花枯れ

 

中里恒子の「時雨の記」を読んだ。

以前から特に読みたかったのだが、
読む機会を逸した本である。

書籍紹介で内容の一文を読み、
心魅かれたのだが手に取る事は無かった。

きっと読みたくなる時期に巡り合うだろうと、
自然の成り行きに任せていたのだ。

それが満を持してやって来たのである。

読みたくなって本屋を捜し歩いた。
やっと見つけて徹夜で一通り読んだ。

気になる文章は全てポストイットをべたべたと張り付けた。

次回はポストイットの張った所を重点的に読み返す。

そして、少し時間をあけてから、読む環境を整えて
映画のように読み返す。

勿論、吉永小百合と渡鉄也で映画化された事は知っている。

しかし読書の醍醐味を味わう為に映画は決して見ない。
文字から浮かんでくる印象が、映像と違ったら、
折角の良書もお蔵入りになる事になるからである。

又、秋の夜長の読書の楽しみがひとつ増えた。

「時雨」とは過る(すぐる)ということで、突然降りだした雨の事を言う。
秋から初冬の初め頃に降ったりやんだりする雨のことだ。

万葉集の「時待ちてふりし時雨の雨止みぬ」や、
新古今和歌集の「下紅葉かつ散る山の夕時雨」がある。

女性の流す涙「袖の時雨」や「片時雨」「小夜時雨」等、
時雨には情緒ある言葉が多くある。

「時雨の記」は人生の時雨である。

男と女の時雨である。
粋な侘び寂びの恋である。

谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」ではないが、
「東洋人は己れの置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじようとする風があるので、
暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方ないものとあきらめてしまい、
光線が乏しいのなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、そのなかに自らなる美を発見する。」

男女の色恋沙汰も陰影礼讃に通じるものがある。

「時雨の記」

毛氈の上に出してある茶碗や、香合や、茶入れをひと通り見て、
二つ三つ脇にどけました。

それから壬生は、「こんなもの、捨ててしまいなさいよ、」
「どうして、」「あんたがもっているには、ふさわしくない、
高いの、安いの、ということではありませんよ、僕がいやなんだ、」

「あなたのものでもあるまいし、」
「……そんなことは万万ないけれど、もしもだね、
あなたの亡(な)いあとに、誰かが、この道具を見るとしよう……
そうすると、あなたの持っているいい品まで、下(さが)る……」

多江はどきりとしました。稽古用にと、
たしかに下(くだ)らないものも幾つか数を揃え、
多江自身、気に入らないものでも、数として、ひと通りは揃えてあるのでした。

たしかに、身一つの自分が、そういう立場になったとき、
ただ数だけ揃えてあったところで、どこに執心が残ろうか。

好きなものを、二つでも、三つでも、多江らしいと言われるものを残したほうが、
どんなにか、すっきりするであろう、すぐ、それは、多江の心を波立たせました。

「ずいぶん、容赦のないことを仰言る……でも、それは、あたしも考えていました」

壬生は、笑い出して、
「そんな深刻がるには、及ばないよ、
あなたの始末は、僕が、必ずする、
僕は、あなたを残しては死なないから」
多江は、胸を突かれました。

壬生の遠慮の無い言葉に、
これが色恋沙汰というものではなかろうかというほどの、
一つの証明のような気がしました。

私の好きな道元の正法眼蔵隋文記に
「花は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」
花は惜しんでも散ってしまい、草は放っておいても、嫌っていても生い茂って来る。

それが「生」というものである。という言葉がある。

恋も人生も惜しまれている時が潮時なのかもしれません。

花枯れを逃して執着し過ぎると醜悪を曝す事にもなりかねません。
中里恒子さんの「時雨の記」期待通りの内容でした。

夕暮れに時雨を受けながら、人生の儚さと美しさに、乾杯で有る。