無目的

 

「うを水をゆくに、ゆけども水のきはしはなし」現成公案

魚が川や海を泳ぐときに、けっして、あそこまでは泳いで行こうというような、
目標は持っていない。ということである。

道元の提唱する生き方は、「無目的」の生き方である。
先の目的を定めて今日を生きる事では無い。

何も考えずに流れに従いなさいという事である。
苦悩は目的を持つことから始まるからである。

私が、若い人には目的を定めて生きて行きなさいと言っていた言葉の相対する言葉である。

しかし「無目的」という「目的」を持って生きている事に変わりが無い。

禅僧は目的を持って修行をするのではなく、「無目的」で修業を続けることを道元は言いたかったのである。
即ち、魚のように水のきはし(目標と定める位置)を意識しないで泳げと言うことである。

禅僧たちが望む、「悟り」という目標自体が、形の無い物で有るから、形の無い物を目標として、
修行を励む事は意味の無い事であるとの教えである。

唐代の禅僧香厳智閑が、悟りを得られずに悩み苦しんでいた時に、
庭を竹ぼうきで掃いていた所、弾き飛ばされた石ころが竹やぶに飛んで行き、
カランコロンと聞こえた音で悟りを得た話や、

同じく唐代の霊雲禅師は、新しい師を求めて旅をしているとき、
春の季節の山里が目に入り、そこに咲く桃の花をみて「ああ、なんと美しい桃の花」なんだろうと、
自分の一言に悟りを得たという話がある。

「無意識」の中で人間の本来持つ尊い姿を、大自然の中からから呼び覚まされるのである。

所謂、何万冊の経典を読んだところで、何千時間座禅を組んだところで、
何回難行苦行を繰り返したところで、悟りなど得られないのである。

「悟り」という目的を目指すから到達点は無いのである。
「只管打坐」(しかんたざ)ただひたすら座禅せよなのである。

日本を代表する俳人正岡子規が「悟り」について記した言葉がある。

「悟りということは、いかなる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、
いかなる場合にも平気で生きることであった」

二十二歳で肺結核、さらに脊髄カリエスとなり、三十五歳で死ぬまで、
身動きできない病床で、優れた作品を書き続けた正岡子規は、
坂の上の雲にも登場する秋山兄弟の大親友でもあった。

「悟りということは、いかなる場合にも平気で生きていることであった」という言葉に深い感銘を受ける。

しかし、果たして日常の生活で「無目的」に生きてゆくことは可能だろうか。

「無目的」は、将来の財産や地位や名声に執着して生きるなよという教えである。
一人の人間として、精神的な高みを望みながら、人生を全うしなさいという事である。

勿論、生きる為の煩悩にまみれた生活を放棄しろという事では無い。

人は生れた時から、「死」の到達点を見すらえて生きている。
人生における四苦「生老病死」の宿命は消えないのである。

全ての出来事に、慌てず、騒がず、なすがままに生きるだけである。
貧富の差や、地位の上下や、有名無名で、一喜一憂するなということである。

水のきはしを考えずに泳ぐだけである。

先の事を考え過ぎずに、日々、日常を大切に真面目に全うしながら「生きよ」ということである。