知るということ
「知る」を問う。知るとは何か?
分からなかったことが分かること。
好奇心の解決。
人生の道標を見つける。
物事の本質に触れること。
など様々な答えがある。
我々は本当に「知る」を理解しているのだろうか?
頭の中には個人個人によって納得する知識の池がある。
池のキャパシティに合わせて「知る」を溜め込んでいく。
そこから溢れ出ることはすべて無関心になる。
無関心の先には知らなくて良いという結論に達する。
「知る」というのは、どういうことだと問われたらなんと答えるか?
ある修行僧は、「自分のものにすること」だと答えていた。
「見たり聞いたりすること」という答えもあった。
見たり聞いたりしただけで、知っていると言えるかどうか疑問である。
ものごとを「理解する」という答えもありました。
その中で「広がる」という答えもあってどういう意味かなと不思議に思いました。
その修行僧はこのように説明してくれた。
たとえば、花の名前を知ると、それだけ景色が広がるのだというのです。
立てば芍薬坐れば牡丹という言葉を聞いて、かつては芍薬も牡丹もよく
分からなかったのが、その名前を知り、どんな花かを知ることによって、
世界が一層広がったと解説してくれた。
囲碁の本因坊クラスの棋士と、将棋の名人クラスの棋士とが対談した話です。
碁と将棋の神様が百として、我々はどれだけ知っているかと紙に書いて見せあった。
囲碁棋士は「6」、将棋棋士は「4か5」と書きました。
囲碁将棋界きっての天才だが、これほどまでに謙虚な気持ちの持ち主で、
「5」や「6」の壁に苦しむ求道者でもあったというものです。
囲碁のプロが「我々プロも町家の素人も大して変わらない、
誰も囲碁の真髄はわからない」と述べていたのでした。
知らないことを問う時にどのような姿勢で聞いているのだろうか?
立ったままだと言葉は聞き流れていく。
座ってメモを取ると言葉の意味を理解せずに本質を聞き逃す。
モバイルで検索して答えが出てきても知ったことにはならない。
知ったことを知識が一つ増えたと知識の池にため込んでも仕方がない。
本来教えを乞うことは真剣勝負一発の気持ちで臨むべきである。
先ずは仙骨を立てることから始めるのです。
パルテノン神殿の柱は、一本の部材ではなく、いくつもの円筒形の巨石を
積み重ねたものだというのです。
垂直に積み重ねているからまっすぐの柱になっているのです。
そのように私たちも骨盤、仙骨、肋骨がまっすぐに積み重ねるように
立つことが大事だと教わったのです。
幼児~低学年の躾の教育で3つのルールを教えます。
①挨拶のできる子になる。
②履き物を揃えられる子になる。
③背筋を伸ばして話を聴くことのできる子になる。
この3つが出来ればまともな子に育ちます。
これは保護者にも言えることです。
一般の大人は子供たちの素直な問いかけに答えることが出来るのだろうか?
例えば「死ぬとは何ですか?」という問いかけに答えることは
出来るのだろうか?
それは仏教の言葉に「生老病死」というのがあります。
皆さんは今「生きて」いますよね。
お父さんとお母さんが結婚して、
お母さんのお腹から産まれて命を授かったのです。
そして毎年歳を取り70年も生きて「老いる」のです。
足腰が弱くなり目も歯も徐々に悪くなり「病」に掛かるのです。
80歳以上になり人としての役割が終える頃に「死」が近づいて来るのです。
これが人間に課せられた運命ですから「死」は怖くはないのです。
逆に「死」とは反対の「生きる」とは何でしょうか?
アメリカの偉い学者さんが「マズローの五代欲求」というのを発表しています。
生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現の欲求です。
これが生きていく為の目標になります。
自分や家族の幸せが大切ですが、それ以上に地域社会の発展や、国の平和と安寧が
保障されなければ「生きる」が辛いものになります。
「生きるとは長い坂道を重い荷物を担いで登りゆくようなものである」
この言葉は徳川家康が残した言葉です。「生きる」とはそれほど厳しいのである。
知るとは人生の哲学的な道標を見つけることです。
人それぞれ違う人生を歩むのですが、それぞれの人生が、豊かさや貧しさの中で
どれだけ他人に貢献したかが、心の満足として得られれば「知る」が完結します。
未熟な私もまだ「知る」を追求中です。
日本女性の平均寿命が86歳で男性は83歳です。
もう少し知識の池に「知る」を溜め込められるよう頑張ります。