「うを水をゆくに、ゆけども水のきはしはなし」現成公案
魚が川や海を泳ぐときに、けっして、あそこまでは泳いで行こうというような、
目標は持っていない。ということである。
道元の提唱する生き方は、「無目的」の生き方である。
先の目的を定めて今日を生きる事では無い。
何も考えずに流れに従いなさいという事である。
苦悩は目的を持つことから始まるからである。
私が、若い人には目的を定めて生きて行きなさいと言っていた言葉の相対する言葉である。
しかし「無目的」という「目的」を持って生きている事に変わりが無い。
禅僧は目的を持って修行をするのではなく、「無目的」で修業を続けることを道元は言いたかったのである。
即ち、魚のように水のきはし(目標と定める位置)を意識しないで泳げと言うことである。
禅僧たちが望む、「悟り」という目標自体が、形の無い物で有るから、形の無い物を目標として、
修行を励む事は意味の無い事であるとの教えである。
唐代の禅僧香厳智閑が、悟りを得られずに悩み苦しんでいた時に、
庭を竹ぼうきで掃いていた所、弾き飛ばされた石ころが竹やぶに飛んで行き、
カランコロンと聞こえた音で悟りを得た話や、
同じく唐代の霊雲禅師は、新しい師を求めて旅をしているとき、
春の季節の山里が目に入り、そこに咲く桃の花をみて「ああ、なんと美しい桃の花」なんだろうと、
自分の一言に悟りを得たという話がある。
「無意識」の中で人間の本来持つ尊い姿を、大自然の中からから呼び覚まされるのである。
所謂、何万冊の経典を読んだところで、何千時間座禅を組んだところで、
何回難行苦行を繰り返したところで、悟りなど得られないのである。
「悟り」という目的を目指すから到達点は無いのである。
「只管打坐」(しかんたざ)ただひたすら座禅せよなのである。
日本を代表する俳人正岡子規が「悟り」について記した言葉がある。
「悟りということは、いかなる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、
いかなる場合にも平気で生きることであった」
二十二歳で肺結核、さらに脊髄カリエスとなり、三十五歳で死ぬまで、
身動きできない病床で、優れた作品を書き続けた正岡子規は、
坂の上の雲にも登場する秋山兄弟の大親友でもあった。
「悟りということは、いかなる場合にも平気で生きていることであった」という言葉に深い感銘を受ける。
しかし、果たして日常の生活で「無目的」に生きてゆくことは可能だろうか。
「無目的」は、将来の財産や地位や名声に執着して生きるなよという教えである。
一人の人間として、精神的な高みを望みながら、人生を全うしなさいという事である。
勿論、生きる為の煩悩にまみれた生活を放棄しろという事では無い。
人は生れた時から、「死」の到達点を見すらえて生きている。
人生における四苦「生老病死」の宿命は消えないのである。
全ての出来事に、慌てず、騒がず、なすがままに生きるだけである。
貧富の差や、地位の上下や、有名無名で、一喜一憂するなということである。
水のきはしを考えずに泳ぐだけである。
先の事を考え過ぎずに、日々、日常を大切に真面目に全うしながら「生きよ」ということである。
9月 16th,2012
恩学 |
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藍染の大判の布切れが押し入れから出て来た。
何処かの町の古物商で買った記憶がある。
購入した当初は、藍染の布切れの上に古い陶器などを並べて楽しもうと思っていたのだが、
実際に部屋に飾り付けをしたら、地味な部屋がもっと地味に成ってしまった。
良くある衝動買いの失敗の例である。
お店で発見した時には、この商品は私を待っていた違いない、
私の為に売られずに残っていたのだと、勝手に解釈して買ってしまった。
そして喜び勇んで家に帰り飾り付けをする。愕然とする。見当違いである。
骨董商では回りがすべて古物に囲まれていたので、
その藍染の布切れが光り輝いて見えていたのだが、
場所が変わるとまるで様相を変えていた。
我が家には何処にも飾り付けする場所が無かった。
そのまま数年間押し入れに仕舞い込んだままにしておいた布切れで有る。
