具象と抽象




今回の文章は対話集会「老人と孫」で中学二年生の女の子の質問です。
「画家を目指しているのですがどうすればなれますか?」の
解答として書きました。あなたは具象と抽象のどちらが希望ですか?
彼女ははっきりと抽象画家を目指していますと応えてくれました。

「絵画とは何か」あるいはもっと広く「イメージとは何か」という
ストレートな、しかし困難な問いにアプローチをするうえで
手掛かりとなる、西洋の三つの神話から話を始めたいと思います。
その三つの神話とは「影」と「痕跡」と「水鏡」にかかわるもので、
それらがいわば絵画の起源となっている。
 
「影」については、大プリニウスが『博物誌』(第35巻)で
伝えているように、戦地に赴く 恋人の影の輪郭をなぞったことから
絵画が生まれたという神話が残っています。

一方、「痕跡」というのは、キリスト教の言い伝えに由来するもので、
東方教会では「マンディリオン」として、カトリックでは「ヴェロニカ」
として伝わっています。いずれも、
ハンカチに残されたイエスの顔の「痕跡」のことを指すものです。

最後に「水鏡」ですが、これはもちろん名高いナルキッソスの
神話に基づいているものです。
鏡が画家にとってすぐれたお手本となるという考え方は、
古くはプラトン(『国家』 596 d9-e1)に、さらにレオナルド・ダ・ヴィンチら
ルネサンスの画家や理論家たちにも見られるものです。
絵画の根元を巡ってより。

昔は全て具象で表現できるものが正しくて
抽象のものは相手にされなかった。
しかしこれからは抽象的なものの方が共感を得やすい。
AIは具象には実力が発揮しやすいが、
抽象はデーターがないので描けない。
勿論、ブラック風とかピカソ風に書いてと要求すれば、
それなりの作品は描かれるが価値がまったく無く
共感の対象にはならない。
画家が独自に描く抽象画は理解できる人にしか感動は伝わらない。

具象絵画とは、具体的に意味のわかるものを描いた絵画です。
それに対して、抽象絵画とは、
何が描いてあるのか具体的にはわからない絵画のことです。

全ての絵画は、具象か抽象かという区分けで考えることができます。
それはわかりますよね。何が描いてあるかわかるか、わからないかの
どちらかですと言っているのと同じですから。

その時に、その中間があるのです。
それを「反具象」という場合があります。
「非具象」という場合は、
ほとんど抽象を言っていることが多いでしょう。
私は、中間の物は、半分具象だから「半具象」で
良いのではないかなと思ったりします。

だから、絵を見る場合、完全に具象だなと言ったり、
やや抽象がかっているねと言ったり、
完全抽象だねといったりして、区分して話します。

ただし、絵の良さを考えるときは、造形的に見たら良いとか
悪いとか言う場合が多くて、その場合には、抽象的に見ます。
抽象的に見ると言うのは、造形要素でみるのです。

例えば、調和が取れているとか、バランスが良いとか、
リズムが良いとか、アクセントがきいているとか言います。
これらが、造形要素です。

鑑賞の仕方が分からない」「何が描かれているのか分からない」
「自分でも描けそう」など様々な意見がある抽象画です。

抽象画が生まれる以前はどの作品にも主題やモチーフがありました。
風景、人物、静物など具体的に存在するものが描かれた作品たちです。
抽象画とはその反対に存在しないものを描いた芸術のことです。
抽象画家は実際に存在する具体的な対象物の造形ではなく、
対象物の点、色彩、形、線といった造形要素を構成し、
その美しさを芸術表現としました。

抽象画は芸術運動の名前ではなく、世界一次大戦前夜にモスクワ、
パリ・ミュンヘンなどで同時多発的に発生した絵画表現です。

その流れの一つは「近代絵画の父」と呼ばれる後期印象派の画家
セザンヌの「自然の中のすべての形態を円筒、球、円錐で処理する」
の言葉から影響された、ブラックとピカソが創始したキュビズム。

ジョルジュ・ブラックとパブロ・ピカソが生みの親であるキュビズム。
それまでの具象絵画は一つの視点に基づいて描かれていましたが、
キュビズムは「いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収める」
手法を発明しました。
多くの芸術家を驚かせたこの技法は、多くのアーティストによって
現代も引き継がれており、近代美術史の中でも重要な発明の一つです。

「色が明るくて素敵」とか「構図が大胆」、「絵具のタッチが面白い」など、
見たまま楽しむのも、また色やイメージから何かを想像して楽しむのも
鑑賞の一つです。

抽象画の中には音楽的リズムが主題になっているものを多くあります。
そのリズムの心地よさを想像するのも良いでしょう。

アクションペインティングのような躍動感を感じる作品には
迫力を感じるという人が多くいます。
また、カラーフィールドでは気に入った色が見つかるかもしれません。
感性の赴くまま鑑賞するのもおすすめです。

現代を代表する抽象画家
ルシアン・フロイド(Lucian Freud, 1922 – 2011)は、
キャリア当初はシュールレアリスムなどの影響も受けていましたが、
身近な人物を描いた独特の肖像画を中心とした
作風に徐々に変化していきます。
モデルの精神的な状態までも抉り出すような
厚塗りの技法で緊張感のある絵画を多く残しています。
モデルが苦痛を感じるほど長いポーズ時間を
要求することでも有名でした。

キース・ヘリング(Keith Haring, 1958 – 1990)は、
アンディ・ウォーホルやジャン=ミシェル・バスキアなどと同様に、
1980年代のアメリカ美術を代表するアーティストです。
80年代初頭にニューヨークの地下鉄で、使用されていない広告板に
ヘリング独特のキャラクターを描く、通称「サブウェイドローイング」
というグラフィティ・アートを始めました。
そのコミカルで誰もが楽しめる落書きは、
地下鉄の通勤客の間で評判となり、
一躍ヘリングの名を広めることになりました。

ジェフ・クーンズ(Jeff Koons, 1955-)は、バルーン・アートや
マイケル・ジャクソンの彫像など、
大衆的でキッチュな作品で知られるアーティスト。
特に、バルーンで作られたウサギを模したステンレス製の
彫刻である「Rabbit」は2019年に約100億円で落札され、
現在もなお存命中のアーティスト
作品の最高額として記録を残しています。

私の書斎にも米国で著名な画家が描いたキュビズムの作品があります。
そして彼の描いた抽象画も数点飾られています。
その他、中国・西安の美術館オークションで購入した水墨画もあります。
勿論、友人の描いた「覚悟の白富士」も飾ってあります。

昔から書籍と絵画に囲まれた生活に憧れがありました。
そして大音量でムソルグスキーの「展覧会の絵」を聞くのです。
これにロッキングチェアーとパイプタバコをくゆらすと至福の喜びです。
孫たちよ!これは老人のささやかな春の夢でした。



風を変える




人間関係の間に起こる風を感じたことがありますか?
その人に会うたびに風を感じて心が温かくなる気がしませんか。
その方の人生から醸し出される風格の風もあります。
そして積み重ねてきた人生も風景に現れます。

通り過ぎる風など何も気にもしない!?

