『悪いところは誰でも見つけられるけれど、いいところを見つけるのは、
そのための目を磨いておかないとできない。』黒澤明
「悪い音は誰でも聞き分けられるけど、いい音を聞き分けるのは、
そのための耳を磨いておかなければできない」稲葉瀧文
「人の欠点は誰でも感じられるけど、長所を感じるには、
そのための心を磨いておかなければならない」恩学
「真・善・美」という言葉があります。
「真・善・美」(しんぜんび)の意味は、“人間が生きる上での理想の状態を
3つの言葉で具現化した表現”です。人間としての最高の状態が「真と善と美」の
樹立であるとするものです。
「真」とは、うそ・偽りでないこと、真実、誠意を意味します。
「善」とはよいこと、道徳的に正しいことの意味を持ちます。
「美」とは、美しいという意味とともによいこと、価値のあること、
また調和の状態を表す意味があります。
「真・善・美」は学問の目的としての普遍的な価値を意味する言葉でもあります。
「認識上の真・倫理上の善・審美上の美」と整理され、
それぞれ「論理学・倫理学・美学」における主題とされます。
さらに「真善美」は、相互に関連しあう統一的な価値として、学問全体の究極的な
目的として追究される概念でもあります。
「お 魚」
海の魚はかはいさう。
お米は人につくられる、
牛は牧場で飼はれてる、
鯉もお池で魅を貰ふ。
けれどもうみのお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
かうして私に食べられる。
ほんとに魚はかはいさう。
(『金子みすヾ詩集』 より)
この詩は、近年注目をあびている金子みすずの代表作の一つである。
食卓にのぼったお魚の生命を思いやる心は、私たちにズシンと響いてくる。
何事にも常に相手の身になって考え、奥深いところ(心眼)から
あたたかいまなぎしで見つめる時、思わずわきおこってくる世界である。
あまりに豊かな暮らしからは感謝の念が生まれにくい。
我がままでエゴ的な世情にあって、とかく私達が忘れているもの、
それは、あたたかい思いやり、慈しみの心である。
人間だけに生命があるのではない。
石ころにも草花一本にも森羅万象全てに、生命の通じ合いを感じていきたい。
今、私達にとって何が大切なのか、心眼でしっかりみつめ、
思いやりの心をもって、あまねく一切に只々尽くしていきたい。
悠久に続く生命の為に。
『心眼を得る』 ダグラス・E・ハーディング
バーナデット・ロバーツの『自己喪失の体験』という本をご紹介しました。
それは、文化伝統のなかに“悟り”という現象に対するいわば免疫がなかった
(当時)キリスト教圏内で起こった、覚醒体験の報告とも言える本でした。
あまり類書のない本として紹介したのでしたが、今回ご紹介しようと思うのも
じつはキリスト教圏内で起こった覚醒体験であり、その後の著者の奮闘の記録です。
このダグラス・E・ハーディングという方は、33歳のときヒマラヤを歩いていて、
いわゆる禅語でいう“見性(けんしょう)”をします。
自分が何者かを“見る”(知る)わけです。真我を垣間見るんですね。
ま、悟ったわけですが、ただ、西洋の方なので、自分が“見た”ものを
確証してくれるような人がまわりにいないんですね。
ダグラス・E・ハーディングと言えば、今ではウェスタンのスピリチュアル
世界ではとても著名な方らしいですが、当人がこの体験をしたときは、
まだ大学生で、むろん、まったく無名の存在です。
当たり前ですね。(^^;) 言いたかったのは、当人が自分の体験を
相談できるような相手が彼のまわりにはまったくいなかったということです。
そのため、彼は自分が足を踏み入れた世界と、そのなかでの自己探求の道を、
まったく自分ひとりで、独自の探求で切り開いていかなければならなかったわけです。
後に、彼はそれを「無頭道」と名づけたそうです。
いまでは、彼に“斬首”されて頭を失った方が、世界中に万人のオーダーでいる
みたいです。 もっとも、頭を切り落とされた方が、そのことに気づいているか
どうかはまた別ですが。
ハーディング氏が西洋文明のなかで独自に切り開いた「無頭道」の観点では、
誕生後の人間は「八つの階梯」のどこかに位置することになります。
すなわち、 (1)頭のない幼児 (2)子供 (3)頭のある大人 (4)頭のない
見る人 (5)頭をなくす修行 (6)前進 (7)関門 (8)突破 の八つです。
この「八つの階梯」の叙述もじつに秀逸で、ハーディング氏がひとりで歩んだ探求の
道がどのようなものだったのかが推測される感じです。
見性は仏教僧だけが得られる悟りの極意かと兼ねてから思っていたのですが、
キリスト教やイスラム教の信者には経験として得られないものかと思っていたのです。
やはりそのような経験をした人がいたのですね。
「心眼は自分が何者かを見る目として紹介されています」
庭の掃除をしていた時に箒で飛ばされた石ころが木に当たった音を聞き、
悟りを得た人や、桜の花咲く瞬間に目の前がひらけて悟りを得た人もいます。
人は情報過多により真実を見る目を失っています。
ある意味無頓着になっているのです。見ているようで見ていないし、
考えているようで何も考えていないのです。
それではいつまで経っても「心眼」を得ることはありません。
「正法眼」とは、正しい法の眼、すなわち真理が見える心眼のこと。
「蔵」とは、それを納めておく蔵のこと。「涅槃」とは、不生不滅なる
安楽円寂の世界。「妙心」とはその心。「実相無相」の実相とは、ありのままの
姿のことであり、その実体は無相であるということ。
「微妙の法門」の「微妙」とは言葉で説明尽くせない境涯のこと。
「不立文字、教外別伝」とは、文字通り文字にも言葉にも表現できない境地のこと。
つまり「微妙の法門」は正に不立文字、教外別伝だからこそ、”心を以って
心に伝える”以外にはなかったのです。
見つめる目とは、心を開き素直に飛び込んできた景色を、言葉を受け取る力です。
我々はついものごとを見る時に情報に左右されてしまいます。
そこにあるままの素直な姿(形)を頭で見るのではなく、
心で見るように心がけてください。
『悪いところは誰でも見つけられるけれど、いいところを見つけるのは、
そのための目を磨いておかないとできない。』黒澤明
12月 23rd,2023
恩学 |
見つめる目(心眼) はコメントを受け付けていません
あなたは善意を素直に受け止めることが出来ますか?
そして善意と親切の違いも分かりますか?
善意は見返りを求めない善い行いを指しどちらかというと気持ちで表現できる。
道に大きな石があれば端によけて、自転車が倒れていれば元通りに置き直し、
ゴミ置き場のゴミが散らかっていればゴミ袋にまとめておくような、誰の指示でもなく
誰が見ているわけでもなく行う行為を善意というのです。
親切は「お先にどうぞ」「荷物持ちましょうか」「そこまで送ります」のような
行動を伴う行為である。そっとさりげなく声をかけるのがマナーです。
注意しなければならないのは親切の言葉は下心があると警戒されることもあるのです。
どちらにしても相手がやってくれた行為に「ありがとう」と素直に返せますか?