某日、冬服の衣替えの為に衣装ケースを開けたところ、偶然目にとまったので取り出す事にした。
そしてその布切れを広げてソファーに掛けたところ、凄く気持ちが落ち着いたのに驚いた。
まるで遠い昔の恋人と巡り合ったような、懐かしい気分が蘇ってきたのである。
ソファーに座り、友人から頂いた清水焼の高級茶碗を箱から取り出して、
家にある一番高いお茶を入れて飲んだ。
何故か頭の中に井上陽水の「白い一日」が流れて来た。
「真っ白な陶磁器を、眺めては飽きもせず、かといってふれもせず、
そんな風に君の回りで、僕の一日がすぎてゆく」。
青春が風のようにふっと目の前を通り過ぎた。
セピア色のアルバムの匂いがした。
年を取ると時間の観念が変わる。
世の中の動きがゆっくりとして、自然に慌ただしさを避けるようになる。
日常の中でこれといって急激な変化は何にも無くなり、
心が揺れ動く事も無く、好奇心の対象も消えて、同じ時間に、同じ場所で、同じことをする。
そして暮れなずむ人生を眺めながら、反発や葛藤することもなく時の流れに身を任す。
たった一枚の布切れで私の部屋の模様替えが整った。
一つの小さな変化が、心に大きな変化をもたらしてくれたのである。
年を取ると大切な事は、変化を待つのでは無く変化を作る事です。
変化を作る事で思い出した言葉がありました。
作歌の宇野千代さんのお母さんの話だったかと思うのですが、
晩年は何時(いつ)お迎えが来ても良いように、大切にしていた着物や持ち物をすべて処分して、
本当に少ない身の回りの中で過ごされたと聞いています。
亡くなった時に、他人さまが部屋に入った時、くだらない物があふれていれば、
その人の人格や人生が安っぽく思われてしまうからだと言うことです。
そして宇野千代さんにも、とても素敵な言葉があります。
「お洒落をする、或いは気持ちよく身じまいをすることは、生きて行く上での生き甲斐でもある。
ちょっと大げさに言うと、人としての義務である。
お洒落は自分のためにだけするのではなく、
半分以上は、自分に接する人たちの眼に、気持ちよく映るように、と思ってするのだから。」
私もお洒落をする時は自分の為と接する人のことを考えて時節に合った洋服を選びます。
億劫になるとお洒落に無関心に成ります。
着の身着のままで過ごす人も多くなります。
気付かない内に自分の人生の埃を、他人さまに見せることになってしまいます。
周りの人の事を考えると最低限の身だしなみは必要です。
最後までとてもお洒落だった宇野千代さんならではの名言だと思っています。
部屋の模様替えと同時に心の模様替えもできました。
5月 6th,2012
恩学 |
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何故人は簡単に怒るのでしょうか。
一瞬の怒りで人間性が奪われてしまうのです。
怒りの後に満足感はあるのでしょうか。
常に怒る人は怒りの原因を考えた事があるのでしょうか。
怒りという文字の奴(やつ)は女の奴隷を現します。
そしてその奴の下に心が有るのが怒りです。
女の奴隷が緊張を強いられる仕事に従事している不愉快さの事を言うのです。
その怒りは、一体どこから生れて来るのでしょうか。
怒りの元は自我(エゴ)である。私は絶対に正しい。私の考えは間違いない。
私は良識的な人間だと思っているから、他人の言葉にすぐ反応してしまうのです。
注意されると、見下された、意見を言われた、馬鹿にされたという反発心が怒りで現れるのです。
身内にも上司にも同僚にも友人にも、ましてや第三者が自分の事を指摘することは、
どこにも無いと思っているからである。
驕りや慢心とは違う只の無智な解釈なのです。
それが自我(エゴ)である。
それでは怒らない方法はあるのだろうか。
それは自我を取り除けば簡単に済む事である。
相手の意見は正しい、自分が間違っていたのだから直さなければならない。
相手の注意は好意で言ってくれたのだから、感謝しなければならない。
自分の言動に誤りがあったのを指摘してくれたのだから、
これからは気を付けて同じ過ちを繰り返さないようにしよう。
そのように考えれば、怒りは何処からも起こらないのである。