人生には多くの出会いと別れがあります。
別れに意識を残す必要がありません。
通り過ぎた風なのです。

出会いは言葉でコミュニケーションを取らなくても
人柄は風になるのです。
新しい風に気力が生まれます。

数年前に空気を詠めない人という言葉が流行りましたが、
今では風を詠めない人というのです。
間違ってもモバイルからは風は起こりません。

尊敬する人の風を受けると、勇気をもらったり、
やる気をもらったり、つよい気力を感じたりするのです。
これは意識しなくても、無意識に感じるものです。
しかしその風は自分からつかまえないと
目の前を通り過ぎてしまいます。

その気になれば風を待つのではなく風を起こすこともできるのです。
子供たちの教育で想像力豊かに自由な学びの場を作ろうとしています。

オランダではイジメや喧嘩の問題を子供達が大人に頼らずに
自分たちで解決します。オランダには自律を育む教育が生きています。

英国のサマーヒル・スクールは世界一自由な学校と言われている。
何を学ぶか、事業にどう参加するかは生徒自身で判断して決めるのです。

日本でも有名な「ドイツ、シュタイナー教育」とは、
「芸術教育」は子供が「自由な自己決定」を行うことができる
「人間」となるための「出産補助」であるという意味で、
「一つの芸術」であると考えられている。

その思想と実践は、シュタイナーが創設した
人間が自らの叡智で人間であることを見出すという
神秘的学説・人智学によって支えられている。

独自のシステムで養成された教師により行われ、
教員の法的立場は国や修了した養成組織により、
それぞれ異なっている。
カリキュラムや授業内容も公的なものとは異なっており、
独特の芸術教育などが知られる。

シュタイナー教育は自由教育の象徴的存在とも捉えられており、
日本では知識偏重の受験教育に対する代替として支持を集めている。

すべて子供たちが考えて行動するので子どもの自主性が育つ、
結局は親や教師が介在しすぎることで子供は何も考えない、
何もしない子供になってしまうのです。

日本の私立「きのくに子どもの村学園」は全国に4か所あり、
小・中・高等専修学校として存在します。

先生もいなくてテストや宿題もなく自由に学べる学校である。
生きるために必要なことを衣・食・住・表現の4つの視点から、
プロジェクトといわれるワークショップが行われるのです。

子どもたちが計画して、プロジェクトに参加する。
子供達が自ら農作物を作り料理もして給食となる。
その他のプロジェクトも自らの力で考えて行う。

文科省指定の一般教育の教師がいないので自ら学び解決していく。
勿論、指導者はいるのだが先生とは言わずに名前かあだ名で呼ばれる。
必要な時に適切なアドバイスを受けるだけです。
先生もいない宿題も無ければ他校と学力が
劣るのではないかと心配する親もいるが
つねに全国の学力検定試験で優秀な結果を残している。
まさに奇跡にちかい事実である。

既成の教師もいないテストも宿題も無いので
子どもたちは自立する。
勘違いの優しさや思いやりは、
子どもの自由な発想の芽を摘むことになる。
そろそろ大人が気付く時なのです。

昔は親に余裕がなかったので子供を面倒見るなどしていなかった。
農作業や家事の手伝いは当たり前で、時には赤ん坊を背負って
学校に通う子もいた。そこから数々の優秀な人間が育って来た。
苦労は自立を促し、努力は夢を育てて、学びは希望を作るのです。
結局手塩にかけた分だけ子どもは駄目になるのです。

自然も教えているのは山に手を加えると
山は汚れて川は濁るということです。
材木商が儲かる木ばかりを注文するから
伐採が進み山は荒れ放題になってしまうのです。
何もしない方が自然の自浄能力で
勝手に調整して健全な状態が保たれるのです。

人間は愚かである。科学の進歩で経済力が高まり
収入が増えた分だけ、家族を守ろうとして
子どもたちの人間力を奪ってしまうのです。
良かれと思ってやることが全部裏目に出てしまう。
この現代の形を変えなければ未来の風は吹いてこない。

私のこの小さな風は街の片隅にしか吹きませんが、
多くの仲間と手をつなげば、国の中央にも
風を起こすことが出来るのです。

温かい風を感じる人との出会いを願っています。


アーツ&クラフツ




「デザインとは」をチャットGPTに質問してみました。

一般的なデザインは、製品やシステム、空間、または体験を計画し、
創造するプロセスです。このプロセスでは、美学的な要素だけでなく、
機能性、使いやすさ、持続可能性、およびユーザーのニーズに焦点を
当てることがあります。一般的なデザインは、さまざまな分野において
適用され、例えば製品デザイン、グラフィックデザイン、インテリアデザイン、
Webデザイン、およびユーザーエクスペリエンス(UX)デザインなどが
含まれます。チャットGPTより

古代の生活用品には機能性しか必要が無かったはずであるが、
遊び心と共にデザインが取り入れられた。
水をくむために、物を入れるために、食物を入れるためにだけの
用途に装飾は必要ないはずである。
しかし遡れば縄文土器の火焔土器はデザインが施されている。
人間は暮らしていくために美を求めていたのが伺える。

日本建築は基本的に木と紙で作られていて
家具などの調度品も見せるためではなく、
持ち主が喜びそうな彫り物が少し施される程度であった。

それは、
日本は地震や火事や自然災害が多かったので、
いつでも作り直しが出来る方が便利だったからである。
庶民には手の込んだ高価な家具などは不要であった。
その為に家財道具も必要最小限にとどめて
手軽に引っ越しが出来たのである。

勿論、一部の金持ちに頼まれて贅を極めた調度品も多く残っている。
京都に職人が多いのは公家や幕府関係の要人が多く住み
自分の集めている調度品などを見せるためである。

奇才「本阿弥光悦」は徳川家康にその才能を認められていた。
家業は刀剣の鑑定・研磨・拭いをしていた。
しかし光悦は家業よりも、書・陶芸・漆芸・茶の湯などに関わり、
数寄者として名を残している。
後世の日本文化に与えた影響は大きい。国宝級の作品も多数ある。

光悦は京都に芸術村(光悦村)を築いた事でも知られる。
徳川家康から鷹峯の地を拝領した光悦は、本阿弥一族の町衆、
職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。

