候変動、
紛争や戦争など悪化の一途をたどり明るい未来は描きにくい。
ほとんどの人間は「人類が技術革新と経済成長の結果、自らを滅ぼしている現実」
を嘆くばかりで改善の糸口は見えない状況……。
”もう、人間(おとな)だけにまかせちゃいられない!”
動物たちが、子どもからすべての人間たちへ語りかける。

動物たちは声を上げることも訴えることもできません。
我々人間の様に悲しんだり怒ったりの表現も出来ません。
子供たちが動物に成り切り動物たちの悲痛な叫びを訴えます。
SDGsカテゴリーの18番を加えることを提案します。

ドキュメンタリー映画「アニマル」の少年少女の環境問題に対する
疑問が世界中に届き、日本の子供達も立ち上がる時だと思います。
この地球は人間だけのものではありません。

笑うことと悲しむことが出来る人間が変えていかなければ
世界は何も変わらず何も動きません。


今日は死ぬのにもってこいの日だ




美しい死に方を望む人は多いと思います。
病院で死ぬか、自宅で死ぬか、愛する家族に見守られて死ぬか。
苦しまずに死ねるのであれば安楽死を望む人も多いと思います。

どうせ死ぬのであればと自暴自棄になる人もいます。
しかし仏門に入り心静かに過ごしたいという人もいます。
人それぞれですが大自然に抱かれて死にたいという人はいません。

もし死ぬ日がわかるのであれば私は身辺整理をした後に餓死を望みます。
食べない事は人間の機能を徐々に弱らせて静かに息を引き取る事が
できると聞いています。慌てず騒がずに好きな場所で息を引き取りたい。
叶うのなら少数の身内と気のおけない少数の仲間に囲まれて死にたい。

一般的には老人と言うレッテルを貼られて車いすに座り、子供の様に
あやされて老人ホームで死の順番待ちをしている方が大勢います。
反発する力もなくなすがままにされて「こんなはずじゃなかった」と
後悔する老人の方も多いと思います。

こんなタイトルの本があることを知りました。
インディアンの教えは先祖から伝わる素敵な物語があります。

「今日は死ぬのにもってこいの日だ」
ナンシーウッド著

生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。

わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。

万物は一度死ぬことによって、生を取り戻す。
冬に枯れるから、春に芽吹く自然のように。
母なる大地を切り売りすることなどできない。

「所有」から離れたインディアンの哲学に学ぶところ多い
大自然の中では人間が創り出したものは何もない。
寿命が来れば先祖の霊や森や川の例に囲まれて幕を閉じるだけです。

こんな話もあります。
カナダの北西部地方の総合病院には言葉や習慣の色々異なる
エスキモーやインディアン、それに少数の白人患者が送り込まれて
来ていました。
重症のやけどで、白人なら助かるかどうかで五分五分というような
症状の場合、エスキモーはだいたい生き延びるし回復も早いが、 
インディアン中でもヘアーインディアンは、あっという間に
死んでしまうというのです。

「ヘアーインディアンはちょっとした事で、すぐ生きる意欲とか
執着心とかを失ってしまいます。白人なら絶対死なないような
軽度のやけどや肺炎でも、コロリと死んでいくんですからね。
それに痛いとか苦しいとか、とても大袈裟でね」

「ヘアーインディアンは、ちょっとしたことで大騒ぎするの。
それに患者が、もう死ぬといいだしたら、あっという間に死んでいくのよ。
ヨーロッパ流の医療がよく効くのは、本当に軽いカゼとか、
麻酔で手術してしまえる虫様突起炎とか、お産、
それから乳幼児の栄養指導だわ。肺炎には弱いのよ」

ヨーロッパ流の医学は「死を悪と見て」、避けられるだけ
死を避けようとして来ました。
そのヨーロッパ流の医学と、ヘアーインディアンの生き方、
死に方とがすれ違うのです。

ヘアーインディアンの場合は「死ぬこと」を重視し、それを優雅に、
言い換えるなら生にしがみつく醜い態度を呈することなく、
引き潮のように死にゆくこと。

ヘアーインディアンの世界では生きている者も死者も、
あらゆる言語活動が「死」に向かって動員される。
言祝ぐ。「言祝ぐ」と言ったのは、集団の成員だけでなく、
彼らの祖先が守護霊となって、彼らの「死」に
積極的に関わっているからである。

