未来から来た留学生




チベットの山奥で広場を囲んで人が集まる。
その真ん中で女の子が踊り始めた。
手拍子から始まり大声で参加する老人たちがいる。
ふとこの場面を見た時に頭に浮かんだストーリーがある。

「僕らが生きている場所」
僕らの村の学校で「世界」を教えられても皆目見当がつかない。
僕が生まれたこの村ではあまりにも「世界」は遠すぎる。
それでも僕らは国の規則で学ばなければならない。
でも何のための学びか分からない。
僕らの声は誰に届くか知らないけれど、
声を上げなければ僕らは消えてしまう。

僕らの村の僕らの先輩が教えてくれたことが正しいのに、
僕らは大人になるたびに「国の法律」に従わなければならない。
電車も通らないこの村で「世界」を相手にできるはずがない。
だから中心地の都会へ来ることが正しいと言われても
戸惑うばかりである。あまりにも「世界」は遠すぎる。

僕らの村には山に囲まれて川が流れて実りもたくさんあるのに、
コンビニの無農薬商品や飲料水を買うのは何故だか分からない。
都会の人と同じ洋服を着て、都会の人と同じ飲み物を飲み、
田んぼの畦道を歩く。こんな滑稽なことが許されずわけがない。
僕らが望んだ憧れの国はこんなものでは無い。

僕らは村で、変わり者で通っているのに誰も咎めない。
コンピューターでプログラミングをしただけなのに、
新しい時代の救世児だと言われても困ってしまう。
これからのこの国をどう思いますかと言われても、
クソ喰らえとしか言えない。
ただ注目を集めて大人が集まってきても
どうすれば良いのか分からない。

僕らは僕らの感じるリズムがある。
空の雲と鳥の囀りと川の流れと大地の響きが村全体に伝わり、
言葉では言えないリズムを感じる。
太陽の日差しを浴びて虫たちと同じリズムを感じる。
そう僕らは都会に憧れを持たない田舎の子供達である。

僕らを大人は出来の悪い子供達と言うけれど、
それで結構である。
これからの時代は僕たちが作るから心配ない。
理想なんてすぐ描けるから明日の未来を作るのは心配ない。
AIなんて田んぼの水すましと同じじゃないか?何を恐れる必要がある。
僕らが生きている場所を誰にも邪魔されたくないさ。

そして僕らの真実を伝えても勘違いも甚だしいと、
笑い飛ばす大人たちがいる。
AIという武器を使えばあなたたちを征服するのは簡単だ。
村に悪のイメージを定着化することは出来ない。
あなたたちは僕らから見ると敗北者なのだ。
言い訳ばかりの現状を見て周りをひとつも見ていない。

無駄な進化は思考の退化に通じる。
昨日までの技術は古くなると捨てられる。
同時に開発者もお役御免になり首を切られる。
いつまでもモルモットの回天車の中で、
走り続けるわけにはいかないのである。

無関心な子が増えて好奇心のない子も増えているという。
何故それがいけないのか分からない。
何も無くても関心を持たなければならないのか。
興味が無いのに好奇心を持たなければならないのか。
僕らはいつでも世界へ飛び出す準備が出来ている。

無関心と無意識の違いは何だろう。
人間として生きるのなら、
関心と意識が大切かも知れないが、
僕らは人として生きたいのだ。
だから無意識でも無関心でも平気なのだ。
人として立ち上がる時には立ち上がることが出来る。

無関心な状況はいつも愛が溢れている。
意識にとらわれずに感性で生きたいのだ。
感性で生きるとは周りの状況が
見えるので未来への道に迷わない。
僕らは人に対しても国に対してもボーダーレスなのだ。

チベットの子供たちのように
子供のころから家の手伝いが当たり前なら
それをするだろうし、村の規律で決まっているなら
それを守るだろう。
何かに意識することも、何かに無関心でも、
やらなければならないことは、
大人に言われなくても出来るのである。

子供は干渉されるから反抗するのであって、
何も言われなければ自分たちでどうにかする。
僕らが生きている場所では大人が暇なのである。
だから文句ばかり言い続けるのである。

僕らは未来から来た留学生なのだ!