平常心




平常心(びょうじょうしん)
一般的には(へいじょうしん)と読まれる。

政治家たちがよく政治姿勢を問われて「平常心です」と返答する。
この場合の平常心は普段のとおり、格別の構えた思いも無ければ、
気負いもなく、淡々とした心境で政治に取り組みます
という意味で用いられることが多い。

力士も横綱の昇進伝達式での口上で「平常心」の言葉をよく使うが、
意味としては横綱の品格を守り、常に揺れ動くことのない心で
取り組みに専念しますということである。

一般的に平常心と言えば何事にも心が動じない、
揺れ動かないことのように思われている。
しかし、波乱万丈の人生では、一喜一憂、
悩んだり苦しんだり、泣いたり、笑ったりしながら
心は揺れ動くのが常である。

この揺れ動く心そのものがそのときの真実の心であり、
さまざまな状況、状態に応じて、変化し現れるのが、
人の心であり人間としての自然の姿である。

緊張すべきときに無理に平常心を作ろうとか、
落ち着こうとあせる心に、不自然な心が働き、かえって変調をきたす。
このままじゃいけない、何とか落ち着こう、堂々としていようと
すればするほど緊張は高まり、不安になることも少なくない。

むしろ緊張している我が心こそ、今の自分の真実の姿であり、
ありのままの心なのだ、ということを素直に認め受け入れることである。

ありのままの心、ありのままの姿を素直に認め受け入れるとき、
そこには自らが否定し排除しようとした虚栄心はなくなり、
平静の平常心があるのみとなる。

道元禅師の言われる
「ただわが身も放ち忘れて仏のいへになげいれて、
仏の方より行われ、是に従い行くとき ちからも入れずこころも
ついやさずして生死を離れてほとけとなる」とある。

要は仏のいえ、大自然の運行、自然法爾のままに、
一切を御仏にお任せするその心そのままが平常心なのである。

無理に力を入れずに御仏を信じていれば、
常に落ち着いた心でいられるという事です。

過去に新人の審査員を頼まれることが多くありました。
応募者は人生の行き先を決めるオーディションで
緊張のあまり落ち着かないのは当たり前です。

たった一曲で命運が決まる。練習量に関わらずたった4~5分で終わる。
平常心が奪われて普段通りの演奏ができないのは仕方のないことですが、
頑張ってきた人たちは、その姿に現れるので私は採点で困ったことは無い。

アスリートも大観衆の前でスタート時には緊張する。
大切なことは平常心がなくなっても、
練習量が結果を作り出してくれるので心配はない。
そしてスタープレイヤーは緊張時にも「見せ方」を知っているのです。

無理に心配や緊張を遠ざけようとしてイメージトレーニング
をすると逆効果である。
普通通りに緊張を楽しめるようになると「平常心」になる。

今でこそ、私はどのような会合でも講演会でも挨拶の時に
動じなくなったのですが、昔、一度だけ大失敗をしたことがある。

普段、準備をせずに簡単な流れだけを書いたメモを見てお話をするのですが、
ある大事な会合の最初の挨拶を頼まれて台本を書いてしまったのです。
有名な成功者の名言を引用して会合を盛り上げようとしたのです。

それを覚えて会場に向かい沢山の来賓の方々と名刺交換をしている間に、
すっかり台本を忘れてしまったのです。
今、思うだけでも穴が合ったら入りたい心境になります。

禅語にこのような言葉があります。
「行亦禅坐亦禅 語黙動静体安然」
(ゆくもまたぜんすわるもまたぜん ごもくどうじょうに たいはあんねんたり)

坐禅をしたり写経をしている時だけが禅ではない。
人と話しているときも、黙っているときも、動いているときも、
休んでいるときも、日常のすべてが禅であると自覚すれば、
心身ともに落ち着いた境地に至る。
気負いのない心が平常心を創り出すのです。

「平常心」は経験豊かで肝の据わった人たちの特権のように言われますが、
誰もが緊張と失敗の経験を積み重ねて身に着くものです。

平常心は鍛えることが出来るのです。
率先して人前で話すことを心がければ、
舞い上がることは無くいつも平常心でいられるのです。
私を認めて欲しいという欲が出れば出るほど「平常心」は奪われるのです。

みなさまも常に平常心でいられますように願うばかりです。
あるがままの心が一番ですね。見栄を張る必要はありません。

平常心の中落ち着いて今日も一日を過ごしましょう。


感情起伏の出し方




10代後半の若い女性が私にこういう質問をしました。
「最近お父さんが感情の起伏が無くなってきた」と言われたのですが、
どうすれば良いでしょうか?という内容です。

高齢になると日常にあまり感動もなく喜怒哀楽の表情も出て来ない。
若い時は音楽を聞いても、絵画を見ても、旅に出ても興奮が沸き起こったのに、
何故か昔の様なワクワク感は出なくなってしまった。

それは感情の起伏の問題ではなく好奇心の減退から
楽しいことを求めなくなってしまったからです。

そのような時には右脳を元気にするために自然の中での遊びを求めるのです。
もともと備わっている五感を有意義に働かせて自然の中を駆け巡り、
頭の中を磨かなければなりません。

海外の人から見ると日本人は喜怒哀楽の表情が無いと思われています。
嬉しいのか、悲しいのか、文句があるのかが分かりにくいと言われています。
酒席の場でも周りに気を遣い遠慮して小声で会話をしてしまいます。

あまりにも周りに気を使いすぎるとストレスが溜まりますよね。
そんな時にはカラオケに行って大声を出すのが一番です。
お年寄り割引がある店も探せば結構ありますよ。

感情の起伏が減退するのは身体的と心理的が原因で起こる場合もあります。
身体的にはこのような要因があります。

「統合失調症」、およそ100人に1人がなる、とても身近な病気です。
「統合失調症という病名は聞いたことがない」という方も多いでしょう。
しかし、実際には、およそ100人に1人がなる、とても身近な病気なのです。

また、若い人が発症しやすい病気です。発症する人の80%は、
15歳から30歳の間に発症すると言われています。
原因ははっきりとはわかっていませんが、
ストレスが関係していると言われています。
誰もが発症する可能性のある病気です。

それにしても「統合失調症」は、
病名を見てもどんな病気かわかりにくいですね。
人間の脳の働きは神経のネットワークによって生まれます。
見たり聞いたりした情報を処理する、考える、感情がわき起こる、
こうしたことはすべて、神経のネットワークの働きです。