「ミルトン・エリクソン「魔法使いの秘密の言葉」より」

世界中のどの国も高齢者問題を抱えています。
21世紀は戦いの時代でした。
侵略と略奪を繰り返し多くの人の命を奪ったのです。
その反面に労働力として兵隊として国を支える国造りの一環として
子どもを増やす必要があったのです。

日本でも1945年に第二次世界大戦争が終了後に「産や増やせよ」の
スローガンのもとに我々団塊の世代が誕生したのです。
家族の中に4~5人の兄弟が居て、学校に行けば一クラス50人前後で
学年12~15クラスは当たり前の時代だったのです。

その方々たちが、2020年代に入り「死は身近」になり
死の順番待ちをしている状態です。私もその一人です。
私は死を怖いと思ったことはありません。
お寺で「生老病死」を学んだお陰で死の段階が来たと受け入れます。
それよりも突然記憶が無くなる方が怖いと思います。
愛する家族や友人の顔も思い出せなくなると「生きている存在」が
無くなるからです。

意識を持って死を迎える。
「今日死ぬのにもってこいの日だ」と言える余裕が欲しいですね。
死はそれほど怖いものではありません。
残された人たちも笑顔で手を振って「いってらっしやい」と
送り出してあげてくださいね。


最悪を想定して最高を描く




一体全体最悪とは何をもっていうのか分からない。
人それぞれの価値観で使われる言葉であるから、
その受け取る解釈は千差万別である。
同じように最高も何をもっていうのかは分からない。
特に仕事の状況で願った通りの業績が出れば最高だし、
その反対に何をやっても結果が思わしくない場合は最悪となる。

私の生き方は「All or Nothing」百か零の人生であった。
人生を急いでいたから結果ばかりが気になり
地道な計画と努力を怠っていたのである。
気迫(パワー)と創造力(アイデア)だけでアーティストを
オールラウンドでサポートしてヒットに繋げたからです。
みんなと同じ常識の世界で戦えば流される気がした、
過去には無かった意外性を前面に押し出して功を奏した。

1991年にCBSSONYを退社して独立経営の厳しさを学んだ。
今までは制作だけに没頭していれば仕事が成立していたのに
何もかも(経理・マネージメント・コンサート手配など)
自分でやらなければならない大変さに気づいた。気づくのが遅い!
退職金も印税も自宅も担保に入れてすべて事務所の運営費に回して
10年間で2億5千万円ほどは失った。

10年間死に物狂いで経営を続けたのだが、最後はアメリカの
レコード会社との契約が入金直前で破棄されたので、
やむなく会社をたたむことにした。
所属アーティストやスタッフ及び関係者に多くの迷惑をかけてしまった。
すべて私の未熟さゆえに起こったことである
悔いても悔やみきれない出来事であった。

会社を立ち上げた時に仕事が順調に行かずに資金繰りで
苦しむことを想定しておくべきであった。創業の苦しみである。
それと同時に順調に業績が伸びた場合もどれほど事業の拡大を
図るかも想定すべきである。守成の苦しみである。

敗者になって悔しくて心に刻まれた場面がある。
音楽事業から少し距離を置いてビジネスプロデューサーになった時である。
アパレル会社の顧問として役員同行で百貨店へ売上提案に行ったところ、
先方の社長から「あなたの提案は理想論であってビジネスには役に立たない。
うちの社員も寝ずに業績を上げることを考えている。
百貨店に取って洋服屋の売上はたかが2~3%しかならず
話しあうのは時間の無駄だ」と一言放って会議室から出て行った。
仮にも私は取引先の役員である。その人間に向かって
客商売の百貨店代表が言う言葉ではない。

しかしこのような言葉を投げかけられるのは初めてでは無い。
独立して自社のアーティストの売り込みにTV局へ行ったところ、
「あなたとはSONYの社員ということで一緒に仕事をしたが、
いまはその肩書が無くなり、我々としては付き合うつもりは無い」
見事に手の平返しにあったのである。
どのような努力でトップになろうと人間的未熟は将来が危ぶまれます。

どのフィールド(事業規模)で、どのポジション(役割)かを
把握しなければ上記のようなことを言われても仕方がない。
正論や常識で判断しても社会を知らなければ意味が無い。
社会、特にサラリーマン社会は理不尽なことだらけである。
大学を出たばかりの新入社員が3か月もしないで辞めていくのは、
自分の理想と現実の社会があまりにも乖離しているので
耐えられないからである。

