判断に色を混ぜない
自分のことは好き嫌いで判断して他人のことは評価で判断する。
自分の好き嫌いも怪しいものでただの欲求の現れの場合が多い。
他人対しての評価は直接的な場合と間接的な場合が多い。
直接的とは印象から判断して間接的は経歴や評判から判断する。
世の中のことに関しても、高評価がついていれば手当たり次第に本を読み、
ネットでフォロワー数が多いと書かれているレストランで食事して、
テレビでここがトレンドスポットといえばその地へ出かけているだけです。
海外旅行も然り、トリップ・アドバイザーやスカイ・スキャナーから来る
お知らせメールを便利だからと言って目的地を選ぶだけで判断をしている。
そしてそれらに一体どれだけの価値と自分の意思が加わっているのだろうか?
私は昔から「ぶらり一人旅」が大好きであった。現地に飛んで、情報のない世界に
飛び込んで、好奇心全開で歩き回った。勿論、仕事で海外へ行った時もオフ日には
路地から路地の猫歩きで何かいいものは無いかと獲物を探し回った。
誰からの情報も無く自分の判断で歩く旅はリスクも多いがそれ以上に満足も多い。
ガイドブック片手に街を歩いている人を見るたびに、旅行代理店と客引きの嘘の言葉に
騙されないようにと願うばかりである。
プロデューサーの仕事柄、大勢の人に会う機会が多い。
特にオーディションの審査委員を頼まれ、若いアーティストやタレントに会う時、
机の上の資料には一切目を通さない。不要な情報が多くて惑わされないためである。
様々な経歴を自慢げに書いているアーティストは、何故オーディションに来たのか
疑問が残る。本来なら経験を活かして自力で信念を貫き通すべきである。
タレントに関しても見た目可愛くて歌も上手いが、バックには大手プロダクションが
付いていれば、私は即アウトです。でも私以外の審査員はお墨付きのタレントだと
喜ぶ人も多いのは確かである。
アメリカ屈指の美術批評家、ニューヨーク・タイムズ紙のジョン・キャナディ氏が
「絵には作品名がないほうがよい。作品名があると、見る側がそれに左右されてしまう。
自分の目で判断しているので、僕は展覧会へ行っても、作品名は見ない」もちろん、
ギャラリーからも作品の説明は一切受けない。作家本人にも会うことはしませんでした。
説明を受けたら自分の判断が鈍るかもしれない。それ以上に作家に会うと情が
移るかもしれない。自らを律した目で作品を見て、批評していました。
それだから、世界的な美術批評家として高い信頼を得ていたのでしょう。
パソコンや携帯電話を買う時に他人から説明を受けて購入すると、
何かトラブルがあるたびに他人のフォローを求めるようになる。
常に人任せの人生は楽しみを狭めてしまう。
便利だからといって安易にマニュアルを検索して分かったつもりでいるが、
本当は何もわからず操られているだけかも知れない。
好奇心はある意味で大変だから湧き起こる感情であって、安易に手に入るところには
好奇心も想像力も失われてしまうのである。
朝起きてコーヒーミルから淹れたコーヒーを飲み、窓の外の景色を眺める。
晴れた日に富士山が見えて、雨の日にはベランダの花が生き生きとして見える。
バートバカラックの音楽を流して根拠のない妄想を楽しむ。
今日は絶対何か良いことがある。
自分のために生きるとは判断に色を混ぜない方が良い。
日常生活の純粋な気持ちから生まれる感情これが正しい現実である。
個人とはその純粋性から生まれてくるものなので、
情報に色付けされた個人は「他人」であることを知るべきである。
あふれる情報から絶対に判断をしてはならない。それは資本家に
操られていることになるからです。もつと自由に生きていきましょう。
友達や同僚の話に合わせるだけの仲間付き合いはそろそろやめるべきです。
周りの大人に良い子の振りをする必要はありません。
あるがままの、そのままで、わがままな自分でいいのです。
しかし、世界の情勢や自分の人生を考えると、もっと真剣に生き方を考えなければ、
手遅れになります。もっと言いたいことを言って、もっとやりたいことをやって、
もっと人生を楽しまなければ悔いが残ります。
禅語にこのような言葉があります。
「直心」じきしん、是れ道場(維摩経)
「直心」という語には、真っすぐな心、素直な心、あるいは直接という意味で、
真実にぴったりと合った心など、いろんな意味が含まれています。
しかし、そういう「直心」を身につけることは、決して容易ではない。
直心を保つことは、自分を鍛える「道場」にほかならない。
何かにつけ素直になれず、すぐに「斜に搆える」人がいる。
そうかと思うと、たとえ自分にとって嫌だと思うようなことであっても、
他人の言うことに素直に耳を傾ける人もある。
やはり人間の生き方には個人差があって、必ずしも時代の趨勢に流されてしまう
人ばかりではない。敢然として自己を貫く人もあるのだ。
一般的に見れば現代という時代は、どう見ても決して良き時代ではない。
その中で生きようとすると、あまり素直過ぎては馬鹿を見ることが多いであろう。
だからみんなが保身的にそういう策略的な傾向に身を委ね、本来の美しい心、
素直な心、を捨ててしまうことになってしまう。
今日(こんにち)、多く見られるように、人を信じることができず、常にまわりを
気にして上目使いになり、ややもすると自分の殻の中に閉じ籠もってしまうのは、
互いに依存しなければ生きられない人間としては、決して健全なあり方ではあるまい。
われわれはもう一度、自己の殻を破って無我の心境を開き、周りの世界をその中に
包み込むような温かみのある人間関係と、自然に対しても近世以来の人間中心の
傲慢を捨てて、大自然に抱かれつつ生きるような、生き方を回復しなければならない。
そういうことは、しかし、近世以来人間の歩んで来た方向を逆転させることであり、
容易なことではない。しかし、それこそが現代人に課せられている「試練」なのである。
判断に色を混ぜないとはあなた自身の素直な気持ちに理由をつけないということです。
常に「温故知新」歴史の中から新しきことを学び実行へと移す。
過去から未来へ、あなたと同じ考えを持っている人たちは昔から大勢いたのです。
決してあなたは1人ではない。
素直なあなたの味方はいるのです。