自分のお気に入りの職人や絵師を囲い込み
金持ちが潤沢な資金提供をして好き放題に作り出したものを
引き取る。いわゆるパトロン制度である。

北斎や若冲の描く浮世絵の華麗なるデザインは誰がパトロンだったのか?
日光東照宮の装飾を施した左甚五郎のパトロンは誰だったのか?
千利休や織部などは豊臣秀吉や京都の数寄者が応援していたのか?
全ての職人にはパトロンが不可欠なのである。

西洋でのモダンデザインの歴史は、詩人、美術工芸家にして
社会思想家のウィリアム・モリス(1834−1896)が主導した
アーツ&クラフツ運動に始まると言われる。
モリスは、産業革命の結果、大量生産による安価で
粗悪な製品があふれていた当時の英国の社会状況を批判し、
中世の手仕事に戻り、生活と芸術を統一させることを主張。

1860年にはモリス商会を設立し、自然の美をモチーフにした
手仕事の美しい家具や装飾品などの製作・販売を開始した。
モリスのデザインした製品は、今なおインテリアショップ等で
販売されていて根強い人気を誇る。
100年たっても古びない斬新さがモリスのデザインにはある。

ただし、「大量生産時代における美とは何か」という
アーツ&クラフツ運動の問いかけ自体は残った。
その問いを引き継いだのが、ワイマール共和国に1919年に設立された
造形美術学校「バウハウス」である。

バウハウスでは、工芸、写真、デザイン、美術、建築など幅広い
分野からの教師を集め、当初は教師と生徒が寝食を共にしながら、
20世紀にふさわしい美術やデザインや建築のあり方を探求、実践した。
手仕事に美を見出したアーツ&クラフツ運動と異なり、
工業製品を前提にした点にバウハウスの特徴があった。

新しい時代にふさわしい形で生活と芸術の統一を探求し、
具体的な形として提示したことにバウハウスの革新があった。

社会が大きく変動する中で、人間にとっての美のあり方を問い続けた
モリスは、人間を幸せにするための社会変革を夢見ていたのだ。
モリスが詩人、美術工芸家であると共に、社会思想家であったのは、
偶然ではない。時代の変動期において人間の側に立ち続け、
人の暮らしや社会をより美しく、より幸福にするための実践を行うこと。

それが近代デザインの父と言われたモリスの根本にある思想であり、
覚悟である。バウハウスにもそれは受け継がれている。
近代デザインの思想の根源にあるのは、
常に人間の側に立ち続けるという覚悟に他ならない。

日本にも組織だったデザイン関係の学校や工房はあった。
本阿弥光悦が開校した芸術村がそれにあたるのでなかろうか?
学校としては明治に入って初めて「茶の本」を英語で書いて
世界に紹介した、岡倉天心(覚三)が興した東京美術学校が
やや近いのかもしれない。

一言でデザインと言っても合理的で機能的なデザインを追求する中で
生まれた思想や方法論が組み込まれて初めて後世に残る作品になる。

デザインは思想が無くして製品に活かされるものではない。
手元にある工芸品の思想は何かと思い馳せるのもよいかと思います。
そして大切なことは良きデザインは心を豊かにしてくれることです。

人は働くことが生きる目的ではなく、
生きることを楽しむために働くのである。

チャットGPTには分からない。


人が育つ方法論




「木のいのち・木のこころ」
西岡常一・小川三夫・塩野米松(著作)

最後の宮大工西岡常一さんの職人の育て方には感動した。
私が一番感動した言葉は「宮大工なんて仕事は頻繁に来るわけでは
無いので、見習いの時には畑仕事をさせて自分の食い物は
自分で作れとおしえた。」
それに耐えて工房に残る弟子は忠実にいうことを聞くが、
すぐにやめる子はなんだかんだ理屈を言ってくる子です。

この本を読んで「暗黙知」という言葉が浮かんだ。
親方の仕事をみて、また道具を手入れさせてもらって、
指導の言葉ではなく背中でみて覚えることを「暗黙知」というのです。
言語化できない知識の事です。
これは弟子の感性を磨く訓練にもなります。

素直な弟子はその内に親方や兄弟子の道具の手入れを任されて
様々な道具から、自然に職人の癖や仕事の仕方を覚えていくのです。
同時に作業場で親方や兄弟子の背中を見ながら覚える
「暗黙知」が養われていくのです。

人は木と同じ。型にはめない。癖を見抜く。
西岡家は歴代法隆寺専属の宮大工であった。最後の棟梁と呼ばれた
西岡常一氏は,法隆寺や法輪寺の補修,薬師寺再建に尽力をされた方。
祖父から技術を学び,大工として技術一筋で生きてきた。

教え方としては「技術を丸暗記したほうが早く、
世話はないんですが、
なぜと考える人を育てるほうが大工としてはいいんです。
丸暗記してもろうても後がありませんわな。
面倒でも各時代の木割りがなぜ違っているのかを考え、
極めるには大変な時間と労力がいりますが、
後で自分流の木割りができますのや。
そうして初めて本当の宮大工といわれるようになるんですな。」

丸暗記するだけでは新しいものに向かっていけません。
ですから物覚えがいいということだけでは,
その人をうまく育てたことにはなりません。

丸暗記には根がありませんのや。根がちゃんとしてなくては
木は育ちませんな。根さえしっかりしていたら、
そこが岩山だろうが、風の強いところだろうが、
やっていけますわ。
なんでも木にたとえてしまいますが、人でも木でも
育てるということは似ているんでしょうな。 

ただ、育て方にも棟梁の形がありますな。全部,無理矢理、
自分がしたようにせなならんというて、
それに押し込もうとする人もあるでしょうが、それは無理ですな。
木の使い方と同じように癖を見抜いて、その人のいいところを
伸ばそうとしてやらななりませんわな。
育てるということは型に押し込むのやなく、
個性を伸ばしてやることでしょう。
それには急いだらあきませんな。

人を育てるっていうのは「場」を与えて
その環境に置いてやればいいとわかっているけど,
なかなか難しいものです。

暗黙知によってより良い社会を実現できるとはいえ、
実は「暗黙知の次元」は、暗黙知を説明するために書かれた本
というよりも、暗黙知の持つポテンシャルを開花させることによって、
よりよい社会をつくりたいと思うマイケル・ポランニーの
希望の書なのである。

「この二、三千年で、人類は、暗黙知の能力に言語と書物に
文化機構を装備させて理解=包括の範囲を桁外れに拡げてきた。
こうした文化的環境に浸りながら、いま私たちは、その範囲が著しく
拡張した「潜在的思考」に反応しているのだ」
 