仕事以外にも自分の人生に置き換えることもできる。
一生かけて生きる「目的」を果たさなければならない。
直近の「目標」が見えなければ闇雲に動き回るだけになる。

私は少しの成功体験をしているので役職が上がれば上がるほど
性格が変わるのを実感している。
苦労した人間ほど傲慢になり冷酷になることが多い。
その時に「目標」と「目的」が分かっていれば
短絡的な判断をしなかっただろう。学びが足りなかったのである。

貞観政要に書かれている
「上に立つ者は3人の部下を持たなければならない」
①苦言を呈する身近な部下、
②正論を教えてくれる先生、
③命をかけて守ってくれる仲間。
このことの必要性が分かる人間は道を外すことは無い。
一番側にいる人間の重要性、つねに人の道を教えてくれる先生、
いざとなれば身を盾にしてでも守ってくれる仲間である。

初期の計画が思い通りになって成功というのであれば、
実績はその半分ぐらいになることを想定すれば良い。
いきなり大きな計画を希望しても人脈と資金力が無ければ上手く行かない。
夢を描いても良いが計画の実効性が無ければ意味が無い。
夢の語源は「夕暮れの景色が薄れていくときに見る景色」と
書かれているようにぼやけているからである。

自分の人生を想像したときにこうなれば良いのにと
想像することが夢である。夢は曖昧である。
しかし事業はそういうわけには行かないので理論化して構想を練り、
市場を見極めなければならない。最重要な課題は資金力である。
人を集めて適材適所に配置する掌握方法も知らなければならない。
いわゆる行き当たりばったりで経営は成り立たないということである。

最悪を想定して最高を描く。
人生においては最悪を避けて無難な道を歩もうとするのは、
誰しもが思うことで、特に親は自分の経験を通じて
子供達に安全な方法を教える(説教する)。
しかし子供達にとっては説教ほど聞いていてつまらないものはない。
将来起こるだろうというあやふやな説明は教師から言われても耳に残らない。

現代では悩みの解決方法はAIに聞けば教えてくれるが、
そこに愛がないので論理的な解決のみで益々理解するのには難しい。
大方、人間は失敗を経験してから最高を描くことができる。
最悪な状態こそ最高を描くことができるチャンスなのである。

「君がつまずいてしまったことに興味はない。
そこから立ち上がることに関心があるのだ」(リンカーン)
「失敗すればやり直せばいい、やり直してダメなら、
もう一度工夫し、もう一度やり直せばいい」(松下幸之助)
「ミスをしない人間は、何もしない人間だ」(ルーズベルト)

最後にイギリス首相ベンジャミン・ディズレーリの言葉を紹介します。
「私は最悪な事態に備え、最良の事態を期待する」
出来れば最悪な状態を経験せずに最高の成功を獲得できれば良いですね。


ペースと間合い




誰にでも自分なりのペース(速度)がある。
行動に出る時にも引く時にも自分の心の指示に従う。
子供の時から親に決められた時間に学校に行き、
学校から決められた時間に下校する。
塾に行く時間も、宿題する時間も、食事をする時間も
毎日同じ時間である。

私はこれらに抵抗しながら生きてきた。
クラブ活動で運動や軽音楽の練習に行っても
自分のペースが掴めない。
ペースが掴めないから除け者になってしまう。
何故自分のペースで生きることができないか不思議だった。

とにかく子供の時から強制的な時間割が苦手であった。
時間割と共に一方的に指示されるのもとても苦手だった。
周りからわがままな奴と思われても仕方ないと思った。
それを指摘する親兄弟も居なかった。

しかし、いつも時間でコントロールするのは
大人(教師&学校)たちの勝手な都合だ。
子供達はコントロールしやすいから、
校則に従わせて一律に同じ子供にする。
子供の自由な発想や行動は無視される。
本当にこれで良いのだろうか?

