平常心
平常心(びょうじょうしん)
一般的には(へいじょうしん)と読まれる。
政治家たちがよく政治姿勢を問われて「平常心です」と返答する。
この場合の平常心は普段のとおり、格別の構えた思いも無ければ、
気負いもなく、淡々とした心境で政治に取り組みます
という意味で用いられることが多い。
力士も横綱の昇進伝達式での口上で「平常心」の言葉をよく使うが、
意味としては横綱の品格を守り、常に揺れ動くことのない心で
取り組みに専念しますということである。
一般的に平常心と言えば何事にも心が動じない、
揺れ動かないことのように思われている。
しかし、波乱万丈の人生では、一喜一憂、
悩んだり苦しんだり、泣いたり、笑ったりしながら
心は揺れ動くのが常である。
この揺れ動く心そのものがそのときの真実の心であり、
さまざまな状況、状態に応じて、変化し現れるのが、
人の心であり人間としての自然の姿である。
緊張すべきときに無理に平常心を作ろうとか、
落ち着こうとあせる心に、不自然な心が働き、かえって変調をきたす。
このままじゃいけない、何とか落ち着こう、堂々としていようと
すればするほど緊張は高まり、不安になることも少なくない。
むしろ緊張している我が心こそ、今の自分の真実の姿であり、
ありのままの心なのだ、ということを素直に認め受け入れることである。
ありのままの心、ありのままの姿を素直に認め受け入れるとき、
そこには自らが否定し排除しようとした虚栄心はなくなり、
平静の平常心があるのみとなる。
道元禅師の言われる
「ただわが身も放ち忘れて仏のいへになげいれて、
仏の方より行われ、是に従い行くとき ちからも入れずこころも
ついやさずして生死を離れてほとけとなる」とある。
要は仏のいえ、大自然の運行、自然法爾のままに、
一切を御仏にお任せするその心そのままが平常心なのである。
無理に力を入れずに御仏を信じていれば、
常に落ち着いた心でいられるという事です。
過去に新人の審査員を頼まれることが多くありました。
応募者は人生の行き先を決めるオーディションで
緊張のあまり落ち着かないのは当たり前です。
たった一曲で命運が決まる。練習量に関わらずたった4~5分で終わる。
平常心が奪われて普段通りの演奏ができないのは仕方のないことですが、
頑張ってきた人たちは、その姿に現れるので私は採点で困ったことは無い。
アスリートも大観衆の前でスタート時には緊張する。
大切なことは平常心がなくなっても、
練習量が結果を作り出してくれるので心配はない。
そしてスタープレイヤーは緊張時にも「見せ方」を知っているのです。
無理に心配や緊張を遠ざけようとしてイメージトレーニング
をすると逆効果である。
普通通りに緊張を楽しめるようになると「平常心」になる。
今でこそ、私はどのような会合でも講演会でも挨拶の時に
動じなくなったのですが、昔、一度だけ大失敗をしたことがある。
普段、準備をせずに簡単な流れだけを書いたメモを見てお話をするのですが、
ある大事な会合の最初の挨拶を頼まれて台本を書いてしまったのです。
有名な成功者の名言を引用して会合を盛り上げようとしたのです。
それを覚えて会場に向かい沢山の来賓の方々と名刺交換をしている間に、
すっかり台本を忘れてしまったのです。
今、思うだけでも穴が合ったら入りたい心境になります。
禅語にこのような言葉があります。
「行亦禅坐亦禅 語黙動静体安然」
(ゆくもまたぜんすわるもまたぜん ごもくどうじょうに たいはあんねんたり)
坐禅をしたり写経をしている時だけが禅ではない。
人と話しているときも、黙っているときも、動いているときも、
休んでいるときも、日常のすべてが禅であると自覚すれば、
心身ともに落ち着いた境地に至る。
気負いのない心が平常心を創り出すのです。
「平常心」は経験豊かで肝の据わった人たちの特権のように言われますが、
誰もが緊張と失敗の経験を積み重ねて身に着くものです。
平常心は鍛えることが出来るのです。
率先して人前で話すことを心がければ、
舞い上がることは無くいつも平常心でいられるのです。
私を認めて欲しいという欲が出れば出るほど「平常心」は奪われるのです。
みなさまも常に平常心でいられますように願うばかりです。
あるがままの心が一番ですね。見栄を張る必要はありません。
平常心の中落ち着いて今日も一日を過ごしましょう。