先日、友人のロックシンガー伊丹谷良介とチャットGPTの話をした。
以前より精度が上がり使いやすくなったという事であった。
その場で試しに作詞を依頼してみると数秒もしないうちに出来上がった
好きなワードを入れるだけで完全にプロの作詞家レベルに達している。
またロック風とかポップス風とかジャンルを指定すると
それなりに加工された作詞が出来上がる。恐るべしである。
昨年LAの脚本家団体が猛反対してデモを起こした意味が分かる。
これだと過去の作品のデーターの組み合わせで脚本が何冊も作れてしまう。
米国の学生がテストの回答を、チャットGPTを使って提出したところ、
同じ回答の学生が数名もいたという事で話題になっていた。
その内に全問正解ではなく20%は間違ってほしいとか、
作詞もベテラン風ではなく素人風にして欲しいとか頼める時代が来る。
いや、もうすでにそうなっているかもしれない。
その上有料チャットGPTだとデザインやあらゆる図式も出てくるという。
商品パッケージやCDのカバーデザインが写真入りで出てくるという。
Z世代の子供たちは、創造力は無くてもモバイルを使えれば
プロと張り合う時代になる。誰よりも早く疑問が作れる子が優秀と言われる。
AIの進化はアマチュアとプロの垣根を取り外しスピードとセンスと
価格が折り合えば世界中から作品を集めることが出来る。
今やビジネスの会議では映像会議は当たり前、資料の受け渡しも画面上で
行われ、翻訳機能を使えば通訳なしで、世界中のスタッフと話が出来る。
高いコストを払ってデザイン事務所や代理店に頼んだりすることが無くなる。
その上出張費の削減も出来るので会社としては有難い話である。
恐るべし!チャットGPTですが、
しかし何と小説まで書いてしまい芥川賞まで受賞してしまった。
芥川賞を受賞した九段さんは1990年生まれ。2021年、「悪い音楽」で
第126回文学界新人賞を受賞し、デビューした。
21年発表の「Schoolgirl」が芥川賞候補、22年文芸春秋刊の同作単行本
(「悪い音楽」併録)で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。
また、23年発表の「しをかくうま」で野間文芸新人賞を受賞している。
会見では「書き続けるということは、やはり一人ではどうしても
難しいものですから。書き続ける力をくださる。
応援してくださる出版社の方、家族、友人、楽しみに読んでくださる
方々にありがとうございますとお伝えしたいです。
とにかくうれしい、感謝を伝えたいという気持ちでおります」と
緊張の表情で喜びをかみしめた。
また、AI時代に小説を書く意義を問われ、「今回の小説に関してはAIとか
チャットGPTとかを駆使して書いた小説でして。
全体の5%くらいは生成AIの文章をそのまま使っているところがある。
うまくこれからも利用しながら、かつ、自分の創造性を発揮できるような。
うまく付き合っていきたいと考えております」と述べた。
自身の生活で「誰にも言えないようなことを人工知能に相談したりした
ことはありますね」と振り返り、
「AIが期待したことを言ってくれなかったりした場合に、主人公のセリフに
反映させてみたりということはいくつもありました」と語った。
私も試しにチャットGPTで小説を書いてみた。
作風は倉田百三(くらたももぞう)
テーマは「愛と認識の出発」を入力した。
「遠い未来の都市、認識の進んだ社会に住む若き哲学者、倉田百蔵は、
愛に関する新しい理論を模索していた。彼は都市の喧騒を離れ、
自然の中で静かなひと時を過ごすことを決意した。
山小屋に到着した百蔵は、自然と対話し、内なる認識の深さに気づきました。
ある日、彼は森の中で出会った神秘的な存在から愛について啓示を受けます。
この出会いが百蔵の新しい哲学的考えを生み出す原点となったのです。
百蔵は新しい認識の視点から愛を探究し、社会においても新たな価値を
提案しました。彼の言葉と考えは次第に広まり、人々は彼の哲学に共感し、
新たな出発への意識が広がっていった。」
これは架空の物語であり、倉田百蔵の具体的な著作を基にしていませんが、
愛と認識に焦点を当て、新しい出発への旅を描いています。
この文章が1~2秒で回答されたのです。
もっと素材を提供すれば次から次に新しい文章が提案されます。
AIを好きだ嫌いだという時代ではなく使いこなせるかが重要です。
チャットGPTを使えば、この「恩学」のブログも数秒で書けることになる。
SNS上で交わされる「感動した話」「泣ける話」「救いの話」など、
事実かフェイクか分からなくなります。
ますます子供たちの感情から人間らしさが消えてしまいます。
メタバースの中では恋愛も結婚もできるという。
その内に架空の世界で子供を持っこともできる。
しかし、いくらチャットGPTが使いこなせても我々が食べる食料は作れない。
耕す行為は人間が汗水流して労働の結果でしか生まれて来ないからである。
早急にAIと人間の共存を真剣に考えなければならない。
近未来はもう手の届くところまで来ています。
ザ・クリエイター/創造者が現実の世界へ。
2月 5th,2024
恩学 |
AIが小説を書く はコメントを受け付けていません
自分には欠点がある。そこをどうしても好きになれない。
他人に対して恥ずかしいと思って運命の出会いを見失う。
自分の嫌いな欠点は自分なりの常識の判断だからです。
もし、常識がなければ自分の欠点を欠点と思わないかもしれない。
かといって非常識が良いという問題ではない。
自分の欠点は思い込みから来る場合が多いのは分かりますか?