お釈迦さまは「自分の心を、ひびがひとつ入った鐘にしてみなさい」と言っています。
ひびが入っていたら、叩いても鐘の音はしません。
どんな攻撃を受けても、こちらからは怒りの音を出さない事です。
電車の中や街中で怒っている人を良く見かけます。
少しぶっかった人に「邪魔だ」と怒り、動作がゆっくりとした人「どけ」と押しのける。
目を合わせただけの人にも「文句があるのか」と汚い言葉を投げつける。
飲食店でも会社の上司とおぼしき人が酒を飲みながら、若い社員に「無能野郎」と罵声を浴びせ掛ける。
着飾ったOLがウエイトレスに「客を何だとおもっているの」と詰め寄っている。
若者がマナーを指摘されて、「お前に言われる筋合いは無い」と逆切れで店員に殴り掛る。
あちらこちらで怒りの鐘が鳴り響いているのです。
一方的に自分は間違っていない、正しいのだと思い違いをしている事から始まっているのです。
そしてそのような人間は、人前で恥をかかされたと被害妄想をするから怒りのスイッチが入るのです。
怒りは自分も他人も不幸にする。怒り続けて幸福には絶対にならないのです。
「ごめんなさい」「ありがとう」が言える人に怒りは起こらないのです。
このような例もあります。薔薇の花の垣根を見て、ああなんて美しいのだろうと思う。
そして薔薇を摘み取ろうとして刺で怪我をする。
こんな危ない物を垣根にしている持ち主に、文句を言ってやると怒りが生じて来る。
さっきまで綺麗な花という幸福感があったのが、
途端に、私を刺して許せないと言う怒りに変わってしまったのです。
人間は本当に単純な生き物だと思いませんか。
そしてその怒りが周りに不幸を撒き散らしている事になるのです。
愛おしく薔薇の垣根を作って来た人も、それを見て喜んでくれた通行人も、
写真を撮りに来た人も、皆が不愉快な気分になるのです。
怒る人に幸福を破壊する権利等どこにも無いのです。
突き進めて行けば、世の中の、不利益を作る人も、悪い人も、駄目な人も、
危険な人も、許せないから、居なくなれば良いという考えが、戦争なのです。
自分勝手な怒りを戦争にまで発展させるわけにはいかないです。
怒りは破壊だと言う事を覚えておいて欲しいのです。
そして愛が創造です。
愛があれば人間の痛んだ心も修復する事が出来るのです。
決して、俺は弱く無い人間だ、だから怒っているのだ、という間違った考えは持たないで下さい。
「弱い犬ほどよく吠える」例を知れば、恥ずかしくて簡単に怒れなくなると思います。
5月 5th,2012
恩学 |
怒りが幸福を壊す はコメントを受け付けていません
禅語に「莫妄想」という言葉がある。
無学祖元禅師が北条時宗に送った言葉として、
以前、別の文章で紹介をした事が有ります。
何もかもにおいて不要な妄想はするなという事である。
簡単なようでとても難しい。人間起きて動けば当然考えてしまう。
寝ても夢の中で想像を張り巡らし、あれやこれやと妄想しきりである。
その妄想から逃げる手段として「読経」がある。
一心不乱に経を唱える事によって妄想から解き放たれるのである。
しかしこれも一般人には難しい事です。
俗人は経を唱え始めると、途端に心配事が浮かびあがり、
逆に妄想が溢れ出す事になってしまう。
座禅を組んでも同じように、始めて2分~3分もしないうちに妄想が始まる。
果たして通常の生活を営んでいる人間に「無」の境地になる事は可能だろうか。
私は心配事が起こるとすぐに「般若心経」を唱えます。
心の中で唱えながら、妄想するな、妄想するな、妄想しても心配事は消えない、答えは見つからない。
ただ一心不乱に前を向いて歩き続けろと、精神が落ち着くまで唱え続けます。
妄想とは根も葉もない事を考える事である。
根拠の無い主観的な想像や信念を言う。
ちょっとした不安が勝手に膨れ上がり、恐れや失敗や絶望等のマイナスの面が強調されて、
最悪の結末を想像してしまうのが妄想なのである。
北条時宗の場合には、北夷(中国の北に住む野蛮な民族)の精鋭、
蒙古軍の度重なる来襲に怯え、不安の妄想によって苦しめられるのであった。
雷が鳴っただけで怯え苦しむ時宗に向かって、無学祖元禅師が「莫妄想」と一喝したのである。
そして時宗は、その一言により心の迷いから解放されて武将として名を残す事になった。