海外の人から日本人は親切で正直な国民だと言われます。
それは経済が安定していて個人の所得も多かった時代の話です。
今の日本の経済状況は最悪の状態です。
作り笑いとマニュアル化された「おもてなし」は親切の代名詞ではありません。
日本は30年間所得が増えず物価は上がり経済は疲弊仕切っています。
ウクライナやイスラエルの戦争で海外からの輸入品が届かず、食料もエネルギーも
不足がちになり、価格が高騰しています。このままだとどうなってしまうのか
不安な材料で溢れています。
私は昨年何度かカンボジアへ訪問しました。
経済成長著しい現状を自分の目で確かめるためにです。
アジアの中でも1・2位を争う貧困国だと聞かされていたカンボジアの現状は、
経済発展途上の真っ只中で街には活気が溢れていました。
高級車は普通に走り、オシャレなレストランはそこかしこにあり、若者達の服装も
高級品を身に纏っているのが分かります。
カンボジアは平均年齢が26歳〜28歳の若い国です。
若者達が経済の原動力となり国を動かしているのです。
国の通貨ニューリエルもあるのですが一般的にはカード払いか米国ドルを使います。
海外からの観光客は価格表示がドルで書かれているのでとても便利です。
多くの世界企業が中国離れをして労働賃金の安いカンボジアへ流れてきました。
今まで農地だったところが高値で取引されたのです。
不動産で手にした大金を商売に注ぎ込み街にはお金が溢れています。
勿論、田舎にはその日暮らしの人たちも大勢いるのも現状です。
人は勢いがあると歩くスピードが速くなり目の輝きも違って来ます。
輝く希望の中にいると笑い声も話す言葉も元気いっぱいになります。
日本のように経済停滞期を迎えると人の歩くスピードは遅くなり、
目にも輝きがなくなり、その上に笑い声も遠慮がちになり笑みを返すだけになります。
「禅の美しさ」とは、人への思いやり、曇りのない目でものを見たときに得られる
清らかさなど、心の内面から輝く美しさです。移りゆく季節の尊さ、新しい毎日を
感じること。人と人との出会いのなかで互いに敬い合うことを学ぶこと。当たり前の
日々の暮らしそのものが禅の修行であること。忙しい日々に流されるのでなく、
ちょっとだけ「私」を休む時間を作る必要があります。
それだけでも、何かが変わってくるかもしれません。仏教には心の不安や悩み、
落ち着ける方法など、さまざまな生き方の教えがたくさんあります
現代を生きる私たちの指針になるヒントが数多く示されているのです。
その教えを、わかりやすく、優しく紹介し、これからも解き明かします。
私なりの解釈ですが、ぜひ皆様の毎日にお役立てください。
大切なのは「人の善意や好意を受け入れる」ことです。
御馳走するから自宅へおいでよと誘われて「借りを作りたくない」
という気持ちから断ったら友達関係の縁が切れる恐れがあります。
この場合は「貸し借り」ではなく、
快く「お願いします」と返事をした方が良いのです。
昔から善意や行為を素直に受け入れる人は婚期が早く訪れると言います。
「借りを作りたくない」、私たちは、「他人に甘えてはいけない」
「自分の力で解決しなさい」と言われて育てられてきましたが、もしかしたら、
その過程で、「とても大事なものを忘れてきた」のかもしれません。
その大事なものとは、「人の善意や好意を受け入れる」ということです。
相手の人が「2人分の食事代を払いたい」「払うことで、幸せな気分になれる」のなら、
それを「貸し」「借り」とは言わないで、受け入れてあげる(感謝する)ことこそ、
優しさであり、美しさではないでしょうか。
どうしても「借り」を感じてしまう人は、「ありがとう(感謝)」を言っていない
のではないでしょうか。 善意や好意を「貸し」「借り」に置き換えてしまう人には、
同じように、「貸し」や「借り」で物事を考える人しか近づいてこないように思います。
実は「ありがとう」の語源は、仏教に由来するといわれます。
お釈迦様が説かれた「盲亀浮木(もうきふぼく)の譬え」に「ありがとう」の
語源があるのです。
それは、お釈迦様が、阿難というお弟子になされた、こんなたとえ話です。
「盲亀浮木」の譬えです。
「果てしなくひろがる大海原を思い浮かべるがよい。その底深くに、目の見えない
一匹の亀(盲亀)がいる。その亀は100年に一度、海面に顔を出す。
一方、海面には一本の丸太棒が浮いている(浮木)。
その丸太の真ん中に拳くらいの大きさの穴が空いている。
丸太は波のまにまに風のまにまに波間をただよっているのだ。
阿難よ、この眼の見えない亀が、浮かび上がったとき浮木の穴に、
ひょいと頭を入れることがあるだろうか」
「さようなことはとても考えられません」
お釈迦様はなおも尋ねられます。
「絶対にないと言いきれるか」絶対にないか、といわれれば、一応、
亀の頭が入る穴は開いているのですから「絶対ない」とは言いきれません。
「確かにないとはいいきれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」
「ところが阿難よ、人間に生を受けることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れる
ことが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
「有り難い」とは「有ることが難しい」ということで、めったにないことをいいます。
人間に生まれることは、それほど喜ばねばならないことだと、
お釈迦様は教えさとされているのです。これが「ありがとう」の語源です。
では「ありがとう」の反対語は何でしょう? 次に「ありがとう」の反対語について
お話ししましょう。「ありがとう」の反対語は何か。答えの1つが「あたりまえ」です。
「有り難い」の逆だから「あたりまえ」。これでは幸せも逃げていってしまいます。
何より、人間に生まれたことは、あたりまえどころの話ではありません。
しかし、そこまで考えが及ばず、人間に生まれたことを、あたりまえに思い、
恨み呪いがちです。
人間に生まれたことを有り難く感じ、親に心から「生んで育ててくれて、ありがとう」
といえる身になりたいものです。
次に、心から「ありがとう」と言えない理由について考えてみましょう。
誰もが祝福されてこの世に生を受けました。人間に生まれたことを、
みんなが「おめでとう」と歓迎したのです。
ところが歓迎された当の”主人公”は、成長するにつれて、人生の荒波にもまれ、
「何で生まれてきたのだろう」と生まれたことを後悔し、「なぜ俺を生んだ!」と、
親を恨む人さえあります。人生を「ハズレくじ」のように思っているのでしょう。
本当は、誰もが、人間に生まれたことを心の底から喜びたいはず。
なぜ生まれ難い人間に生まれたことを喜べないのか。
それは「人生の目的」を知らないからだと仏教で教えられます。
何のために生まれてきたのか。何のために生きているのか。
なぜ苦しくても生きねばならないのか。
この人生の根本問題に真正面から答えたのが仏教なのです。
人身とは人間のこと、今生とは、生きている時、現在のことです。
「人身受け難し、今すでに受く」とは、「生まれ難い人間に生まれることが
できてよかった」「よくぞ人間に生まれたものぞ」という生命の大歓喜です。
人間に生まれることが、いかに有り難く、喜ばねばならぬことか。
そう、お釈迦様は教えられているのです。
「人間に生まれたのはこれ一つのためであった」と人生の目的が果たせた時にこそ、
「人身受け難し、今すでに受く」「人間に生まれてよかった!」
という幸せに満ちた心があふれでます。
これからも善意を素直に受け入れて美しい人生をお送りください。
12月 23rd,2023
恩学 |
善意と美しさ はコメントを受け付けていません
挑戦とは失敗を想定して戦いに臨むことです。
