創造を生み出す力とは




近年、人工知能(AI)と創造性の関係に関心が集まっています。
AIが人間のように創造的思考を持ち、新たなアイデアやアート、
音楽を生み出せるのか、という疑問が、科学者や哲学者、
アーティストたちの間で議論されています。
一部では、AIがデータや既存の情報を基に独自の創作を行えると
信じられていますが、これは真の創造性と呼べるのでしょうか。

AIが創造的活動をする際、それは大量のデータからパターンを学習し、
そのパターンに基づいて新しい出力を生成します。
しかし、このプロセスは必ずしも人間の創造性と同じとは限りません。
人間の創造性は経験、感情、知識の複雑な組み合わせから
生まれるものであり、単にデータを処理する以上のものを含みます。

それにもかかわらず、AIによる創作物は人間に新たなインスピレーションを
提供し、創造性に新しい領域を開拓しています。
AIと創造性の関係は複雑で、さまざまな観点から探究する価値があります。

創造性は一般的に、新しいアイデアや概念、
または物事を作り出す能力として定義されます。
この能力は人間の進化において重要な役割を果たしてきました。
創造性によって、人類は新しい技術を開発し、社会や文化を発展させてきました。
しかし、創造性の定義は、実際にはより複雑です。
単に新しいものを生み出すだけでなく、それが意味を持ち、
価値があるものでなければなりません。

この定義の下では、人間の創造性は知識、経験、感情などの多様な要素の
組み合わせから生み出される独創的で意義深い結果と考えることができます。
AIによる創造性の研究は、
この複雑な人間の能力を機械で再現しようとする試みです。
AIが持つデータ処理能力と学習能力を活かし、
新しいパターンやアイデアを生み出すことができれば、
AIも創造性のある存在とみなすことができるでしょう。
AIと人間の創造性との間には、まだまだ探究するべき違いと限界が存在します。


芸術家は無から有を生む職業である。
地球に存在するあらゆるものを対象に作品を作り出す。
その逞しい想像力に大衆は驚き感動するのである。
画家は自然界から色を与えられて微細に書き描く。
音楽家は常に人間を対象にして感情を旋律に表す。
作家はペンの力で理不尽な世の中と歪んだ社会を暴き出す。

そのアナログ的な感覚がAIに乗っ取られる。
現実の世界の向こう側に想像の世界が存在していて迷い込む。
頭に描くだけで映像や音が瞬時に再現される。
手直しも自由にできるので何度でもやり直すことができる。
行ったこともない場所へ行くことも可能で五感で感じることも出来る。
しかしそこに満足が無いのは努力から生まれた作品ではないからである。
データで作られた合成肉や日本酒に五体が満足する感動は生まれない。

これからは芸術家の創造力かAIを自由に扱える人の操作力に二分される。
そこに存在するものが仮想空間の中での出来事になり、
売り買いも、会社も、結婚も手に入れることができる。
視覚と聴覚と味覚・聴覚があれば、
あとは触覚が手に入れば性的快楽も得ることができる。

現代=高度情報化社会と呼ばれる社会に生きる人間は,
いかに調和的であり得るだろうか。
そこに生きる人間は,あふれる映像情報の中で,一歩も移動することなく
様々な視覚体験ができるようになったが、それは実際に手で触れ、
身体ごと体験した風景ではないので、眼・頭の中と、身体の感覚のずれが
生じる傾向がある。我々は物質・身体から離れた視覚(映像 メディア)
による影像(イメージ)の世界にどっぷりと浸っているのである。

それは結果的に,身体からの遊離とともに人々の「感性」に重大な影響を
及ぼしているととらえられる。従来の常識では理解困難な事件が多発している
背景には,このような「感性」の問題がある。環境問題に対する危機意識を
持つ人は増えつつあるが,感性の問題は人間それ自身に直接関わるものであり、
かつ自覚なしに進行するがゆえに、より深刻な状況である。

我々は健常者を対象につくられた常識の範囲でいつも話を繰りかえす。
地球上おける弱者の為の思いやりのルールは後回しになる。
勿論、その中には動物も含まれる。近代化の最大の過ちは環境破壊である。
環境破壊で起こる最大の懸念は芸術も生まれなくなることである。
商業的芸術はAIが作り、感性的芸術は人間が作る。
感情や心の琴線に触れる芸術は自然が失われれば生まれて来なくなる。

一方、人類は今、例えば民族対立や環境問題など、地球的な規模の
「平和」のあり方についての解答を求められている。
その解答を得るためには認識対象として「自然」や「人間」を捉えるだけでなく、
人間存在の本質に立ち返って「人間性」を回復する。
あるいは、それについて新たな認識と自覚を獲得するための思考と実践が
要求されていると言えるであろう。

デジタル社会の中で「人間性」は技術が先で後回しになる。
先ずは社会の基盤を作りどのような状況で人間性を取り入れるかが
論議されなければならない。メタバースの中では同意が基本で
拒否はあり得ない。好きなことを好きな時に使用者の理想の世界を
楽しむことが優先される。
いわゆる自己満足の世界が大衆には求められるようになる。

自然と触れ合って想像を生み出して来た人間は、
自然がない世界でどのように振る舞えば良いのだろうか?
海も山も川も空も鳥もいない世界で記憶に頼って
作り出すのかもしれない。
しかし次の世代は記憶のないままで真の芸術が生まれるのだろうか?

人間は生涯を通じて新しい知識やスキルを獲得し続けます。
この学習プロセスは非常に複雑で、学びたい内容に対する好奇心や関心、
そして時には失敗から学ぶことも含まれます。
人間の学習は、内省的な理解と外的経験の両方に依存する多面的プロセスです。
一方で、AIの学習プロセスは「トレーニング」と呼ばれ、
特定のデータセットを用いて特定のタスクを実行する方法を学びます。
このプロセスは反復的であり、正確性や効率性を追求しますが、
人間の学習の多様性や柔軟性には欠けます。

また、AIは指定されたデータセットやプログラムされた
タスクに基づいてのみ動作するため、人間のように未知の状況に臨機応変に
対応する能力は限られています。これは、創造的なプロセスにおける
学習過程の重要な差異を示しています。

人間の創造性は自然界に順じた経験、感情、知識の複雑な組み合わせから
生まれるものであり、単にデータを処理する以上のものを含みます。
そこには苦悩と言う心痛の思いも重要な役割を果たすことを忘れてなりません。
精神的にも肉体的にも苦しめられるとその状況から逃れようとして、
あらゆる芸術の出発点になると信じています。

AIは苦痛と言う認識が無いために真のクリエイティブは作れないという事です。
過去のデータを集積してそれを生成AIが加工しても驚きはしても、
感動はしないという欠点があります。
これからも人間の持つ能力を信じて創造性を高めて行ってほしいと思います。