そのさまざまな働きをうまくまとめることができなくなっている状態、
つまり「統合」が「失調」している状態が、統合失調症なのです。

精神的にはこのような要因があります。
「やる気がでない・感情の起伏がない」精神的反応

喜怒哀楽の感じ方が弱くなったり、人と会うことを避けたりする
こともあります。

陽性症状と反対に「陰性症状」と呼ばれるものがあります。
こちらは、「あるはずのものが低下する」状態です。
感情の起伏が乏しくなります。健康な人が日々感じる、
喜ぶ、怒る、哀しむ、楽しむ、といった感情が弱くなり、
実際に表情の変化も乏しくなります。そして意欲が減退します。

勉強だけではなく遊ぶことにも、それまで好きだったことにも
関心が弱くなります。
部屋の中をきれいにすることや、身だしなみにも無頓着になります。
家族や友人を含め、ほかの人と会ったりコミュニケーションしたり
するのを避けるようになります。
外出することを避け、自分の部屋にひきこもる人もいます。

陰性症状には、このほかさまざまものがあります。ここで書いた症状が
すべての人に起こるわけではなく、また、その程度も、人それぞれです。

「禅的生活」
行動の切り替えのたびに、いったん息を吐く習慣をつけてください。
禅的生活をおこなううえで大切なことは日常の立ち居振る舞いです。
それはマナーがよい、見た目がいいというだけのことではありません。
所作は、その人のすべてを物語るといっても過言ではないのです。

その人が今どんな精神状態なのか、どんな生活を送っているのか、
何に価値を置いているのか、どんな経験をして生きてきたのか、
そのすべてが所作に表れているのです。

ドアをバタンと閉める、食器をガチャンと置く、
脱いだ服をソファに放り投げる、人に声をかけられても、
ぞんざいな返事をする。そのような行為は、あなたを
「物も人も尊重できない人間だ」と証明することになりかねません。

心を整えるためには、まず立ち居振る舞いを整える必要があります。
そのために大切なことも、呼吸なのです。
感情にまかせた雑な振る舞いをしているとき、
呼吸は必ず浅くなっています。

食器をテーブルに置くときにも、人に物を手渡すときにも、
パッと衝動的に動きそうになったら、一瞬立ち止まって、
ゆっくり息を吐きましょう。
呼吸が整うだけで、動作そのものがおのずから変わっていきます。

不愉快なメールに返事を書くときにも、家族の発言にムッとしたときにも、
ゆっくりと息を吐きましょう。せわしない気持ちがすっと落ち着き、
地に足がついたような心持ちになるはずです。

最近は科学的なデータでも、呼吸の重要性が証明されているようです。
呼吸が整うと、全身の血流が25%アップするというデータがあります。
逆に呼吸が乱れると、血流が悪くなることもわかっています。
脳に酸素を運ぶのも血流ですから、冷静な思考力も呼吸と大きく
かかわってくるはずです。

もちろん健康のためにも深い呼吸は重要な役割を
果たすことは間違いありません。
私たちが生きる社会は、どうしてもストレスフルになりがちです。
自分だけ巻き込まれないでいるのは難しいものです。

私のおすすめは人生プランの立て直しを考えることです。
100年時代の人生プランで言うと60歳〜70歳からだと
まだまだ先のある話です。

いきなり国の再建のために、地域社会の発展のために、
生きろと言われても無理な話です。
しかし家族や友人単位のグループでボランティア活動をすることは可能です。

気の置けない仲間たちを集めて住んでいる街を掃除することぐらいは
可能です。高齢者に親切で子供達が安心して暮らせる世の中を作る
計画を立てるのです。人の感情は他人に役に立つと明るくなりますよ。

「大丈夫ですか?」「気をつけて帰ってね」、「荷物持ちましょうか」の
言葉は小声では伝わりません。大きな声で表情豊かに伝えるところから
相手の感情も豊かになります。
その上に「ありがとう」の言葉をもらうと笑顔も生まれます。

感情の解放は一番の若返りです。
又、昔の仲間とバンドを組んで音楽を楽しもう、
中古のオートバイを買って好きな場所へツーリングに出かけよう、
バックパック一つで海外へ出かけようと計画することが大切です。

それ以上に大切なことは「生きるとは誰のために」と
いうことを考えることです。
生まれて生きて死ぬまでの行いは誰のためにやっているのですか?
家族のためにじゃなく自分自身のために生きているのですよ。
迷うことはありません。
もっと楽しんでください。感情の起伏をつけて元気に過ごしましょう。
これをお父さんへ伝えてくださいと言いました。


意識と関心の結び方




私がレコード会社に入ったばかりの時にはマーケティングの資料もなく、
本屋へ行ってもこの手の本は販売されていませんでした。

その為に私は独自にマーケティングの方法を創り出したのです。
毎月違う分野で働いている友人を集めてヒットの分析と予測を行いました。
代理店、出版社、放送局、映画監督、デザイナーと話し合い、
それぞれの来年の計画を聞けば流行の流れを掴むことが出来るのです。

同時に地方の放送局や新聞社、ライブハウスのオーナーなどへ電話を入れて
今、何が流行っているかを常にリサーチしていました。

その結果地域によって売れる商品に変化があることを知りました。
新人をデビューさせる場合に、歌唱力のある人は北海道から、
アイドルは愛知から、ハードロックは九州から、フォークは関西からと
エリアを分けることによって、ヒットのキッカケづくりをしていたのです。

商品を販売する時にお客様が意識していることを
的確にとらえて関心を引き起こさせなければ購買に繋がりません。

私のヒット作品はお客様が潜在的に望んでいることを分析して、
音楽と映像を目の前に提示していくのです。
併せてメロディーもリズムも時代性を感じるように作ります。
勿論、消費者に伝わるキャッチコピーも必要になります。

最近のテレビのCMを見ていると同じ人が頻繁に登場して
商品の宣伝をするのですが、マーケティングの手法を完全に無視した
大量露出で視聴者の記憶に残す古いやり方です。
これはプロの仕事ではありません。

意識は直観的に捉えることであり、関心は必然的に求めることです。

「意識が行動を決め、無意識が反応を決める。
そして反応は、行動と同じく重要だ」。
これはE. Stanley Jonesの言葉です。

こんなことをご存知でしたか?
私たちの心は2つの異なる小さな意識から成り立っており、
それぞれが違う方法で働き、別の機能を果たしています。
無意識は、人間の自然の本能や習慣の全てを構成し、
意識は己の意思による行動を起こさせているのです。
無意識は人間の脳の99%を占め、行動の大半につながっていますが、
意識は日常の行動のほんの一部を生じさせているに過ぎません。

