吾唯知足(われただ足ることを知る)




足元を固める、足元を知る。
何のために「生きる」のですかと疑問を持つより、
何のために「生かされて」いるのですかと、考え方を変えることにより、
やらなければならないことが分かってくる。

人間は「生老病死」の運命を持って生まれてきます。
「生きる」とは「死ぬ」ことと理解すれば死は恐れるものではありません。
どんな苦労や悩みを抱えても「自死」を選択するのは、地獄へ落ちると
言われています。かっこよい「死に方」なんてないのです。

「小欲知足」という言葉があります。足りて知るという意味です。
貧しいから不幸か、お金があれば幸福か、人それぞれですが、
貧しさには限界があり、富めるのは限界がありません。
人それぞれが「分け合えば」戦いは起こりません。
奪い合うから戦争が起こるのです。

満足を追求すると飢餓地獄に陥り頂点で崩壊が起こります。
満足する手前で止めることが出来れば、その状態を維持することが
可能になります。しかし人間は常に「欲」との戦いの環境に置かれてしまいます。

日本人は「小欲知足」から「侘び寂び」の精神が生まれて、精神世界の第一等国になったのです。

谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」はまさしく日本の心の世界を描いた名著です。
これらのことを理解して「龍安寺の石庭」を眺めると不思議な体験が出来ます。

「龍安寺の石庭」
龍安寺の名は知らなくても、あの石庭の写真は、誰でも一度くらいは
見たことがあるでしょう。英国のエリザベス女王が絶賛したことから、
世界的に有名になり、いまでは多くの外国人が訪れる京都の代表的な
観光地になっています。
スティーブ・ジョブズも魅せられたという龍安寺の石庭とは、
いったいどんな庭なのでしょうか?

龍安寺の石庭は、三方を油土塀で囲まれた、幅25メートル、奥行き10メートルの
箱庭に、白砂を敷き詰め、大小15個の石を配しただけの枯山水の庭園です。
15個の石は一見無秩序に並べられているように見えますが、実際には緻密な
計算のもとに配置されており、庭のどの位置から眺めても、15個の石のうち、
必ず1個は他の石に隠れてしまって、見ることができないように設計されて
いるのです。

それは何故でしょう?
中国では、15という数は十五夜(満月)に結びつけられ、“完全”を意味すると
されています。しかし、この世には完全というものは存在せず、ものごとは
完成した時点から崩壊が始まるという思想のもと、この石庭の作者は15個の
石を置きながらも、完全とされる数に1つ足りない、14個の石しか
見えないように、あえて設計したのではないかと言われています。

また、世の中には完璧なものなどない、ということを表わしているとか、
人間は完璧ではないので全てを見ることはできない、見えない石は心眼で
見なさい、という意味が込められているとか言われています。
みなさんはどう思いますか?

庭の反対側に回ると、水戸光圀の寄進と伝えられている「吾唯知足」の
つくばい(手水鉢)を見ることができます。つくばいの水を溜めておく
中央の四角い穴を「口」の字に見立て、その四方に刻まれた「五」「隹」
「矢」「疋」とそれぞれあせると、「吾唯知足」の四文字になります。
「吾唯知足――われただ足ることを知る」と読みます。

「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という
禅の教えを図案化し、表現したものとされています。
その意味するところは、石庭の石が一度に全部見られなくても、
不満に思わず満足する心を持て、という戒めであると言われています。

人間は足りない部分ばかりを見て、悩みや不満を抱きがちですが、
満足する心を持って、素直に受け入れれば、誰でも幸せになれる、
ということでしょうか?

龍安寺の石庭には、人それぞれの見方、感じ方があり、それを自由に楽しめば
いいんです。ちなみに、実はこの石庭には15個すべてが見える場所があると
言われていて、最近はその場所を探す楽しみもあるようです。
しかし、私は「見えない石を心眼で見たい」と思います。

観光は慌てず騒がず見て回ることにポイントを置くのではなく、本来の観光は
光り輝く場所にゆっくりと滞在して景色と時と心の移り変わりを楽しむものです。

世界は混乱に満ちています。噂に右往左往するのではなく常に足元を見ながら
自分ならではの人生をお作りください。
そしてその都度、足元を固めて未来へと歩き続けるのです。

その為つねに「小欲知足」の精神で生きることを薦めます。
分け合えば平和に、奪い合えば争いが生まれるのです。