気付く
普段の生活で何気なく見過ごしている事は無いだろうか?
朝の天気、ニュース番組、街の空気、人の流れ、通勤電車の内部、会社の同僚たちの顔色、
気付こうと思わなければ何も感じる事はない。
しかし美しい物を見ようとする気持ちになれば、不思議な事に美しい物が目に飛び込んでくる。
空の光、雨の雫、木々の匂い、花の色づき、子供たちの笑顔などである。
それとは逆に不愉快な気分でいると、嫌なものばかりが目に飛び込んでくる。
戦争、飢餓、殺人のニュース、割り込み、無神経な同乗者、ビルの汚れ、同僚達の冷たい視線、
すれ違う怪しげな人達である。
「気付き」は人間の本来持っている動物的な感覚です。
心を落ち着かせて、目を大きく見開き、耳を研ぎ澄ませば自然に感じる感覚です。
外敵から自分を守る本能です。
そして情報は視覚から入るのが70%で、聴覚から入るのが30%と言われています。
その感覚を伸ばせば普段の何気ない景色から、四季おりおりの移ろい、人間の情緒、
子供達の感情、風の変化、空気の匂い等も敏感に捉える事が出来るのです。
そして気付くということは、表面だけではなく内面にまで及ぶのです。
徒然草137段「花はさかりに月はくまなきをのみをみるものかは、
雨に向いて月に恋ひ、たれこめて春のゆくへも知らぬも、なほあはれに情け深し」
満開の花や雲ひとつない満月を見るだけが素晴しいのではない、部屋の中で過ぎゆく春を感じるのも、
また雨の日の雲に掛った月をみるのも、情緒があってなお一層素晴しいと詠われています。
心の中を研ぎ澄まして、気付く心が無ければ、このような文章は生まれません。
音楽プロデューサーにとって大切な事は「気付き」です。
気付きがなければヒット曲は作れないのです。
そして見えない月が見えなければ仕事にならないのです。
クリエイティブ作業にとって想像は基本的な作業である。
音楽プロデュースは時間と云うキャンバスに音を描かなければならない。
その時の感覚と交わされた言葉等でメロディーを作り出す。
何度も訂正を加えながら一つの楽曲として完成させていく。
言葉のアイディアのポイントとして新聞や雑誌、街角の会話、ファミリーレストランでの雑談等を拾い集める。
勿論、アーティスト自身の実体験に基いて書かれる作品も多いが、
オーディエンスが親近感をもつ世界で無ければ決してヒットは生まれない。
他人の夢や希望や悩み等それら全てが気付きから感知されるのである。
気付く事の中には「顔色を伺う」というのもある。
「顔色を伺う」本来の持つ意味は人の顔色を伺うのは卑怯だという事に使います。
自分の意思が無く他人の意思に合わせる為に顔色を伺うのである。
しかし現代では親の顔色、先生の顔色、上司の顔色、隣近所の顔色を伺うというのは間違いでは無いと思う。
顔色を伺いながら(気付きながら)、場の雰囲気を読むのは当たり前の行為だと思う。
人の顔を見なくなった現代では、危険な顔(状況)さえ気付かなくて、近くを素通りしてしまいます。
音楽を聞きながら、携帯ゲームで遊びながら、メールをしながら、回りから完全に孤立した状態で日常を生きています。
誰の顔も気にしないのは、本当に怖い事です。
日本の政治家はこの「気付き」をあまり重要視しません。
外交上「気付き」がなくて良き結果が得られるのでしょうか。
理屈と数字と圧力では、圧倒的に日本が不利な立場に追い込まれると思うのですが、如何なものなのでしょうか。
何故日本には米国のCIAのような諜報機関が無いのでしょうか。
欧米諸国では徹底的に外交する国の歴史・文化・経済・国民意識などを調査します。
戦後アメリカが日本を統治する際に軍はアメリカの文化人類学者ルースベネディクトに日本国の意識調査を依頼します。
その結果「菊と刀」という名著がうまれたのです。
一部、偏った見方をしている部分もありますが、良くここまで日本人を調べたなと感心してしまいます。
その頃の日本は敵国の力を分析せずに闘い続けていたのです。
日出国、神の国だから負ける分けがないと間違った空気の元に敗戦を迎えたのです。
今思えば本当に残念です。多くの若い戦死者を出す必要の無かった戦争でした。
相手の気持を「気付けば」数字の駆引きではなく、心の駆引きで優位に持って行くことも可能になる。
とくにこれから日本は中国と頻繁に取引をしていかなければなりません。
日本の歴史学者、人類学者、政治学者、総動員で中国の調査分析をして欲しいものです。
そして少しでも相手の気持を理解しながら優位に立てる方法を、
皆で考えて行かなければならない時代ではないでしょうか。
私の経験から言えば中国人は想像以上に頭の良い国民です。
歴史から学び取った智慧があります。
そして根強く反日感情を持っています。
中国は表面上は豊になったとしても、根本は変わらないと思います。
一党独裁の共産主義国です。しかし親日派も多数いる事は事実です。
日本の古典文化の中には素晴らしいほどの「気付き」から生まれた作品があります。
万葉集、徒然草、古今和歌集、奥の細道等それらを読む事によって「気付き」の方法論が学び取れるかも知れません。
我々日本人のDNAに組み込まれた「気付き」の記憶を呼び覚まして欲しいと思います。
「気付き」は日本人の心の原点です。