人と話をするのが苦手な内向性を欠点だと思う人。
一つのものごとを長く続けられないことを欠点だと思う人。
他人と比べられるのが嫌で競争を避けることを欠点だと思う人。
欠点とは主に足りない所や十分でない点を表す際に、
用いられる事が多い言葉です。
具体的には漢字の組み合わせの仕方でも理解出来る様に
人や物の欠けている点、つまりは悪い所(悪い癖)を
指摘する際に積極的に用いる事が出来ます。
例えば、彼女の欠点は思いやりがない所だといった形で用いれられたり、
この車の欠点は燃費がイマイチな所だといった言い方で、
その人や物の駄目な所や改善すべき所を言い表す事が可能です。
他にも、この規則の欠点は幾つもの抜け道がある事だといった形で、
決まり事や規則にも用いる事が出来ます。
また弱点とは、物や人の十分ではない所や、漢字を見て分かる様に
弱い点や部分を指摘する際に用いられる事が多い言葉です。
物理的な事だけでなく、立場を危うくする様な弱みや後ろめたい部分を
表現する際にも、この弱点という言葉を用いる事が出来ます。
つまりは何かしらの弱い部分や、欠点を表現する際に使われる言葉です。
欠点は、欠けるという言葉がついている通りに、足りてない部分を
言い表す時に積極的に用いられる言葉です。
つまりは人や物のウイークポイントやデメリットに焦点を当てたい時に、
用いられる言葉となっています。
欠点や弱点の思い込みを破り自由に行動する素晴らしさを
教えてくれる素敵な絵本を紹介します。
ビッグ・オーという絵本です。
「だめな人と だめでない人のために」
「ぼくを探しに」
1976年出版。シルヴァスタイン46才の時の作品です。
ベストセラーになりました。あの頃はアイデンティティーの確立なんて
言葉が流行っていてそのような読まれ方もしていたようでした。
読まれた方も多いでしょうが、この円の欠けた部分(missing pice)を
探しにいき、ついに出会ったけれど、又別れていくという物語でした。
「ビッグ・オーとの出会い」
1981年出版。51才の時の作品です。
今度は、このmissing piece 三角形みたいなのが自分に合うのを、
待ち続け、ついに「ビッグ・オー」に出合いますが、
ビッグ・オーは完全な球体。missing pieceはビッグ・オーから教えられ、
段々転がりながら、少しずつ角が取れ、丸くなり、自分で転がり始める。
訳者の倉橋由美子さんは「大人の童話」ととらえています。
後書きに、こう書いてあります。「大人のための童話というのは
形容矛盾に聞こえるが、いたって考えてみると大人の大部分はうまく
大人のふりをしていけるようになった子供か、
それがうまくできないでいる子供か、そのいずれかであって、
文学の中にはもっぱらこの子供の方に訴える型のものがある。
その種のものは大人が読むための童話である。」
「人間になりかけたライオン」
1963年出版。33歳の時の作品です。
この本はあまり、読んでないと思います。
あるライオン(ラフカディオ)がライオン狩りに来たハンターの銃を奪い、
それを練習し、見事な曲打ちができるようになりサーカスの親方に
スカウトされ、大成功。なんと億万長者までになり、何でも手に入れるのですが、
すべてに飽いてしまい、シェルヴィーおじさんに
(知り合いになったおじさんシルヴァスタインのこと)に言います。
「何でも、ということは何でもということにならないんだ」
と言って涙を流します。
そしてサーカスの親方に誘われ狩りに行くが、昔なじみのライオンと出会い、
ハンターからは撃てといわれ、昔なじみのライオンからはハンターを
食ってやれと言われ、板ばさみになり、ラフカディオは銃を置き去って行く。
「ラフカディオはどこへ行くのか自分にも分からなかった。
でもどこかに向かっているのは分かっていた。
みんなどこかへ向かうしかないものだ。
これからどうなるのか、ラフカディオには分からなかった、
何かが起こることは分かっていた。いつも何かが起こるのだ。」
何かが足りないそれでぼくは楽しくない足りないかけらを探しに行く
ころがりながらぼくは歌う
「ぼくはかけらを探している、足りないかけらを探している、
ラッタッタ さあ行くぞ、足りないかけらを……」
シルヴァスタインの本、結末ははっきりしません。解釈は各人のものでしょう。
つまらない事考えないで、そのまま読んだ方が面白いような気がしました。
シェル・シルヴァスタインさんの『 続ぼくを探しにビッグ・オーとの出会い 』
ころがれない ”かけら” が自分とぴったりあう ”丸いモノ” を待ち続ける話。
自分がぴたりとハマる ”丸いモノ” を待ち続けるけど、なかなか出会えない。
そんな時 出会ったかけらを必要としない ”丸いモノ” から、
自ら転がってみることの大切さを教えてもらう。
「できない」 のはやってみなかったから。
「できない」 は思いこみ。
『 ”思いこみ” の殻を破って 行動することの素晴らしさ 』 を教えてくれる
素敵な絵本です♪
欠点を欠点と諦めるか、欠点を克服するために苦手なものに挑戦するか、
決めるのはあなたです。
自分の欠点は思い込みから来る場合が多いのは分かりますか?
人と話をするのが苦手な内向性を欠点だと思う人。
思慮深い人と思われる。
一つのものごとを長く続けられないことを欠点だと思う人。
好奇心旺盛な人と思われる。
他人と比べられるのが嫌で競争を避けることを欠点だと思う人。
争い事が嫌いな優しい人と思われる。
きっとあなたの悪い癖も欠点と思わない人も大勢いることを知ってください。
足りない部分を補い合えばみんなが仲良く暮らせるのです。
たまには大人の絵本も読んでみては如何でしょうか?。
2月 4th,2024
恩学 |
悪い癖を欠点と思うな はコメントを受け付けていません
若者たちの永遠のテーマ「好きと愛の違い」です。
私も若者たちとの対話集会で何度か質問されたことがあります。
男友達を好きになりました。何をしていても彼のことが頭から離れません。
眠るときも夢で現れてくれないかと願っています。
これは、愛ではないのですか?
母親が子供達にいつも言う言葉「母さんは子供達を愛しているよ」
の愛と何処が違うのですか?
またペットが大好きな人も多いのですが、この好きという感情は
可愛さの独占欲から出る愛という感情ですか?
ここに「好きと愛の違い」についての名言があります。
「もしあなたが花を愛しているなら、あなたは花を摘んではいけない。
なぜなら摘めば花は枯れ、それはあなたが愛するものではなくなるからです。
だからもしあなたが花を愛するなら、そのままでいさせてください。
愛は所有するものではありません。愛は感謝するものです。」
OSHO
OSHOは1970年代に一世を風靡したインドの神秘主義者で、
1960年代からインド各地で、古い風習や世間的な偽りの人生を批判し、
自由な生き方を鼓舞する講演を繰り広げて、賛否両論を巻き起こしたそうです」
彼自身は1990年に亡くなっています。本名はチャンドラ・モハン・ジャインです。
愛が花であることで彼は愛を恐れる。愛はルピーではない。
人生が不安な人間は結婚をするが、恋に落ちることはない。
結婚はルピーのようなものだが、愛はバラの花のようだからだ。
花を摘むということは愛の象徴ではなく、残酷性の象徴です。
それは権威主義的な象徴です。私たちは美しく見えるものであれば
なんでも所有したいと願うのです。その美を壊す可能性があるにも関わらず。
(中略)私たちは愛していると言っている人間に対しても、
同じような残酷性を実践します。
ブッダの「好きと愛の違い」
「花が好きだという場合、ただ花を摘むだろう。だが花を愛していれば、
毎日世話をし、毎日水をやるだろう。積めば花は枯れてしまう。
愛は所有するものではなく、“感謝すること”だと忘れちゃいけない」
「あなたが花が好きなとき、ただそれを抜きます。あなたが花を愛するとき、
あなたは大事にして水をやるでしょう。これを理解する人が人生を理解します。」
ブッダ(この言葉の出典は不詳という説もあります)
バーナード・ショー曰く、
「私は子どもを愛している。彼らは花のように美しい。
しかし私は彼らの首を切って部屋に飾りたいとは思わない。
花は開花し、雨の中、日の中、風の中踊っている。
そこでこそ彼らは生きている。
私は虐殺者ではない。私は花をその生命に源から断ち切ることはできない。
その死骸を部屋に置きたくはない」
バーナード・ショー曰く、
「それはもうたくさんだ!もし子どもが愛すべきものなら
首を切り落として束にするのか?
