運命
「運命というものはただ単に人間にふりかかって来るものではない。
運命を愛し、運命にうち克つことを知らなければならない。
「運命への愛」(amor fati」、それによって初めて心の平静は得られる」モーリス・パンゲ
人は幸福な時に「運命」という言葉を使うのだろうか。
自ら招いた失敗の時にだけ「運命」という言葉で弁護するのだろうか。
不幸に翻弄されて悩み苦しんだ時に「運命」という意味が理解できるのだろうか。
青年は常に「運命」という言葉を思い浮かべる事は無いだろう。
「運命」が引き起こす挫折も容易に打ち克つことが出来るものと信じ、
決して「運命」に支配される事は無いと思うからである。
壮年期から「運命」という言葉が身に滲みて分かるようになる。
それは知識や経験だけでは乗り越えられない数多くの問題に、
心と体の自由が奪われて身動きが取れなくなるからである。
そして老年期になると「運命」はもっと重く圧し掛かってくるのである。
後悔しても取り戻す事が出来ない過去と、残り少ない未来の狭間で「運命」を、最後の友人としてしまうからである。
パンゲの言うように「運命を愛し、運命にうち克つことを知らなければならない、
それによって始めて心の平静は得られる」。
その打ち克つことが出来ないから心の平静が得られないのである。
「運命」に翻弄されて悩み苦しみ、初めて人生の実体が分かるのである。
「運命」に含まれる、ありとあらゆる挫折や困難を受け入れて、乗り越えなければならないのである。
大和の古の言葉に「知命楽天」という言葉がある。
自分の運命を知った上で日々を楽しく生きよということである。
たとえ不遇でも、貧しくとも、悩み多くても、それが自分に与えられた運命ならば、それに従い楽しめという事である。
それを理解して甘受すれば何も恐れるものは無いのである。
悩まずに「運命」の波に乗れば良いのである。それがパンゲの言う「運命を愛し、・・・」なのである。
ここに中国の教育の基本骨子がある。中国の教育心理学である。
「思想という種を播き、行動を刈る。行動という種を播き、習慣を刈る。
習慣という種を播き、性格を刈る。性格という種を播き、それはやがて運命を収穫する。運命は性格で決まる。」
子供の時からこれを学ぶのである。「正しい考え方を学ぶ事が正しい行動を起こす事になる。
正しい行動から日々の習慣が生まれる。正しい習慣を続ければ持って生れた性格ではなくて君子の性格が備わる。
そしてその性格が自分の運命を導く事になる。
すなわち運命は全て自分の性格から生れるものである。」
一生懸命学び労働をしなさい。
そうすれば幸福の運命を手にする事が出来ると言う教えである。
共産主義での幸福は、全て神様や仏様からの授かりものでは無くて、自分達の努力によって収穫するのである。
そして、それらは万民が平等に分かち合う事で、幸福な人生を感じる事になる。
余談ですが、世界的に有名なベートーヴェンの交響曲第五番「運命」は正式な題名では無い。
弟子が「この交響曲の最初の四つ音は何を示すのか」という質問に対して
ベートーヴェンが「このようにして運命は扉を叩くのだ」と答えた。
よって正式な題名のようになったのである。
「運命」は通称だがこの題名が世界に広く知れ渡ったのである。
まさに、ダダダダーン「運命」の悪戯なのである。