人間




無限の思考を持ち有限の創造を完成させる。
人間は列車を作り、飛行機を作り、ロケットを作り、高層ビルを建て、車を走らせた。
有史以来、先人から後人へと知恵を繋ぎ進化は止まらない。

この偉大なる人間の欠点は平等に死を迎えなければならないことである。
絶対的な権力者でも病気には勝てず必ず寿命が来れば死ぬのである。
神の象徴であるイエスキリストも十字架に張り付けられて死刑になった。
いくら科学や医療が発展しても与えられた運命は変えられない。
ここに哲学や宗教が生まれて人々は心の平穏を知識に求めたのである。

そして近未来は人間持つ力をAIに託していく。
アトムも哲人28号もマジンガーZも現実に登場する時代が来る。
益々弱い人間が奴隷になって逃げ場を失い世界の隅へと追いやられる。
メタバースの闇に逃げ込んでも永遠の寿命は手に入らない。

苛酷な状況でも変わらないのは子供達の遊ぶ姿と笑顔である。
哺乳類としての人間は子孫を絶やさないように子供を産み慈しむ。
古代から現代へとバトンを渡してきたのは子供達にだけである。
しかしそのサークルの中に愛情は残されるのだろうか?

どんな状況の中で人間のすごいところは芸術を作り出せることです。
音楽も絵画も墨絵もクラッシックバレイも近代ダンスも多くの感動を作り出す。
頭脳だけではなく肉体の限界に挑戦したところに思考が覚醒する。
自然の美しさを形に表しそれを鑑賞することにより一時争いを忘れさせてくれる。

人間の持つ五感を最大限に利用して食と医術を発展させて健康を作り出した。
自然界にあるものを栄養として摂り入れることをしてきた。
体の表面に現れる症状を直すための医療もその内部まで入り込めるようになった。
その甲斐あって平均寿命が30年の頃から今では100年超えが当たり前になりつつある。

しかしどれほど時代が進化しても変わらないものが一つだけある。
それは愛である。人が万物を好きになる愛である。
愛があるからこそ夢と希望を描き未来へと歩きだせる。
過酷な時代変化を耐えられるのは愛があるからである。

フランスの哲学者ベルクソン(Henri Bergson, 1859-1941)は、
Bergson(1907)(『創造的進化』)において、人間の知性の本質を創造性で
あるとの考えを示し、人間にホモ・ファーベル(Homo faber, 工作人)
との定義を与えた。

人類を規定するのに、歴史時代および先史時代を通じて人間と知性の不変の
特徴とみなされるものにのみ厳密に限るならば、おそらくわれわれは、
ホモ・サピエンス(知性人)と言わないで、ホモ・ファベル(工作人)と
言うことであろう。要するに、知性とは、その根原的な歩みと思われる
点から考察するならば、人為的なものをつくる能力、とくに道具を
つくるための道具をつくる能力であり、またかかる製作を無限に変化させる
能力である。

人間は目的に従って道具を制作する。寒さを凌ぐことを目的として
衣服を創ったり、雨露を凌いで生活を営む目的で住居を創ったり、
食材を焼くことや暖を採ることを目的として火を創ったりする。

もちろんベルクソンは、動物の中にも一種の道具を製作する事例があることに
言及しているが、彼の創造的進化論において、動物の制作活動と
人間の創造活動を質的に隔てる決定的境界線として述べられている内容を
簡潔にまとめるとすれば以下のようになる。

すなわち、①自己形成の創造活動、②自己の創造活動の反省、
③創造活動における他者との協調、などである。
さらには抽象的な概念にまで拡張すれば、個人との間で人間関係を創ったり、
一定のコミュニティの中で役割分担をすることで社会を創ったりもする。
このように、人間の生きる営みにおける事物の創造性とは「自由意志に基づく
自在の変形」にあるようである。

自己形成は、自身のセルフ・イメージを明確に持つところから始まる。
先に人間の創造活動の事例として、寒さを凌ぐために衣服を創造することを
挙げたが、人間は自身が他者からどう見られるかを常に意識しており、
それぞれの民族の文化に随って自身の身体を隠し、自らが理想とする姿の
イメージに近づくように衣服の素材や模様や色彩などを選択する。
このような行為は、まさに人間のみが行う行為と言える。