検索データにより素晴らしい洞察力を手にすることができますが、
それだけでは不十分。

ユーザーの意識を知るためのデータに過ぎないからです。
ユーザーが何を意図していたかを特定するデータだけでは不完全で、
ユーザーの無意識を知ることも必要なのです。
ユーザーが何を好み、何を欲し、何を望んでいるのか、
その全体像を本当に知りたければ、
ユーザーが検索している先にあるものにも目を向け、
ユーザーの喜びの源が何かを深く見つめることが大切なのです。

例えば、ファッション関連のコンテンツに「関心」がある人が、
必ずしもファッションに関する用語を検索したり、
SNSでファッションの話題をシェアするとは限りません。

人の「意識」に関するデータだけでは、こうしたユーザーの
「関心」にまで掘り下げて理解することは難しいのです。
ユーザーのコンテンツの消費状況やエンゲージメントを
理解することができてはじめて、ユーザーの「無意識」に迫り、
ユーザーの真の好みを把握することができるのです。

ある大手CPG (消費財)ブランドの場合、
ベビーケア関連のコンテンツのモバイル機器での読者獲得率が
最も高いのは、午前2時~4時の間であることも分かったのです。

これはなぜなのでしょうか?おそらく多くのママたちが、
赤ちゃんの授乳のためにこの時間帯に起きていて、
まさにその瞬間の自分のニーズにぴったりのコンテンツに対して
素早く反応するからなのでしょう。
このことが事前に分かっていれば、この時間帯に配信するコンテンツを
ターゲットユーザーに特化したものにすることができるのです。

例えばこんなことが考えられますよね。

記事のタイトル例 - 「午前4時の授乳時にすべき5つのこと」
記事のコンテンツ例 - 「つらい咳のせいでなかなか眠れない赤ちゃんを
あやそうと午前2時に頑張っている新米ママ…」

次回、皆さんが包括的なコンテンツ戦略を策定する
際には、入手可能なデータソースを検討し、
ユーザーの「意図」に関するデータだけでなく
「関心」についてのデータも必ず活用するよう、心がけてみてください。

意図と関心に関するデータは相互に補完し合うものであり、
この2つが融合することで、ユーザーに喜びを与える方法を
より広い視野で理解することができます。
これぞ、まさにコンテンツマーケティングと言えるのです。
Outbrainより

私はビジネスプロデューサーとしてこのマーケティングと
同様な手法をスタートアップ企業へ教えてきました。

私が理事として参加しているTFL東京ファッションデジタルラボでも、
何回か講座も受け持ちました。

この手法に興味のある方は、
マーク・ジェフリー「データ・ドリブン・マーケティング」を
参考にして学んでみてください。


来るものと拾うもの




真の学びは時期が来るのを待ち、いたずらにモバイルから拾うものでは無い。
学びは強制されるものではなく必要な時期に応じて追求すれば良い。
周りに合わせて見栄のための学問は百害あって一利なしの結果を招く。
デジタルの発展は歓迎するが、若い世代が待ちの姿勢になってしまうと
情報操作の中で利用されてしまう。

自ら興味のある事象を探し求めて先ずは探し歩くこと。
身体を動かすことによって脳内にドーパミンやセロトニンが発生して
より知識を吸収し易くなる。その都度その場所から学びがやって来る。
私が言う「旅に出ろ」とはこのことである。

僅か200年前〜300年前には噂で聞いた儒学者を、
僧侶を、志の高い武士を、探し求めて故郷を後にした。
ひたすら歩きながら目的地を目指し面会を申し込んだ。
誰もが学びを求めての旅であった。

例えば、
吉田松陰の場合
松陰は子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、
草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」
「神国由来」、その他頼山陽の詩などを父が音読し、
あとから兄弟が復唱した。
夜も仕事をしながら兄弟に書を授け本を読ませた。

嘉永3年(1850年)9月、九州の平戸藩に遊学し、
葉山左内(1796-1864)のもとで修練した。
山鹿流兵学では西洋兵学を導入すべきだと主張し、
民政・内治に努めるべきだと主張していた。

松陰は老中暗殺計画である間部詮勝要撃策を
自ら進んで告白してしまう。この結果、死刑を宣告され、
安政6年10月27日(1859年11月21日)、
伝馬町牢屋敷で執行された。享年29歳。

佐藤一斎の場合
寛政5年(1793年)江戸に戻って林簡順の門下となる。
間もなく簡順が没し、乗衡が公儀儒官である林家に養子として迎えられ、
当主(大学頭)として林述斎と名乗ると、一斎は述斎の門人として留まった。
文化2年(1805年)には塾長に就き、述斎と共に多くの門弟の指導に当たった。

儒学の大成者として公に認められ、天保12年(1841年)に
述斎が没したため、昌平黌の儒官(総長)を命じられ、
官学の総帥として重きをなした。
朱子学を専門としつつも、中井竹山の指導によって陽明学も修め、
学問仲間から尊敬をこめて「陽朱陰王」と呼ばれた。

中江 藤樹(なかえ とうじゅ、1608年4月21日(慶長13年3月7日) –
1648年10月11日(慶安元年8月25日))は、
近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。
近江聖人と称えられた。諱は原(はじめ)、字は惟命(これなが)、
通称は与右衛門、藤樹と号した。

1637年(寛永14年)伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。
藤樹の屋敷に藤の巨木があったことから、門下生から「藤樹先生」と
呼ばれるようになる。1648年(慶安元年)41歳で死去。

逸話
ある武士が近江国を旅していたときの話。
大切な金を馬の鞍につけたまま馬を返してしまった
武士は金が戻らずがっかりしていたが、
そのときの馬子が金をそっくり渡すため武士のもとに戻ってきた。
感謝した武士はせめて礼金を渡そうとするが馬子は受け取らない。
仔細をきくと、馬子村に住む中江藤樹の教えに導かれてのことという。
そこで武士は迷わず、藤樹の弟子となった。
この武士こそ、のちに岡山藩の家老となった熊沢蕃山であるという。

二宮尊徳は、江戸時代(えどじだい)後期に道徳と経済の
両立を説いた「報徳思想(ほうとくしそう)」を唱えて、
荒れてしまった農村の復興を指導した農政家(のうせいか)・思想家です。
通称は金次郎といいます。

