学校という名の刑務所




日本人のペンキ画家SHOGEN「今日、誰のために 生きる?」
現在、アフリカで体験したことを一冊の本にして啓蒙活動を続けている。
Youtubeでは「長老から日本人への警告」としたタイトルで
人気ユーチューバーとの対談映像も流されています。

「日本人の本当の姿」
全ての日本人に伝えてほしい。
全ての日本人に思い出してほしい日本の心、
縄文時代から繋がる自然への愛。
今日は誰のために生きるの?自分を愛し全てを愛す。
足りないものを探すのではなく足りているものを補い合う。
人は全て未熟なデコボコ。
デコボコ同士が家族のように活かし合う。
日本は私たちの希望の光なのです。

☆見ず知らずのアフリカの村の長老が
私を日本人というだけで受け入れてくれた。
しかし、私は日本人の心を忘れていて、村の子供たちからも
沢山の気付きを貰うことが出来た。彼等から教えられる日本人・・・

子供の好奇心を尊重する。
今日何があったかと聞くと楽しい話ばかりする現地の子供達。
父親が居て母親が居て三食食べられることに感謝すること。
陽が沈むと「諦める時間」として仕事から完全に離れること。
月明りで海上に道筋が出来て友情が芽生えること。
分け合うことも補うことも当たり前のようにできること。
何よりも愛と平和と奇跡を信じていることなどを
だれも疑わず信じていることです。

村の村長が世界の中で日本人が一番
「愛を知っている」人種だと言い切る。
それは一万年から一万五千年続いた縄文時代の歴史を
お爺さんのシャーマンから聞いていたという。
遺跡から掘り起こしたミイラの骨に傷跡が一切なかった。
紛れもなく平和国家だったという事実が証明されているのです。

これはアフリカの未開の村の作られたおとぎ話ではない。
日本人のペンキ画家SHOGENが経験した実話なのです。
村長との約束の中で「この村で経験したことを日本国中に
いや世界国中に広めて欲しい」と頼まれてSHOGENは
活動を積極的に行っているのです。

彼の話を聞けば、学校の在り方、友達との接し方、学びの本質、
自然のありがたさ、規則の在り方など、多くのことが学べると思います。

大自然なのかで学びたいことを学ぶ。
それは強制ではなく自由に選べることが重要です。
教える側が教えやすい環境を作るために、
学校があるわけではありません。
子供達の自由意思を尊重して運営されるのがあるべき姿なのです。

学校において最も根幹的な問題は、
「学校とはなにか」ということであり、
そこからいじめの蔓延とエスカレートも生じるのはなぜか?
わたしたちが「あたりまえ」に受け入れてきた学校とはなんだろうか。
いじめは、学校という独特の生活環境のなかで、
どこまでも、どこまでもエスカレートする。

不登校になれば来ない理由を聞くのではなく、学校へつれ戻すことを優先する。
子供の人権を無視してまでの教育とは意味がある事なのだろうか?
現状の学校教育にはいくつも大きな疑問が残る。

「学校とはどのようなところか」
日本の学校は、あらゆる生活(人が生きることすべて)を囲いこんで、
学校のものにしようとする。
学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、
人間という素材から「生徒らしい生徒」をつくりだそうとする。
これは、常軌を逸したといってもよいほど、しつこい。

生徒が「生徒らしく」なければ、「学校らしい」学校がこわれてしまうからだ。
たとえば、生徒の髪が長い、スカートが短い、化粧をしている、
色のついた靴下をはいているといったありさまを目にすると、
センセイたちは被害感でいっぱいになる。

「わたしたちの学校らしい学校がこわされる」

「おまえが思いどおりにならないおかげで、わたしたちの
世界がこわれてしまうではないか。どうしてくれるんだ」というわけだ。
そして、生徒を立たせて頭のてっぺんからつま先までジロジロ監視し、
スカートを引っ張ってものさしで測り、いやがらせで相手を意のままに
「生徒らしく」するといった、激烈な指導反応が引き起こされる。

この「わたしたちの世界」を守ることにくらべて、
一人ひとりの人間は重要ではない。
人間は日々「生徒らしい」生徒にされることで、
「学校らしい」学校を明らかにする素材にすぎない。
多くのセンセイたちは、身だしなみ指導や挨拶運動、
学校行事や部活動など、人を「生徒」に変えて「学校らしさ」を
明徴するためであれば、長時間労働をいとわない。

ある中学校では、目の前で生徒がいじめられているのを
見て見ぬふりしていたセンセイたちが、学校の廊下に
小さな飴の包み紙が落ちているのを発見したら、
大事件発生とばかりに学年集会を開いたという。
(見て見ぬふりをされた本人〈現在大学生〉の回想より)。

こういったことが、典型的に日本の学校らしいできごとだ。
こういった集団生活のなかで起きていることを深く、深く、
どこまでも深く掘りさげる必要がある。

逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、
軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。

センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、
指導であるとして正当化される。正当化するのがちょっと苦しい場合は、
「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として
責任からのがれることができる。

生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて
教育の問題にする。こうして、社会であたりまえに許されないことが、
学校ではあたりまえに許されるようになる。

子供達の自由な発想と自由な行動が
学校という名の刑務所で歪められてしまう。
社会はこの状況を決して見過ごしてはならない。
日本人の子供達を学校という刑務所から解放させましょう。

理想は理想を眺めていても何も起こりません。
自由で開放された学びの場を作り始めることにしましょう。