無駄の論理
有意義だと思うものばかり追求する人生。
無駄をなくして効率よくできたと得意顔をする大人達。
お金も時間も人間関係も有意義なことしか頭にない。
学習とは無駄をなくして有意義にすることなのか?
人生の目的が有意義な図面通りに作られるのなら何のための人生なのか分からない。
これでは生成AIに自分たちの人生が乗っ取られてしまう。
人間は自由な発想のもと予測不可能なことをするからAIに負けないのだが、
予測通りなら必ず生成AIに乗っ取られてしまう。
「好奇心」も「疑問」も有意義な生き方をする人達にとっては無駄なのである。
それは常識という辞書の中には無駄を奨励していないからである。
つまらない、本当につまらない、無駄のない人生なんてつまらない。
結果が分かっている人生を過ごしても悔いは残らないのだろうか?
そんな有意義を尊ぶ大人達が大きな過ちを犯している。
自民党議員のキックバック問題、女性議員のエッフェル塔問題、県会議員の
パワハラ問題、ダイハツの不正部品問題!ビッグモーターの不正請求問題など
枚挙にいとまない。世の中、真面目人間ほど不真面目な人間はいないのである。
有意義を主張する人間ほど不正が多いのは何故だろうか?
自分達が犯した罪は裁かれないと勘違いをしているのだろう。
科学者も芸術家も音楽家もみんな無駄な人生を真剣に生きている。
疑問を持つことが現状を進化させる最良の方法だと知っているからである。
未知の領域では失敗が当たり前で笑われても気にすることは無い。
子供の時の道草と同じで遊びながら好奇心を育てている。
星を見れば天体に興味を持ち、草花を見れば植物学に興味を持ち、野球を見れば
大谷翔平に興味を持ち、将棋を見れば藤井聡太に興味を持つのである。
音楽プロデューサーは無駄な発想のもとに生きている。
世代に応じた旬の音楽は何かをいつも考えている。
若い子たちの会話の内容も聞き耳を立てて参考にしている。
日本で最初に売られた携帯電話も持っていた。
話題のレストランへは足繁く通ったのである。
そうして集めた情報を参考にして何枚もアルバムを制作してきた。
素晴らしい楽曲もヒットしたら文化になるがヒットしなければただのゴミになる。
私の一番の無駄は大学へ行ったことである。
人生の一番輝く時にアルバイトばかりして、ギリギリの旅費で英国へ行った。
そして多くの時間を費やしてロンドンへたどり着いた。
ロンドンでは週に何回かレストランの皿洗いをして音楽の勉強をしていたのだが、
もっと効率よく英語も勉強して音楽の勉強も出来たはずである。
あえて、無駄な道を選んだのは自分の好奇心を信じていたからである。
単独でライブハウスへ行き、コンサートへ行き、楽器屋へ行き、アーティストフェス
へ行き、ミュージカルへ行き、出会いのチャンスを楽しんだ。
あらゆる好奇心に理性が負けたのである。無駄な時間を楽しんでいたのである。
休みの日にはポートベローへ行って古着を買い、美容室サスーンでヘアーカット
のモデルをしてカット代をうかしていた。歯が痛くなればロンドン大学の歯科医療部へ
行って無料で治療をしてもらった。勿論、インターンの医者達に簡単に虫歯を抜かれるのは
苦痛を伴った。また、小遣い稼ぎに地下鉄の通路で歌も歌っていた。
貧乏に無駄はつきものであるが、その対価として智慧が付くことは確かである。
当時はこれらの経験が何か役に立つのだろうかなんて考えもしなかった。
ただ無駄をおろそかにしなかっただけである。
篠田桃紅
「107歳になってわかったこと」
人は、用だけを済ませて生きていくと、真実を見落としてしまいます。
真実は皮膜の間にある、という近松門左衛門の言葉のように、
求めているところにはありません。
しかし、どこかにあります。
雑談や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わないほうがいいと思っています。
無駄にこそ、次のなにかが兆(きざ)しています。
用を足しているときは、目的を遂行することに気をとられていますから、
兆しには気がつかないものです。無駄はとても大事です。
無駄が多くならなければ、だめです。
お金にしても、要るものだけを買っているのでは、お金は生きてきません。
安いから買っておこうというのとも違います。
無駄遣いというのは、値段が高い安いということではなく、
なんとなく買ってしまう行為です。
なんでこんなものを買ってしまったのだろうと、ふと、あとで思ってしまうことです。
私の日々も、無駄の中にうずもれているようなものです。
毎日、毎日、紙を無駄にして描いています。
時間も無駄にしています。
しかし、それは無駄だったのではないかもしれません。
最初から完成形の絵なんて描けませんから、どの時間が無駄で、
どの時間が無駄ではなかったのか、分けることはできません。
なにも意識せず無駄にしていた時間が、生きているのかもしれません。
つまらないものを買ってしまった。
ああ無駄遣いをしてしまった。
そういうときは、私は後悔しないようにしています。
無駄はよくなる必然だと思っています。
もし仮に、無駄のまったくない人生を生きてきた人がいたとしたらどうだろう。
やることなすことすべてうまくいき、日の当たる場所や、近道だけを選び、
効率的で全く無駄のなかった人生。
もしいたとすればの話だが、およそつまらない人間が
そこに存在していることになる。
人は、寄り道をしたり、道草をくったり、どん底を味わったり、失敗や嫌な目に
遭うという、人生の無駄を経験するからこそ、人としての味や深みが出る。
「人生の余白」ともいうべき、人としての遊びや余韻の魅力だ。
篠田桃紅(日本の美術家・版画家・エッセイスト)
「無用の用」という老子の言葉がある。
一見すると役に立たないようなことが、実は大きな役割を果たしていると
いうこと。無駄のある人生も、時にいいものだ。
サン・テグジュペリの『星の王子さま』にある、
「愛とは相手のために時間を無駄にすること」という言葉を教わりました。
「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために
費やした時間だったんだ」と『星の王子さま』にはあります。
禅僧の修行時代には、常に無駄骨を折れ、無駄骨を折れと言われたものでした。
修行のほとんどは、無駄といえば無駄なことでしかありません。
「雪を担って古井を埋む」という禅語があります。
井戸にいくら雪を埋めても、埋まるはずもないのです。それでも埋め続けるのです。
ある時、宮大工西岡常一の弟子小川三夫さんのことを語ってくれていました。
小池さんが「人は無駄をしないと、何が無駄なのか本当の意味で分からない。
たくさん無駄をして、その人が、ああこれが無駄なんだと気づくことが大事なんだ。
気づいたことではじめてその無駄をなくせるのだ」と語っていました。
大本山「須磨寺」寺務長小池陽人
この忙しい世の中に、坐禅しているということが無駄なのかもしれません。
この我々僧侶という存在自体が無駄なのかもしれません。
しかし、その無駄の尊さもあるはずなのです。
臨済宗大本山「円覚寺」 官長横田南陵
人生に無駄はありません。無駄こそが有意義に繋がるのです。
無駄をした人は少しの違いに気づく力を授かります。
科学者も芸術家も音楽家もみんな無駄な人生を真剣に生きているのです。
皆様もこれは「無駄かも知れない」と思えることをどんどんしてください。
私は来年も無駄な時間を費やして年齢を重ねたいと思います。