勝つことばかりを想定して戦いに臨めば少しの敗北にもアタフタしてしまいます。
そして負けることの経験から大きく成長することも確かです。
悔しさは緻密になり、慎重になり、周りをよく見る目を養ってくれます。
先日最終回を迎えたNHK大河ドラマ「どうする家康」
あの家康公も戦で大敗を喫したことがあります。
武田信玄に敗れた「三方ケ原の戦い」。
ほうほうの体で自分の居城に逃げ返った直後、自分の苦々しい姿の似顔絵を描かせて、
これ以後その絵を自分の戒めにしていた。
これが260年余続いた江戸幕府の基礎になりました。
「負け」は己を成長させる糧になるのです。
中国の諺「臥薪嘗胆」の気持ちで悔しさを忘れずに名将となったのです。
「臥薪嘗胆」は故事成語です。 「十八史略(じゅうはっしりゃく)」の
「春秋戦略」に見える次の故事に由来しています。 そのあらすじを説明すると、
「春秋時代、呉王の闔呂(こうりょ)は越王の勾践(こうせん)に敗れて戦死。
闔呂の息子である夫差(ふさ)は、父の仇を討つために固い薪の上に寝て、その痛みで
復讐の志を忘れないようにし、三年後に会稽山で勾践を降伏させた」 となっています。
「臥薪」は「薪(たきぎ)の上に臥(ふ)し寝ること」、「嘗胆」は「苦い胆(きも)を
嘗(な)めること」で、どちらも自身を苦しめることで復讐の志を奮い立たせることを
表しています。
それが転じて、「目的を達成するために苦心し努力を重ねる」といった意味で
用いられるようになりました。
2023年WBC準決勝メキシコ戦で痛恨の3ランを打たれた佐々木朗希
ロッカールームへ戻りグラブを床にたたきつけて一人静かに泣き出した。
普段感情を表に出さない佐々木選手はメンバーの足を引っ張ったと悔し涙を流したの
です。この悔しさが将来の大成へと導くのでしょう。
「 三災五濁(さんさいごじょく)」
最澄(さいちょう)(767~822 / 平安時代の僧侶 天台宗の祖 伝教大師)
最澄が世の無常を嘆き、比叡山入りを決意して衆生 (しゅじょう)のため修行に
尽くすと誓願した書「願文(がんもん)」の一節に『 牟尼(むに)の日久しく隠れて、
慈尊の月未だ照さず。
三災の危きに近づき、五濁(ごじょく)の深きに没(しず)む』とある。
現代語訳は「お釈迦様が亡くなられてから、次の仏様も未だ現れず、災いによって
この世の終わりが近づきつつあり、人々は道を誤り汚れに満ちた世の中に沈んで
しまった。」「三災」は自然災害を指し、「五濁」は戦争、悪疫、飢饉、人間の資質の
低下や偏見・悪徳の横行などを指す仏教用語である。
「一燈照隅・万燈照国」(いっとうしょうぐう ばんとうしょうこく)最澄
<意味> 一人ひとりが 自分の身近の一隅を照らす。それだけでは
小さいあかりかもしれないが、その一隅を照らす人が増えていき、
万人のあかりとなれば、国全体を照らすことが出来る。
私の大好きな言葉であり目指す位置でもあります。
「利他心、布施、救済、慈愛、ボランティア」
素晴らしい言葉はいくつもありますが、言葉に壁を作り経済的余裕ができてから、
時間的に都合がつけばとかさまざまな理由をつけて、一切行動に起こさない方が
多いかと思います。
しかし日々の暮らしの中でも意識して行動に移すことが大切です。
道端のゴミ拾いをしている団体もあります。子供達が危険な目に遭わないか
見回りをしている自警団の方々もいます。
もっと言えば電車の中で騒いでいる子に注意することも救済になります。
あなたの善意の行為が灯になるのです。
王陽明の「知行合一」という言葉があります。
知識と行動は共に合わさなければ意味がないという言葉です。
どんなに立派な学問を収めても文字だけの知識なら役に立たないということです。
幼き子供が池のそばで遊んでいるとすると「危ないよ」と声掛けと同時に手を
引いてやることです。
悩みを抱えている人にどんな立派な人生訓を教えてもあまり意味がありません。
本来ならばその場で悩みを共有して解決への道へと具体的に指導をすることです。
「知行合一」の語源・由来は陽明学の思想からきています。
もともとは中国明の時代に儒学者である王陽明(おうようめい)が唱えた思想です。
影響を与えたのは、朱子学の大成者である朱熹(しゅき)が唱えていた
「先知後行説」という学説です。
「先知後行説」とは、「広く知を極めていなければ、実践できない」とする説のことです。
当時、「先知後行説」が広まり、実践の前に知識を蓄えるべきという考え方が一般的に
なっていました。この「先知後行説」に対するアンチテーゼとしてできたのが、
「知行合一説」です。
「知識ばかりを蓄えたあとで行の工夫をするようでは、真の知行には至りません。
知行合一説とは、正にこのような病への薬です」といった内容を王陽明が述べ、
「知行合一説」ができたと伝えられています。
負ける悔しさをバネにして、知識を蓄えて、世の中に役立つように生きて行きましょう。
12月 21st,2023
恩学 |
負ける悔しさ はコメントを受け付けていません
あるカメラマンの写真展へ行った。
薄暗くした会場の中での展示だがその意図は作品を見た時に直ぐに分かった。
写真で一番大切な陰影と構図の撮り方が見事であった。
どの写真も被写体の人物の呼吸と一瞬の思いまでを写し出している。
人物の肉体の内臓の部分までを抉り出してファインダーでのぞき込んでいる。
まるで鑑賞者に挑戦状をたたきつけているかのようである。
作品の一つ、海岸沿いの女性の向こうに一羽のカモメが飛行している。
まるでショートムービーの映画を見ているような錯覚に陥った。
このカットの瞬間を撮るのに何時間も待ち続けたのに違いないと想像に難くない。
カメラマンはただ風景を撮っているのではなく心象風景を撮っていたのである。
世界中をロケハンして自分だけのスペシャルな場所を記録しておく。
一年を通じて撮影時のベストタイミングとシーズンも頭に入れておく。
被写体になるモデルも各国のエージェントを通じてリストアップを依頼する。
現像に対しても色味や紙質や粒子の粗さまで決めてお気に入りの現像所へ持ち込む。
それは国内だけではなく海外でも同じ条件で仕上がるか確認をする。
一枚の写真を撮るにしても様々な経験と膨大な情報量が使われるのです。
そしてカメラマンのこだわりがプロとして認められて初めて収入に反映するのです。
こだわりは妥協からは決して生まれません。
その人の名前は「JUNPEI TAINAKA」ドイツを拠点に活躍しているカメラマンです。
彼は写真に思想を入れ込んでいるのです。
一枚の写真から一冊の哲学書を著作しているのです。
世界で最初に写真に思想を入れたマンレイというカメラマンを彷彿とさせてくれます。
20世紀のフォト・アートを代表する芸術家で、特にダダイズムやシュルレアリスムを
写真の世界に持ち込んだことで知られている。
インスタ映えするからと花でもケーキでも動物でも撮るのとは訳が違うのです。
SNSで撮影のテクニックとして露出や構図や加工まで説明しています。
誰でもが簡単に手に入れられるテクニックは個人の楽しみとしては良いのですが、
写真本来の価値はありません。
「アマチュアは記録を撮影して、プロは記憶を撮影するのです」
昔、黒澤明監督が仲代達也のワンシーンを撮ったときの秘話です。
(お二人は世界中が憧れる大監督と演技力抜群の名優です)
「君が先頭になって歩け」
撮影開始の9時過ぎから歩き始めた。ただ歩くだけのシーンだが、NGが飛ぶ。
「駄目!カット!」
テイクを重ねるも一向にオッケーが出ない。何度も何度も歩くがNG。
「何やってんだあいつは!」
騒然300人のスタッフは仲代のテイクのオッケーをひたすら待っている。
三船敏郎も志村喬もひたすら待つ。
黒澤がたまりかねて仲代に放つ。
「おまえはどこなんだ!」
「俳優養成所です」
「俳優養成所では歩き方も教えんのか!」
