手遅れ
手遅れと言う言葉が有る。大切な場面で言動が遅れることである。
苦労ばかりかけた、両親の死に際に間に合わず、「ありがとう」の一言が言えず悲しい手遅れである。
一年中仕事ばかりにとらわれて、家族に「約束は守るから」と言いながら、守り切れずに、時が過ぎて手遅れである。
良友とのもめ事も、「ごめんね」が言えなくて、ちいさな誤解がそのままになり手遅れである。
電車の中で老人に席を譲ろうとして、「どうぞ」が言えずに次の駅に着いてしまえば手遅れである。
「手遅れ」は「手おくれ」なのである。この瞬間に手を貸して下さい、そうでなければ間に合いませんという意味です。
とっさの場合に、手遅れにならない為にも、少しだけ準備を怠らない事です。
それは、周りで起きる出来事に、気持ちを集中して、次の予測を立てることです。
自分を中心に考えるのではなく、できるかぎり対象者の事情を察して判断をすべきです。
言葉だけの約束や優しさがあったとしても、時期を逸して、行動が伴わなければ意味がありません。
手遅れである。
丸山真男「現代政治の思想と行動」の中にマルチンニーメラー「牧師の告白」という一文が有る。
「ナチが共産主義を襲ったとき、自分はやや不安になった。
けれども結局自分は共産主義でなかったので何もしなかった。
それからナチは社会主義者を攻撃した。
自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。
そこでやはり何もしなかった。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、
その度に自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。
さてそれからナチは協会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。」そこで自分は何事かをした。
しかしそのときにはすでに手遅れであった。
こうした痛苦の体験からニーメラーは、「端初に抵抗せよ」而して「結末を考えよ」という
二つの原則を引き出したのである。初期に解決を見なければ手遅れになる。
その時には同時に結末も考えなさいと言う事である。
「対岸の火事」では無いが、自分に火の粉が掛らなければ他人事で済まし、
自分に火が及べば慌てるのである。しかし、その時には、ほとんどの場合手遅れなのである。
拉致被害者の会の報道がなされる度に心が痛みます。
1977年11月15日、北朝鮮に拉致をされた横田めぐみさん(当時13歳)は、
生死も分からないまま、既に34年という時が過ぎてしまいました。
御両親は、娘を取り戻す為に、被害者の会で先頭に立って活動をしています。
しかし、既に高齢に成り命の灯が削られるようにして生きています。
愛娘の安否を確かめる術もなく、悲痛な面持ちで日々を過ごしているかと思われます。
我々は、親子の再会が「手遅れ」にならないように祈るばかりです。