もし花が愛しいものならどうやってそれを摘むことができようか。
君はそんなことができるのか?
君は子どもの首を切り落として花束にもしないし、
テーブルに飾って、なんてかわいらしいなんて言うこともないだろう。
だったらなんで花を摘むんだ?」
恋は盲目と言います。愛している人から好きだと言われれば
夢中になってしまいます。
愛には自制心も無くてはなりません。
本当に好きだと思う感情が行き過ぎてしまうと
必ず相手に愛情過多で嫌われてしまいます。
好きな人を追いかけまわしてストーカー行為をすると逮捕されます。
ベランダに置いてあるサボテンへ毎日水をやると枯れてしまいます。
ペットにも餌を沢山与えるのが愛情と勘違いして糖尿病にしてしまいます。
最後に「恋は下心・愛は真心」
心の位置が恋は下につき愛は真ん中についています。
恋に夢中になっている人はお気をつけください。
「All you need is love」BEATLES
愛こそすべて
All you need is love
All you need is love
All you need is love, love
Love is all you need
君に必要なのは愛
君に必要なのは大好きだという気持ち
君に必要なのは打ち込む熱意
そう、愛こそはすべて
2月 3rd,2024
恩学 |
好きと愛の違い はコメントを受け付けていません
某大学教授から「PLUTO」を見た事がありますかと連絡があった。
彼は孫にNetflixでこの映画を勧めたところ
一晩で全作(8話)を見たということであった。
私は、基本的にアニメは見ないタイプなのだが休みを利用して見ました。
結論は近未来の哲学であった。
そして面白かったというのが率直な感想です。
元々原作の「アトム」は、今は亡き手塚治虫さんが書き上げた漫画だが、
今回のアニメ映画の浦沢直樹監督と並記でクレジットされていた。
物語の翻訳とは何か?
<いま現在を生きる人びとの切実な問題に変換してみせる>
ことと考えている。『PLUTO』であれば、60年前のロボットの悲劇を
AIという最新技術と共存していく現代社会に、全米ヒットとなった
『ゴジラ−1.0』は、戦争のトラウマを持つ帰還兵の葛藤が
現代的なテーマとして捉えられたことだろう。
人間以上のロボットとは平和のための活用ではなくなり、
より人間に近い思考と感情が備わっているロボットなのです。
人間の都合で作った高性能なロボットが反乱を起こし
制御が効かなくなり平和型ロボットを全て破壊してしまった。
平和型ロボットのアトムもその中に含まれていたのだが、
お茶の水博士からバトンを受けた龍野博士に新しい生命を
入れてもらい高性能ロボットとして生き返った。
背景
『鉄腕アトム』の主人公であるアトムは、
作中の2003年4月7日にこの世に生を受けたと設定されている。
現実社会における2003年にはアニメ化第3シリーズ
『アストロボーイ・鉄腕アトム』放送などアトム生誕記念
イベントが催された。本作もそうした企画のひとつとしてスタートした。
作者の浦沢直樹が生まれて初めて漫画で感動した作品が『鉄腕アトム』の
エピソードのひとつである「地上最大のロボット」であった。
浦沢監督曰く、
「5歳で初めて読んだ時から、全漫画の中央に鎮座するというイメージがある」
「その時感じた得体のしれない”切なさ”を、一生かけて突き詰めようとする感覚がある」と語っている。
その作品をリメイクするという発想は無かったが、漫画界全体で
アトム生誕を祝うため、手塚プロダクションから相談を受けた際、
軽い気持ちで『地上最大のロボット』をリメイクするくらいの、
気骨のある漫画家はいないもんかね」とこぼしたことから、
大それたことだと思いながらも、浦沢自身が描くことになった。
2002年冬、浦沢は手塚治虫の息子である手塚眞にその許諾を求める。
手塚は、一度はこれを断るものの、
その後の浦沢の熱心なラブコールに心を動かされ、2003年3月28日に
「地上最大のロボット」のリメイクを了承する。
同年9月より『ビッグコミックオリジナル』にて連載がスタートした。
「漫画の神様」といわれる手塚治虫の作品を
別の漫画家が描く事はそれまでご法度とされていた。
リメイクを了承した手塚眞は「やるんだったら、
浦沢さんの代表作になるようなものにしてください」と伝え、
単なるオマージュ作品ではなく浦沢作品として本作を描くことを要望した。
浦沢は『20世紀少年』と同じく長崎尚志プロデューサーと組み、
人間と高性能ロボットが完全に共生する
近未来で起こるSFサスペンスドラマとして描いた。
作中の設定は連載開始当時ニュースをにぎわせていたイラク戦争を
反映したものとなっており、アトムをはじめとするキャラクターデザインや
ストーリー設定の一部には浦沢流のアレンジが加えられている。
手塚治虫の原作では少年ロボット「アトム」が主人公ではあるが、
浦沢直樹版では原作で脇役として登場したドイツの刑事ロボット
「ゲジヒト」の視点から物語が描かれている。
また、原作『鉄腕アトム』のほかの回で登場したキャラクターや、
鉄腕アトム以外の手塚作品で登場したキャラクターに似たキャラクターが
登場したり、ゲジヒトとアトムが立ち寄った喫茶店の名前が
「TOKIWA」であったりする。
ここまで読むと一気に「PLUTO」見たくなりませんか?