ナポレオン・ヒルの名著「思考は現実化する」という本がある。
世界的に有名なビジネス書である。
こちらは計画した事を仮想するのである。
妄想と仮想の違いは、根拠の無い方が妄想で、根拠のある方が仮想だという事である。
思考は、すぐには結果に繋がらないが、行動はすぐに結果として生れる。
夢(計画)を描き、その日の達成や、その月の達成を紙に書き続けることによって、
より自分の計画した事が仮想から現実的に近づく。
例えば、仮想で売り上げ目標を設定し、毎日それに向かって行動を繰り返すのである。
1の数字をいきなり100にするのは難しい話だが、
毎日1増やす事を100日間繰り返せば出来ない事は無い。
自分はただひたすら成功(100達成)の仮想を繰り返すのである。
よって誰もが驚く奇跡の成功が、そこから生まれると言う事である。
妄想はマイナスの電流を流し、仮想はプラスの電流を流すと言う風に考えれば良いのである。
あれこれ考え過ぎても身を滅ぼすかもしれない。
しかし何も考えなくては成功も有り得ない。
妄想は悩みである。仮想は活力である。
行動は土に与える栄養で有り、夢は与えられた栄養によって咲く花である。
どちらにしても根拠の無い事に気持ちを取られるよりは、
目に見える現実的な方が安心である。
心を落ち着かせて、妄想の無い人生を歩みたいものです。
5月 5th,2012
恩学 |
心が落ち着く はコメントを受け付けていません
「恩学」の読者から幾つかのお便りが届きました。
とても嬉しくて、この書面にて、皆様にお礼を述べたいと思います。
「萬謝・合掌」です。
「恩学」を始めてから、約一年半が過ぎました。
当初は100編書けば、終了かなと思っていたのですが、
多くの方の励ましにより、書ける間は書き続けようかと思い、
自己の感性の赴くままに文章にしております。
誰かに依頼された訳でもなく、誰かのサポートの為に書くのでもなく、
何かの見返りを求めている訳でもなく、本当に自分勝手な思い込みで、
稚拙な文章を徒然草なるままに書かせて頂いております。
この文章が、少しでも皆様のお役に立てる事が出来れば、とても嬉しく思う次第です。
本当に有難う御座います。
私のブログの中で何回か出て来た言葉があります。
道元禅師の「愛語よく回天の力あり」です。
良き言葉は人生を変えるほどの力を持っているという事です。
又、もうひとつ私の大好きな言葉に、西郷隆盛の「敬天愛人」という言葉があります。
天を敬い、人を愛す。この二つの言葉が私の精神的基軸です。
すべてはこの二つの教えを守りながら人生を不器用に生きております。
お便りの中に感想をコメントにしたいのですが、
文章能力が無くて書く事が出来ません。という方がおいでになりました。
文章を書く上で、とても大切な事は、一に「思う事」二に「言葉にする事」三に「文字にする事」です。
一の「思う事」とは、日常の些細な事柄を気に留めること。
留めないでいると、自分の変化にも、気を留める事が無くなってしまうという事です。
気を留めずにいると「思う事」も少なくなります。
思う事が少なくなると。他人に対しての思いやりも気付かなくなるからです。
思いやりは他人に対してばかりでは無く、自分に対しても必要な事です。
その為に「思う事」を絶対にやめないでください。
二の「言葉にする事」は、先ずは問いかけをする事です。
何故、どうして、何の為に、という問いかけをすれば必ず答えが返って来ます。
大人になると面倒だなと思って問いかけをしなくなります。
実は問いかけから、言葉が生まれて来るのを忘れてしまっているのです。
幼児が親に問い掛けるのは、言葉を覚える為にです。
日常の問いかけを多くすると、あなたの言葉も多くなって来ます。
三の「文字にする事」、これが難しいと言う人が大勢います。
文才が無いから書けないのだと言います。
実は私もお分かりのように文才はありません。
メモにした言葉を繋ぎ合わせているだけです。
文章の専門家からみれば笑われてしまうでしょう。
昔から気に掛る言葉をメモにして取っていました。
映画でもドラマでも街角の会話でも、新聞でも小説でも、ニュースの解説でも、
取合えず気になる言葉をメモしてきたのです。
