死んだ男の残したものは
「死んだ男の残したものは」
谷川俊太郎の作詞、武満徹の作曲による歌。
ベトナム戦争のさなかの1965年、「ベトナム平和を願う市民の会」
のためにつくられ、友竹正則によって披露された日本の反戦歌の1つである。
概要
1965年4月に東京で開かれる「ベトナム平和を願う市民の会」
のために谷川が詞を書き、「明日の市民集会のために曲をつけてほしい!」と
武満に作曲を依頼し、要望通り1日で武満は曲を完成させた。
谷川は「メッセージソングのように気張って歌わず、
『愛染かつら』のような気持ちで歌える曲にして欲しい」という
手紙を添えて渡している。
バリトン歌手の友竹正則によって、1965年4月24日(資料によっては22日)
御茶ノ水の全電通会館によって初披露されている。
私は1969年に大学に入り反戦の旗手ボブディランの歌をコピーして
校庭で歌い始めた。お手製のハーモニカーホルダーを口にくわえて
「時代は変わる」や「戦争の親玉」を歌った。
デモ隊のリーダーからお前も闘争に加われと引っ張り込まれたこともありました。
そんな学園紛争のさなかに「死んだ男の残したものは」が
ラジオから流れていた。
私が最初に聞いたのはおそらくカルメンマキの歌声でした。
そのあとは加藤登紀子さんの歌声でも聞いた記憶があります。
「和製反戦歌」を聞いて魂が振るえるのを覚えました。
死んだ男の残したものは
作詞 谷川 俊太郎 作曲 武満 徹
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった
死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった
死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった
死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった
死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない
死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来る明日
他には何も残っていない
他には何も残っていない
この曲が流れる前にアメリカのフォークシンガー、
ピート・シーガーの「花はどこへ行った」が日本で流行っていました。
その後ジョンバエズが歌い、ピーター・ポール・マリーが歌い、
日本では森山良子が歌い、メッセージソングの第一号となったのです。
1965年4月24日といえば私は高校生の時である。
「花はどこへ行った」(はなはどこへいった)、
原題 Where have all the flowers gone?は、
世界で一番有名な反戦歌とも言われるフォークの楽曲。
アメリカンフォークの父とも形容される
ピート・シーガーによる作詞作曲であり、シーガーの代表作でもある。
「花はどこへ行ったの」と訳される場合もある。
最初の録音の後、歌詞の一部をジョー・ヒッカーソン(Joe Hickerson)が
補った形で広まったことから、シーガーとヒッカーソンの共作ともされる。
歴史
1955年、ピート・シーガーが制作。ロシアの作家、
ミハイル・ショーロホフの『静かなドン』の最初のほうに出てくる、
コサックの民謡の歌詞にヒントを得たのだという。
シーガーはこれに曲をつけたが、既存のフォークソングを参考とした
可能性もある。シーガーは、『Rainbow Quest』というレコードに収めた
メドレーの中で、3番までの歌詞でこの歌を録音し、
そのままこの歌を忘れていた。
その後、ジョー・ヒッカーソン(Joe Hickerson)が4番と5番の歌詞を
書き加え、1961年に著作権が登録し直された。
この歌詞への加筆によって反戦歌としての色彩が鮮明になった。
1961年、キングストン・トリオがこの曲を録音して発表した。
この曲がトラディショナルであると思っていた
キングストン・トリオは、著作権表示に自分たちの名を記したが、
シーガー側の指摘を受けて、表示は正された。
キングストン・トリオ盤は、翌1962年にヒットしたが、
その背景には、アメリカ合衆国がベトナム戦争に関わり
始めたことがあった。
1962年に、ピーター・ポール&マリーによってもカバーされ、
こちらもヒットし、この年(つまり初版の実に7年後)以降、
同曲は反戦歌として広く親しまれるようになり、現在に至っている。
歌詞の構成・メッセージ
「花はどこへ行った少女がつんだ」
→「少女はどこへ行った男の下へ嫁に行った」
→「男はどこへ行った兵隊として戦場へ」
→「兵隊はどこへ行った 死んで墓に行った」
→「墓はどこへ行った 花で覆われた」と続き、
再び冒頭の「花はどこへ行った 少女がつんだ」となる。
最後には必ず「いつになったら わかるのだろう」という言葉で
締められているため、
「戦争がいつまでも繰り返され、いつになったらその愚かさに気づくのか?」
というメッセージ。
今度こそもう戦争は絶対に止めようという思いを込めて盛んに歌われていた。
1960年代中盤から後半ニューポート・フォーク・フェスティバルや
ウッドストック「愛と平和の祭典」で盛んに歌われた。
正に日本でも反戦運動が高まり各地のフォークフェスティバルでも
多くの歌手がこの曲をカヴァーして歌っていた。
私も大学生時代にPPMのバンドを組んでレパートリーに加えた。
青春とは恐れないことです。
青春とは純粋に生きて行けることです。
青春とは情熱だけで前へ進むことが出来るのです。
死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない
機会がれば是非聞いてみてください。