尊徳は現在の神奈川県(かながわけん)小田原市(おだわらし)に生まれ、
江戸時代後半の困窮(こんきゅう)した農村を救うために、
農村復興の方法を実施して、東北地方(とうほくちほう)から
九州地方(きゅうしゅうちほう)にまで影響与えました。
尊徳の思想の特色は、自分の利益や幸福を追求するだけの生活ではなく、
この世のものすべてに感謝し、これに報いる行動をとることが大切で、
それが社会と自分のためになるというものです。

報徳思想を広める
二宮尊徳が財政や農村の再建に使った報徳仕法は、
報徳思想がもとになっています。
報徳思想とは、人は天と地、人の徳に報いるため、
徳を実践していくという二宮尊徳の根本的な思想です。
報徳仕法のように道徳だけではなく、経済との調和をもって
社会に還元することで、豊に生活していくための知恵が報徳思想です。

二宮尊徳は晩年まで復興や飢餓の救済に尽力し、
報徳仕法の実践を行った地域は600以上といわれています。
みなそれぞれが凄まじい向学心である。

今一度真の学びは時期が来るのを待ちながら、
自ら興味のある事象を探し求めて歩くこと。
正しく身体を動かすことによって、脳内にドーパミンや
セロトニンが発生してより知識を吸収し易くなる。

その都度その場所から学びがやって来る。
このことを肝に銘じてほしい。

全ては愛から始まり恩に終わる精神を忘れないようにしましょう。


生命とは




生命とは
留まらず常に入れ替わるものである。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。

止まることのない車である。
生まれて死ぬまでのガソリン
思考から実行へのバッテリー
自然の中で生きるエンジン
何よりも生きている上での魂のサーキュレーター
細胞が死ぬまで周り続けているウインドパワーゼネレーション
天と地のため息自然界のハミングバード
宇宙の気まぐれから発生したソウルダンス
仏陀が説いた生老病死のハーモニー

地球の誕生と生命の誕生は謎に包まれている。
ミステリアスだから面白い。
生命とは生きている内は考えず死が近づいてくると考えるものである。
しかし寿命は途絶えるが生命は途絶えることはない。
輪廻転生、魂と共に地球がある限り未来へと続くのである。
恩学より

私の好きな禅語で「生命」を調べるとこのような説明になります。
今から約2500年前の4月8日、お釈迦さまは誕生されました。
そのお釈迦さまの教えに、人間に生まるること難しやがて死すべきもの
のいま生命(いのち)あるは有難しとあります。
お釈迦様はある時、大地の土を爪の上にのせ、阿難尊者に
「大地の土と爪の上端における土、いずれが多いか」と問われました。
阿難尊者は、「大地の土の方がはるかに多いです」と。

お釈迦様は、「そうだその通りだ。生きとし生けるものは、
大地の土の如く無量無数だけれど、人間として生を受けるということは、
爪の上端における土の如く、ごくごく稀である。
かけがえのない生命を大切にし、二度とない人生を悔いのないように励みなさい」と、
さとされました。 その受け難き人身もやがては滅します。
そのいつの日か滅する生命が、今日もまだ亡くならずに日暮らしができている。
これ程有難いことはありません。

古今東西のあらゆる書物を読んでも生命の意味や価値観については
分かりますが、「生命とは何か」には答えていません。
科学でも、哲学でも、仏教でも、抽象的で曖昧な答えしかないと思います。

科学的には
あるとき物質が生命という機能を獲得した瞬間を、
実験によって再現するというものです。
ミラーの実験により原始地球の環境で、最初の有機物が合成された
可能性が指摘されました。しかしその後の研究により、
彗星や隕石からアミノ酸が検出され、生命あるいは生命の素となる物質は、
地球外から地球へ持ち込まれたものである可能性も指摘されるように
なってきました。原始地球だけでなく、宇宙におけるさまざまな場所での、
物質の化学進化の可能性を探っています。

哲学的には
「生物学の哲学」に おいては、生命について議論してきた哲学史の
蓄積が必ずしも 踏まえられているわけではない。
基本的には現在の科学を前提 とする「生物学の哲学」において
捉えられているのとはまったく異なった生命理解を、たとえばアリストテレスや、
ドイツ古典哲学、ベルクソン、フランスのエピステモローグたちは
持っていただろう。 こうした哲学的生命概念は科学によってすでに
乗り越えられてしまったのだろうか、
それともそこには科学が見落としている重要な論点が潜んでいるのだろうか。

仏教的には
仏教における生命の見方は四大縁起と五蘊縁起,命根等にみることができる。
生の始まりについては,胎内五位に,生命の終りについては寿・煖・識の
消滅としてとらえられている。死に対する態度は,生命と死に対する智恵と,
事実の受容と,迷いと恐怖を輪廻しない解脱が求められる。
したがって脳死を死と認められるのも,臓器提供も智と解脱において
なりたつといえる。
こだわりか,解脱かは,恐怖心や関わり方によって異ってくる。
民俗仏教はこだわりを再生するが,仏教的視点を成り立たせる
諸条件がそろえば,解脱としての脳死の受容,臓器提供はなりたちうるといえる。

昨夜、伊丹谷良介マンスリーライブ「うた」<生命>が開催された。
恵比寿Voices2月10日(土)19時~21時

生命の起源から現代に至る生命の謎に「うた」で迫る
前回の「ブッダ」同様、映像とナレーションの組み合わせに歌が入る。
毎回その月のテーマ曲を作りそれに合わせて音源も作り直している。
100時間以上の時間をかけて魂を震わす。

ライブ前のトークから自分の「うた」に賭ける思いを語り、
「生命」のライブがスタートする。生命に関する膨大な資料を集めて
スクリーンへテロップとして流す。
後半に入り著名人の「生命」に対する名言も流れ、
縄文の平和国家も話題に取り上げてワンサードの説明と入る。

途中、中国で活躍している女性歌手纪敏佳(ジーミージャー)の
電話コメントも入り新年を祝うシーンもあった。
彼女の未発売のデモテープが流されて、こちらの会場の反応が彼女に送られた。
予期せぬ盛り上がりに会場は包まれた。

今回のテーマ曲は「We are the one」、前回「愛と光 導かれて」同様に秀作である。
楽曲は「うた」「生命の誕生」「覚悟の白富士」「方丈記」「かれたばら」
「縄文時代と生命」「僕らは地球のライダー」「愛と生命」「我愛你」
「植物と生命」「未来の華」「虫と生命」「愛の銃弾」「科学と生命」
「デジタリアンラブ」「生命の肯定」「YES」「生命」
「みんなのいのち(We are the one)」を歌い、
ライブ時間を大幅に過ぎていたが、途中で席を立つ人は誰もいなかった。
最後に私も呼び出されてお客様の質問へ答える。