今でも毎日メモを取り続けています。
そのメモを数年経ってから読み返すと、その当時の心理状態がハッキリと分かります。
何故その言葉に魅かれたのか、何故その言葉をメモしたのか、
まるでアルバムを見るように、一言ずつ蘇って来るのです。本当に楽しいですよ。
「恩学」はそのようにして出来上がっている文章です。
沢山の出会いと、沢山の感動と、沢山の書物から、
生れて来た言葉が、繋ぎ合わさっているだけです。
機会があれば、「恩学」の読者の皆様とも交流会を開きたいと願っております。
直接お会いして、お話をさせて頂ければ、
また新たな「恩学」の文章が生まれると確信しております。
「一期一会」の御縁が生まれる事を願っております。
皆様の、今後益々のご健康とご健勝を御祈念いたします。
これからも、お便りをお待ちしております。
併せて応援よろしくお願い申し上げます。
恩学プロデューサー 稲葉 瀧文
5月 5th,2012
恩学 |
お便り はコメントを受け付けていません
「からことば」は普段何気なく使っている言葉です。
「お元気ですか」「大丈夫」「相談に乗るよ」「今度食事でもしましょう」
感情を込めずに口先だけの軽い言葉です。
送る方も空言葉に感情入れず、受ける方も空返事で感情を込めずに使っています。
日常の中の大切な場面でも、沢山の空言葉があります。
それは、同情の言葉、お悔やみの言葉、別れの言葉に感じられます。
言葉上では体面をつくろっているのですが、心の表現が成されていません。
残念なことです。最近、この空言葉をよく耳にします。
世の中が殺伐としているからでしょうか。
それとも不景気で明るい話題がないせいでしょうか。
国の将来に夢を持てないせいでしょうか。
政治家が何も問題を解決しないからでしょうか。
言葉に気持ちを込める場面を失ってしまったようです。
街では溌剌(はつらつ)とした若者の声を聞く事が少なくなりました。
勿論、奇声を発している若者(馬鹿者)達は大勢いるのですが。
「よし分かった」「頑張ろう」「絶対勝ち抜こうぜ」「元気に行くぜ」等の、
ポジティブでエネルギッシュな声を聞く事が、本当に少なくなりました。
若者達に声を掛けても、生返事の頼りない言葉しか返って来なくなっています。
その責任は彼らでは無く、そのような環境を作ってしまった、
我々大人なのだと反省をしなければなりません。
経済成長のみを考えて来た、団塊の世代の大人達(両親世代)が、
若者達の意見を無視して過ごして来たからだと思います。
何を言ってもどうせ反対されるなら、何も言わない方が良いと思いこませてしまったのです。
堅い鉄も一方的に叩けば曲がってしまいます。
ましてや柔らかい若者を叩けばつぶれてしまうのです。
大人達の都合だけで若者達を追い込んでしまったのです。
本当に申し訳なく思っています。
筑紫哲也さんのラストメッセージ「若き友人たちへ」の中に、この様な内容の文章がありました。
「若者たちが良く使う、婉曲話法の「ていねい語」です。「~してもらってよいですか」
「~でよろしかったでしょうか」等の言葉です。
それは若者たちの心優しさを表しているひとつの例だと言ったら、
当の若者たち、そして大人たちはどう反応するでしょうか。
“大人主導”の若者論がこれに賛同しないことは目に見えています。
言葉遣いでさえ他者を傷つけることを恐れて、丁寧な話し方をする若者がふえている一方で、
見も知らぬ他者を殺傷する若者がいる。
厄介なのは、もしかしたら彼らも日常では
「~していただいてよろしいでしょうか」としゃべっていたかもしれないことです。
やさしい若者たちが他者を傷つけることを恐れ、
自分がそういう役になることで傷つくことを恐れていると思うのです。
そこから反転して無差別殺人者がでるのは別の説明が必要ですが・・・・」(集英社新書)
若者達の「ていねい語」は、
あきらかにこころのガードをするための言葉として使っているのが分かります。
大人達の「空言葉」も、おなじようにこころのガードをしながら、
その場を丸く収めたいという気落ちで使っているのでしょう。
若者も大人もこころが傷つく事を一番恐れているのです。
本音を言わないで我慢していると、こころの置き場所が無くなってしまいます。
