堕落論

 

終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、
自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。

人間は永遠に自由では有り得ない。
なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。

人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。

人間は堕落する。義士も聖女も堕落するそれを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救う事は出来ない。
人間は生き、人間は落ちる。その事以外の中に人間を救う便利な近道はない。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。

人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。
なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。

人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなるものであるが、堕ち抜く為には弱すぎる。
人は正しく堕ちきる道を堕ちきることが必要なのだ。

そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。
堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。坂口安吾の「堕落論」より

現状の日本を憂いている時に坂口安吾の「堕落論」を読み直した。

血気盛んな青春時代にこの本を理解する事は難しかった。
あの頃は純粋に憧れ、身代りに義を感じ、処女に純粋を求め、美しい物は美しいままで存在して欲しと願っていた。

永遠の正義という御旗に誓いを立てていたのである。

堕落して分かる真実なるものが、本当にあるのかが想像できなかった。
それは、街にみにくい堕落した男女が溢れていたからである。

その中に入り込むなど到底考えられなかった。

そして、そこに人間としての真理や自由があるとは思えなかったからである。

「人は正しく堕ちきる道を堕ちきる事が必要だ」と言われても、堕ちる事に正しいという道筋があるのだろうか。
あるとすればそれは決して堕落ではなく自堕落ではないだろうか。

運命や宿命によって決められた、抵抗なき人生が、その道筋なのかもしれない。

購うことなき絶望、それを甘受して、立ち上がれないほど打ちのめされ、
煩悩の世界が立ち切れてから、香煙の先に現れて来るのかもしれない。

果たして我々は現在堕ちきった人生を過ごしているのだろうか、
悩みはある、苦労もある、精神的な痛みもある、将来の行き詰まりを感じながら、
身動きが取れない状態にもなっている。

しかしそれは堕ちきっているわけではない。
「人も国も堕ちきってからでないと救われない」という。

それでは堕ちきる為の入り口は何処にあるのか、探し出さなければならない。

そして人間の持つ本来のエゴを揺り起こさなければならない。
無様な姿を曝け出し肉体の塊とならなければならない。

正義と云う国の力で押しつぶされて、愛と云う言葉で裏切られ、豊かさの代償で破壊されて、
怯えたままの姿で、いつまでもうずくまるのか。

美しい物は永遠では無い、開花した花は枯れるのである。
美名も長く留まると醜名になる。処女も男を知った時点で娼婦となる。

枯れるのである。腐るのである。堕ちきった所から、
新たな人生の価値観が生まれ、自由になれるなら堕ちてみよう。

恐れるな、その手すりから手を離せ、そして救われるんだ。

堕落が復活への第一歩であるならば、奈落の底まで堕ちてみよう。