伊丹谷良介はライブ後に話し合うサロン形式のロックコンサートを目指している。
世界には戦争があり、災害があり、不正があり、経済困窮で民衆が悩んでいる、
この時期にロックシンガーとして反論の一撃を加えるのである。

みんなで語り合う時が来た。
思考と音楽のコラボレーションとして成立するか実験を繰り返していく。
みんな流されるな!ぬるま湯に浸かりすぎるな!
自分の正直な言葉を吐くのだ。

次回のテーマは「芸術」どうなるのか楽しみである。


古き良き日本(縄文時代)




約一万五千年前に一万年も続いた平和国家縄文時代があった。
海に囲まれ四季折々があり果実も実り動物もいたので食料には困らなかった。
人々は奪い合うよりも分け合う精神が根付いていたので争いは無かった。
勿論、この時代にも陸地と海から渡来人は頻繁に訪れていた形跡がある。
世界の歴史を紐解いても争いがなかった時代が一万年も続いたのは
縄文時代だけである。

戦争と考えるほどの証拠が不十分なのが縄文時代。
縄文時代には、暴力による死亡率は1.8%と極めて低かった。
そんな研究成果を、山口大学と岡山大学の研究グループが発表した。
「戦争は人間の本能である」という国際的な主張の再考を促し、
考古学・人類学の視点から、戦争の原因を探る可能性を示唆している。

約1万年に及ぶ縄文時代の人骨を全国242カ所から2582点収集し、
暴力による死亡率を数量的に算出した。
傷を受けた痕跡があるものは23点で、暴力による死亡率は約1.8%となった。

他国や他時代の暴力死亡率と比べると5分の1以下と極めて低いことが判明した。
「いつから人間は戦争を行っていたのか」という問題は、
これまでもさまざまな観点で研究、議論が進んできた。

ヨーロッパを中心に狩猟採集民時代の大量虐殺を示唆する人骨が発掘されるなど、
先史時代から「戦争は人間の本能である」とする主張も根強い。
同研究グループは、これらの主張はあくまで欧米やアフリカのごく一部で
発掘された人骨のデーターによるものであり、人類全体に一般化できるかを
疑問視してきたという。

研究成果を受け「戦争が人間本能に根ざしたものと簡単に言うことはできず、
他の要因にその原因を求めなければならない」と示唆。
戦争や紛争を回避するには、環境や文化、社会形態など、
外部的な要因の見直しと解明が必要――と結んでいる。
成果は、英科学雑誌「Biology Letters」に掲載された。

我々は近年AIの時代に入り、「デジタルから縄文を見るのではなく、
縄文からデジタルを考える」という言葉を発表した。

メタバースの領域の中に人間としての心を縄文で映し出すのです。
このメタバースの世界は奪うので無く与えることを基本として考えるのです。
仮想空間という近未来的な要素に最も古い文化国家を建設するのです。
デジタルの数値・数量で表示された世界に人間本来の「あこがれ」は無い。
どんなに進化して素晴らしい世界を作ったとしても、
そこに「平和」の概念がなければ意味をなしません。

ロゴス的論理思考で無くレンマ的古代思想で想像してみてください。
ロゴスは論理的思考、レンマは直観的思想です。

何もない空想世界に器用な人間ではなく不器用な人間を作り出すのです。
欲望に捕らわれている人間は奪うことしか知らないのです。
哲学的に考えてはロゴスになってしまいます。
レンマ的思想で分配する楽しみを作るのです。
レンマ思想は自然科学の追求です。レンマはインドの古代思想です。

例えばこのように考えることは出来ないのだろうか?
AIの世界で誰かの役に立つと生命(いのち)ポイントが貯まる。
仮想通貨で資産家になり又そのお金を他人に与えると生命の大資産家になるのです。
与えれば与えるほど生命ポイントが増えていくのです。
そこには人種差別も地位も名誉も財産も必要のない世界が作られるのです。

永遠の命(科学的発展)や自己の快楽(経済的発展))だけを追い求めては
争い事が絶えません。自然の中に存在するあらゆるものとの共存・共有が
未来永劫の平和につながるのです。
そこにワクワクとドキドキを加えてください。躍動感あふれる世界を描くのです。
仮想空間に八百万の神が生まれると世界の人々は手を繋ぐのです。
あらゆる神と繋がり、新しい命の記念日にお祭りをするのです。

太陽はいつも変わらずに東から登り西へと沈むが消える事はない。
川はいつも変わらずに海に流れるが海が満ちあふれる事はない。
人は死んでいくがいつも変わらずに子供達も誕生してくる。

年を取れば知識は増えていくが、それと同時に悩みも増えていく。
この世の中、何も変わらない世界で、人は生き続け無ければならない。
欲に溺れて豊かさを求め日々奔走するが、一切が空(くう)の世界なのである。
空(くう)とは何も無いが、何も無いところに全てがあることを知るべきである。
「一切皆空」とはあらゆる現象や存在には実体がなく空であるという事です。

縄文時代の豊かさは自然と共に暮らして手元にあるものだけで満足していた。
狩猟、採取、漁労と家の周りには栗の木や柿の木や果実の木を植えていたので
食べ物には困らなかった。縄文時代の大敵は寒さである。
温度が2~3度変わるだけで死に至ると言われていた。
そのためにも狩猟で射止めた熊やイノシシの毛皮は貴重であった。

縄文時代には文字や言葉が無かったと言われるが本当だろうか?