暗黙知によって開かれる思考が、新しい社会と倫理を展望する。
より高次の意味を志向する人間の隠された意志、
そして社会への希望に貫かれた書」AIなどの技術が進化し、
それを人間が上手に使うことで「探究者の社会」に入りつつある。
常に「新しい意味」を模索しながら積み重ねることである。
今こそ、読むにふさわしい希望の書である。
「暗黙知」の解説より引用

私がプロデューサー業を始めた時に日本にはお手本はなかった。
強いて言えばCBSSONYに入った時に見たスタジオの仕事である。
アーティストがいてアレンジャーがいてスタジオミュージシャンがいて、
それを手配するインペッグ屋がいてチームが動いていた。

普通の歌手の場合は事務所手配の作詞家がいて作曲家がいて
編曲者がいて、最初からワンセットであった。
レコード会社のディレクターはレコード会社の社員であり、
音源を作り、工場へ送り、レコード盤を作る、各種手配の担当であった。
それを見よう見まねで覚えたのです。

私は英国で手に入れた海外のプロデューサー情報を
お手本にして新人の発掘から育成、制作、宣伝、営業と
全部をこなした。テレビ局も、ラジオ局も、雑誌社も、
代理店も勝手にプロデューサーを名乗って駆け回った。
新人アーティストの売り込みもさることながら、
私もプロデューサーとして売り込んだのです。

音楽ビジネスの世界でもプロデューサーは
まだ新しい職業であったことは確かである。
先日亡くなったビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンの
回顧録を読んでこの情報が40年前にあったらと悔しく思った。

「我々は現代音楽界を代表する真の創造者に対して敬意を表したいと思う」

みなさまはみなさまなりに様々な育て方の方法を活用してください。
人を育てるという事は自分を育てることかもしれませんね。
そして自分の成長に終わりはありません。


学校という名の刑務所




日本人のペンキ画家SHOGEN「今日、誰のために 生きる?」
現在、アフリカで体験したことを一冊の本にして啓蒙活動を続けている。
Youtubeでは「長老から日本人への警告」としたタイトルで
人気ユーチューバーとの対談映像も流されています。

「日本人の本当の姿」
全ての日本人に伝えてほしい。
全ての日本人に思い出してほしい日本の心、
縄文時代から繋がる自然への愛。
今日は誰のために生きるの?自分を愛し全てを愛す。
足りないものを探すのではなく足りているものを補い合う。
人は全て未熟なデコボコ。
デコボコ同士が家族のように活かし合う。
日本は私たちの希望の光なのです。

☆見ず知らずのアフリカの村の長老が
私を日本人というだけで受け入れてくれた。
しかし、私は日本人の心を忘れていて、村の子供たちからも
沢山の気付きを貰うことが出来た。彼等から教えられる日本人・・・

子供の好奇心を尊重する。
今日何があったかと聞くと楽しい話ばかりする現地の子供達。
父親が居て母親が居て三食食べられることに感謝すること。
陽が沈むと「諦める時間」として仕事から完全に離れること。
月明りで海上に道筋が出来て友情が芽生えること。
分け合うことも補うことも当たり前のようにできること。
何よりも愛と平和と奇跡を信じていることなどを
だれも疑わず信じていることです。

村の村長が世界の中で日本人が一番
「愛を知っている」人種だと言い切る。
それは一万年から一万五千年続いた縄文時代の歴史を
お爺さんのシャーマンから聞いていたという。
遺跡から掘り起こしたミイラの骨に傷跡が一切なかった。
紛れもなく平和国家だったという事実が証明されているのです。

これはアフリカの未開の村の作られたおとぎ話ではない。
日本人のペンキ画家SHOGENが経験した実話なのです。
村長との約束の中で「この村で経験したことを日本国中に
いや世界国中に広めて欲しい」と頼まれてSHOGENは
活動を積極的に行っているのです。

彼の話を聞けば、学校の在り方、友達との接し方、学びの本質、
自然のありがたさ、規則の在り方など、多くのことが学べると思います。

大自然なのかで学びたいことを学ぶ。
それは強制ではなく自由に選べることが重要です。
教える側が教えやすい環境を作るために、
学校があるわけではありません。
子供達の自由意思を尊重して運営されるのがあるべき姿なのです。

学校において最も根幹的な問題は、
「学校とはなにか」ということであり、
そこからいじめの蔓延とエスカレートも生じるのはなぜか?
わたしたちが「あたりまえ」に受け入れてきた学校とはなんだろうか。
いじめは、学校という独特の生活環境のなかで、
どこまでも、どこまでもエスカレートする。

不登校になれば来ない理由を聞くのではなく、学校へつれ戻すことを優先する。
子供の人権を無視してまでの教育とは意味がある事なのだろうか?
現状の学校教育にはいくつも大きな疑問が残る。

「学校とはどのようなところか」
日本の学校は、あらゆる生活(人が生きることすべて)を囲いこんで、
学校のものにしようとする。
学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、
人間という素材から「生徒らしい生徒」をつくりだそうとする。
これは、常軌を逸したといってもよいほど、しつこい。

生徒が「生徒らしく」なければ、「学校らしい」学校がこわれてしまうからだ。
たとえば、生徒の髪が長い、スカートが短い、化粧をしている、
色のついた靴下をはいているといったありさまを目にすると、
センセイたちは被害感でいっぱいになる。

「わたしたちの学校らしい学校がこわされる」

「おまえが思いどおりにならないおかげで、わたしたちの
世界がこわれてしまうではないか。どうしてくれるんだ」というわけだ。
そして、生徒を立たせて頭のてっぺんからつま先までジロジロ監視し、
スカートを引っ張ってものさしで測り、いやがらせで相手を意のままに
「生徒らしく」するといった、激烈な指導反応が引き起こされる。

この「わたしたちの世界」を守ることにくらべて、
一人ひとりの人間は重要ではない。
人間は日々「生徒らしい」生徒にされることで、
「学校らしい」学校を明らかにする素材にすぎない。
多くのセンセイたちは、身だしなみ指導や挨拶運動、
学校行事や部活動など、人を「生徒」に変えて「学校らしさ」を
明徴するためであれば、長時間労働をいとわない。

ある中学校では、目の前で生徒がいじめられているのを
見て見ぬふりしていたセンセイたちが、学校の廊下に
小さな飴の包み紙が落ちているのを発見したら、
大事件発生とばかりに学年集会を開いたという。
(見て見ぬふりをされた本人〈現在大学生〉の回想より)。

こういったことが、典型的に日本の学校らしいできごとだ。
こういった集団生活のなかで起きていることを深く、深く、
どこまでも深く掘りさげる必要がある。

逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、
軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。

センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、
指導であるとして正当化される。正当化するのがちょっと苦しい場合は、
「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として
責任からのがれることができる。

生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて
教育の問題にする。こうして、社会であたりまえに許されないことが、
学校ではあたりまえに許されるようになる。

子供達の自由な発想と自由な行動が
学校という名の刑務所で歪められてしまう。
社会はこの状況を決して見過ごしてはならない。
日本人の子供達を学校という刑務所から解放させましょう。

理想は理想を眺めていても何も起こりません。
自由で開放された学びの場を作り始めることにしましょう。


瞬時の判断




意識して判断するのと無意識で判断するのは大きな違いがある。
特に戦場では無意識に判断しなければ殺されてしまう。
上官は意識して判断するが、戦場の兵隊は無意識に行動しなければ
生きながらえない。会社においても経営者達は自己の学習と経験で
意識して判断するが、現場に出ていく社員は取引先で無意識に
商談を成立させなければならい時もある。
瞬時の判断で答えを出して功を制したケースもある。

無意識とは経験から自然に出てくる場合と本能から出てくる場合がある。
本能を鍛える訓練は経験を地道に重ねるしか無い。

プロボクサー井上尚弥は打つ瞬間に相手の行動を予測して
2、3手先まで見えるという。だから対戦相手は戸惑って打てなくなる。
過去の戦歴を意識して打つ場合と本能で備わっている無意識が働いて
打つ場合の非方向を兼ね備えているのである。

私の人間観は「無意識は広大な洞窟のようなもので、
意識はそれをスポットライトで照らすようなもの」と考えています。
さらに言えば無意識と意識の境目なんてそんなにない。
例えばスポーツの行為はあまりにも早い判断が迫られるために、
眼などから情報を得て神経を通り中枢に到達し、
脳が判断し神経を通って身体を動かしている暇がありません。

むしろ中枢を通らず自律分散的に身体が反応しているのに近いと
考えています。脳という中心があり、そこに意識があり、自我が生まれ、
その自我こそが私であり、身体は脳に扱われている、というデカルト的
世界観はスポーツの世界は成立していません。
為末大

脳の中には地図があり意識という矢印が方向を示すから
自宅に帰ることができる。
それでなければ外出先から自宅に帰ることは出来ない。

脳の凄いのはその地図を上からも見ることができる能力がある。
それはサッカーやラグビーなどのスポーツは、
目の前の見えるところばかり見ていると負けるので
常に上空から全体を見なければ勝つことができない。
脳にはまだまだ解明できていない部分が多くある。

右手は左の脳から指示が来て、左手は右の脳から指示がくる。
脳内出血で右と左の神経を離さなければならなくて
そうしたら、その患者の行動に大きな変化が現れた。

外出する際に靴下を履こうとしてもなかなか履けない。
よく見ると右手は履こうとしているが左手は脱ごうとするからである。
いわゆる、片方の手は出かけるために用意をするが、
もう片方の手は出かけたく無いので用意はしたく無いのである。

ドアも然りで開けようとする動作と、閉めようとする動作が
重なり合うのでなかなか外に出る事は出来ない。
養老孟司

近所の立ち飲み屋で飲んでいる人たちが大盛り上がりしているが
小芝居感がすごくて煩い。おじさん達は特に新橋や歌舞伎町界隈だと
騒いでベロベロまで飲んでレトロな雰囲気を楽しんでいるが、
ここも小芝居感がすごくて煩い。Xより

久しぶりに会う昔の仲間と飲み会で会うと
瞬時に昔に記憶が戻り大声ではしゃぐ親父達も多い。
人間の意識の中には場面が変わるとその場に溶け込もうとする
本能があるのかもしれない。俺は昔と変わっていないよと
虚勢を張りたいのもわからないでも無い。

私は高所恐怖症だから高いのは苦手で高層ビルさえも苦手である。
バンジージャンプやスカイ・ダイビングなど絶対無理である。
意識して飛び降りる人たちは何を考えているのかわからない。
スリルが楽しいというが、なるべくなら
このようなスリルは楽しみたく無い。

多分意識して覚悟を決めるので怖いという感情よりも
楽しみたいという感情が勝るのであのような行動ができるのだろう。
無意識の状態で背中を押されて飛び出せば、怖いという前に
心臓麻痺で死んでしまう。

水難事故で溺れて死ぬ人はほとんど水を飲んでいない。
同じ水難事故でも生き延びる人の方は大量に
水を飲んでいるということを聞いたことがある。

人間は意識するとその場面で怖い、死ぬと思ってもがくので溺れてしまう。
逆に無意識にもがくと体力を奪われるので、波任せにして息の確保だけすれば
助かると思う人の方が生存率は高くなる。

良寛さんが71才の時、三条市を中心に大地震が起こりました。
良寛さんの住んでいる地域は被害が少なく、
与板の方は被害が甚大であったそうで、
良寛さんは杜皐さんへ見舞の手紙を送っています。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 
死ぬる時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」 かしこ
と、見舞の一文の中に書かれていました。

その意味は、「災難にあったら慌てず騒がず災難を受け入れなさい。
死ぬ時が来たら静かに死を受け入れなさい、
これが災難にあわない秘訣です」ということです。
聞きようによっては随分と冷たい言葉です。

しかし、これほど相手のことを思っての見舞いの言葉があるでしょうか。
「大変でしょうが、頑張ってください」とは誰でも言えます。
「頑張って」の一言も書いていないのに、受けとった杜皐さんはきっと、
「この災難の中で生き抜いていこう」と思われたに違いありません。

今の時代は自然災害もウィルス感染も戦争もいつ起こるか分かりません。
咄嗟の場合には「瞬時の判断」が生死の分かれ目になると思います。
日ごろから覚悟していれば慌てることはありません。


女性という立場




働く女性を奨励するために「男女平等」という制度が作られ、
「男女雇用機会均等法」によって女性も簡単な事務職だけではなく、
一般職に就き、はては管理職にもなる事も許された。

しかし夫婦共働きで収入は増えたが親の面倒や子供の面倒が
おろそかになり、すべて他人任せ(保育園・塾・習い事・介護など)に
なってしまう。その為に収入の大半がそちらに流れていってしまう。
共働きで収入が増えて豊かになったと思う勘違いである。

昭和の中期、女性が美しく着飾って颯爽と歩く姿は
アメリカの女性に近づく為の様相であって日本人らしくはなかった。
敗戦後、完全にアメリカの属国と成り果てたのである。

高度成長のお陰で一般人はローンで家と車を買って、
白物家電を買い揃えて、家の中に風呂を作ったのである。
古い世代の親たちは借金してまで物を買えそろえることは、
恥ずかしいことなのだときつく教えて来たのです。