同居人の冷たい視線を浴びながら空いている時間をすべて鑑賞にあてました。
ここに近未来があると感じました。
今の世の中手塚治虫が描いた漫画の世界が
現実社会で実現されていることに驚きます。
この「PLUTO」の未来予想もその通りになるのでしょうね。
そしてこのリメイク版を手掛けた浦沢直樹監督に大拍手です。
きっとあなたも鑑賞後には誰かに話したくなる作品です。
2月 2nd,2024
恩学 |
PLUTO はコメントを受け付けていません
会議ではファシリテーターという進行役が存在します。
その日の議題をスムーズに進めて結論へと導く役目です。
限られた時間で緊張している出席者から満遍なく
意見を引き出すというのは大変難しい役割です。
ファシリテーターの技術の中でアイスブレークというのがあります。
気持ちをほぐすのと出席者のコミュニケーションを結ぶ為に行われるものです。
一言で言うと「遊び」です。ボールや新聞紙やクイズを出題して
場を和やかにするゲームです。
重要な会議で貴重な時間を割いてこんなことやるのかと怒る役員もいます。
海外の人から日本人は真面目で「遊び」を知らない人種だと言われることが
多いのです。そうです真面目な会議だから真面目な顔をして真面目な討論を
出さなければならないと教育されるからです。
事前に資料に目を通して自分なりの意見を纏めていれば結論は早いのです。
最近ではオンライン参加も許されているので会議の時間は短縮されています。
人間のアイデアは遊びから生まれることを知っていますか。
職人の技術の発達はほとんどが遊びの要素を加えて完成させるのです。
見た目の美しさや便利に使いやすいは職人の遊び心から生まれてきます。
「人は遊びの中から学ぶとよく言いますが、この集まってきた人とあそぶ、という
なんでもないことが、実は人として大切な力を育んでいるのではないでしょうか?」
ご存じですか?
他国籍の人と多言語の交流をするヒッポファミリーというのがあります。
私はまだ参加したことがありませんがとても興味のある交流会です。
ヒッポの集まる場は多言語の公園です。公園には、その日どんな人が来るかは
決まっていません。いつも、そこにいる人と一番楽しくあそべるには
どうしたらいいかな?と無意識に考えています。
小さい子がいたり、ひざが悪いおばさんがいたり(笑)、元気いっぱいの
悪ガキがいたりする中で、どのくらい走れるかな?ルールはわかるかな?
など考えながら、今日は人数が多いからこうしよう、
初めての人がいるから簡単なルールにしよう、
など毎回毎回の場がいつも一期一会、この日この時このメンバーで
この状態にしかない中で、みんなで創造する時間なのです。
あそびとは本来そういうものです。昔からずっと、人間はそうやって
あそびの中からいろんな力を育ててきたのではないでしょうか。
学校で、先生にルールを教えられてサッカーをしたり、ドッチボールをしたりしても、
そこにじぶんたちで状況に合わせてルールを作り出す創造性は発揮されません。
だれかの作ったルールを覚えて合わせるだけです。
ヒッポの人はすごいなーと思ってはいましたが、ヒッポの人が特別な人で
あるはずがありません。やっぱりその秘密は環境だったんです。
環境さえあれば、だれでも本来もっている力をのばすことができるんです。
以前大学で、ごきぶりじゃんけんという、ごきぶりから、ゴリラ、人間、天使と、
じゃんけんに勝ったら進化していくだけのたわいもないあそびをしたら、
「これはコミュニケーション力や自己アピール力を育てられますね!すばらしい!!」
と先生からほめられて、そんなこと考えたこともなかった!と驚いたことがあります。
たしかに、学生さんたちも最初は戸惑っている様子でしたし、
今はそんな風にあそぶ経験も少ないのでしょうね。
あたりまえのなんでもないことが、なくなってみると
どんなに大事だったかわかるんですね。
今は、知らない人や年上の人と話すのが苦手な若者も多いです。
ただ、環境があるかどうかだけなんですよね~。
いろんな人と一緒にあそべる環境、創っていきたいですね。
如何でしたか素晴らしい発想ですよね。
遊びからコミュニケーション力を養い、自己アピール力も自然に身に着くのです。
またヒッポファミリーとは違いますが日本には昔から伝承遊びがありました。
「伝承遊びで学べること」
伝承遊びは昔から代々受け継がれてきた遊びです。
それほどの魅力のある遊びともいえます。伝承遊びの良さや、
伝承遊びから学べることを確認し、保育に活かせるようにしましょう。
伝承遊びで学べることの一例は、以下の通りです。
「コミュニケーション能力を育む」
伝承遊びの多くは、友達と協力する必要があったり大人数でなければ
楽しめなかったりする遊びが多くなっています。
伝承遊びを通して友達と積極的に関わることで、コミュニケーション能力が
育まれるでしょう。コミュニケーション能力は、生きていくうえで必要不可欠な
ものです。遊びの中で自然と身に着けられるのは、大きなメリットとなります。
「日本の良さに気づける」
昔の日本人が代々伝えてきた伝統的な遊びが伝承遊びです。
古き良き日本の文化や伝統を感じることができます。
欧米文化が流入し昔の日本を知らない現代の子どもたちにも、先人たちの知恵や
心が伝えられるので、古き良き日本を感じる良い機会となるでしょう。
「考える力が身に着く」
伝承遊びは難しいものが多く、何度も遊んでルールを理解したり
どうしたらできるようになるのかを自分なりに考察したりする必要があります。
「どうすればよいか」「どうしてこうなるのだろう」などと考えることで、
思考力や判断力が身につきます。
また、けん玉や駒回しなどは簡単に攻略できないため、
何日もかけて練習することも珍しくありません。
忍耐力や継続する力も育まれるでしょう。
今一度大人の我々も子供達と一緒に伝承遊びを行うことは、
新たな発見につながることになると思います。
遊びから学ぶことは本当に多いのです。
仕事でもコミュニケーションでももっと多くの遊びを取り入れましょう。
日本人は昔から遊びの天才なのです。
2月 1st,2024
恩学 |
アイスブレーク(遊び) はコメントを受け付けていません
旬の野菜の牛蒡(ごぼう)や蕗(ふき)や筍(たけのこ)をお湯で煮て、
アクを取り出さなければ料理の素材としては適さない。
アクとは一般的に、食物の苦みや渋み、酸化・褐変の元となる成分のことをいいます。
アク抜きは、好ましくない味を取り除いたり、料理を色よく仕上げたりするために
必要な下処理です。