そして、OKがでないまま午前が終わる。
早速、仲代達也は映画が封切られたときに映画館に飛び込んで自分のシーンを確認した。
使われていたのは、たったの4秒。バストアップのみ。朝の9時から午後3時まで
掛かって撮ったシーンはわすが4秒。
一流の仕事人の拘りは、歩く姿ではなく、その場面に必要な空気の拘りです。
脚本にある役柄の人物の空気感が必要なのです。
また黒澤明監督はサインを頼まれると「随処作主 立処皆真(ずいしょさしゅ
りっしょかいしん)」と書きます。「どんな場所(仕事)でも主体性を持ってあたれば、
その人のいるところに真実がある」という意味です。出典は禅の本か何かじゃなかったかな。
たとえ押しつけられた仕事でも、嫌だと思うんじゃなくて
「さあ、どうやろうか」と自分の考えを持って臨めば、きっと成果が得られるというふうに解釈しています。
まあ、僕の仕事はそういうパターンが多かったからね(微笑)。
「恩学」がいう、常に自分の立ち位置を明確にして、やることが決まれば、
どんな場所でも、どんなスタッフでも、逆境を喜びとして受け止めることが出来る。
「逆境」こそ自分を育てる学校であり、自分を表現する最高のチャンスなのです。
神様から与えられた「試練」を乗り越える楽しみでもあるのです。
私が音楽業界から身を引いたのは録音がデジタルになったからです。
音の職人を自負していた私のこだわりが活かすことが出来なくなってからです。
スタジオにオーケストラを入れてバンドとボーカルを配置して緊張の中で作る醍醐味が
一切無くなったからです。生ギターだけを録音しにLAにも行きました。
制作費用を出している会社の人間から「そんなこだわりはI-Podやスマートホンでは
聞こえませんから」と言われた時には激怒と共に時代が大きく変わったことを
身に沁みて感じました。
カメラマンの新人がデジタルでしか写真を撮ったことが無いという姿に、
新人の歌手がカラオケで練習して高得点を得たからと喜んでいる姿に、
また料理のレシピを見て作ったら褒められたから料理人になり店を出しますという姿に、
どう接してして良いのか分かりません。
多分本物を知らずにインスタント食品で育ったのかと危惧してしまいます。残念です。
この人たちは表現には距離が必要だということを知らないのだと思います。
手間暇かけて日々研鑽して技を磨くとか、ボイスレッスンをして基礎を固めてから
譜面を読んで歌うとか、床掃除と皿洗いで3年間親方の味付けを盗むとか、
一流と言われて来た人たちの下積み時代を見ずに生きてきたのです。
一流の人は「功から始まり、拙に終わる」と言います。
長年習得した巧(たくみ)の技を難しいように見せるのではなく、
簡単なように見せるのがプロの技なのです。
みなさん勘違いをして「拙に終わる」部分だけ真似をする。
デジタル社会の情報で「早くて・便利で・使える」ばかりを追求するからです。
本来の「耐えるところから文化が生まれる」ことを知らないのです。
新年あけてからこの「耐えるところから文化が生まれる」ことを発表します。
愉しみにお待ちください。
今一度「表現には距離がある」ことを知っておいてください。
12月 21st,2023
恩学 |
表現の距離 はコメントを受け付けていません
あなたは本当の絶望を知っていますか?
何もかもが失われて生きる望みを断たれるほどの苦しみを。
息もできない、声も出せない、逃げ場もなくなるような苦しみ。
目の前の景色ですら色をなくして灰色のモノトーンになってしまう苦しみ。
耳に聞こえる音は自分の呼吸と心臓の音ぐらいになる苦しみ。
現代ならSNSの世界にいっとき逃げ込むことは出来るので最悪の苦しみからは逃れる。
僅か20年前の時代では手紙か電話しか無くて逃げ場を探すのには時間が掛った。
絶望のどん底では正常な意識が保てなくて、考えることすら億劫で無理な状態になる。
見ることもできない、聞くこともできない、臭いも無くて、味もしない世界で
立ち往生してしまう。
いわゆる人間の持つ五感が働かなくて骨もなくなる世界に取り残される感じです。
私の解決方法は宗教と哲学で救いを求めた。各地の寺社仏閣に出向き救いを求めた。
絶望の原因を追求して解決方法を探して回って救われたのです。
そんな中でも時折、芥川龍之介や太宰治、三島由紀夫の小説も読んだ。
いずれも三人は究極の選択で(自死)を選んだ作家である。
フィンセント・ファン・ゴッホ(自死)やサルバトーレ・ダリ(自死)、
エゴン・シーレ(病死)の絵も見た。人間の内面を描いた作品です。
そうすることによって徐々に体内に血が巡り出して五感も少しずつ戻り始めた。
私の短い人生の中でいくつもこのような体験をして来たのです。
突然成功したり、突然失敗したり、突然孤独になったりして来たのは、
これらの体験を人に「伝えよ」という運命に生きているからだと思います。
ブログ「恩学」はその経験が活かされている内容です。
『荘子』の中に「応帝王篇・渾沌」の話があります。
「南と北に儵(しゅく)と忽(こつ)という極めて人間的な二人の神と、その両者の間に
孤高の存在である渾沌(こんとん)という三人の神がいた。
ある時、南北の儵と忽がその間に住んでいる渾沌の地で会った。
すると、そこに居合わせた渾沌は、この二人を大変もてなし、これに喜んだ儵と忽は
渾沌にお礼をすることにした。
そこで二人は、『人はみな、眼に二つ、耳に二つ、鼻に二つ、口に一つ、
合計七つの穴を持っているが、渾沌はこれを持っていない。だからこの穴を開けてやろう』と決めた。
こうして、儵と忽は渾沌に一日に一穴ずつ空けていったが、七日目の最後の
一つを開けた時、渾沌は死んでしまった」という何ともせつないお話です。
仏教では、「眼耳鼻舌」それに付随して身、「見聞覚知」の感覚器官が備わっているからこそ起こる意、
これら六つ(眼耳鼻舌身意)を合わせて「六根」といいます。
先ほどの話にこれを当てはめると、「眼耳鼻舌」を持たない渾沌にこれらを与えたら、
渾沌は死んでしまったということです。つまり、「眼耳鼻舌」を持っていないものが
急に眼耳鼻舌を持つと、生きるに耐えられない程の苦しみや悲しみを背負わなければ
ならないとも言えます。よって、生まれながらに六根を持っている我々人間は、
最初から生きるに耐えられないほどの苦しみや悲しみの元を背負っているということに
なります。しかし、我々は渾沌のようにそれらがあるために死んだりはしません。
生まれたその瞬間から何とかその六根を使いこなし、悲しみや苦しみを背負いながらも
生きているのです。ですから、我々は無意識のうちに「死ぬほどの覚悟」で六根を
もって生まれてきているとも考えられます。では、六根から得られる様々な苦しみとは
いったい何なのでしょうか。それは「憎い・可愛い・惜しい・欲しい」といった
人として決して無くすことができない感情です。
私はこれが「人情」なのだと思っています。しかし、それは苦しみだけではなく、
安楽もあるはずです。ですから、それら全てが人情なのであり、それがあるから我々の
人生に彩りを添えてくれるのです。この物語では、
儵と忽の二人によって「眼耳鼻舌」を付された渾沌は最後に死んでしまいます。
しかし、私は「本当は死んではいない」と思っています。
禅語に「大死一番絶後に甦る」とあるように「徹底的に死に切り、その後しっかりと
甦った」のだと思います。つまり、六根を得たことで人の心の苦しみを知り一度は
絶望し死に切った。しかし、人の苦しみを知ることで他人を思いやる心、すなわち
慈悲心も生まれたのです。そしてその時、自ずと心の底から
「全ての人々が健やかで幸せでありますように」という大慈大悲の願いが湧き上がり、
絶後に甦ったのだと思います。
これにはここまでの物語は書かれていませんが、仏教を信じ出家している者として、
渾沌がそうあってほしいという私の切なる願いでもあります。参考臨黄ネットより