また、自己の創造活動を反省することによって、創造方法の効率性や利便性
などを追求し、創造の方法を改良することができる。
また、創造方法を言語化することによって、創造活動を記録したり、
他者に伝達したりできるようになる。この点も動物にはいっさい見られない
人間の創造活動の特徴である。

そして人間は裏切る性格を持っていることも忘れてはなりません。
大きな歴史の変わり目は殆どが裏切りから行われているのです。
自分の忠実な側近が、家族が主人を裏切るのです。

世界三大裏切り者は、イスカリテオのユダ・ブルータス・呂布だそうです。

弟子たちのところに来て、「まだ眠っているのですか。目を覚ましなさい。
時が来ました。いよいよ、わたしは悪い者どもに売り渡されるのです。
立ちなさい。さあ、行くのです。ごらんなさい、裏切り者が近づいて来ます」
イエスがまだ言い終わらないうちに、十二弟子の一人ユダがやって来ました。
彼といっしょに、ユダヤ人の指導者たちが差し向けた大勢の群衆も、
手に、手に剣やこん棒を持っていました。 彼らの間では、ユダがあいさつする
相手こそイエスだから、その人物を捕まえるように、
前もって打ち合わせがしてありました。

それで、ユダはまっすぐイエスのほうへ歩み寄り、「先生。こんばんは」
と声をかけ、さも親しげにイエスを抱きしめました。
イエスが、「ユダよ。さあ、おまえのしようとしていることをしなさい」
と言われた瞬間、人々は飛びかかり、イエスを捕らえました。

紀元前44年3月15日、ユリウス・カエサルが暗殺される前に
発したとされる言葉が「ブルータス、お前もか!」です。
元老院会議が開催されるポンペイウス劇場に向かっていたカエサルは、
一説によると60名もの議員に取り囲まれ、刃物で全身を刺されたのでした。

カエサルはそのとき、自分を襲う群衆の中に信頼していたブルータスを
見つけます。そして、嘆きの言葉を口にしながらこの世を去った
といわれています。
しかし、カエサルを刺した者もその場にとどまることなく逃走したと
されており、「ブルータス、お前もか!」という言葉を、
実際に誰が耳にしたかはよくわかっていません。

三国志の武将で最も勇猛だともいわれる呂布。しかし彼は、世話になった
相手をことごとく裏切ったことでも知られています。中国であれ日本であれ、
ここまで人を裏切り続けた男もめずらしいでしょう。
呂布の裏切り人生がどのようなものだったのか。
そして「裏切り野郎」はどんな末路をたどったのか、見ていきましょう。

董卓がねらいを定めたのは、呂布の主人である丁原の兵力でした。
まずは丁原を暗殺しようとしますが、丁原のそばには勇猛で鳴る呂布がいて、
うまくいきません。しかしそこはさすが大物の董卓。簡単にはあきらめません。
なんと、呂布を味方につけて丁原を殺させ、その兵力を横取りしようとしたのです。
ほんと、レベルが高い悪党になると、考えることのレベルもちがいます。

普通に考えれば、呂布の立場でこんな誘いに乗ることは、考えにくいですよね。
いい条件を提示されたからといって、世話になっている主人を殺し、
寝返るだなんて。ところが、この呂布という男。誘いに乗っちゃうんです。
誘われるまま、本当に主人の丁原を殺し……丁原の軍勢をそっくり連れて、
董卓の家来になってしまうんです(189年)。このとき呂布は、董卓と親子の
契りまで結びました。なんというか誘う方も誘う方、乗っちゃう方も乗っちゃう方。
悪役として歴史に名を残す人は、レベルがちがいますね。
しかし……この裏切り、呂布の「裏切り人生」においては、まだまだ序曲に
すぎなかったのです。

人間は偉大なる創造力の神を抱えながら、悪魔のような裏切りも
持つことが出来るのです。古き歴史を知り新しき生き方を考える。
こんなハチャメチャな人間の姿に私は愛おしさを感じています。

予想できない人間の思考力と行動が数々のドラマを創り出しているのです。
人間の進化こそが未来への羅針盤となるのです。