哲学を考える
大切なことは自分自身で考える
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは哲学的な思考を、面白いもので
譬(たと)えています。それは、風です。風にははっきりとした形がありません。
風がどこにあるのか、どこからやってくるのか、そしてどこへ行くのかは、
目には見えません。でも、それは確かに存在します。そこにあるにもかかわらず、
実体の摑めないもの考えるという営みは、そうしたものだと彼は考えたのでした。
でも、果たして本当にそうでしょうか。
たとえば、考えたことを言葉にして、本にすることができたら、
それは思考に形を与えたことになるのではないでしょうか。
ソクラテスの考えでは、おそらく、そうはならないでしょう。
なぜなら、たとえ私たちが思考を言葉で表現しても、私たちの思考は
その言葉を通り抜け、あるいは解体してしまうからです。
たとえば、何かが存在する、ということの意味を考えて、
「存在とは○○である」という結論に行き着いたとしましょう。
そのとき私たちは、自分の思考を言葉で表現し、その思考に形を与えた
ことになります。
一時は、そのことに満足し、私たちは考えることを止めるかも知れません。
しかし、時間が経ってくると、だんだんとまた風が吹き始めるのです。
「あれ、そもそも○○ってなんだっけ」と。
哲学は「当たり前」を問い直す営みであり、それはもう少し堅い言い方を
すれば、概念のネットワークを解体し、相対化し、検証する営みです。
それに対して、言葉で言い表されたものは、すべて、何らかの概念の
ネットワークに落とし込まれます。そうでなければ意味が伝わらないからです。
だからこそ、思考は形にならないのです。このことは、哲学について
書かれた本を読むときには、特に注意するべき点です。
私たちは、つい、偉い哲学者が言ったことをそのまま信じようとして
しまいます。あるいは、信じるまでいかなくても、
「この哲学者はこう言ったのだ」と、ただ引用することだけで
満足してしまいます。でも、その言葉そのものには、正直に言って
あまり意味がありません。大事なのはあくまでも考えることなのです。
しかし、当然のことながら、哲学者が考えていたことを、言葉になる前に
遡って知ることなんて、誰にもできません。私たちにできることは、
その本を糧にして自分で思考することでしかありません。
哲学者が何を言ったのかよりも、その言葉から自分が何を考えたのか、
ということの方が、哲学にとってははるかに重要です。
ですから、そこに思考が伴(ともな)っていないなら、本を一冊、
初めから終わりまで全部暗記しても、あるいは、ものすごいスピードで
速読し、何冊もの哲学書を読んでも、あまり意味はないのです。
では、どういう読み方をすればいいのでしょうか。
本を読み直すとき、あるいはこれから新しい別の哲学書に挑戦するとき、
どんなことに注意すればいいのでしょうか。私が大切だと思うのは、
書かれていることに対して問いを連想しながら読むことです。
もしもあなたが、本を一回読み終えることができたなら、
ぜひもう一度、最初に戻って、今度はもっとゆっくりと読み直して
みてください。私は最初に読んだ時に気になる文言に付箋を貼ります。
そして解決するごとに付箋を一枚一枚とはがすのです。楽しいですよ。
探偵になったつもりで文章を追ってください。そして、ちょっとでも
違和感を抱いたら、その感覚を、決して手放さないでください。
ソクラテスも言う通り、思考は風です。それは急にあなたのもとにやってきます。
でも、何もしないでいたら、すぐにどこかに消えてしまいます。
だからそれを手のなかに包み込み、じっくりと吟味(ぎんみ)してほしいのです。
私のオススメは、読書に疲れたら思い切って本を閉じてしまうことです。
ぱたん、という音が、自分の思考が始まる合図になります。
ソファーに腰掛けたり、畳の部屋で寝っ転がったり、お風呂に浸かったり
しながら、違和感を言葉にし、なぜ自分がそう思うのかを、問い直してみて
ください。私が思うに、これが、哲学的な思考の一番クラシックな
スタイルです。たぶん、古代ギリシャの哲学者たちも、
そんなことをしていたのではないでしょうか。
当然ですが、そんな読み方をしていたら、いつまでたっても
本を読み終われません。でもそれでいいのです。
先ほども述べましたが、哲学書に関して、
早く読み終えることには何の価値もありません。
大学の専門的な哲学教育では、一週間かけて数行の文章を
読む授業が行われるくらいです。焦らず、自分のペースで、
じっくりと思考すること、それが哲学の営みにとって
もっとも重要なことなのです。
そんなことを言うと、次のような疑問を持つ方もいるかも知れません。
「そんなことをして、いったい何の役に立つんだろうか」と。
科学の進化はあるゆる物を簡略して使いやすくしました。
商品の中身を知らなくても電源のオン・オフだけですべてが動き出します。
科学は人間が思考する楽しみを奪ったのです。
我々は自然界の美しい景色を時間の移り変わりの中で、
楽しむことが出来る能力を持っているのです。
ゆっくりと何も考えずにその変化を楽しむことが日本の文化です。
哲学書の答えをすぐに求めるようにしても意味がありません。
哲学書は何度も吟味しながら繰り返し読み進めるのが正しいのです。
「老人と孫」の対話集会でも議題はあるのですが答えはありません。
世代も性別も経験も違う人たちと話し合うのです。
議論し合うことに意義があるのです。まるでギリシャのスタジアムの様に
円形になり自由に意見を交換するのです。ときには大人たちの意見に
孫の意見が重なりたじたじになります。
哲学の英語表記フィロソフィーは「知識を愛する」です。
智慧や叡智を確かめるという事です。
老人たちの言葉は意味が理解できるまでに時間がかかります。
それでも孫たちと話し合うことに意義があるのです。
老人と孫の会場には心地よい風が吹いています。
あなたもその風を感じに来ませんか?
見えない風を探すのです。