仏教で人生を語るとき「四苦八苦」という言葉が出てきます。
四苦「生・老・病・死」(しょうろうびょうし)
八苦「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦」という表現を使います。
私はこの解釈の中で一番辛いと思ったのが「五蘊盛苦」です。
自分の心や、自分の身体すら思い通りにならない苦しみ。
健康で元気なのにやりたいことがやれない苦しみです。
人間の持っている能力「七つの穴」を渾沌は持っていない。
儵と忽は渾沌に良かれと思って毎日一つずつ穴を開けたところ七日目に混沌は
死んでしまった。人間の持つ様々な苦しみを知ってしまったからである。
混沌は不自由だと勝手に思い込んだ儵と忽の善意が仇となって死んだのである。
他人が感じる絶望は本人の苦しみとは違うところに存在しているのです。
お金があれば幸福でお金がなければ不幸、美人に生まれれば幸福で美人でなければ不幸。
実際は不治の病に悩まされ、親が作った借金に苦しめられて、男運が悪く家族にも恵まれ
なくて絶望を抱えているかもしれません。絶望を感じたら自分で基を解決するしか
方法がないのです。
私の拙い文章「恩学」が皆様の人生に少しでもお役に立つと信じています。
皆様も「六根」全てを使い尽くしてより幸せだと思える人生を送ってください。
冬場の寒い季節ですが、お互いの思いやる心で、心を温かくして、
更なる良い年をお迎えください。
12月 20th,2023
恩学 |
七つの穴(荘子) はコメントを受け付けていません
人に感謝、人を尊敬、人を慈しむ、見返りを求めない心が人を引き寄せてきます。
あなたに出会えたことに感謝いたします
あなたの生き方を尊敬します
必ず人生のお礼は倍返し(恩返し&恩送り)をします。
そして「受けた恩は石に刻み与えた恩は水に流す」精神を貫き通します。
どれほど罵詈雑言を浴びせかけられても文句は言わないこと。
人前で恥をかかされても怒りを見せないこと。
ただひたすら低身低頭に徹する。
悔しさに耐えてこそ道が開かれるのです。
人を愛して笑顔でいれば自然に人は集まるのです。
引き寄せは自己主張の多い人よりも忍耐強い人の方へやってきます。
「金盥と水の法則」
手前に水をひくと水は逃げます。しかし前方に水を差し出すと水はやって来ます。
欲深い人よりも差し出す人の方へ幸運は流れて来るのです。
そしてどんな状況でも「自分は運が良い」と強く思うことです。
私は仕事でうまくいかなかったときにも「自分は運が良い」と口に出していました。
自分の頭の中で「自分は運が良い」と言い続ければ不安なことが消えるのです。
引き寄せはポジティブシンキングな人を好むのです。
引き寄せの法則には手順があります。ポイントと併せて手順をご紹介します。
叶えたい願いに集中するまずは、叶えたいと強く思う願いを思い浮かべます。
引き寄せたい現実や手に入れたいものなど、たくさん願いがある場合は、
最初に叶えたいと思うものひとつに集中しましょう。
ひとつめの願いが叶ったら次の願いに集中するという具合に、
ひとつずつ願いを叶えていくのがポイントです。
「イメージするだけでは漠然としてしまう」「願いを整理できない」という場合は、
ノートに願いを書き出してみるのもおすすめです。
アファメーション(肯定的な宣言)を使う願い事をする時は、
「私は友達が欲しい」「すでに叶っている」「出会いをありがとう」など、
現在形もしくは現在完了形の言葉を使いましょう。
願い事と聞くと、「お金が欲しい」「夢が叶いますように」という言葉を
思い浮かべる人もいるかもしれません。しかしこれらの言葉は、
「まだ実現していない」ということを潜在意識に刷り込むことになりかねません。
「ない」ことではなく、「手に入った」「叶った」ことに意識が向くような
言葉遣いをすることが大切です。
すでに願いが叶った姿を具体的にイメージする「願いがすでに叶っている状況」や
「引き寄せたい現実の中にいる理想の自分」をイメージしましょう。
より具体的にイメージするため、言葉を書き出し、欲しいものや理想の状況を表す
絵や写真を見えるところに飾ったりするのもおすすめです。
引き寄せの法則では、「自分なら願いが引き寄せられる」「望む現実が手に入る」と
心の底から信じることが大切です。「思考は現実化する」なのです。
喜びを味わい、感謝する引き寄せたい現実に集中し、願いが叶った自分の姿を
イメージできたら、手に入れられた喜びや幸せを存分に味わいましょう。
幸福で満たされているポジティブな気持ちや雰囲気が、
より良いものを引き寄せてくれると言われています。
また、願いを叶えることができた自分や、力を貸してくれた人、自然や運など、
周りのすべてに感謝することも大切なポイントです。
引き寄せの法則とは、「強く願ったり、考えたり、信じたりしたものは実現しやすい」
という法則のこと。「運に任せて願うだけで努力をしないなんて…」と
言われることもありますが、実は思考が変わることで行動が変わっていることも
少なくありません。
「思考が変わると行動が変わる、行動が変わると性格が変わる、
性格が変わると運命が変わる」のです。
強く願うことで無意識にでも毎日の行動が変わり、より良い未来が手に入るなら、
引き寄せの法則を活用しない手はありませんね。
私は多くのアーティストのプロデュースに関わり一番大切にしていたことは、
情報の発信でした。このアーティストに必要な情報を考えてイメージを明確にしました。
受け手側が求めていることは何か?今の時代に必要なスターはどのような人か?
その世界でアーティストが成功している姿を想像しながら「成り切り」をしました。
誰もが憧れるスターのイメージをより早く伝えることが「期待を高める」のです。
「成り切り」とはアーティスト自身に徹底的に成り切ることです。
言葉や姿やメッセージを伝えるにはアーティストに成り切ることが重要です。
アーティストに変わり関係者へ音楽性や人間性を伝えていくのです。
プロモーションは「音と言葉と成り切り」で成功を収めました。
アーティストに「成り切り」、放送局や出版社へ出向き、宣伝の意図を伝えると、
ほとんどの場合ゲストが入り、芸能欄の記事に掲載されました。
そして早い時期に本人を連れて挨拶に出かけると、番組制作者も編集者も
どんどん引き寄せることが出来ました。
オリコンチャートに順位が出た時点で、担当者にゲストと取材を優先することを
約束することで長きにわたり応援してくれました。
そしてアーティストのコンサートについて行き、その土地の主要な放送局や新聞社にも
挨拶に出かけました。それ以外に地元のレコード店、有線放送へ本人を連れて行くと
大変喜ばれました。
「願う形を明確にすること」、その為に必要な「戦略を計画」すること、
その上に出来る限りの人たちに「恩返し」すること、これの繰り返しです。
脳科学者中野信子最新版「運のいい人」の新聞広告に書かれていました。
「運は100%自分次第。強運は行動の結果」です。
☆運は偶然じゃない!考え方や行動パターンで決まる。
☆強運に絶大な効果のドーパミン、その分泌のカギは「妄想」にあった。
☆いつも同じものを買う人より、冒険する人の方が、運が良くなる
☆「まじめ」「人を疑わない」「素直」、すべてそろうと「運が悪い人」に。
☆自分は運がいいと感じている人は、死亡リスクが35%低い
☆「人のための行動」が脳を刺激、何重もの快感が体中に!
☆強運も不運も伝染する。
皆様お分かりでしょうか、私の引き寄せの術とほとんど重なります。
皆様もドンドン引き寄せながら強運な人生をお過ごしください。
12月 19th,2023
恩学 |
引き寄せ はコメントを受け付けていません
「審美眼」
表面的な美しさは誰でも分かるのですが、果たしてそれが本当の美しさでしょうか?
