月僊和尚
「月僊」げつせん(江戸中・後期の画僧)実話
月僊は絵を頼まれると、すぐ「潤筆料はいくらくれるか」と聞いた為に、
人々は絵の価値を認めながらも、金銭への執着を嫌って「乞食月僊」と卑しんだ。
たまたま伊勢の古市の遊女、松が枝が、さもしい根性をたしなめてやろうと、
ある日、月僊を招き、「和尚さんこれに描いて下さい」と投げだしたのは、白縮緬の腰巻だった。
「はいはい画料さえ頂けば、何なりとお描きいたします。一両二分でございます。」
といって腰巻を持ち帰り、三日ばかりで見事な花鳥を画いてきた。
このことは一層「乞食月僊」の渾名に拍車をかけた。
同じ頃、京に住んでいた池大雅が伊勢神宮に名をかりて月僊を訪ねてきた。
「貴僧の絵には心から敬服しておりますが、どうして乞食とまでいわれて金銭に執着されるのですか。
画料のことは、あまりやかましくいわぬほうがよろしかろうと存ずるが・・・」
月僊も、好意ある言葉に深く打たれた様子だったが、返事はしなかった。しかし依然として態度を改めなかった。
こうして月僊は、文化六年の正月、六十九歳で没した。
縁者達が遺品の整理をしたところ、そのなかから夥しい領収書や人夫の手間賃の控え、
土木の契約書、設計図などが出てきた。しかもことごとく参宮道路の修理と橋の普請に関するものだった。
そういえば、荒れはてた参宮道路や毀れた橋などが、時折、補修されたり、架けかえられたりして、
参拝者や付近の人々が喜んだものだ。
しかし誰しも、奉行所の仕事と思い込んでいた。
それが何ぞはからん、自分達が「乞食坊主」と罵った月僊和尚がやったことだとわかったとき、
人々はいてもたってもおられない気持に襲われた。なかなか味な和尚である。
「倫理御進構草案」の著者杉浦重剛が、
「己ニ倹ニシテ人ニ倹ナラズ、コレヲ愛トイウ。己ニ倹ニシテ人ニ倹ナル、コレヲ倹トイウ。
己ニ倹ナラズ人ニ倹ナル、コレヲ吝トイウ」と名言を遺している。
月僊はこの「愛」を「仏の慈悲」にまで昇華している。
「文はひとなり」という絵もまた人である。
大慈大悲の心が画面に滲み出て人を魅了するのは当然であろう。
村人達は月僊和尚によって真実の「恩」を学んだ事でしょう。