人間関係は一定の距離を保つのは礼儀ですが、あまりに距離がひらき過ぎると、
逆に失礼になることも覚えていて欲しいと思います。
先日、突然、私の友人から小荷物が届きました。
中には、ギッシリとコーヒー豆、ミネラルウォーター、
温めるご飯、韓国海苔、化粧水まで入っていたのです。
前日に電話の雑談の中で、
少しだけ経済的に辛い状況と最近肌荒れがすると会話をしたのです。
一言「大変ですね」と言葉を掛けてくれました。
そして、その次の日に、これ等の品物を送ってくれたのです。
何故か、笑えるやら、恥ずかしいやら、有り難いやら、泣けるやらでした。
少ない言葉と、その言葉を裏付ける行為が伴っていたから、
涙がでるほど嬉しかったのです。
親切はやり過ぎたら嫌味になるし、高価な物だと相手に負担を強いる事になります。
やさしい言葉と送り主の人柄がにじみでた贈り物に、こころのシャツターが押されました。
忘れない思い出となるでしょう。
とても大切な事です。「空言葉」に気付いている人は、
試しに両親や友達や身近な人に、さりげない贈り物をしてみて下さい。
どれほど大きな効果があるか分かると思います。
勿論、「空言葉」ではなく、真剣にお話を聞いた後に送る事が大切です。
3月 3rd,2012
恩学 |
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東急田園都市線に鷺沼という駅がある。
人口1万500人程度の小さな新興住宅地である。
鷺沼の駅を出て右に曲がるとなだらかな坂道が続く。
両側一杯に広がった見事なまでの桜並木で有る。
今は季節が違うので開花はしていないが、
きっと春には満開の桜を楽しむ事が出来るのだろうと予測ができる。
坂は西側に面しており近隣の桜よりも開花が遅く、
その為に「春待坂」と命名したと書かれていた。
「春待坂」、何故か辛い人生を物語るような響きが好きである。
徳川家康の言葉に「人生は重荷を背負うて長い坂を上がるようなもの」というのがある。
そんな過酷な人生の坂にも「春待坂」のような一年一度の楽しみがあれば、
笑いながら乗り越えることが出来たのでしょうね。
万葉集の中にも「桜花時は過ぎねど見る人の恋の盛りと今し散るらむ」(作者不詳)がある。
桜は一番美しい満開の時から散り始める。
衰えるのを待つよりも、花見の客が美しさに満たされた時にこそ、
散る時期と知っているかのようである。
この散り際の潔さに日本人の心が揺れ動くのです。
耽美主義の作家、三島由紀夫の「滅亡するからこそ美は成り立つ」に言い表されています。
鷺沼を含む、東急田園都市線と多摩地区を舞台にした、日本で最初のトレンディードラマがあります。
1983年TBSテレビで放映された「金曜日の妻たちへ」です。
オシャレな郊外の住宅地に住んでいる人々の、
核家族間の交流とそこに起きる不倫を題材にした内容だったと思います。
いしだあゆみ、小川知子、篠ひろ子、森山良子等が出演していました。
当時は大変話題になった作品です。
日本全国一億総中流家庭を目指していた時代です。
都心には住めないサラリーマンが、大挙して郊外の住宅地に移り住んだ時代です。
高層マンションよりも一軒家に住む事に憧れを感じた、
団塊の世代の象徴だったような気がします。
同時に隣近所で見栄を張っていた時代です。みんなが不倫をしていた訳ではないのですが、
どこかに、そんな浮かれた気持ちがあったのでしょうか。
競争社会で疲れたサラリーマンの叶うことの無い儚い夢だったのかもしれません。
私の友人がプロデュースした二子玉川の街は、トレンディースポットとして大変人気を博しました。
多くの芸能人やスポーツ選手が集まる最新の場所だったのです。
あの頃はすべてが春を待つのではなく無理やりに春を作っていたような気がします。
国の経済政策に乗せられて壊れやすい豊かさを味わっていた時代です。
その後、一気に坂道を下るようにしてバブル崩壊の時代へと転げ落ちて行きました。
今日も鷺沼の「春待坂」をサラリーマンが、学生が、小さな子供の手を引いた主婦が、
杖を付いた老人が、息せききりながら急な上り坂を歩いています。
来る年の桜吹雪が舞う春を待ちながら!