内面の美しさを知らなければ美しさの追求にはなりません。
製作者の意図するところを理解して時代背景や技術研鑽の痕跡まで追求して
美を理解すると楽しみ方が変わります。
私が納得しているからこれで良いのだと主張する人もいますが、
個人の好き嫌いで美を評価することはありません。
本物を求めずにイミテーションでもウィキペディアの情報でいいやという人でも、
美術館や展覧会などで本物に触れることで「審美眼」が鍛えられます。
「審美眼」は「美を見極める眼力」を表す言葉で、芸術作品をはじめとする
美しいもの、価値のあるものの真価を、評価する「眼識」を意味します。
世の中には表面上で綺麗に見えても、中身はあまり価値のないものが多く存在します。
目先の美しさにとらわれず、内側に隠れた本物の美しさ、それらを作り上げた背景など、
独特な見識と感性、こだわりを持つのが特徴で、それに触れることが大切です。
「審美眼」がある人は、デザイナーや鑑定士など、本物の美と真価を正しく評価する仕事が向いています。
ぜひ「審美眼」という才能と職業をつなげてみませんか?
「挫折と落胆」
挫折は「特定の目的を達成するために行ってきた行動そのものが
無駄になること、心折れて途中で投げ出すこと」。
今までの頑張りを無駄にしてしまうような心理状態になっているケースで
使います。挫折を一度も経験していない人の方が少ないと言えるでしょう。
落胆は「落ちぶれること、惨めになること」惨めな感覚が芽生えてくるという
意味では、挫折に近いような状況があるでしょう。
挫折は本来諦めたくないことに関して、諦めざるを得ない状況になるため、
惨めな雰囲気がどうしても存在するはずですから、そこが落魄(らくはく)と
共通しています。
「忍と敏」
1 がまんする。じっとこらえる。「忍苦・忍従・忍耐/隠忍・堪忍・堅忍」
2 むごいことを平気でする。「残忍」
1 頭の働きがすばやい。さとい。「敏活・敏感/鋭敏・過敏・不敏・明敏」
2 行動・動作がすばやい。「敏捷(びんしょう)・敏速・敏腕/機敏・俊敏」
あらゆる試練に耐えることと敏速に行動に移すことを、
常に持たなければなりません。
夏の暑さに耐えながら飛んでくる虫を待つアメンボと同じです。
ただじっと水面に漂いながらその機会を待つのです。
いわゆる「感即動」咄嗟に感じて即動くということです。
間違っても落ち着きのない人間になってはいけません。
ソワソワするような腰骨のない生き方はしてはいけません。
「面倒臭い」
「煩わしい」とほとんど同意で使われ、面倒でいやだと思う気持ち、
避けたいと思う気持ちが含まれている。非常に口語的な語です。
熟練の職人さん達の作業を見ていると、同じ緻密な動作をなん度も繰り返して
商品に作り上げていく。一般の人から見れば面倒臭い作業であるが、
緻密さと遊びを融合させる技が職人の表現なのです。
近年はこのような作業もロボットに任せてオートメーション化することが
当たり前になっています。大量生産にすることで安価になるメリットがあるから
多くの企業が取り入れています。
酒造りで最高責任者を「杜氏」(とうじ)と呼びます。この杜氏のさじ加減一つで
お酒の味が変わるのです。長年の勘と緻密な作業で最高の日本酒を作り出します。
最近ではバイオテクノロジーを学んだ人が職人として雇われることもあるという事です。
杜氏のもつ知識をコンピューターに入れて作り出した日本酒が世界中で売れています。
これはお酒という商品であって本物のお酒ではありません。
私は海外でも日本でもこのお酒を勧められて飲んだのですが翌日必ず頭痛がしました。
私の身体と相性の悪いことが分かりました。そのお酒は「獺祭」です。
「道元禅師」
前段に「香巌撃竹」、後段に「霊雲桃花」を配した絶妙な章だ。
百丈の弟子の香巌は師が亡くなったので兄弟子の潙山を訪ねるのだが、そこで、
「お前が学んできたものはここではいらない。父母未生已前に当たって
何かを言ってみよ」と言われて、愕然とする。
何も答えられないので、何かヒントがほしいと頼んだが、兄弟子は
「教えることを惜しみはしないが、そうすればお前はいつか私や自分を恨むだろう」
と突っぱねた。そのまま悄然として庵を結んで竹を植えて暮らしていたところ、
ある日、掃除をしているうちに小石が竹に当たって激しい音をたてた。
ハッとして香巌は水浴して禅院に向かって祈った。
これが禅林に有名な香巌の撃竹である。「霊雲桃花」では、その竹が花になる。
香巌が「悟り」を得た瞬間である。
「有言実現」
アメリカではFake it till you make it !という諺があります。
「なるまで偽れ!」です。
私がCBSSONYへ入社した動機は「日本一のプロデューサー」になることでした。
まさに「なれるまで偽れ!」でした。
まだ仕事を覚えていないころから「私は日本一のプロデューサー」ですと偽った。
洞(ほら)も百回言い続ければ本当になるという事です。
「運気をあげる4つのポイント」岩手花巻高校硬式野球部佐々木洋監督
① 言葉のマジック。「5点差じゃない2点差なんだぞ」と表現を変えて檄を飛ばす。
② 一緒にいる人「親は選べませんが、友人は選べますよね」友の大切さを教える。
③ 表情、態度、姿勢、身だしなみ「負けているときに笑顔でファイティングポーズ」
これが一番重要です。強くなるチームはどんな時にでも笑顔です。
④ 感謝と謙虚「花巻東が使ったあとはベッドメイクがいらないくらい綺麗にする」
菊池雄星選手はごみが落ちていると「神様が自分を試している」と思うと話をして
くれました。そうやって、いつも神様が見ていると思っているのです。
我々が使ったロッカールームはいつも入った時以上に綺麗にして出て行きます。
大谷翔平は菊池雄星の一年後輩です。共に佐々木監督の教えを学びました。
「成り切る」
一流のカメラマンになるには成り切ることを教えます。
憧れのカメラマンに成り切って過ごせば一流になるのです。
我々は真似をすることはあっても成り切ることはしません。
その中途半端な態度が一流になれないのです。
禅寺ではトイレを掃除する時にトイレに成り切れと教えます。
うわべだけの掃除では本当にきれいにはならない。トイレに成り切るのです。
禅宗ではただ掃除をするという作業ではなく、ご不浄をきれいにすることは、
心をきれいにすることにつながる教えです。誰もが嫌がる仕事を率先して行うこと
が重要です。
また、スランプの高校球児に打てないのはバットに成りきってっていないからだと
アドバイスをするそうです。打とうとする気持ちが、打てなかったら
どうしようという気持ちになり体が思うように動かなくなる。
腕ではなくバットに成り切って打てと教えます。
私も新人アーティストがステージに上がる前に、今日はおまえ自身ではなく
「スターに成り切れ」と檄を飛ばします。
そして大切なことは「音程は外しても客の心は外すな」です。
お前はただの失敗と思うが客は失望に変わり記憶に残るのだ。
成り切ることにより難攻不落な高い壁を乗り越える力を得るのです。
あなたも憧れの何かに成り切ってください。
あなた自身を離れるのです。
12月 19th,2023
恩学 |
言葉のカタログ はコメントを受け付けていません
イヤホンを通して音楽が聞こえる。ギターの音、ドラムの音、サックスの音、ピアノの音、
でもモバイルホンから聴く音は本物の楽器の音ではない。
送信しやすいように作られた圧縮された加工の音なのです。
いわゆる切り身の魚のように原型をとどめていないのです。
それでも聴くのは現実の世界から一歩でも逃げ出したいからである。
現状の意識を切り替えるには音楽が一番だからです。
私はそれよりも雨の音を聞きながら子供達の声、走り去る車の音、お店の中から
聞こえて来る笑い声、電車の中の人々の声を聴いている方が癒されます。
その時の状況で聞こえて来る音は生きている音の証です。
山に行けば小川のせせらぎ、鳥の声、木々の揺れる音、小動物の鳴き声、滝の音、
全ての音が音楽に聞こえるのです。
モバイルを利用した音楽を全面的に否定しているのではなく、
脳内の掃除をするために時折自然の音をきくことが大切だと伝えているのです。
