死に方を学ぶ




フランスの高校生が学ぶ哲学の教科書。

「哲学者はどうやって自分の死に備えているのでしょう」
モンテーニュより前にプラトンが「哲学とは死に方を学ぶことだ」と言っている。
死はプラトンにとって、永遠の真理を再発見する機会だった。私たちは生まれる前、
その真理に浸っていたはずなのだ。
「死に備える」とは、「肉体の死」、あらゆる本質的ではないものを終わらせ、
永遠という視点からものを眺める天上の精神のみにて生きる存在、
すなわち賢者になることである。

東洋の思想においても、死を先取りし、死後の世界をあらかじめ生きることを
説くものがある。死は、私たちが執着する人や、場所や物から私たちを引き離す。
ならば、今から執着を捨てておこうというわけだ。そうすれば、いつ死が来ても
準備はできている。もう失うものはない。

ガネシャという神様〔訳注:ヒンズー教の象の顔をした神様〕は多くの場合、
片手に小さな斧をもち、もう片方の手に縄をもつ。
斧は命とのつながりを断つためのもの、縄は人を精神世界に引っ張り上げるための
ものといわれる。
そこで疑問がわく。瀕死の状態でもないのに、死に備えることはできるのだろうか。
人生を諦め、心躍ることに背を向けるしか、死に備える方法はないのだろうか。

備えるという言葉は正しくない
実際、正反対の生き方にも心惹かれるものがある。
東洋の教えのように執着を捨て無に至るのではなく、あらゆる可能性を試してみて、
できる限り多くのことを見たり、体験したりしたうえで、心置きなく死を迎える。
「もうやることはやりつくした」「いつ死んでもよい」という境地を目指す。
だが、当然のことながら、すべての可能性を生きることなど不可能なのだ。

死がどんなものなのかはわからない。経験がないからだ。
当然、死に備えることは難しい。老いや病というかたちで予兆を感じることはある。
喪失感や後悔など、誰かの死をきっかけに学ぶこともある。
だが、死を経験することはない。死を思い浮かべることすら難しい。
つまり、備えるという言葉は正しくない。

だからといって、死への疑問を封印することはない。人生に悔いのある者、
落伍者を自認する者ほど、死への恐怖は強い。
充実した人生を送った者は、より穏やかな気持ちで死を覚悟する。
もちろん、いつ死んでもいいというわけではないだろうし、誰だって死は怖い。
だが、それでもなすべきことをしたと思えれば死への恐怖は弱まる。
たぶん、それが死を考えるヒントであり、生きるためのヒントでもあるのだ。

「権力を振りかざす人に共通する特徴」
「どうして人間はこうまで他人に対して権力をふりかざしたがるのでしょう」
どちらかというと、哲学というより精神分析のほうに話が及びそうな面白い質問だね。
さて、この質問に答えると、政治権力に対する哲学の限界を示すことにもなるのだが、
まずはプラトンの第七書簡から始めよう。

このなかで彼は有名な「哲人王」について論じている。
どうして一部の人間はあれほどまでに権力に執着するのかということは
説明されていないが、権力を効果的に行使する条件については書かれている。
プラトンの視点を借りて、質問に答えるとしよう。

この手紙で、プラトンは、政治的な野望を抱いていた自身の青年時代について語り、
自分の考えを示している。彼は、他人を「統治」する前に、自分を「管理」することが
大事だと考えた。つまり、君主にふさわしい人間になるには、まず感情を抑制できる
賢人であり、哲学者である必要がある。さらに、プラトンは、権力の座についてから
哲学を学ぶことも可能だと付け加えている。

「彼らは賢人ではない」
プラトンの主張に戻ろう。権力の座を目指す前に、まず自分を「統治」する
賢人になるべきだと彼は言う。だが、これを反転させてみよう。
賢人となり、知ること、知識を得て成長することに純粋な喜びを覚えるようになったら、

もはや権力が欲しいとは思わなくなるのではないだろうか。
もし、権力欲が残っているとしたら、内省や知性だけでは満足できないということ、
まだ欲があるということ、つまり「賢人」の域に達していないということに
なるのではないか。

一部の人間、特に政治家と呼ばれる人たちは、なぜそこまで他人を支配したがり、
権力に執着するのか、それは彼らが賢人ではないからだ。
彼らが自分自身を「統治」しきれていないからだ。

権力欲の強い人とは、青年期に、自分をコントロールする自信をもてなかったことに
由来するのかもしれない。だから、他人を支配しようとする。
自分を抑えることができないので、他人を抑圧しようとする。
それが彼らのストレス解消になっているのだ。
だが、この手の鬱憤うっぷん晴らしは、多くの場合たいして役には立たず、
支配欲はかえって増大していく。

もちろん、自制心と統治能力を併せもつ政治家も存在はするだろう
(ドゴールやチャーチルあたりはその例と言えるかもしれない)。
ただその場合、彼らが権力のなかに見いだしたのは他人を支配する力ではなく、
現実や歴史を変えていく力だったのだ。
(シャルル・ペパン『フランスの高校生が学んでいる哲学の教科書』より)

フランスではこのように高校生から哲学を教育している。
私も若い人たちの討論会で最初に上がった質問が「死について」であった。
私は仏教的な観点から回答しました。
仏教では四諦(したい)の中の「生・老・病・死」で説明がつきます。
大切なことは満足した生き方が出来たかです。
満足した人生を生きたのなら「死」は恐れるものではありません。
恐れるどころかむしろ歓迎すべきなのです。

そのほかにも、「権力を振りかざす人に共通する特徴」「彼らは賢人ではない」
などの条文も分かりやすく解説しています。

哲学や仏教は人生という道を歩きやすいようにする手引書です。
困った時にはページを開くことをお勧めします。