人間も同じように成長期の時点で心の中からアク(悪)を取り出さなければ、
社会に出て多くの人に迷惑をかけてしまいます。
お坊さんですら毎日経をあげて邪念を振り払いアクを取り出しているのです。
一般人の我々も努力してアクを取り除けるように努力しなければなりません。
若い時には未熟ゆえに心にアクが溜まっているのです。
これは特別のことでは無く当たり前のことなのです。
仏教でいう三毒(貪・瞋・痴)が心の中にあるからです。
貪(とん)とは、むさぼることで貪欲に際限なくあれこれ欲することです。
動物的欲求や物欲、あるいは金銭欲が強すぎることが、貪といわれます。
瞋(じん)とは、感情をぶちまけること、不快なものに対して激しく怒ったり、
妬んだり、恨んだりすることです。不快感をぶちまけ、周囲をより不快にさせる
ことです。
痴(ち)とは、無知であること、自己弁護に走ったり、常識知らずで、自己利益
しか考えないようなことです。ゆえに愚かであることを指します。
これらを取り除くために日々アク取りに精進しながら生きるのです。
毎日一言「ありがとう」を言うだけでアクが薄まっていきます。
感謝の気持ちが沸騰すれば自然とアクは抜け出していくのです。
そして何故祈る時に手を合わせるかと言うと、
仏教では、右手は仏の世界や清らかなものを、左手は命ある者や不浄なものを
表すとされています。 二つの世界をあわせ一緒にすることで仏と一体になり、
静寂を祈り、仏を敬い、成仏を願う気持ちを表現しています。
親が悪さをした我が子を手放さないのは、
手放すと他の人に迷惑がかかるから自分のそばに置くのです。
悪いからと叱るのは簡単です。突き放すのも簡単です。
しかし、子だけではなく親も懺悔しながら共に生きていかなければならないのです。
昔から親は子供に「悪いことをしてもバレないと思うなよ」
いつも「お天道さまが見ているからな!」と教えてきました。
親がしっかりと子供の目を見て躾することが大切なのです。
現代のようにマスコミも普通の人も(SNS等)で根拠無く批判を公に出します。
これはフェアで無くただの陰湿な「いじめ」です。
真実の追求をする前に一方的に加害者と被害者の構図を作り
加害者は悪だと決めつけます。
子供達のいじめと同じように「あいつが嫌い」だから、
みんなで虐めようとする行為と同じです。
これは絶対に正しくありません。卑怯な行為なのです。
しかし、全ての食材においてアクの成分を取り除く必要があるかというと、
そうではありません。アクはそれぞれの食品が持つ個性的な風味でもあります。
取り除くことで料理の見た目を良くし、澄んだ味わいを作ることができますが、
抜きすぎるとその独特の風味が損なわれる場合もあります。
先ずは間違いを犯したら原因を探してあげなければ問題解決にはなりません。
その上で怒るのではなく叱って正してやらなければ何も変わりません。
アクはその人間のもともと持っている個性なのです。
アクが強いからと全部取り除くと個性のない腑抜けの状態になります。
実際にそのような人が多くなったと思いませんか?
私はアクの強い人間だと言われることがあります。
自分でもそうだと思っています。笑い
そのアクの強さを個性として仕事をしているのです。
そして経済界の最もアクの強い経営者と言えば土光敏夫氏です。
「メザシの土光さん」が一躍、有名になったのは、1982(昭和57)年の
夏に放映された『NHK特集 85歳の執念 行革の顔 土光敏夫』と銘打った
テレビ番組だった。
行政改革を推進するための宣伝として企画されたものだが、土光さんの私生活の
見事なまでの「つましさ」に番組を見た人々は驚いた。
横浜市鶴見区の古びた小さな家に住んで、散髪は自宅で息子が行う。
つぎはぎだらけの帽子。戦前から使用しているクシ。使い古された歯磨き用コップ。
古いネクタイが農作業用のズボンのベルト代わりになっていた。
そして、妻と二人きりでメザシと麦飯の夕食。
この映像が「メザシの土光さん」のイメージを強烈に定着させた。
5000万円近い年収のうち、1カ月の生活費に使われるのは10万円程度でしかない。
収入のほとんどは、母親が創立した橘女学校(現・橘学苑中学・高校)という
女子のための私立の教育機関のためになげうたれた。
財界総理といわれた経団連会長まで務めた土光のあまりに清貧な生き方は、
国民に感動を与えた。
「どうしても東芝の社長を引き受けて欲しい」
土光さんが生涯の師と仰ぐ経団連会長で東京芝浦電気(現・東芝)会長の石坂泰三
から、東芝の再建を頼まれたのは1965(昭和40)年5月のことだった。
土光は「東芝に有能な人材が多いから再建できる」と判断し、
再建社長を引き受けた。この時、68歳。
社長に就任して初めての取締役会で役員たちを一喝した言葉は、
今では語り草になっている。
「社員諸君には、これまでの3倍働いてもらう。役員は10倍働け。私はそれ以上働く」
「会社で働くなら知恵を出せ。知恵のないものは汗を出せ。汗も出ないものは静かに
去って行け」当時全ての経営者たちがお手本にした言葉です。
私もこのような人のアクを少しでも身に着けられればと願っております。
現代のように効率経営も大切ですが、人が動いて「働く」という文字に
なるように、人間重視の環境が労働者にとって一番望むことだと思います。
1月 31st,2024
恩学 |
アク(悪)を抜く はコメントを受け付けていません
「一燈照隅万燈照国」最澄
我々のすることはどんなに動いて何も変化が起こらないことが多い。
しかし動かなければ永遠に変化も起こらない。
小さな灯りでは目の前しか照らさないけれども、
大勢の光なら街中を照らすことになる。そして国を照らすことにも繋がっていく。
大谷翔平や藤井聡太の活躍は小さな燈から世界を日本を照らすことになった。
自分の持っている小さな灯りでは努力しても結果は見えている。
だから何かをしても何も変わらないと膠着する。
しかし、そこから「あとからくる者のために」は何も起こらない。
無理だと思うところに一歩足を踏み出すことが必要である。
不可能だと思うところに突然湧き起こる感情がある。
難攻不落な壁を乗り越える勇気と克服する情熱である。
そして、それは蟻が象を倒すことにもつながる。
なぜ小さな蟻が巨大な象を倒すことができるのか
考えたことはあるでしょうか?
誰も支援者が居ない中で成功するにはどうしたら良いか?
身体の悪い子が健常者に勝つにはどうしたら良いか?
若い起業家がエリート集団を破るにはどうしたら良いか?
見向きもされない小さな工場が世界へ出ていくのにはどうしたら良いか?