戦後、半ば強制的に自由と贅沢をアメリカから持ち込まれて
3Sを植え付けられた。(3Sとはスポーツ・セックス・スクリーンの
三つの頭文字を表したもの)
若者たちはアメリカのライフスタイルを真似することに
夢中になり、大人はTVでホームドラマを見て
一億総中流階級を目指したのです。

アメリカに作為的に甘やかされて日本は赤ん坊のように扱われ、
無防備な状態で抱かれてしまった。

幼児の笑顔が何故天使のような顔をするのかというと、
自分一人では生き残ることが出来ないので
母親へ訴えているのである。
私を守ってくださいと甘えるのである。
無力な生き物として生存方法は好かれることを本能で知っている。
日米安保締結はアメリカという継母に日本が抱かれた日なのである。

男尊女卑という言葉は何故生まれたのか?
これは今でも未開国にはあるルールとされている。
男は生きるために野山を駆け巡り狩猟をして、
女は家族を守るために子供の面倒を見ながら家で火を起こす。
男は村を守るために先人の教えを学び外敵からの侵入を防ぐ、
女は子供を作って食事の用意をするだけの役目だとされていた。

江戸時代男の子は家督を継ぐから大切にされ、
女の子は嫁ぐから家事の手伝いだけをすれば良いとされ、
学問の必要は無いとして学ぶことも許されなかった。

近代史の入り口、江戸時代は「これぞ男尊女卑だ」と
誰しもが思う時代だったようです。

戦国時代の「男児によるお家相続意識」がより色濃くなった
この時代は、「男児が生まれなければお家断絶・取り潰し」が
行われました。そのため名の知れた家は
男児を持つことに必死であり、その家の嫁や娘へのプレッシャーは
かなりのものだったと考えられます。
 
当時の風俗史・女性観を知る上で欠かせない書物に、
儒学者「貝原益軒」による「和俗童子訓」というものがあります。

全5巻から成るこの書物は、基本的に良い家庭や良い子を育むための
教育論書なのですが、その中には「いい女とは、
主人や舅姑に慎みを以て仕える・子どもを産める・男の言うことを
なんでも聞くなどの女のこと」や「悪い女とは、子どもを産めない・
悪い病気になる・おしゃべりが過ぎるなどの女のこと」といった具合に、
現代ではにわかに信じられないような女性評の記述がありました。
 
仮にも教育論を語る書物の中で、平然と「子どもが産めない女性は悪い」
などと書き、それが評価されたことを考えると、やはり当時は「女性蔑視」
の意識が社会全体に根付いていたと考えられます。

山川菊栄の「武家の女性」と藤原ていの「流れる星は生きている」を
読めば女性の壮絶な生き様が描かれており感動する。

「武家の女性」
幕末の下級武士の家に生れ育った母千世の昔話をもとに、
武士の家庭と女性の日常の暮らしを女性の眼で生き生きと描き出した
庶民生活史。動乱に明け暮れる水戸藩で女性たちがどのような
躾を受けて暮していたのかが、巧みな筆致で描かれる。
お家騒動で断首が決まり処刑される場面では母と子の会話に息が詰まります。
女性解放運動の優れた思想家であった著者による
滋味溢れる生活史・民俗史である。

「流れる星は生きている」
終戦後満洲の気象台につとめていた夫(=新田次郎)とはなれ、
子ども(=藤原正彦)をつれて当時の「満州国」の「首都」であった
新京から陸路、朝鮮北部を通り、朝鮮半島を南下して日本に引き揚げる
主人公親子のストーリーである。想像に難くない壮絶な逃避行である。
当時のソ連占領地域の実態をあらわした記録として評判になった作品です。
女性哀哭史としても記録される秀作の一冊です。

そして現在「デジタル社会における女性の働き方」が変わる。

働き方がデジタル社会になって大幅に変わり自宅にいても
仕事ができるようになり仕事と家庭の両立ができるようになった。
何でも前向きに取り組もうという気持ちに変わったのです。

「二つの働き方の例」
1つ目は、気の利く秘書のごとく個々人の働き方に応じて
業務をサポートする「パーソナルアシスタント」です。
現在、業務時間削減への取り組みが活発化していますが、
時間を短縮すると同時に仕事量も減らさなければなりません。
膨大な業務に優先順位を付けて仕事の進め方を提案してくれたり、
受信したEメールの内容を読み取って、求められているアクションを
教えてくれたりします。

2つ目が、「エキスパートアドバイザー」という分野です。
業務に必要な情報を社内の担当者やインターネットで調べるのに、
かなりの時間がかかってはいないでしょうか?
必要な情報がどこにあるか、あるいはどこに専門家がいるのかを
瞬時に知らせてくれたり、学習した専門知識や学習から得られた
鋭い視点を教えてくれます。

その時代、時代において働き方が大幅に変わる時代です。
女性なりの特性を生かして辛い仕事と思うことから解放され、
子育てと暮らしを楽しむことも大切にしてください。

女性が悲しむ時代は終わり、生き生きと働ける時代です。
仕事と家庭の両立で楽しい人生をお過ごしください。
そして人生の目的を学び、心を解放してください。


知識と行動




チャットGPTから得る情報は知識に値するか?
メタバース内で行われるビジネスは行動に値するか?
ディトレードでの売り買いは「知識と行動」に結び付くのか?

我々は「温故知新」で古きを知っても、
それを置き換えて新しいものは作れないのではないか。
AIに知識を乗っ取られても最新の学びを
取得することは可能なのか?

日本の伝統文化「歌舞伎や能楽」で行われる、
教育と修行はこのままの形で継承されるのだろうか?
技能がデーター化されて最新ロボットにプログラミングされて
古典と近未来が融合される日が来るのだろうか?

新人類が誕生しても「思考方法」は変わらないで欲しい。
それは人間が身体と心を磨き切磋琢磨して
初めて得られるものだからです。

中国の代表的学問方法の「朱子学と陽明学」は、
現代でも活かすことは出来るのか!