12月 1st,2011
恩学 |
春待坂 はコメントを受け付けていません
先日中国のドラマをみて懐かしい言葉を想いだしました。
中国の哲学者の言葉です。ある地主が御者を募集していたところ、熟練した御者が応募して来ました。
地主は御者に質問をしました。「あなたは今までに一度も転んだ事は無いのですか?」。
御者は答えます「勿論です。今までに一度も転んだ事はありません」
結局、地主はその御者を雇う事はしませんでした。
それは一度も転んだことの無い御者は最高の御者では無いからです。
挫折があるからこそ慎重になる。そして注意深く判断する。無理もしない。
結果、無事に目的を達成するという事である。
挫折を経験したことの無い人は、本当の成功を手にする事は出来ないとまで言っています。
アメリカの投資家が、もっとも投資の対象に選ぶのは、挫折を経験した経営者に対してである。
というのを聞いた事が有ります。いかに挫折が人間を成長させるかが分かる話だと思います。
又、理想が高すぎるのは理想が無いのと同じだとも言っています。
大変深い意味のある言葉です。空の星を取ろうとして屋根に登り、竹竿を振り回す男と同じです。
それよりも望遠鏡を買ってきて覗きこむ方が現実的です。
大きな志は、間違った情熱で間違った方向へ進むこともあります。
私も講演でよく言うのは、現実感や実現性の無い理想や志は、何も知らない無智な人間と同格である。
言葉に酔いしれて吹聴しているだけの人間には成ってはいけないと伝えています。
その時によく使う禅の言葉があります。「看脚下・破草鞋」という言葉です。
「看脚下」は、困った時には、足元を見ろ、地に足がついているか、浮き足だった気持ちでは、
何をやっても成就はしない。暗闇を歩く時には先ずは足元を見なさいという事です。
「破草履」草履が破れるぐらい努力をしなさいという事では無くて、
草鞋が破れているのも気づかぬぐらいの無心の境地で、一心不乱に取り組みなさいという事です。
そこには全ての煩悩が取り除かれた無一物が存在するのです。
目標を掲げ過ぎて先に気持ちを置き過ぎないようにしなさい。
目の前の事、現実を見る事が、今の足元を見る事になります。
一心不乱に物事に興じている人間にこそ結果が付いてくる。
理想という池を眺めながら惰眠を貪る事はするな。
目を覚ましなさい。
私が常に言っている、理想や志、目標と目的の違い、正鵠を射る考えは、
学問として教えているのでは無く、知識として教えているのです。
知識は使って試すから知識なのです。成功や成果は生きる事に困難な人を好みます。
本物の知識は志が高すぎる人を避けるものです。
7月 28th,2011
恩学 |
挫折と成功 はコメントを受け付けていません
アヒルの群れの中で生れたひな鳥が、他のアヒルの子に似ていないと言う理由でいじめられる。
アヒルの親は七面鳥のひなかもしれないと判断した。
周りのアヒルからあまりに辛く当られることに耐えられなくなったひな鳥は家族の元から逃げ出すが、
他の群れでもやはり醜いといじめながら一冬を過ごす。
生きる事に疲れ切ったひな鳥は、殺してもらおうと白鳥の住む水地に行く。
しかし、いつの間にか大人になっていたひな鳥はそこで初めて、
自分はアヒルではなく美しい白鳥であったことに気付く。
デンマークの童話作家で詩人のハンス・クリスチャン・アンデルセンの作。菊池寛訳。
誰でも知っている「みにくいアヒルの子」の物語です。
全ての物語は、暗い過去から明るい未来へ、奇跡の扉が開くストーリーです。
過酷な運命に翻弄された人が幸福になる姿をみると、自分達も本当に幸福を感じる事が出来るからです。
韓国のドラマや映画はこの題材を多く取り入れています。
昔、世界中の女性のハートを虜にしたハーレークイーンロマンスとういう小説も、
同じように過酷な人生から一変して、突然目の前に王子様があらわれるストーリーでした。
私は、この様な小説やドラマの内容に、少しだけ腑に落ちない事があるのです。
それは幸福になる主人公の反対側に存在する不幸になる人の事を思うからです。
裕福な家に生まれ我儘に育った女の子が、同じ境遇の金持ちの男性を好きになる。
家柄を重んじる両親も祝福して婚約もする。誰が見ても似合いのカップルである。
しかし、そこに悲劇のヒロインである主人公が登場する。
苦労をしながらもけなげに生きるヒマワリのような女の子である。
金持ちの男性は過去に出会わなかったタイプの女性に心を奪われる。
突然、婚約を破棄して不幸な女性と一緒になる。
どうしても金持ちの子が悪者で、貧しい子を善人にする考えが、差別のような気がしてならないのである。