私は常に考えています。
田舎町の小さな洋品店から世界へ進出したファストファッションメーカー、
ユニクロはまさしく小さな蟻が像を倒した実例である。
その時に必要なのは「啐啄同時」タイミングの時期を待つしかない。
啐啄同時とは雛鳥が卵から出る時に、親鳥と同時に同じ場所を嘴で突いて
殻を破ることを言う。
起業家のアイデアと社会のニーズが同時に起これば卵は割れて成功するのである。
偶然を望むのでは無く必然にしか成功のチャンスは無いのである。
スティーブ・ジョブスが起こしたアップルコンピューターは世界を席巻した。
いまやスマートフォンのない生活は考えられないほどになった。
巨大な象には負けないと言う驕りがありどんな敵にも勝てると信じている。
まさか予想もしなかった小さな蟻に負けるとは考えにも及ばない。
蟻は象の急所を狙うしかないが、直接自分たちが手を下すのでは無く
あらゆる問題点をあぶりだし攻撃のポイントを見つけていくのである。
平原に象の餌は足りているか、それは枯れてはいないか、
いつ次の餌の補給が必要か、配給通路を止めることは出来るのか、
あらゆる攻撃のポイントを探し出すのである。
また蟻は仲間たちを呼び集めて作戦を実行する。
毒蛇に頼み象の水飲み場に毒を入れることを考える。
カラスやキツネに頼み悪い噂を広めることも考える。
モグラやイタチに頼み大きな穴を掘り象を落とし込むことを考える。
こうして一匹の小さな蟻が巨大な象を倒し始めるのである。
自民党のキックバック問題は大学教授の一言で検察が動いたのである。
正に蟻(大学教授)の攻撃で自民党が潰れようとしている。
戦争の悲劇を世界へ伝えるには子供たちの悲惨な状況を伝えるだけで良い。
幼き子の泣き声が響けば一瞬でも争いが止まる。
爆音轟く戦禍の中でもぎゃーと泣く声には敵わない。
世界中の女性が立ち上がれば地球の人口の半分を敵に回すことになる。
子供の泣き声が象の急所だと思えばそこを狙えば良いのである。
あらゆる所の盲点を考え尽くすのである。
「一燈照隅万燈照国」は燈(あかり)である。
この燈のもとは油である。
民衆の怒りの油は不満から生まれることが多い。
必ず不満のあるところに油の種となる問題がある。
不正や不況や不備などが燈によって照らし出さられるのである。
ビッグモーターの問題も従業員の不満の声からメディアへ伝わり事件になった。
修理工場と保険会社が組んで不正を働いていた。
まるで泥棒と警察が組むような話である。許せない。
燈は少なくとも小さな熱き炎が大事で炎の元は何かを探り当てる。
失敗者をあぶりだし、成功者を褒めたたえる要因は何かを考える。
過去の成功者の表面を見るのでは無く、成功の元になる着眼点を探し当てるのだ。
その為には成功者の本を何冊も読む必要がある。
世界の金融のシステムを作ったロスチャイルド、鉄鋼の権利を押さえたカーネギー、
石油事業で巨万の富を築いたロックフェラー、自動車の時代を築いたフォード、
鉄道海運業で世界を牛耳ったモルガンなどを読み成功のヒントを調べる。
大切なことは文字の裏側を知ることである。
ロスチャイルド以外はもともと莫大な財産があった訳ではなく、
時代の変わり目に乗っかり物から販売そして流通のシステムを確立したのである。
中には貧しい移民から大成功を収めている財閥もある。
最初は小さな灯りだったのが世界を動かす灯りとなった。
今、大切なことは自由経済が末路を迎えているこの時期に、
経済的成功だけを求める会社は失敗をする。
昨年から今年にかけて過去に例のない企業倒産になってきている。
生き残れる会社は「人の為」を掲げている会社のみです。
便利で安くて老若男女が使いやすい商品はどの分野でも成功するのです。
「不況」は今始まったのではなく過去に何度も不況を経験しているのです。
このような諺があります。「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」、
賢者は歴史の中で問題点を見つけ、愚者は失敗してから問題点を知る。
という意味です。
残念ですがこの国に賢者はいないということです。
今一度歴史に学び熱き炎を燃やしませんか?
間もなく全国に向けて勉強会を開始します。乞うご期待ください。
1月 30th,2024
恩学 |
たとえ小さな燈であっても はコメントを受け付けていません
物心ついてから自分の欠点が気になりだした。
もっと頭が良ければ可能性が広がったのに、
もっと運動ができれば人気者になったのに、
もっと背が高ければ、
もっと可愛ければ、
もっと歌がうまければと思い詰めてもどうにもならない。
だから頭の良い人を敬遠したり、
運動のできる人を遠ざけたり、
背の高い友人を見ないようにしたり、
可愛い人を毛嫌いしてきた。
誰と比べて劣っている自分を比較してきたのか分からない。
きっと家庭がつまらなかったから、
親兄弟とも自分と同じ顔をしていたから、
もっと恵まれた環境に生まれていたらと、
どんどん追い詰められていった。
心が苦しかった。
悩んでいる自分がいる、
愚痴を言っている自分がいる、
健康で走り回っている自分がいる、
それなのに辛さを全面に出して、
苦しみを楽しんでいたのかもしれません。
あなたは誰と比較して劣っていると思うのですか?
食べ物がなくて苦しんでいる人、
体の不具合で仕事につけない人、
趣味なんて持てない人もいる、
綺麗に咲いている花ばかり見て、
根元を見たことがないのですか。
我々は先祖がいるから今の自分がいるのです。
自分の劣っているのは劣性遺伝のせいだと思っていませんか?