縄文土器に代表される火炎土器やお腹の大きな女性の土器、
神事で使われたのではないかと思われる土器などを見ていると、
私には話し声が聞こえて来る。
大湯環状列石や三内丸山遺跡や御所野遺跡などを見ると、
一年一度大掛かりな催事が行われ、同時に唄え踊れの祭りの笑い声も聞こえて来る。

遺跡の中から文字が見つからないので使われていないというが、
文字に変わる何かが存在していたのは確かである。
渡来人との商取引や狩猟・採集の方法や星から見る天候予測など
伝えなければならないことが沢山あった。

縄文時代には謎が多い分、想像の世界が広がり好奇心を掻き立てられる。
どちらにしても日本が世界に誇る平和国家で会ったことは確かである。

古き良き日本(縄文時代)はロマンにあふれています。
この奇跡の歴史は2022年に世界遺産に登録されました。
日本民族の誇りを大切にしましょう。


無意識と好奇心




無意識は人が持つもので意識は人間が持つもの。
行者が崖を目の前にして登ってみようとするのは人なのである。
ここに意識はなく無意識なのである。好奇心だけなのである。
だから登ってやるぞとワクワク感が芽生える。

意識はダメだろうという否定感から入り恐怖が湧き起こる。
崖から落ちたら確実に死ぬと頭の中でイメージしてしまう。
それは教育で植え付けられた常識の恐怖から来るものである。
もっと人として生きなければ人生を生きたことにはならない。
(山伏行者 星野文紘の言葉)

「意識から見える未来」はお花畑からは見えない。
目があるじゃん。鼻があるじゃん。口があるじゃん。
少し整ってなくても生きていけるよね。
足があるじゃん。腕があるじゃん。手があるじゃん。
だから少しぐらい頭がよくなくてもいいじゃん。
暖かい家があるじゃん。車もあるじゃん。食べ物もいっぱいあるじゃん。
いまはなにも困っていないからこのままでもいいじゃん。

これは完全に「茹でガエル状態」のお湯の中に浸かっている。
何も疑問を持たず現状維持で良いと思う無気力感が一番危険です。
強い日本が弱い日本になり30年間所得が変わらなくても
怒らないのは、わざわざ危険を冒してまでも
世間から孤立することはないと思っているからです。

他人の環境を羨ましく思う必要はないが、
かといって今の自分の環境で満足するのはもっとも危険です。
突然予期せぬ出来事が起きた時に対処できなくなるからです。

無意識で行動できるように普段から人として生きるのです。
意識して行動を起こせば結果ばかりが気になる。
結果は常識で描き出す答えです。

だから「そのままでいいんだよ」「そのままの心でいいんだよ」
「人として生きればいいんだよ」
誰かに合わせたところで納得しなければ意味が無いね。
(星野文紘の言葉)

周りと同調することを望みながら個性を伸ばせと言われる。
個性を伸ばせと言うが個性は人格では無い。
個性とは考えとか感じ方に個性があると思われている。
個性とは常識と言われるところから離脱したところにある。
他人と違う言動をするから個性と言われるのである。

それでもお互いに考え方を同じにしておかないと
混乱が起きるので常識というルール決めが行われる。

ルール上納得できるものには従うが、
無意識の感情まで同調する気はない。
頑固な子だと言われても、
孤立するわけにもいかないので多少の同調はする。
生まれてから死ぬまで変わらないのは個性に違いないが、
個性を伸ばせとは何を意味するのかわからない。

個性を伸ばせと言いながら、
勝手に動くな!勝手に理屈を言うな!
人口密度が多い国なので勝手に動かれては困る。
常識に溺れる。知っている当たり前だよ。
みんなと同じ価値観じゃなくては困るのだ。
世間の風潮は意識的に合わせることが普通だと思っている。

無意識と好奇心は同じ位置にある。
「これ好きかも」と「興味がある」という感情です。
意識して「これを好きになろう」とか
好奇心で「興味を持とう」とかにはならないのです。

そもそも「好奇心」には2種類あり、
”知覚的好奇心”と”知的好奇心”に分けられます。

「知覚的好奇心」とは、見たことや聞いたこと、
触った時の感触などにより刺激されて起こる好奇心を指します。
「知的好奇心」とは信念や思想などに関する問題や知識上での
違いなどに興味を持ち引き起こされる好奇心のことです。

また好奇心を特別な関心事を持たない漠然と興味から生まれる
「拡散的好奇心」と、一つのことに集中して知りたいという気持ちが
動機となる「特殊的好奇心」に区分することもあります。

そして「好奇心」と同様に扱われる「探求心」という言葉がある。
「探求心」とは「物事の本質を探り明らかにしようとする
気持ち」のことです。

「好奇心」とは知りたいと思う対象を一つに絞ってもいいのですが、
定めなくても構わず、人間が生まれつき感覚で見たことや、
知らなかったことを知りたいという気持ちです。

一方「探求心」は対象を一つに絞り、それの真の姿を
追い求めようとする感情を表します。
昆虫が好きだ!特にクワガタが好きだと追求が起こります。

また「関心」とは「ある一つのことに興味を持ち、
それに特別に注意を払うことやその感情」という意味です。
恋愛感情も関心から生まれて来るものです。

「関心」は対象を一つに定めて興味を持つものの
その対象のことを知りたいという気持ちにまでは至っていない状態です。
一方「好奇心」はある対象に好奇心を抱いたのであれば、
その対象のことを知りたいという気持ちが含まれています。

無意識は人が持つもので意識は人間が持つもの。
行者が崖を目の前にして登ってみようとするのは人なのである。
ここに「意識」はなく「無意識」なのである。
「好奇心」だけなのである。
だから登ってやるぞとワクワク感が芽生える。

好奇心のアンテナを高く上げると毎日が出会いと発見に包まれます。
あげろ!あげろ!空まで高くあげろ!好奇心のアンテナを!


パニックのボタン




普段の生活の中でいつもと違う状況に遭遇すると感情が高ぶることがある。
些細な言葉のやり取りでも感情が反応して怒りが出てしまう。
仕事でも既に確認済みのことがまた持ち出されて苛立ちが出てしまう。
その日の気分で異常に神経が高ぶっていて時がある。
そんな人をHSPという。
HSPとは、生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」
という意味で、「Highly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)」
と呼び頭文字をとって「HSP(エイチ・エス・ピー」と呼ばれています。

私も下積み時代は何事にも極力耐えることが出来たのですが、
プロデューサーの地位を得て生まれつき持っていたHSPが表面化しました。
自分を解放したのです。繊細で感受性豊かな自分を許したのです。
これから音楽を作るうえで大切なことは人の真似をするのではなく、
正直な気持ちがそこに存在しなければ本物のプロデューサーには
なれないと思ったのです。

その時から他人の言葉に敏感になり、音にも敏感になり、
人間関係にも敏感になり、作品作りにもとても神経質になりました。
日本には未だプロデューサーという定義が無い時代でしたから、
お手本になろうと思って無理をしていたのかもしれません。
多くのレコード会社のスタッフが腰の低い営業マンになっていたのが
許せなくて無理やりに形を作っていたのだと思います。

私が「ヒットさせる」といったら強引にヒットにしていました。
かなり傲慢なプロデューサーだったと思います。
ヒット曲は多くの人たちの応援で作られると知っていながら、
レコード会社のスタッフ、事務所のスタッフ、応援してくれるファン、
沢山のメディア、全国のコンサートスタッフに
感謝の気持ちが少なかったと思います。

