水の世界・水の生き方
水の上辺だけを見ている人生。
下の流れが早い方が上の流れはゆっくりとなり澄んで見える。
悲しみを隠しながら生きている人は笑顔が素敵なのと同じ。
そして下の流れの中で生命が育まれて形が変わっていく。
表面だけ見ても真実は分からないのです。
初夏、川岸にウグイの子どもたちがたくさん泳いでいます。
翌春、サクラが散る頃にアユの子どもたちが群れをなして川を上ってきます。
北国ではフキノトウが頭をもたげる早春、川岸にサケの子どもたちが群れています。
親がいなくても卵はちゃんと育っているのです。
いったい誰が、卵を育てたのでしょうか?
水は高い方から低い方へ地表を流れたり、地中に染み込んだりしながら、
川となって流れています。川底の石と石の間の隙間を、水が通り抜けていきます。
地表から地中に浸透した水は地下の地層を通り抜けて、川底の石の間からも
湧き出してきます。
卵は川底の石の間の水が通り抜ける場所に産み落とされていたのです。
卵は常にきれいな水にさらされながら、常に水が入れ替わる川底の石の間で、
酸素をもらいながらすくすくと育っていたのです。
親はこうした場所であれば、卵が育つことを知っているというわけです。
親は卵を産みっぱなしにしたのではなく、我が子の命を川に託していたのです。
親がいなくても卵が育つ、この仕組みこそが、川に備わった「生命を育む川のしくみ」
なのです。
川に泥水が流れることは、魚たちにはとても深刻なことなのです。
「雨が降れば川が濁るのは当たり前」
「泥水の泥は自然のものだから問題ない」
本当でしょうか…?疑問を持ってください。
もしも、そうであれば、魚はとっくの昔にいなくなっていたでしょう。
現代にもまだ少なからず魚がいるということは、裏を返せば、
川は雨が降っても濁らなかったということです。
昨今の泥水が流れる川は異常な状態なのです。
全道で、日本中で、生命を育む川の仕組みが失われているのです。
我々はもっと川の生態系に関心を持つべきです。
「杓底一残水 汲流千億人」(杓底の一残水、流れを汲む千億人)
永平寺をお開きになった道元禅師は日頃から仏前にお供えする水を、
門前を流れる川から柄杓で水を汲みに行っておりました。
その際、必要な分の水を使ったら、使わなかった残りの水を元の川に戻していた
と言われております。川には水が豊富にあり無くなる心配は無いわけです。
しかし、どんなに水が豊かにあったとしても一滴の水も粗末に扱わない、
その一滴を川に戻せば下流で水を使う人、またその先の子孫の為になるわけです。
今私たちが生活する周りにはたくさんのもので溢れています。
水も電気も紙も使いたいときに使えます。しかし、今は好きなだけ使えていても、
地球の資源には限りがあります。無くなる時がやってくるかもしれません。
我々は自然と共に生きている、生かされているわけであります。
この世に存在するものは、すべて支え合い、助け合って生かされているということを
忘れてはいけないのです。このように考えるとき、我々は資源を初めとする
一つ一つのものを大切にしなくてはならないのです。そして自分以外の他者も同様です。他者を思いやる心、これも現代の私たちに必要なことではないでしょうか?
「杓底一残水 汲流千億人」とは、自分のことだけ考えるのでは無く
他者を思いやる心も大切にしましょう、というメッセージであります。
「東山水上行」
東山(とうざん)水上行(すいじょうこう)が漢詩風で禅味がありますが、
東の山が水の上を行く、ですと趣きには欠けますが、分かりやすさは
一番あるかと思います。
我々の日常世界では山と川は別々の存在で、山が川を上ることはあり得ませんが、
地球規模の歴史としてみれば、山も川もあるとき誕生したものであり、
また山も川も地続きであり、山も川も長い年月のなかで刻々と姿を変えています。
時に土砂崩れ、鉄砲水、噴火などの転変地位によって、低かった場所が高くなったり、
あったはずの丘が崩れ去ってしまったりします。
大地震等を振り返りつつ防災意識を高める言葉として、また登山や川遊びなどの
自然環境で余暇を過ごす際の警句として、用いてもよいかと思います。
最後に私の好きな言葉「水は方円の器に従う」です。
水は、容器の形が四角ければ四角になり、円ならば円になる。
人は、交友関係や環境次第で善にも悪にも感化されるというたとえ。
私の人生もその時々自分を見失いよう形を変えて流れに身を任せて生きてきました。
たくさんの仕事に付けたのも、たくさんの人と交友を持てたのも、
運命という川に逆らわなかったからです。
皆様も水のごとく柔軟な心でお過ごしください。