金持ちの家の子は傲慢で我儘である。生意気で自己主張が激しく非情である。
それは金持ちの環境で育ったからである。
貧しい家の子は、堪えることを知っているから慎み深い。
人から苛められた分だけ、他人に優しくすることも出来る。
本音を出さずに笑顔で過ごす事も知っている。それは貧しい環境で育ったからです。
金持ちが悪いのでもなく貧乏人が良いのでもない。
要するに人間性の確立が出来ていたかが大切で、現在の環境を重要視する必要は無いのである。
それ故に、アヒルは悪くて白鳥は良いという事にも繋がらない。
一瞬の恋愛で、貧しく育った女の子が金持ちの男性と結婚して、本当に幸福を掴む事が出来るのでしょうか。
「みにくいアヒルの子」は、いきなり白鳥になり本当に幸福を掴んだのでしょうか。
アヒルの母親に感謝する気持ちは無かったのでしょうか。
アヒルの兄弟との間には辛い思い出だけが残ったのでしょうか。
アヒルの池の環境はそれ程劣悪な状況だったのでしょうか。と考えてしまいます。
人生において大切の事は、差別はしてはならないが、区別をしなければならないという事である。
その区別が分かれば大きな問題は残らないのである。
金持ちは金持ちで良いし、白鳥は白鳥で良い。貧乏人は貧乏で良いし、アヒルはアヒルで良いのである。
ドラマや映画の最後には、金持ちの男性が女性の気持ち(本音か疑わしい)を察して、
よく財産を放棄するシーンが描かれます。
貧しい生活でも「真実の愛」を一生育てられると考えているからです。
観客の女性はハンカチを出して、とめどない涙を拭きます。
これが世界で一番離婚率の高い韓国での話だから、腑に落ちないのかもしれません。
7月 27th,2011
恩学 |
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通俗史家ウェルズは、ネロやカリグラのような史上有名な某君は、
一見まことに異常人間のように見えるが、絶対的権力を握れば
だれでもそうなりうると述べている。
「権力を握れば三年で馬鹿になる」という言葉があるが、まさにその通り、むしろそれが普通である。
「旧約聖書」の「伝道の書」に次のような言葉がある。
「貧しくて賢いわらべは、老いて愚かで、もはや諌めをいれることを知らない王にまさる。
たとい、その王が獄屋から出て王位についた者でも、
また自分の国に貧しく生れて王位についた者でも、困った事に権力はしばし人を、
わきまえのない子供以下にし、善悪の判断さえつかなくしてしまう。」
山本七平「帝王学」より
困った事に日本の政治家も子供以下の発言で世間をにぎわしている。
鉢呂経産相 「死の町」「放射能うつしてやる」
私は原発から3キロ圏内を視察した。
ひとっ子1人いない様子を見て、私にはああいう表現しか思い浮かばなかった。
申し訳ないし、反省している。
松本龍復興担当相「俺は九州の人間だから何市が何処の県かはわからない」
「いいか先に客を待つのが礼儀だろ」
「県で考えろ、そうしないと我々は何もしないからな」
「今のはオフレコです。みなさん絶対に書いたら、
その社は終わりだからね」
太田農水相 「集団レイプする人はまだ元気があるからいい」
柳田法務大臣 「国会では二つの答弁を覚えておけばいい」
「個別の事案についてはお答えできない」
「法と証拠に基づいて、適切にやっているから」
その昔自民党の法務大臣の発言にもこのような言葉がりました。
「男女雇用機会均等法」の時に「女も立ち小便ができるようになってから来い」
池田勇人という大蔵大臣も「貧乏人は麦飯を食え」で話題になりました。
軽い言葉や間違った言葉は、心の中にあるから不意を突いて出て来るのです。
正しい学問(言葉)を学ばなかった人間が、大臣職に就くのを許して良いのだろうか。
麻生太郎元総理大臣は、漫画やアニメが好きで漢字が書けない、
読めない、一国の首相として恥ずかしさを通り越している。
総理大臣として投票した人は何を基準に選んだのか教えてほしいものである。
政治家の発言は国内だけの問題では無い。海外のメディアも注目しているのである。
帝王学の中の「権力を握れば三年で馬鹿になる」。
日本の政治家は三年も掛けずに、即、馬鹿になるのである。困ったものである。
不思議な事に努力をしている時にはボロが出て来ないのに、
権力者になるといきなりボロが出てしまう。
それが人間の本性であり落とし穴なのである。
7月 26th,2011
恩学 |
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