ちから

 

右足のつま先に力を入れ一点に集中する。
すると体全体の意識がそのつま先に集中する。
全体重がつま先一点に集中すると他の部分から体重が消える。

座禅を組む心の中の精神を一点に集中させる。
無我の境地に入り、全ての雑念が消え去る。

そこに空(くう)の世界が現れ物事の真理が見えてくる。

精神を一点に集中させて何故人は思考しなければならないのか。
多くの科学者や芸術家は思考の中から更なる深みへと入り込んでいく。
創造者は誰よりも強い集中力をもち、常人では考えられない領域へと入り込み、
世の中の進歩発展を作って来たのである。

日常生活でも思い悩むことは多い。
家庭のこと、友人関係のこと、勉強のこと、会社のこと、夫婦のこと、
子供のこと、お金のこと、年老いた両親のことと思い悩むことはつきない。
そして思い悩むことがその人の心も身体も疲労で蝕んでいく。

思い悩むことに心の意識が集中して身動きが取れなくなってしまう。
無駄な情報に縛られて思い悩みの原因を放置するからである。

現在のようなネットワーク社会では、
求めなくとも個人からメディアから様々な情報が勝手に入ってくる。
虚偽の情報・不必要な情報などの散漫な知識の押し売りである。
情報の窓を開けずに完全にシャットアウトしなければならない。

無防備な人は情報の波の中で溺れてしまう。

泳げない人が水に浮かばないのは、浮かばないという恐怖から、
手や足に力を入れるためにその力を入れた部分から沈み込んでいく。

反対に泳げる人は沈まないという自信があるから、
体全体に力を入れずにいつまでも浮かんだままで居られる。

理解できない情報までを取り入れる事は、
泳げない状態を自ら作ってしまうのである。

力を入れて意識を集中させる想像力の世界。
反対に力を入れずに悩みから開放される精神の世界。
どちらも力の支点の問題である。

あらゆる「ちから」を開放させるために仏教界では座禅を組む。
足を組みじっとしたままで瞑想の世界に入る。
何十分も何十時間も何日も心の開放が生まれるまで座り続ける。

正しい指導者が居る場合は、その教えとその環境のもとで行うのが良いが、
一人の場合は長く座禅を行わない方が良い。
無の世界に入り断食をおこなうと命の危険があるからである。

 

新たなものを創造して奥行きのある価値観を持ち、
味のある人生を生きていって欲しいものである。
その為にも「ちから」の置き方に注意をするべきである。