あなたの価値




自分の学歴、仕事の経験、取得したスキル、
また業種によっては、性格や容姿も加わります。
就職面談の時に聞かれる質問内容が「何故この会社を選んだのか?」
「あなたの魅力を教えてください?」「将来何を望んでいるのか?」
マニュアルに沿ってこれらを笑顔で答えて
担当官は私の価値が分かるのでしょうか?
果物の選別のように見た目の一瞬で等級を決めているだけですよね。

入社が決まったら適材適所へ配置するから心配しないで良いですよ。
と言われても適材適所の意味が分からない。
ここで私が苦手な場所へ配置されたら辞めない限り地獄を味わうことになる。
私自身も分からない自分の価値を他人が判断することが出来るのだろうか?

親からは何があっても我慢するのだよ、その内に慣れるからねと
言われるが、私達世代は我慢が出来ないから、セクハラ、パワハラ、モラハラと
雇用側に突きつける。みんな神経質になりおどおどしながら部下に指示している。
ウェルビーイングな仕事場は人集めの為の響きの良い言葉にしか聞こえない。
社員の意見を反映して本当に利益の上がる会社になるのでしょうか?

今は新入社員で就職するケースと人材派遣会社から派遣されて
非正規雇用で働く自由な選択ができる時代です。
しかし働き始めても「生きるとは」「働くとは」「幸福とは」などの
人生の課題を自分自身で追求しなければなりません。
その上に自分の価値はどこにあるのだろうかと自問自答するのです。

そんな人のためにこのストーリーを紹介します。

「父が最後に教えてくれた自分の価値」

死期が近い父親が息子にこう言いました。
「この時計は200年以上のも前のもので」
お前のおじいちゃんが私にくれたものだ。

これをお前にやる前に通りにある時計屋に持って行って
いくらで買ってくれるか聞いて来てくれないか?

行って戻ってきた彼は父親に言いました。
「時計屋さんは古いからって理由で5ドルと言っていたよ」と言うと、

「次はコーヒーショップへ行って来てくれ」と言いました。

行って戻ってきた彼は「父さんやっぱり5ドルだったよ」と言うと、

「今度は美術館に行って時計を見せてきてくれ」

行って戻ってきた彼は「100万ドル(1,4億円)を提示してきたよ!!」
と言いました。

すると父親は「正しい場所に行けば、お前の価値は正しく評価される」
ということをお前に伝えたかったんだよ

「だからいつでも自分を正しい場所に置きなさい
そして、そうでないときにも自分の価値を見失ってはいけないよ」
と言いました。

今いる場所がすべてじゃない。
今いる場所で下されている評価がすべてじゃない
そんな場所で自分には価値が無いなんて思いこまないでください
自分を正しく評価してくれる場所にまだ出会っていないだけです。
Instagramより

如何でしょうか?まさに言い得て妙な物語です。
仕事も結婚も自分を正当に評価してくれる
場所でなくては長く続きません。

『置かれた場所で咲きなさい』という、累計200万部の
国民的ベストセラーになった1冊の本がある。

修道女でもある故・渡辺和子さんが2012年に著した作品で、
宣教師から渡された「Bloom where God has planted you
(神が植えたところで咲きなさい)」
というメモに救われた体験を元にした、自叙伝的なエッセイである。

置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。時間の使い方は、
そのまま命の使い方です。自らが咲く努力を忘れてはなりません。
雨の日、風の日、どうしても咲けないときは根を下へ下へと伸ばしましょう。
次に咲く花がより大きく、美しいものとなるように。
心迷うすべての人へ向けた、国民的ベストセラー。

しかしこの「置かれた場所で咲きなさい」に反論している文章がある。
タイトルは「便所のネズミ」です。

話は冒頭の、『置かれた場所で咲きなさい』についてだ。
なぜ私が、”置かれたところこそが、今のあなたの居場所です”などと
口にすることは無責任であり、卑怯であるとまで思っているのか。
もし私が、自社では明らかに夢を叶えられないあの学生を採用し、
その後、退職を悩み始めた彼女に対しこの言葉で説得をしようものなら、
きっとぶん殴られていただろう。

転職を考えていると大粒の涙を流した社員に、
「置かれた場所で咲きなさい」などと説教したら、
「お前が言うな!!」と、お茶をぶっ掛けられていたかもしれない。
つまりこの言葉は、「相手の人生に対して、責任がない人」しか
使ってはいけない言葉ということである。

言い換えれば、「問題の解決を、本人の意識・考え方に丸投げする言葉」と
言っても良いかもしれない。

唯一、この言葉を本当に相手の心に届けられる人がいるとすれば、
それは渡辺和子さんがそうであったように宗教家や学校の先生など、
道徳的な指導を期待されている人に限られる。

少なくとも、企業経営者やリーダーが部下に使えば、
それは精神論であり、問題のすり替えにほかならないだろう。
だから私は、この言葉を無責任であり卑怯であると思っているということだ。

最後に、こんな話がある。
秦の始皇帝に仕え、その天下統一を補佐した李斯は元々、
田舎の小役人であった。そして「自分はこのまま、
こんなつまらない人生を過ごしても良いのか」と悩んでいた

ある日、便所の片隅で人に怯えながら汚物を食べ生きる
痩せネズミを見かけ、嘆息した。
「俺もこのネズミのような、つまらない存在だ」と。

またある日、穀倉の中でもネズミを見かけるのだが、
そのネズミはあり余る穀物を食べて肥え太り、
人間の姿にも全く怯えることがなかったそうだ。

その姿を見た時に、彼は悟った。
「人生もネズミの生き方も、生きる場所次第ではないか」と。
そして彼は一念発起し勉学に励み、始皇帝に見い出され、
歴史に名を残す大人物になっていくことになる。

もし彼が、“生きる場所”を変える努力をしなければきっと、
田舎の小役人のまま、悲嘆の中で一生を終えていただろう。

「石の上にも三年」「置かれた場所で咲きなさい」といった
価値観が尊いことは、論を俟たない。
どんなことでも、自分の力が及ぶ限り努力し、
必死になって喰らいついていくべきだろう。

しかしその上でどうにもならなければ、李斯のように生き方や
環境を変えてしまうことも、決して迷うべきではない。
人生をやり直し、新たなチャレンジに踏み出すことは
決して逃げることではないのだから。

「置かれた場所で咲きなさい」という言葉を重く感じたら、
きっと心が疲れているはずだ。
そんな時にはぜひ「便所のネズミ」の話も思い出して、
人生でベターな選択をする参考にして欲しいと願っている。

あえて素敵な文章と反論の文章を並べたのは、
どんなことでも捉える人にとっては
このように内容が変わるという事です。

あなたの価値観も捉える人によって変わるという事です。
他人の評価にこころが揺れ動くことなく、
自分が選んだ場所で結果が作れることが、
あなたにとって最良の置かれた場所なのです。