10代の時には10代の悩みがあって、
20代の時には20代の悩みがあって、
30代の時には30代の悩みがあるのです。
日差しは影があるから明るく感じるのです。
影がなければ日差しの明るさは感じなくなります。
あなたが比較対象にしている人は、
あなたの悩みに気づかないのです。
何故なら自分が優れているとは思わないからです。
中国唐代の禅僧・六祖慧能禅師の教えに次の言葉があります。
『四弘誓願(しぐせいがん)』
第一句目「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」を
独自の見解で説かれています。
「自心(じしん)の衆生を無辺に度せんと誓願す」
衆生とは、この世の生きとし生けるすべての存在です。
それは無辺、数限りなく存在しますが、自分のみならず、
すべてのものを救っていこうと誓い願うこと。
それが「衆生無辺誓願度」ということです。
しかし、実際には、個々の力ですべての衆生を救うのは、
難しいことであります。
そこで慧能禅師は、世の中の衆生ではなく、自分の心の中の衆生を救って
いくことの大切さを示されたのです。まずは、自分の心の中の悩める衆生、
不安な衆生を救っていく。そうすれば、自ずと世の中の衆生を救うことに
つながると仰っています。
かつて、帝国ホテルに竹谷年子さんという方がおられました。
彼女は、女性客室係第一号として入社し、大変ながらも
その仕事にやり甲斐を感じ、充実した日々を送っていました。
帝国ホテルと言えば、日本を代表する一流ホテルで、海外から国賓級の
宿泊者が訪れます。そのような中で、竹谷さんは、今の自分ではどうやっても
思い通りに対応できない場面に直面し、ずいぶん悩み、落ち込んだそうです。
その頃のことを次のように綴られています。
『なんて私はダメなんだろう。ホテルで英語ができないのは致命的だ。
どうすれば、「お前はダメだ。使い物にならない」と言われずに済むだろうか。
先輩たちに迷惑をかけずに済むだろうか。私なりにあれこれ考えました。
そうだ。私が一番下なのだから、一番下の仕事をすればいい。
人の嫌がる仕事をすればいいのだと思いつきました。』
竹谷さんの決心は、決して上を目指すことを諦めたわけではありません。
英語を話せることがベストなのですが、一気にできるようになるわけではありません。
英語を話せるように日々努力しつつ、今の自分にできることを最大限に頑張る。
竹谷さんは、このような心の転換によって自分自身を救っていかれたのです。
どうすればいいんだろうと悩む自分。どうしてできないんだろうと落ち込む自分。
そんな自分の、心の中の不安な衆生を救っていく。
これは、理想とする自分の姿を目標にしつつも、その心にとどまらない。
やみくもに背伸びすることなく、ありのままの自分を生きる。
今のありのままの自分、今の現実を受け入れるということであります。
そこに「安心」を見いだすきっかけがあるもの、
誰かと比較するのではなく自分の心と比較すれば、
昨日より今日、今日より明日と、勇気が湧いてくるのです。
その悩める心を救おうとしてから「安心」が生まれたのです。
自分の欠点ばかり見ていても仕方ありません。
自分の長所を見つけて褒めてやることです。
私は世界中の中で私だけなのです。
迷わずに自分を愛してください。
自分の中の劣性遺伝を変えて優性遺伝にすることは出来ます。
それは気持ちを変えて欠点を長所に変えることです。
注、このブログで使われている「劣性遺伝」とは、
医学的なことを言うのでなく、
精神的コンプレックを指して使っています。
1月 30th,2024
恩学 |
劣性遺伝 はコメントを受け付けていません
人は木と同じ。型にはめない。癖を見抜く。
西岡家は歴代法隆寺専属の宮大工であった。
最後の棟梁と呼ばれた西岡常一氏は,法隆寺や法輪寺の補修,
薬師寺再建に尽力をされた方。祖父から技術を学び,
大工として技術一筋で生きてきた。
技術を丸暗記したほうが早く,世話はないんですが,
なぜと考える人を育てるほうが大工としてはいいんです。
丸暗記してもろうても後がありませんわな。
面倒でも各時代の木割りがなぜ違っているのかを考え,
極めるには大変な時間と労力がいりますが,
後で自分流の木割りができますのや。
そうして初めて本当の宮大工といわれるようになるんですな。
丸暗記するだけでは新しいものに向かっていけません。ですから物覚えが
いいということだけでは,その人をうまく育てたことにはなりません。
丸暗記には根がありませんのや。根がちゃんとしてなくては木は育ちませんな。
根さえしっかりしていたら,そこが岩山だろうが,風の強いところだろうが,
やっていけますわ。なんでも木にたとえてしまいますが,人でも木でも
育てるということは似ているんでしょうな。
ただ,育て方にも棟梁の形がありますな。
全部,無理矢理,自分がしたようにせなならんというて,
それに押し込もうとする人もあるでしょうが,
それは無理ですな。木の使い方と同じように,癖を見抜いてその人の
いいところを伸ばそうとしてやらななりませんわな。
育てるということは型に押し込むのやなく,個性を伸ばしてやることでしょう。
それには急いだらあきませんな。
人を育てるっていうのは「場」を与えて、その環境に置いてやればいいと
わかっているけど,なかなか難しいものです。
「暗黙知」という言葉はすでに日本語として普通に使われている。
現場の人が日々の仕事の中で蓄積してきた熟練の技やノウハウなどの
「暗黙知」を「形式知化」、すなわち、数値化したり言語化したりなどして
マニュアル化することで、社内で共有したり、継承されやすくする、
などという使い方がビジネスの世界では一般的だろう。
こうした「暗黙知の形式化」の効用は大きい。
しかし、『暗黙知の次元』を表したマイケル・ポランニーが。
その著書で意図していた「暗黙知」はこのようなビジネスにおける用法とは
まったく異なる意味である。
アカデミックな文脈では、そちらの意味で使われているということは
意外に知られていないかもしれない。
暗黙知は生を更新し、知を更新する。
それは創造性に溢れる科学的探求の源泉となり、
新しい真実と倫理を探求するための原動力となる。
隠された知のダイナミズム。潜在的可能性への投企。
生きることがつねに新しい可能性に満ちているように、
思考はつねに新しいポテンシャルに満ちている。
暗黙知によって開かれる思考が、新しい社会と倫理を展望する。
より高次の意味を志向する人間の隠された意志、
そして社会への希望に貫かれた書」
私がプロデューサー業を始めた時に日本にはお手本がなかった。
強いて言えばCBSSONYに入った時に見たスタジオワークである。
アーティストがいてアレンジャーがいてスタジオミュージシャンがいて、
それを手配するインペッグ屋がいてチームが動いていた。
普通の歌手の場合は作詞家がいて、作曲家がいて、アレンジャーがいて、
ワンセットであった。ディレクターはレコード会社の社員で、音源を作り、
工場へ送り、レコード盤を作る、それらの手配の担当であった。
音楽制作の教科書が無かった時代である。
全てが見た経験から自分なりの解釈を加えて覚えるしかない。
いわゆる「暗黙知」で仕事を覚えるしかなかった。
私は海外のプロデューサーをお手本にして発掘から育成、制作、
宣伝、営業と全部こなした。
逆に周りにお手本がなかったのでやり易かった。
テレビ局も、ラジオも、雑誌社もプロデューサーを名乗って駆け回った。
売り込みアーティストもさることながら私も一緒に業界へ売り込んだ。
何度も学校や経営者の会から依頼されて「ヒットの出し方」という
タイトルでセミナーや講演会をしました。
アーティストという種を見つけて発芽させて花を開かせることを話した。
見ると熱心にメモして書き残そうとしている人が大勢いた。
メモをただ書き残しても意味がない。話の流れから自分なりの解釈を加えて、
「暗黙知」で記憶することが重要である。
いつも最後にヒットは作る事ではなく「待つこと」ですよと言って終了した。
準備は山ほどするがタイミングが合わなければヒットにならない。
ヒットは楽曲の良い悪いではなく大衆の求めるタイミングが重要なのです。
「砕啄同時」鳥の雛が卵から出ようと鳴く声と母鳥が外から殻をつつくのが
同時であるという意味です。
自分なりの「暗黙知」のデーターを増やしてください。
「暗黙知」は教科書を覚えることではなく、
体験者の背中を見て自分なりの解釈を加え未来を見ることです。
1月 28th,2024
恩学 |
時期を待つ はコメントを受け付けていません
誰に何を言われようと自分の人生を生きる。
これは難しいことですか?