いわゆる朱子学の「知先行後」は学びを優先して
科挙に受かり役人になってから行動に移せと説いている。
王陽明の「知行合一」は知識と行動が伴わなければ
意味をなさないと言っている。
これは朱子学に対する反論で科挙を批判するものである。

朱子学(しゅしがく)とは、
南宋の朱熹(1130年-1200年)によって
構築された儒教の新しい学問体系。
日本で使われる用語であり、
中国では朱熹がみずからの先駆者と位置づけた
北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・
程朱学派と呼ばれる。
また、聖人の道統の継承を標榜する学派であることから、
「道学」とも呼ばれる。

陽明学(ようめいがく)は、中国の明のときに
王陽明がおこした学問である。
陽明学の命題のひとつ。知(知ること)と行(行うこと)は
同じ心の良知(人間に先天的に備わっている
善悪是非の判断能力)から発する作用であり、
分離不可能であるとする考え。

論語の為政第二にある「先ず其の言を行い、
而して後にこれに従う」が元になっている。

王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと
同じであることを主張し、知っている以上は
必ず行いにあらわれると述べた。

「知行合一」(ちこうごういつ)
真の知行とは「好き色を好むが如く、悪臭を憎むが如し」と説く。
例えば、好きな色というものはそれを見た(知った)瞬間に
好んでいるのであり、色を見て(知って)から好きになろうと
判断するわけではないのである。

朱熹の学(朱子学)が万物の理を極めてから実践に向かう
「知先行後」であることを批判して主張した。

これら二つの学問が江戸時代初期の陽明学者である中江藤樹や
幕末の頃の陽明学者や維新の志士たちに大きな影響を与えた。

吉田松陰も特攻隊も三島由紀夫もこの「知行合一」とともに
最終的には自死を選択した。
若者たちへ指導者の立場で教育した結果の回答が自死であった。
時代の学問は時には残虐で非情である。

この「知行合一」と同じように「葉隠」も志高き人たちに影響を与えた。
「武士とは死ぬこととみつけたり」これが日本人の精神文化です。

「葉隠」は冒頭に、「この書は必ず全部焼き捨てよと言われた」
(堅く火中仕るべき由、返す返すも御申し候なり)と書かれています。

これは藩士の失態や衆道をめぐるいざこざが、
山本常朝の手厳しいコメント付きで記されていたためのようです。

「葉隠」(はがくれ)より
人は死ぬよりは生きる方がいい。死にたくない、
生きたいと思えば思うほど行動が臆病になり、
結果的に恥をかいて切腹に追い込まれることになる。
むしろ、死のうと思い切ってしまえば腹が据わり、
切羽詰まった場にあっても適切な行動がとれる。

「神風特攻隊」に代表される出陣学徒兵の手記
「きけわだつみのこえ」を読むと、決して「思考停止」せず、
悩み苦しみながらも諦観して死地に赴いたのではないかと感じられます。
しかし、マインドコントロールされて「死を本望」と信じ込んでいた
兵士もいたことでしょう。

新しく教育関連の「塾」を山梨県で開校して世直しをしていきます。
私も指導者としての立場で現地へ頻繁に行くことになります。
そこを拠点として全国へネットワークをつなぐ予定です。
古民家と農地の提供があればすぐにでも移住するつもりです。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、褒めてやらねば、人は動かじ」
山本五十六

塾生と共に農地を耕し、頭脳を耕し、技術を耕していきます。
その中で私はこれから「晴耕雨読」の人生へも挑戦します。
天下一の富士山のふもとで「知識と行動」を共に行う「知行合一」です。

人はどれだけ学んでも基本は「愛」である。
愛なくして家族を、地域社会を、国家を守ることは出来ません。
子供達は「未来から来た留学生」です。
彼らの無関心の先には愛が溢れています。


声は変わらない




全般的に他の人と比べてさほど人生に優劣の違いはない。
大きな偉業を成し遂げた人も、名もなく頑張って生きてきた人も、
少しの高低差があったとしても、
皆、同じ人生の距離を歩んできたはずである。

昔の仲間と話をすると顔は忘れてもみんな声でわかると言います。
不思議なことにその懐かしい声は、一瞬にして記憶を鮮やかに蘇らせる。
かなりの時が経ち姿形や経歴が変わっても、
その人の持つ声は変わらないのです。

本来、声は年齢と共に変わるのだが話し方の癖が変わっていないので
そう思うだけかもしれない。
若い時には他人より少し聴覚が優れていたのだが
年と共に高音域が聞こえなくなっている。老人性難聴である。
音の輪郭は高域の音で作られるので
中域の音ばかりだと何度も聞き返してしまう。

昨夜35年ぶりに仕事仲間と会った。
彼は一瞬私の顔を思い出せずに戸惑った。
他の友人が一緒に仕事した稲葉さんだと言ってもキョトンとしていた。
きっと彼は彼なりに私が会社を辞めた後に、
沢山の出会いと沢山の仕事をして、
どこのだれか分からなくなってしまっていたのである。

それも仕方のないことだと諦めていたら、
私の話し声で当時の仕事を克明に思い出し始めた。

そんな彼からそうだ稲葉さんは妖怪の一種だと言われた。
どこのレコード会社にもいないパワーと企画力を持っていた。
他社の大物アーティストまで平気でひっぱり込んでくる。
その為、現場は恐る恐る大物アーティストと作業を進めてきた。

でも稲葉さんの「売るぞ」と決めたら必ずヒットにした実績は凄かった。
稲葉さんの場合は曲のよしわるしよりも気合で売ってしまう。
雑誌社の特集も放送局のヘビーローテーションも代理店のCMも
必要であれば必ず取って来る。

彼は完全に私を思い出して私の独特の話ぶりと理屈を懐かしがってくれた。
その夜後輩は喉頭がんを患いドクターストップがかかっているにも
関わらず酒を飲み続けた。
何度も何度も私の年齢でこの元気さと体調に目を丸くしていた。
やっぱり妖怪だと言い続ける。

私が2000年に入り韓国で映画会社を作り
韓流ドラマを日本へ紹介したことや、
その後に北京に出向いて音楽事務所を作り、
女子十二楽坊の大ヒットを作ったことや、
今でもアジア各地を飛び回っていることに、
やはり妖怪だ!妖怪だと!連呼していた。

この年齢のお決まりの話題と言えばふつう同僚の病院通いの話と、
先輩たちが亡くなった話である。聞けば同僚も大勢亡くなった。
しかし、私たちのチームには私とは別に
妖怪一号が存在していてまだ元気なことを知った。
妖怪一号は、現在現役を退き芥川賞を狙い小説を書いている
とのことで、80歳を前にして相変わらず妖怪ぶりを発揮している。

当時、その妖怪上司がいつも無理難題な仕事を持ってくるのだが、
みんなは反対するのに稲葉さんは全部引き受けてしまう。
その為に稲葉さんの部下は土・日も夜もなく働き詰めだった。
今なら完全にパワハラで訴えられていただろうと
ほろ酔い加減で話してくれた。

そして我々の会社の他のチームにはもう一人大妖怪も存在していた。
業界でも有名なプロデューサーで数多くのヒット曲を残している。
その後、紫綬褒章も受賞した人だが残念なことに数年前に亡くなった。