そう音は心の中で音楽になっているのです。
本来人間の脳は視覚と音の情報により反応することが多いのです。
脳内ホルモンの活性化のためにも加工された画面や音ばかりを見たり、聞くのではなく、
自然の景色や自然の音を脳内にたくさん取り入れてください。
谷口高士の同名のタイトル「音は心の中で音楽になる」の書き出しの一説に
このようなことが書かれています。
心理学の本を探せば音楽心理学のことがわかるかというと、まずそんな項目は
存在しない。それなのに、世間では「音楽心理学」とか「音楽療法」などという
言葉だけが、どこからともなく現われて目の前にちらついている。
これでは、「音楽心理学って何?」とたずねたくなるのも無理はない。
特に最近は、「音楽」と「癒(いや)し」がセットになって頻繁にマスコミに
登場している。
いったい「癒し」とは何か、音楽の何がどのように人間に効果をもたらすのか
ということを曖昧にしたまま、音楽療法のなにやら身近でとっつきやすそうな
イメージだけが広まっている。
楽器を演奏できる人が、自分にも「音楽療法とやら」ができるのではないかと
勘違いしてしまう。そのような、音楽を知っているが音楽心理学に対しては
疑問や期待(あるいは幻想)を抱えている人のために、本書の企画は生まれた。
もちろん、これから音楽心理学研究を始めようという人にも役立つものである。
難解で退屈な本であるが音楽心理学を学ぶ人達には読んで参考にすることは出来る。
興味のある人は読んでみてください。
また、音楽は脳や心にどのような影響を与えるかにこのような文章があります。
「文字文化を持たない社会はあるが、音楽文化を持たない社会はない」といわれるほど、
人にとって音楽は身近なものである。
音楽を聴くことで自然と気分が向上したり、リラックスしたりするという経験は、
おそらく多くの人にあるだろう。
その経験からも分かるように、音楽は人の心と身体にさまざまな影響を与える。
音楽には特定の感情を誘発させる効果や、“覚醒水準を調整する効果”があることが
多くの実験によって確かめられている。覚醒水準を調整する効果とは、脳や神経の
覚醒水準が高いときはそれを抑え、低いときは高めるという働きである。
すなわち、過度の興奮状態であればそれを抑え、過度の落ち込み状態であれば
気分を高める効果を持つ。
音楽は音の集合体です。澄んだ音であれば澄んだ音楽になります。
自分の大好きな音が集まればそれだけでも音楽になり脳にも心にも影響するのです。
子供の頃から大好きな人の話す声は音楽のように聞こえていた筈です。
そして大好きな人の表情は素敵な映画を見ている様だった筈です。
大好きな人と経験を共にすれば思い出が色あせても記憶にずっと残るものです。
日常の風景が全て音と繋がるのです。
「ドライフラワー」
作詞:優里 作曲:優里
多分、私じゃなくていいね
余裕のない二人だったし
気付けば喧嘩ばっかりしてさ
ごめんね
ずっと話そうと思ってた
きっと私たち合わないね
二人きりしかいない部屋でさ
貴方ばかり話していたよね
もしいつか何処かで会えたら
今日の事を笑ってくれるかな
理由もちゃんと話せないけれど
貴方が眠った後に泣くのは嫌
声も顔も不器用なとこも
全部全部嫌いじゃないの
ドライフラワーみたい
君との日々も
きっときっときっときっと
色褪せる
この様な歌に出会うと嬉しくなります。
歌から誘い出される世界がまるでショートストーリーのようであるからです。
ヒットになったのは歌詞に共感する人が大勢いたからです。
歌う声も語りかけるようにしてサビで心の思いを一気に歌い上げる。
ギターとベース・ドラム・ピアノのみでとてもシンプルなカラオケです。
せつなく「きっときっときっと、色褪せる」と歌いあげる。
派手なカラオケで誤魔化すのではなく歌唱力で勝負する音楽はとても癒されます。
喧嘩の声、沈黙の部屋、啜り泣く声、全てが音楽に聞こえるのです。
人は無意識、人間は意識といいます。その状態その場面で感情を露わにするのが人で、
メールで済まし、本音を言わずに嘘をつき、虚勢を張るのが人間です。
大人だから感情を露わにするのは情けないとか、男女関係なくみっともないとか体裁を
考えるのではなく、感じた音に素直に反応して、人として生きる方が素晴らしいと
思います。
全ての音は心で音楽になるのです。
出来れば、好きな音、素晴らしい音を取り入れてほしい。
いつまでも忘れないで欲しい「音は心の中で音楽になる」ということを。
自然のままの音を騒音として記憶しないでください。
12月 18th,2023
恩学 |
音は心の中で音楽になる はコメントを受け付けていません
人との距離には正しい距離がある。お付き合いの距離である。
もっとも大切にしなければならないのが礼儀です。
「親しき中にも礼儀あり」という言葉があります。
友愛を示すために、大声で挨拶をして、いきなり抱きついてくる人がいますが、
その場の雰囲気を見て行わなければ礼儀に反します。
斯くいう私の周りの友人も私もハグは大好きです。笑い
諸外国では当たり前のように行われている動作でも、日本では場に合わないことが
あります。大切なことは礼儀を知って礼儀を崩すのは許されるのですが、
礼儀を知らずにくだけてしまうと恥知らずになります。
要するにお付き合いの距離とは、
干渉・依存・無関心。どれもギクシャクの種になります。身近にいる人にはつい
甘えてしまうものですが、お互いにある程度の距離感を保っていくことは必要です。
どうもぶつかりやすいな、という相手とは程よい距離を図りましょう。
しかしあまりに気を使い過ぎて、ぎこちなくなるのは居心地が悪くなります。
距離=気持ちの離れ、ではありません。相手の良さが一番見えやすく、
自分のペースをもっとも維持していきやすい、距離感を見直してみてください。
西洋人は握手とハグの距離感が親しみの礼儀だといいます。
我々東洋人はお辞儀をして頭が当たらない距離感が礼儀です。
中東はいきなりハグをして顔をつけあうのを礼儀としています。
最近ではメールやチャットでX0X0とついているのがあります。
これは「hugs & kiss」を表しています。
そして「和敬清寂」とは
「お茶を点(た)てる主人と、そのお茶をいただく客が互いの心を和(やわ)らげて、
敬い合い、精神だけでなく茶道具や茶室、露地を清浄な状態に保つことで澄み切った
こだわりのない境地に達することができる」という意味。
考えが違う人々が、一緒に生きるためには、お互いに尊敬し合わなければならない。
そうした心は、清らかで静かな心境からしか生まれない。
昔から茶道の精神を言い表した言葉で、禅でもよく取り上げられている。
千利休は、茶道の会合に共する懐石料理として「茶懐石料理」を作り出した。
懐石料理(精進料理)に「和(あ)え物」がある。例えばほうれん草の胡麻和え。
2種類以上の材料を混ぜて、調和のとれた「第3の味」を生み出す調理法だ。
それぞれの食材の個性を活かしつつ、互いの味を引き立て合う。
「人間」で考えれば、それぞれの個性を尊重しつつ、「和」を生み出していく
ことにも通じる。
「和敬清寂」は簡単な文字が並び、よく知られているため、つい軽く考えられがちだ。
しかし、激しい競争社会に生きる私たちにとって、忘れてはならない言葉です。
このマナーができる人を大人(たいじん)といいます。
日本には精神修養の場がたくさんあります。茶道、華道、香道、能、歌舞伎など、
昔から続く伝統的な作法や礼儀が日本人の心を鍛えて来たのです。
鎌倉時代から江戸時代まで「武士としての嗜み」として、心を落ち着かせる
手段として取り入れられました。これらは全て禅と繋がりがあります。
臨済宗禅は仏教の中でも無駄と格式を取り除きシンプルに真理の追求に
こだわったのです。
お稽古事の始まりが幼年期から始まり成人になると諸動作の中に深みと奥行きが
増していきます。歌舞伎では3歳から芸の仕草を教えます。
能では6〜7歳の頃から本格的な修行を始めます。
世阿弥が書いた「風姿花伝」は代表的な教科書です。
流石に茶道、華道、香道の修行には年少では無理ですが、その場にいるだけで
