怒りが幸福を壊す

 

何故人は簡単に怒るのでしょうか。

一瞬の怒りで人間性が奪われてしまうのです。
怒りの後に満足感はあるのでしょうか。

常に怒る人は怒りの原因を考えた事があるのでしょうか。
怒りという文字の奴(やつ)は女の奴隷を現します。
そしてその奴の下に心が有るのが怒りです。

女の奴隷が緊張を強いられる仕事に従事している不愉快さの事を言うのです。

その怒りは、一体どこから生れて来るのでしょうか。
怒りの元は自我(エゴ)である。私は絶対に正しい。私の考えは間違いない。

私は良識的な人間だと思っているから、他人の言葉にすぐ反応してしまうのです。

注意されると、見下された、意見を言われた、馬鹿にされたという反発心が怒りで現れるのです。
身内にも上司にも同僚にも友人にも、ましてや第三者が自分の事を指摘することは、
どこにも無いと思っているからである。

驕りや慢心とは違う只の無智な解釈なのです。

それが自我(エゴ)である。

それでは怒らない方法はあるのだろうか。
それは自我を取り除けば簡単に済む事である。

相手の意見は正しい、自分が間違っていたのだから直さなければならない。
相手の注意は好意で言ってくれたのだから、感謝しなければならない。

自分の言動に誤りがあったのを指摘してくれたのだから、
これからは気を付けて同じ過ちを繰り返さないようにしよう。

そのように考えれば、怒りは何処からも起こらないのである。

お釈迦さまは「自分の心を、ひびがひとつ入った鐘にしてみなさい」と言っています。
ひびが入っていたら、叩いても鐘の音はしません。

どんな攻撃を受けても、こちらからは怒りの音を出さない事です。

電車の中や街中で怒っている人を良く見かけます。
少しぶっかった人に「邪魔だ」と怒り、動作がゆっくりとした人「どけ」と押しのける。

目を合わせただけの人にも「文句があるのか」と汚い言葉を投げつける。
飲食店でも会社の上司とおぼしき人が酒を飲みながら、若い社員に「無能野郎」と罵声を浴びせ掛ける。

着飾ったOLがウエイトレスに「客を何だとおもっているの」と詰め寄っている。
若者がマナーを指摘されて、「お前に言われる筋合いは無い」と逆切れで店員に殴り掛る。

あちらこちらで怒りの鐘が鳴り響いているのです。

一方的に自分は間違っていない、正しいのだと思い違いをしている事から始まっているのです。
そしてそのような人間は、人前で恥をかかされたと被害妄想をするから怒りのスイッチが入るのです。

怒りは自分も他人も不幸にする。怒り続けて幸福には絶対にならないのです。

「ごめんなさい」「ありがとう」が言える人に怒りは起こらないのです。

このような例もあります。薔薇の花の垣根を見て、ああなんて美しいのだろうと思う。
そして薔薇を摘み取ろうとして刺で怪我をする。

こんな危ない物を垣根にしている持ち主に、文句を言ってやると怒りが生じて来る。

さっきまで綺麗な花という幸福感があったのが、
途端に、私を刺して許せないと言う怒りに変わってしまったのです。

人間は本当に単純な生き物だと思いませんか。
そしてその怒りが周りに不幸を撒き散らしている事になるのです。

愛おしく薔薇の垣根を作って来た人も、それを見て喜んでくれた通行人も、
写真を撮りに来た人も、皆が不愉快な気分になるのです。

怒る人に幸福を破壊する権利等どこにも無いのです。

突き進めて行けば、世の中の、不利益を作る人も、悪い人も、駄目な人も、
危険な人も、許せないから、居なくなれば良いという考えが、戦争なのです。

自分勝手な怒りを戦争にまで発展させるわけにはいかないです。

怒りは破壊だと言う事を覚えておいて欲しいのです。

そして愛が創造です。
愛があれば人間の痛んだ心も修復する事が出来るのです。

決して、俺は弱く無い人間だ、だから怒っているのだ、という間違った考えは持たないで下さい。

「弱い犬ほどよく吠える」例を知れば、恥ずかしくて簡単に怒れなくなると思います。