普通の社員はあまりにも強いオーラを放すので、
怖くて近づけない存在の人であった。

そんな人でも稲葉さんは恐れずに、
旅行に行ったり一緒にパーティーを開いたり、
休み時間にはその人の部屋でのんびりとお茶を飲んでいた。
この妖怪三人組は会社でも音楽業界でもいつも噂になっていた。

時代が変わる時には規格外れの人間が圧倒的な勢いで変えてしまう。
常識の尺度では測れない強さで世の中に挑戦状を突きつける。
そして周りに迎合しない分だけ嫌われる。
好かれるよりも嫌われる方が数倍エネルギーを使う。

岡本太郎も「好かれるヤツほどダメになる」と書く、
みんな自分を大事にしすぎる。自分に甘えているんだ。
ほんとうに自分の在り方を、外につき出していない。
だから、裏目が出てきてしまう。
自分でもそれを感じるだろうし、相手も感じて、
深くつきあおうという気にならない。
相手に会わしてばかりの好かれる奴はロクなものでもない。

我々妖怪三人組は社内外おいて嫌われまくったのである。
しかし周りはいつも仕事を欲しがる人で溢れていた。
メディアも広告代理店もファッション関係者も
さまざまな人が会いに来てくれた。

私にとっては楽しい時間であったが、家族やスタッフには
迷惑をかけてばかりの人生だったのかもしれない。
勿論、多くの事務所関係者やアーティストとタレントにも迷惑をかけた。

その夜は妖怪話で盛り上がった。
今度はどの業界で妖怪ぶりを発揮しようかな?笑い


「直接事例」人の心は数字で動かない




アメリカでこのような実験がなされた。
参加者はアンケートにすべて回答したら5ドルもらえると告げられた。
アンケートは実験とは何の関係もない。回答を終えると、
彼らは5ドルを現金で受け取った。ただし、その現金が入った封筒には、
国際援助団体のセーブ・ザ・チルドレンから寄付を募る手紙が同封されていた。
それにはアフリカ南部で起きている食糧危機について書かれており、
参加者はその手紙をじっくりと読むように指示された。

一つのグループの封筒には「マラウイで食料が不足し、
300万人以上の子供達が苦しんでいます。
アンゴラでは400万人が、家を捨てて避難せざる状況に追い込まれています」
というものなのだ。平均1・17ドルの寄付。

別のグループの封筒には、統計データを一切与えなかった。
こちらの手紙には、マリに暮らす7歳のロキアという少女とともに、
飢餓のせいで彼女が直面している窮状が描かれていた。
平均2・83ドルの寄付。

何百万人の情報よりもたった1人の情報を提示した方が、
アフリカ南部の食糧危機について説得力があったという
解釈が成り立つ。

テレビでも統計的な数字を専門家が延々と述べることよりも、
街頭インタビューで2〜3人の答える方が説得力を増すということである。
私はこの手の手法をテレビというメディアが、さもしたたり顔で
アナウンサーに述べさせている画面には納得がいかない。

2012年に起こった反日運動の時にも中国人の、
今の反応はと言って北京からの街頭インタビューに答える
2〜3人の市民の顔が映し出された。
中国は14億人が暮らしており、その中の2〜3人の意見を
多数の意見であるかのように報道するのは、
詐欺ではないかと憤りを感じてしてしまう。

しかし上記のアメリカの事例でも分かるように、
大方の人の心を動かすのは大数の法則ではなく
少女の涙の方に心が動かされます。

資本主義社会の「数の論理」では既に心が動かなくなっているのです。
それよりも具体的で身近な事例の方が大衆の心は動くのです。
広告代理店が子供の顔と動物の遊ぶ仕草をCMで取り入れる手法です。
でも、みんなは既にこんな嘘には気づいているのです。

子供達を含めた若者達はどう思っているのだろうか?

若者たちは年齢に応じて就職して、結婚して、子供ができて、
ローンでマイホームを手に入れる。
車も家族のためにワンボックスカーを買いキャンプに出かける。

しかし今の時代は大手企業が簡単に倒産する時代である。
経済的な安定の絶対という保証は誰からももらえない。
だから短絡的に今すぐの幸福を求め奔走するのです。

30年ごとの流行サイクルというデータがある。
トレンド(流行)は、新しい、斬新なモノを作り出すことを目指し、
企業が企画・立案して市場に送り出す。

企画の中心は、ある程度の経験と頭が柔軟な現場の30代で行われるのです。
その時のベースとなっているのが、過去の思春期の10年間に
自分が何を求めていたかを思い出して、現代風にアレンジして企画立案する。

又、意思決定権を持つのは管理職の50代で、全く新しいモノには、
売れ行きのリスクを考え躊躇するのですが、昔、流行ったものは懐古的に、
受け入れ易い傾向があり、明確に20年ではありませんが、
「1世代は30年」、「思春期は10年」をタイムラグと考えると
「20年周期」は、ある程度の説得力のある数字だと言えます。

厚生労働省「令和元年(2020年)人口動態統計月報年計」によると
25年前の1995年時点の平均結婚年齢(初婚年齢)より、
2020年時点で男女とも3歳ほど上昇していて、
夫31.0歳、妻29.4歳で結婚している。

思春期的に考えると、社会がより複雑・多様化し、思春期が終了し、
結婚の決断にも時間がかかる傾向にあると言えます。

過去の平均寿命は男性65歳で、女性68歳というのがあり、
それを逆算して人生設計を考えていました。
結婚は男性25歳女性22歳ぐらいでした。

しかし今は人生100年時代です。
全てが平均的に年を増やす考えを取り入れないといけないのです。
結婚適齢期がずれて出産も平均年齢が30代半ばになっています。
その為に定年退職も今の65歳から75歳にして
就労年数を増やすべきなのです。

それを、選挙権を前倒しにして18歳にしたのは無策の政策です。
一層のこと中学生から選挙権を与えた方が面白くなると思います。
本来は100年時代を考えると選挙権は30歳からでもおかしくないのです。

大数の論理を無視して結果を求めると危険な状況になります。
地球の温暖化も20数年前から言い続けているのに何も変わらない。
二酸化炭素による地球の温暖化で自然災害が増えると数字で表している。
にもかかわらず政府も企業も自分たちの利益ばかりを求めて具体案を出さない。

皆様も決断する時期に来ています。
世界を動かしているのは、自分の思考を動かしているのは、何か。
常識で知っている数の誘惑と、目の前の現実の間には
大きなギャップがあり真実が隠されていることを知るべきです。

SNS内の「直接事例」にも惑わされないようにしてください。
統計を信じるか事象を信じるかはあなた次第です。

ものごとをどうとらえるかの判断力が必要な時代です。