高度な精神性は学ぶことができると思います。
お付き合いの距離には、身体的距離と精神的距離があります。
さらにその人の持つ教養(文化的レベル)の距離が重要になります。
教養は表情から仕草までにじみ出て来ます。
それは大人の嗜みです。
「嗜み」(たしな-み)の意味は、大きく分けて以下の3つです。
1. 好み、趣味。特に、芸事にかんする心得。
2. 心がけ、用意。覚悟。
3. つつしみ。遠慮。
現代においては、「大人の嗜み」「酒の嗜み方」などのように、好んで親しむこと、
何かに打ち込むことや、その心得という意味での用法がよく見られます。
辞書的には上記のように、「芸事にかんする心得」を含んでいますが、実際には単純に、
「趣味・嗜好」の言い換えとして用いられることが多いようです。
「心得があること」(=技能があること、承知しておくこと)と、「好み」は、
必ずしも両立しませんが、「好きこそ物の上手なれ」の格言通り、「好み」と
「心得」を橋渡しする言葉が「嗜み」であると言えるでしょう。
礼儀と教養を押し付けるのではなくさりげなく表現する。
「和敬清寂」の精神でお付き合いを楽しんでいきましょう。
12月 18th,2023
恩学 |
和敬清寂(わけいせいじゃく) はコメントを受け付けていません
「そのまま」とは漢字で書くなら「其の儘」です。
「儘」には成り行きに任せること、という意味があります。
成り行きに身を任せると言うと向上を求めず現状維持、という悪い意味で
とらえられることもありそうですが、仏教の教えで「そのままである」
ということには特別な意味があります。
其の儘の反対は「我が儘」ではないかと思います。
自分勝手な我心我欲にお任せするのではなくあえて、今、ここのあるがままに
お任せするという選択をするのです。
これが仏教の説く「自由自在」という大切な教えです。
明治から昭和期にかけて活躍した仏教学者の鈴木大拙の言葉に
次のようなものがあります。
人間以外のものは、いずれも、「そのまま」で存立し、「そのまま」に生きて行く。
松は松なりに竹は竹なりに生きて行く。(中略)ただ人間になると、
「そのまま」のところに二の足をふむようになった。
「これでよいのか、な」と、一歩退いて考え込むようになった。
(鈴木大拙『禅のつれづれ』より)
ここで鈴木大拙が言っている「そのまま」とは例えば『白隠禅師坐禅和讃』で
冒頭に述べられる「衆生本来仏なり」と同義であると考えて良いと思います。
衆生本来仏なりと言われても私たちがそれを素直に受け入れるのが難しいのと
同じように「きみはそのままで良いんだよ。」と言われてもやはりそれを素直に
受け入れる事はなかなか簡単ではありません。これは何故でしょうか。
「そのまま」であることをためらう理由の一つには他者と比較、区別することが
あります。本来、自分がそのままで良いと思えばそのままで良いはずなのです。
それなのに、そこに他と比べてああだ、こうだという余計な考えが生まれるから
私たちはそのままであることに二の足を踏んでしまうのです。
哲学くさくなるかも知れないが、人間は根本的な”そのまま”を忘れ、
働かしてはならぬところに「分別知」を働かして、ありもせぬ苦しみをこしらえて、
その中に自分を投げこんだ。
(鈴木大拙『禅のつれづれ』より)
と、鈴木大拙は続けます。あれこれ気を回したり、考えたりすること
(=分別知を働かせること)を「しなくても良い」と言っている訳ではなく、
考えなくても良い所に気を回してしまうから余計に苦しくなってしまうのだ、
ということです。 例えばお墓参りにはいわゆる作法と呼ばれるものが存在します。
テレビなどでもお彼岸やお盆の時期になると盛んに墓参の作法が紹介され、
私たちはどこかでそれを常識として受け入れている所があります。
墓参の時に一番大切なのは目の前のご先祖さまや仏さまを想って心静かに
拝むことのはずなのに、いざ墓参の時になると私たちが勝手に思い込んでいる
「常識」に縛られ、人の目が気になってそわそわしてしまう。
作法を正しく遂行することが気になりすぎて拝む心がおろそかになってしまえば
それこそ本末転倒です。そのままであるというのは外部からの情報を鵜呑みにする
ことではありません。自分自身の「信心」にそのままであるということです。
信心を持っているからこそ正しい作法を知りたいと思うし、墓前の方を思って
手を合わせた時に心が落ち着くのではないでしょうか。
信じる心に対してそのままである時には、自分が良ければそれで良いという
わがままな心が自然と消え去っています。自分のことしか考えられない。
不安だ。カリカリしている。そんな時に心静かにご先祖さまや仏さまに手を合わせる
余裕はありません。あれこれ考えるのをやめて、あえて「そのまま」の生き方に
飛び込んでみるという選択肢も忘れないように日々を精進して参りたいと思います。
私がストレスに強いのは心の中にいくつものチャンネルを持っているからです。
元々激しい感情の持ち主だったのでまわりは手が付けられなかったと思います。
何度も人生の辛酸を舐めて、年齢も重ねて、哲学や宗教本から冷静な心が芽生えました。
怒りが起こった時にはすぐにチャンネルを変えて違う場面にしてしまうのです。
それでも収まらない時には怒りの電源を切れば良いのです。
しかし創作活動をしているときには「そのまま」の感情を大切にします。
ここでは他人の意見より自分の意思を大切にすべきなのです。
「分不分別」で考えるのではなく、自分の率直な感情を信じるべきなのです。
「これでいいかな」ではなくて「これでいいのだ」と強く言い切るのです。
これは「我儘」ではなく「そのまま」なのです。
辛い時に救われる言葉・心が楽になる名言
【マザー・テレサ】
「神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけよ。」
人は、何に挑戦しようとするとき、リスクを考えてためらってしまうことがあります。
この言葉は、成功するかしないかという結果よりも、まず挑戦することの大切さを伝えて
います。
【ヘレン・ケラー】
「人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒にふるか。」
彼女の言葉は、重い障害を乗り越えた上での言葉だけに、私たちの心を奮い立たせます。
困難があっても、挑み、乗り越えることで道が開ける、そのようなことを教えてくれる
名言です。
【ニーチェ】
「まだ実績のない自分を、人間として尊敬するんだ。」
実績は関係なく、自分を愛し、肯定することの大切さを説いています。
「毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念しなければ、毎日は下手に使われ、
翌日も駄目になるおそれがある。」
「今日もこれができなかった」と落ち込むのではなく、
「優先順位をつけつけて取捨選択をしたまでだ」と前向きに考えるだけで、
心が軽くなるものです。
【トーマス・エジソン】
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、上手くいかない方法を見つけただけだ。」
エジソンは、幼少期学校を退学になり、最初の発明が営業的に失敗するなど、
決して順風な人生ではありませんでした。しかし、どんなに失敗を重ねても
「上手くいかない方法を知っただけで、これは失敗ではない」というポジティブな
スタンスで努力を続けた結果、偉業を成し遂げています。
【アインシュタイン】
「挫折を経験した事がない者は、何も新しい事に挑戦したことが無いということだ。」
人は挫折や失敗を恐れて、ついチャレンジすることを辞めてしまいますが、失敗を
恐れて何もチャレンジせずに終わる人生は楽しいのでしょうか? 「挫折」と聞くと
マイナスな印象が強くなりがちですが、「挫折」があるのはチャレンジしたからこそ。
私達もそのままに、あるがままに、心のなすがままに生きて行きましょう。
12月 18th,2023
恩学 |
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