一人で重積を担ってヒットを出していたと、勘違いしていたことに
とても恥ずかしくなった覚えがあります。

私の好きな言葉に「上善如水(じょうぜんみずのごとし)」
という言葉があります。

『老子』の第八にあります。
上善は水の若し、水は善く万物を利して、しか而も争わず
衆人の悪む所に処る、故に道に幾し
 
「上善」とは最上の善、ここでは最上の善をそなえた人、即ち道に達した人。
「衆人の悪む所」とは多くの人が皆な嫌がる所、即ち水が落ち込む場所。
「道」とは老子の教えの中で云う、万物の本源的なもの、
即ち万物の真実です。禅で云えば究極の悟りです。 
道に達した人は水のようなものです。

水は巧みに、すべてのものに恵みを施し、しかもすべてのものと
争わず、多くの人々が嫌う場所に好んで就こうとします。

優れた禅者も何時(いつ)、何処(どこ)、何事においても、
その場その場の境に成りきって、跡を引きません。
怒る時は徹底怒る、悲しむ時は徹底悲しむ、仕事の時は徹底仕事、
遊ぶ時には徹底遊ぶ、その辺の消息を汲んで禅家はこの語を珍重します。

私もこの言葉を知って生き方を変えました。

参考に「HSPの生まれつきの特性」について記載します。

①深く情報を処理する
場や人の空気を深く読み取る能力に長けていますが、
情報を読み取りすぎるために必要以上に疲れてしまう原因にもなります。

②過剰な刺激を受けやすい
HSPの人は外部からの刺激に敏感なため、人混みや物音・光、食べ物の味や
におい、身につけるもの、気候の変化、人が発するエネルギー等、
五感で受ける刺激に対して過度に反応する傾向があります。

③共感しやすい
親や自分の周りの人の感情を読み取り、自分を合わせることが多いのも
特徴の一つです。また小説やドラマなどで、作品に強く感情移入することも
あります。

④心の境界線が薄い・もろい
心の境界線とは、自分のテリトリーもしくは自分が自分であるための
バリアのようなものです。HSPの人はこの心の境界線が薄くてもろいため、
容易に相手からの影響を受けてしまいます。

⑤疲れやすい
HSPの人は刺激に敏感であるがゆえ、疲れやすいという特徴を持っています。
いつも周りに気を遣っているため、楽しいことであっても疲れてしまう
傾向があります。

⑥自己否定が強い
HSPの人はその繊細さから、対人関係において余り相手を責めることをしません。
良心的で優しく、相手のことを優先する傾向があります。

それなりに誰しもがHSPの性格に当たります。
HSPの人は感情のコントローが出来ない子供のようだと言われることもあります。
私は他人に迷惑をかけない程度ならHSPでも問題ないと思います。
多くの芸術家や音楽家はHSPの人格を持っています。
大丈夫です。

パニックのボタンは良き言葉を思い出しながら深呼吸をすることです。
何があっても「ありがとう」と感謝の気持ちで接することです。

HSPの性格を恥じることも無く自慢する事でもないのです。
上手にコントロールして上手に使いこなすことです。
泣いたり笑ったりして感情に正直にいても良いのです。

しかし、
激しく怒りが出そうなときにパニックのボタンを押してください。
人間関係の基本が守られます。


九つの労とは




知労=知識を得ようとする苦労
心労=幸せにしてやれない心の苦労
体労=体に病を抱えている苦労
経労=お金に纏わる苦労
生労=生きる辛さがわかる苦労
病労=病気と戦う苦労
老労=孤独が怖くなる苦労
死労=周りの親しい人が亡くなる苦労
苦労=苦労を知り運命を知る苦労

人生というものは、山登りのようなものである。
高く登れば高く登るほど、視界が広がっていくのは楽しい。
しかし、その喜びを得るためには、額に汗して登る努力をしなければ
ならないのだ。苦労を惜しむ人の登った山は低い。そのような処では、
山の下の自動車の音や、犬の鳴き声まで聞こえて、平地にいるのと
少しも変わらないだろう。もちろん視界も狭くて憂鬱である。

苦労して登っても、涼しい風の吹く頂上に坐ってみれば、
到りつくまでの苦労などどこかへ吹っ飛んでしまうであろう。

大臣になった人も、学者になった人も、また著名な芸術家も、
一流の芸能人も、苦労せずにその場に登りついた人は一人もいないであろう。
成功の陰には並々ならぬ苦労と努力が隠れているはずである。
しかもどの人の場合も、頂上に着けば過去の苦労など
すっかり忘れているように見えるのは清々しい。

今日の禅語。

【十年歸不得 忘却來時道】
(じゅうねんかえることをえざれば らいじのみちをぼうきゃくす)

長年帰らなければ、帰る道さえも忘れてしまう。
辛いことや悲しいことも過ぎてしまえば覚えていない。
様々な意味合いで説かれているこの言葉。
「苦労を忘れる」とか、「過去を乗り越える」とか
「帰る場所を探す必要もない」など。
禅の言葉は、自由に自分なりに腑に落としていくことができるのも
嬉しいです

辛かったことも、過ぎてしまえばどうってことない。
過去をしっかり乗り越えてきた人たちは、おそらく辛かった経験を
してきたような雰囲気は見せないのだろう。乗り越えて、次につなげる。
乗り越えたから、他の人の役に立てる。
その循環で、世の中は成り立っているんだろうなと思う言葉です。

《鶴飛千尺雪龍起一潭氷》
(つるはとぶせんじゃくのゆき、りゅうはたついったんのこおり)

「苦労は買ってでもすることではないような気がする」と
伝えていますが、苦労を知らない人生が素晴らしいかどうかは、
また別問題。苦労を苦労と思わない人もいるだろうし、
その辺を分析していくのはキリがない。ただ、
「苦労をしている(してきた)のが偉い」のではなくて、
「頑張って乗り越えたから今がある」と思える人生は
素晴らしいものだと思います。

十人十色の課題があり、乗り越え方も人それぞれ。
試行錯誤しながら、自分の成長を自分で喜ぶ。
誰も勝手にパラダイスに連れて行ってはくれません。
自分の眼で見て肌で感じ、自分の足で進んでいくしかないのです。