社会では下から上へいつも同じエスカレーターに乗り込み、
押し出さられるようにして次の人へ場所を明け渡す。
上に上がれば幸福な生活が待っていると嘘をつかれるが、
こんな場所に自分の居場所は見つからない。

江戸時代は大店の商人も文化人も職人も
自分の心(ペース)に従って成功した人が多い。
我儘(わがまま)ではなく拘(こだわ)りなのである。
日本が世界から驚かれたのは無から有を生む想像力の高さである。
代表格は葛飾北斎である。浮世絵のお手本が無い時代に
自からがお手本になった。
北斎は世界中の画家に影響を与えた天才浮世絵師である。
そして現在のアニメや漫画は北斎漫画から始まったのである。

多くの職人は誰に指示をされなくても自分自身の経験と学びで
技術向上に励んだ。そして何よりも極めるための勤勉さである。
私の知る限りでは損得なしに自己実現のために名工を訪ね歩き、
何日も眠らないで仕事をする国民は日本人だけであると思う。

そしてあらゆる物事を決断する時に必要なことは間合い(距離感)である。
知り得た情報をいち早く使う時にも間合いが無ければならない。
今なのか早すぎるのか判断を間違うと大きなリスクにつながる。
人間関係に特に敏感にならなければ利益の負けを生じる。
ビジネス全般に言えることは市場におけるライバルや
競合他社との間合いを話し合う必要がある。

例えば米不足の時に米を買い漁れば莫大な資金が必要であり、
資金が底をつけば安値で売りに出すしかない。
他社がそこを買い占めるのも間合いの技である。
大切なことは自分の間合いで決断したことを後悔しないことである。
おおよそ人の考えていることは皆同じで駆け引きの問題である。
何事にも勝負に出る間合いは駆け引きの基本である。

この間合いの定義は宮本武蔵「五輪書」を読めば理解ができる。
地之巻には、
宮本武蔵が考え出したとされる兵法が記されており、
勝利に到達するための原理原則がまとめられています。
武蔵はまず、その地之巻の冒頭で、文武両道を説いています。
学問と武芸、両方を磨きなさい、ということです。

その真に意味するところは、あらゆる状況に応えることができるよう、
いかなる状況においても最善の選択をできるよう、
多方面から準備をしておくということにあります。
武器一つとっても、刀のみならず、槍や弓や銃も理解しておくべきだし、
それぞれがどんな場面で最も力を発揮するのか、ということも理解して
おくべきだと説いています。

水之巻には、
武蔵が編み出した流派、二天一流における戦いへの構えが、
身体面そして精神面から書かれています。
構え、という型に、はまったものを、形がない水で表現する点、
武蔵の考え方が現れています。

ものの見方には二種類あり、一つは「見の目=目を開いて目に映るものを
現象として見ること」で、もう一つは「観の目=現象として見えるものの
裏側にある本質や相手の心を見ること」です。
本番においては、見の目よりも観の目のほうが重要だと武蔵は考えています。
そのために、ひたすら目の鍛錬と工夫を怠らないように、と説いています。

火之巻には、
戦いにおける戦術・戦略に関する武蔵の考え方がいくつか
記されています。
・場所次第といふこと
まず武蔵は戦いにおける場所選びの重要性を説いています。
相手に不利で自分に有利なポジショニングをとる、ということです。

剣を交える場においては、太陽あるいは火などを自分の背後あるいは右脇に
置くように立ち回るように、あるいは自分の左側は大きく開けて右側は
壁などに沿った位置が好ましい、という具体的な示唆がありますが、要は、
戦う前からポジショニングで相手より有利な状況を獲得せよ、ということです。

風の巻には、
ここには、武蔵による他の剣術流派についての批判が
書かれています。形や見た目にばかりこだわってはいけない、実戦で
使えなければ意味がない、という武蔵の考え方が多くみられます。
達人の域に達するには神秘的なものに頼るのではなく、合理的な方法の
積み重ねでしか到達できない、と説いています。

空の巻には、
武蔵は、剣を極めることで自分が達した境地を「空(くう)」
と表現しています。空とは、定まった形のないこと、
いや、そもそも形を知ることができないものです。
何かを会得するために鍛錬を積み、極めた先に、実は何もないことを
知るのだ、という逆説的な考え方が展開されています。
その時、一切の迷いの雲が晴れ、空の状態に達する、とされています。
そこに、何にもとらわれない無限の広がりを強く感じるだろう、
と武蔵は説いています。

この「五輪書」から受け取った学びにより、
自分のペース(速度)と間合い(距離)はいかに重要か
お分かりになりましたでしょうか?
思考を論理的にしてしまうとどうしてもペースがつかめません。
そして利益を中心にしてしまうと間合いが短くなります。
自分の人生ですから自分のペースと間合いで過ごしてください。

今日も自分のペースと間合いで一日を過ごしたいと思います。