祈り




元旦早々に発生した能登半島地震。震度7を超える大地震。
刻々と被害状況が届くたびに誰しもが両手を合わせて祈らずにはいられない。
地震による家屋の損害、それが原因で火災が発生、海からの津波、山崩れ、道路寸断、
時間ごとに死者の数が増えて行く。元旦の日である。

家族が集まり遠方から親類も集まり、ご馳走を前にお酒も飲んで幸せの絶頂時に
突然の大揺れである。笑い声が一転して絶叫に変わった。夕方四時過ぎの時間帯は
寒さも襲う時間帯である。電気も水道も寸断されて暖も取れなくなった。

周りに完備した避難場所もなくとりあえず公民館や学校へ逃げなければならなかった。
ここ4~5年頻繁に起こる地震に対して防災意識が低いのが惜しまれる。
その上に2日は羽田飛行場で飛行機火災が発生した。よりによって、救援物資を
石川県へ運ぶ海上保安庁の飛行機と民間機が爆発炎上したのである。

年明け早々に悪夢をみているようで信じられない出来事が連続して起こった。

あなたは今までに両手を合わして心から何回祈ったことはあるのだろうか?
お正月のような催事ことや旅先での神社仏閣の観光以外にあるのだろうか?
悩み苦しんだ時に神仏に心からの救いを求めて祈ったことがあるのだろうか?

私は6年前に病気を患った時に毎朝1時間半ほどウォーキングと公園での
ストレッチ運動に明け暮れました。
そして運動が終わった時に必ず太陽に向かって祈りました。
「神様、私を世の中が必要とするなら元気にしてください」と祈ったのです。
雨の日も風の日も必死で祈ったのです。そして徐々に回復をして元気になったのです。

昨年は2月に兄と慕っていた友人の画家が亡くなり、昔仕事で縁のあった谷村新司氏
と伊集院静氏も亡くなった。年末には家族付き合いのあった親しき友人も亡くなった。
年齢的にそのような場面が増えるのは仕方がないのだが悲しい出来事である。

8月に長い間、和歌山に放置されていた父親の墓しまいをして、栃木の母親の墓のそばに
移し替えた。両親がどんな不仲で、不遇の人生でも、残された家族にできる
最大の恩返しである。私は両親の温かさを知らないが祈らずにはいられなかった。

誰しも死は避けられない出来事であるが死と同時に思い出も無くなるのは辛いことです。

友人の訃報の知らせを聞いた時、ただ祈らずにはいられませんでした。
生きている時の楽しい思い出が一瞬にして浮かび、

そしていつしか永遠のかなたに消えるのかと思うと切なくなりました。

人には長い人生の中ではそれぞれの祈りの場面があります。
サラリーマンには大きな仕事の責任を任せられた時に祈らなければならない時があり、
学生にも進路や恋愛で悩んだ時に初めての経験なので祈らなければならない時があり、
主婦にも経済的な問題や子育てに疲れ切った時に祈らなければならない時があり、
将来の夢を聞かれた時にスポーツ選手や音楽家やサラリーマンになるか考えた時に
祈らなければならない時があります。必ず誰にでもそれぞれの祈りがあるのです。

祈りの語源はこのようになります。
祈る。神や仏に願う。
斤は、物に斧の刃を近づけたさまを描いた象形文字で、すれすれに近づく意を含む。
近の原字。祈は「示(祭壇)+音符斤キン・キ」で、目ざす所に近づこうとして
神や仏に祈ること。具体的な物体のない意識の世界へ祈りを通じて、
近づこうとしている様です。
誰にも知られずに祈る人も大勢の人の前で祈る人も祈りには変わりません。

ここにこのような言葉があります。

「『新約聖書』の「テサロニケ人への第一の手紙」に次の言葉があります。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」
喜びというと、何か特別の出来事のように思ってしまいますが、
そうではありません。おいしく食事ができることや健康に活動できること、
家族がいてくれること、さらに言えば命が与えられていること、
そのこと自体が喜びなのです。

日々の小さな出来事にも喜びを発見し、またそのことに感謝して生きる。
喜びや祈り、感謝を習慣化していくと、心が静まり、
突然の事態にも動じなくなっていきます。
いつか、この危機が過ぎ去った時に、
自分が深められ成長できていることに気づくでしょう」

これは聖心会シスターの鈴木秀子先生の言葉であります。
こういうあたたかく親切なお言葉というのは、我々禅僧にはとても真似ができません。
本当に心に染み入る言葉です。大きな力をいただくことができます。

鈴木先生とは懇意にさせていただいていますが、
思えばいつお目にかかっても、笑顔で喜びをたたえていらっしゃいます。
そして祈りの人という雰囲気を常にお持ちであります。
更に絶えず感謝の言葉を口になされています。

鈴木先生にはすっかり習慣化され身についていらっしゃるのでした。
「いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝、」
私もこれを習慣にするよう努力しようと思います。
(円覚寺館長横田南陵)より

私も日々「恩学」を通じて拙い文章ではありますが発表させていただいております。
読者から良い文章でしたとお返事をいただくことが励みになり書き続けております。
誰に何を言われても「愛語よく回転の力あり」を貫き通します。
恩に始まり恩に終わる人生です。

最後に一言

人は同じ祈りであっても、仏教であれば経文を唱えることによって、神道では
鐘を鳴らし二礼二拍一礼の作法によって、キリスト教であれば十字を切ることによって、
(それぞれの宗派によっては多少の違いがあります。)
異なる場所、異なる時間にそれを行っても、「おもい」によって「つどう」ことが
できる」と言われています。

同じ思いで集まり同じ思いで話し合う。たとえ違う場所にいても思いが同じであれば
「集う」ことになる。同じ思いの力は奇跡を起こすことがあるのです。
私の恩学を読んでいただいている人と、私はいつも同じ思いで集っているのです。

生きることを学ぶ塾「恩に始まり、恩に終わる」で心を一つにして祈りましょう。

今回の能登半島地震の被害にあわれた全ての方に祈りをささげたいと思います。
一日も早い復興を祈ります。

私が現在理事をしている「認定NPO法人日本カンボジア文化産業振興会」が、
石川県金沢市にあります。地震直後から救援物資を珠洲市へ一日1~2回送っています。
復興には長い時間がかかります。皆様からの支援金及び義援金の協力をお願いします。
詳しくは団体のホームページをご覧ください。
よろしくお願いいたします。