自分が分からなければいつまで経っても自分の人生は生きられません。
母親の体から生まれ、父親の加護で大きくなった。
しかし感謝はすれど従順な子供のままではいられない。
早く大人にならねばと期待が大きく膨らむ。
生きるとは、幸せとは、自分とは、を探す哲学的な疑問が溢れ出てくる。
生きる意味は、幸せであること。
誰かと比べて幸せだとか、他人から見て幸せそうだとか、
そんなことは関係ありません。自分が幸せだと感じられることが大切なのです。
先入観にとらわれた心は、認識がゆがめられ、自由を失っている状態です。
自由を失うと、自分自身をも見失います。
本当に幸せであるためには、とらわれた心を自由にすること。
その価値観を身につけることが、大切なのです。
人と比べてやっかむことを、フランス語でルサンチマンといいます。
(深い恨みや劣等感、未消化の怨恨や嫉妬を表す心理学的な用語)
誰かより優位に立つことが目的になると、必要のないことに
お金をつぎ込んだりして、真の幸せから遠ざかるのです。
自分を卑下する価値観にすがりつくことも、幸せから遠ざかります。
人と比べることは、自分を幸せにはしないのです。
新しい自分に変わりたい。心機一転、新しいことを始めたい。
そんな思いとは裏腹に、ぐずぐずと変われないでいる現実。
どれもきっちりと終わらせることが大切です。始めることばかりに意識を
とられがちですが、ケリをつけることも同じくらいに重要なのです。
努力はいずれ報われる。そう信じていると、不得意なことに時間や労力を
費やすことになり、無駄な努力となってしまいます。
つらく感じるロジックを正しく理解すれば、「そういうものだ」と
受け入れられるようになります。
多様な意見を取り入れ、多面的な考察を経てこそ、クオリティの
高い意思決定ができるのです。
社会や周囲の人間からの圧力で、自分の行動を変えていませんか。
その行動が自分の信条に反するものであるほど葛藤に苦しむことになります。
むしろ、白黒はっきりしないことのほうが多いのが現実です。
完全な正解を求めないことは、あなた自身の心を軽くするためにも、
賢明な選択なのです。
成り行きに任せ、なるようになると開き直ること。
そうすると、案外満足のいく解答が得られたりするものです。
そして禅語にはその解決方法として9つの教えがあります。
1.看脚照顧(きゃっかしょうこ)
「足下に目を向ける」
人は他のことに気を取られていると、目の前にあるものでも
気がつかないことがあります。
遠くばかりに目を向けていないで、自分の近くも見てみましょう。
前の人の背中ばかり追いかけていないで、自分の足下にも
目を向けてみましょう。時には自分の立ち位置を見つめて、
今ある物を意識してみるのです。
ずっと探していたものは、すでに手にしているのかもしれませんよ。
2.明珠在手(みょうじょうたなごころにあり)
「幸せはすでにある」
明珠とはかけがえのない大切なもののことです。
幸せはここではない、どこか遠くにあると考えがちです。
何かを成さなければ手に入らないものだと考えてしまいます。
幸せとは手に入れるものではなく、気づくもの。
すでに在るものなのです。
3.無事是貴人(ぶじこれきにん)
「そのままでいい」
他人と比べると、自分の短所や自分に足りないものを意識してしまいます。
自分にないものを求めなくていいのです。
求めなくても、すでに沢山のものを持っています。
誰かになろうとしなくてもいいのです。
あなたはあなたのままでいいのです。
4.名利共休(みょうりともにきゅうす)
「名誉もお金も追い求めない」
豊かな人生を送るのに、必要以上の物やお金は必要ありません。
有名になりたい虚栄心を満たすための名誉はいらないのです。
幸せや満たされぬ思いを、他人や自分の外に見出しても仕方ありません。
本当に望むものは得られないでしょう。
5.放下着(ほうげじゃく)
「執着を手放す」
物やお金を所有すること。肩書きや立場にしがみつくこと。
不要な考えや価値観に縛られること。
それら全て、捨ててしまいましょう。
手放してこそ得られる豊かさがあるのです。
6.善をも思わず 悪をも思わず
「全てを善悪で考えない」
自分を肯定してくれる人は味方、そうでなければ敵。
そうやって何事も善か悪か、白か黒に色分けしていると、
あるはずの沢山のものが見えなくなります。
白と黒の間には無数の色があります。十人十色、
人の数だけ色があるのです。
7.歳月不待人(さいげつひとをまたず)
「時間は無情にも過ぎゆく」
こちらの都合など気にせずに、時間は常に進み続けます。
どのように過ごしたとしても、等しく同じ時を刻みます。
過ぎた過去を後悔しても、時間が戻ることもありません。
どんな結果になっても悔いのないよう生きるしかないのです。
今を否定することなく、ただ懸命に生きるのです。
8.人間到処有青山(じんかんいたるところせいざんあり)
「どこにでも望むものはある」
今いる場所だけが全てではありません。
今から目指す場所だけが望みを叶えられるところではないのです。
どこへ行こうと、思うように生きられます。「どこか」ではなく、
そこで何をするかが大事なのではないでしょうか。
9.春来草自生(はるきたらばくさおのずからしょうず)
「時が来れば自然と事は運ぶ」
春が来れば自然と草木が生えるように、どんなものにも変化の時が
訪れます、やれるだけのことやったなら、あとは待つことも必要です。
最短距離を進むことが最良だとは限りません。
焦らずに、自分のペースで歩いていけばいいのです。
如何でしょうか?
恩学はあなたの人生ドライブのハンドルの役目です。
いつでもアクセルを踏むのはあなたです。
運転ルールを頭にいっぱい詰め込んでも、
車を動かせず止まったままでは何も変わりません。
勿論、ハンドルも役に立ちません。
「知行合一」知識と行動は同時にやらなければ意味がありません。
今日も安全運転で一日をお過ごしください。
1月 27th,2024
恩学 |
自分の人生 はコメントを受け付けていません