どんな経験が良いのか悪いのかも問題ではありません。
自分の人生は自分にしかできない。
自分の人生をいかに悔いなく生きるのかは、自分次第なのですね。

親に反対されたから。
配偶者が嫌がるから。
子どもが小さいから。

と、よくある責任放棄も、「だからしない」にせずに、
「だからどうしよ?」に変換すると良いですよ。
「だからしない」という選択も、私は良いのではないかと思います。
「しなくてはいけない」ことなんて何もないですし、
ただ、本当にやりたいことに出会った時は、
「自分の人生」なのですから遠慮なく実行して下さい。

「奉仕をやりたいけど、子どもがまだ小さいから」というのであれば、
「奉仕をやりたいけど、子どもがまだ小さいからどうしようかな?」
という感じにしたらどうでしょうか。

そうすると、「やらない」のではなく、「できる方法を考える」
ように脳が動いていきます。

「今はこれくらいならできるかも」という考え方が身についてくると、
あまり他人の意見とかも気にならなくなります。
他人の意見が気にならなくなるということは、
自分の人生を誰かの責任にしなくても良くなるという事。
かなり生きるのが楽しくなりますよ。

しかし「労多くして益少なし」にならにように注意してください。

最後に「柳に雪折れ無し」です。
柳は風に対しても、雪に対しても常に柔軟だから折れることはないのだ。
大雪でもどんな強風でも耐え忍んでいる。
柔軟な心と強い意志を持って柳のような人生を生きていきましょう。

苦労した分、挫折に折れにくい人生になりますよ。


愛の思いやり




地域のために子供のために老人のためにと活動を続けていますが、
気をつけなければならないことがあります。

以前、電車の中で両手に杖をつく身障者の方が電車に乗ってこられました。
出発の揺れで倒れそうになったので慌てて支えたら「私の体を触らないで」
と大声を上げられました。私は一瞬にして乗客の視線を浴びたのですが、
周りの視線より自分が何か悪いことをしたのか分からずに驚きました。

女性は興奮していたので「何か間違ったことをしましたか」と聞くことが
出来ず、友人の介護の専門家に尋ねたところ、身障者の方には絶対すぐに
手を出さない方が良いですよ、その方がどのような機能が奪われているか
分からずにサポートすると、大きな精神的トラブルを招くことがありますから
気をつけてくださいと言われました。

また同じように白いステッキを持たれている視力障害者の方にも
先ずは声をかけて「何かお手伝いすることがありますか」と
確認してからフォローしてあげた方が良いですよ。
間違ってもいきなり腕など掴むとパニックを起こす人もいますので
必ず声をかけてくださいとアドバイスを頂きました。

その昔、学生時代に下宿の前で痴漢にあった女性の悲鳴を聞いて、
すぐ痴漢を追いかけて捕まえたのですが、警察の方から犯人を
不用意に追いかけたら、あなたに被害が及びますよと言われました。

又、駅のホームで喧嘩している若者の仲裁に入ったところ、
通報で駆けつけた警察官に交番まで連れて行かれました。
何故、交番まで連れて行かれたのか分からなかったのですが、
もし残っていたら別の仲間から被害を受ける恐れがあるので
連れて来たと聞いて驚きました。

別の日に、電車の中で、大声で携帯電話を使う若者に注意したら、
次の駅で降りろと喚き散らされました。
彼は電話で「バカ親父に腕を掴まれたから何々駅まで来て」
と友達と話しながら威嚇するような態度を取り続けました。

私は昔からこういう非常識な人たちが許せないのです。
社会的マナーに欠けた人を見たらすぐに注意をしてしまうのです。
しかし正しいと思う行為も後先を考えずにやってはならないと学びました。

家内から、これは自分勝手に正義の行為だと勘違いしているのよと
言われて戸惑ったことを覚えています。自分のことや、家族のことや、
仕事仲間のことを考えたら、万が一怪我をさせられて死に至ったら
どうするのだと叱られました。その通りですね。

小さい頃から悪いことはしては行けない、困っている人がいたら助けなさい、
弱い女性を守りなさいと言われ続けたので、正しい行為をしなければ
「真の男」になれないと頭に刷り込まれているからです。

「義を見てせざるは勇無きなり」論語
自分の役割をしっかり果たしていくには、自分の立場もあるし、
自分の今の状況もあります。しかし、自分がどんな状況にあっても
「義」は果たさなければいけない。

それを「義を見てせざるは勇無きなり」と『論語』ではいいます。
「勇気がない」と言われているわけです。やはり「義」を果たす、
自分の役割を果たすということが非常に重要なのだということです。

先日見たMSの投稿記事にこのような内容がありました。

「女子高生による暴挙」そしてなんと、足を蹴られた。」
妊婦初期の友人がバスの優先席に座っていたところ、
面識のない女子高生から席を立つように促されたという
投稿が大きな議論となっている。
女子高生は友人の足を蹴り、近くにいた老人に着席を促した後、
友人がつけていた妊婦マークに気づく。「やべぇ、妊婦じゃん」。
友人が空けた席にお年寄りを座らせたという。
だから悪い子じゃないと思うけど、怖かったと言っていた。

正義感が根っこにある攻撃ほど怖いものはないと、その時知った。
私が今まで行って来た正義感は周りの人たちに大きな迷惑と
恐怖心を与えてしまっていたのだと思うと申し訳ない気持ちで
いっぱいになります。勘違いの「愛の思いやり」でした。

まだまだ未熟です。

心を探す時に読む本
「禅とは何か」鈴木大拙、「善の研究」西田幾多郎、「現代の哲学」木田元、
「忠誠と反逆」丸山眞男、「モオツァルト・無常という事」小林秀雄、
「存在と時間」ハイデガー、「哲学の学校」カールヤスパース 
「論理哲学論考」ヴィトゲンシュタイン、「人間の自由の哲学」スピノザ

人を救う時に読む本
「レジリエンスを育てる」心理療法師ミルトンエリクソン
「愛という勇気」スティーブンギリガン

これらの本はあくまでも参考として取り上げました。
今まで「恩学」を書くにあたって何百冊(何千冊?)も読み続けました。
いわゆる心のサプリメントとして服用したのです。

みなさまも時間のある時にネットや図書館などでお読みください。
その中で自分が納得した本だけを購入してください。
(ブックオフや古本屋で安く購入もできますよ)

人生とは愛とは真実とはが分かります。

正義を行うか見ないふりをするか?
もしそれを子供たちが見ていたらどうするのか?
余りにも他人に無関心な大人が多すぎると思います。

今でも困っている人がいれば、
私は立ち上がって注意をしに行ってしまうでしょう。
しかし勘違いの「愛の思いやり」にならないように
気を付けたいと思います。