一月浮万水



一月浮万水(いちげつ ばんすいにうく)

私が終の住まいを山奥に移した折にはこの境地で余生を過ごしたいものである。
先日訪問をした岐阜県中津川で朝もや霞む茶畑を散策した時に感じた想いである。

空に輝くたった一つの月が、地上のあらゆる場所の水面に無数に映っている
(浮かんでいる)という情景を表現した禅語です。

天の月が地上のあらゆる水面に反射して映るように、あらゆるものの中には
他のものの働きが影響していて、他のものと互いに関係し影響し合うからこそ
存在している。つまり、何一つとして単独では存在し得ない。
つきつめると、すべては一体であるということを表現している禅語だと考えています。

「すべては一体である」といっても、実感が湧きにくいかもしれません。
例えば今、自分の目の前に一杯のお茶が置いてあると想像してみてください。
そして、この目の前のお茶を今から飲むとしましょう。

目の前に置かれたお茶は、私ではありません。
自分ではない別のものとしてお茶を認識するでしょう。
ですが、このお茶を口に含み、飲み込んでしまったらどうでしょうか。
私の中に取り込まれて吸収され、自分の体の一部になっていきます。
この時、身体に吸収されたお茶は自分でしょうか、お茶のままでしょうか。
そして、しばらくしたら体から排出することにもなるでしょう。

では、この目の前にあるお茶は、いつから自分になるのでしょうか。
そしてどのタイミングで自分でなくなるのでしょうか。
自分になるのは、口に含んだ瞬間でしょうか?胃で吸収された瞬間でしょうか?
自分でなくなるのは、体から外に出た瞬間でしょうか?
膀胱に溜まっているときでしょうか?

もし、お茶が目の前に置かれている状態で永遠に時が止まるのなら、
そのお茶と自分は別のものなのかもしれません。しかし、時は止まりません。
ですから、この目の前にあるお茶は「これから自分になるもの」であり、
「そのうち自分でなくなるもの」でもあると言えそうです。

ところで、この目の前の一杯のお茶は、お茶になる前はどんな状態だったのでしょうか。

例えば井戸水とお茶の葉だったとしましょう。この井戸水はどこから来たのでしょうか。

山に降った雨が地面に染みて、地下を流れていた水かもしれません。
では、山に降る前は…?雲でしょうか。雲になる前は…?
海や地面やあらゆるものから蒸発した水分だったのでしょうか?

一方、お茶の葉はどこから来たのでしょうか。
お茶の葉として形になるまでには、太陽、水、土、微生物…、
水と同じようにあらゆるものが関係してきた結果、
今お茶の葉という形になっているのでしょう。

そうやって関係を辿っていくと、この目の前のお茶一杯は、
世界中のあらゆるものと関係してきた結果この一杯になっているはずです。
この関係は、人間が現代の科学で辿ることができる範囲の遠く外まで
無限に繋がっていることでしょう。それこそ、検証不可能な宇宙の果てまで。

そしてこの全宇宙の関係全てを凝縮したような一杯のお茶を、私は飲むわけです。
私もつながりの一部です。この、あらゆるものが影響し合っている現実、
それが冒頭の「全てが一つである」ということを理解するのに役立つのではと
思っています。 

そして「行到水窮處」&「坐看雲起時」 
(ざしてはみる、くものおこるとき)『終南別業』  
山奥で坐禅をして、雲が生じるのを見るよう、自然と一体となり悟りに至ろう!

行到水窮處。坐看雲起時。とは
行ゆいては到いたるみずの窮きわまる処ところ、
坐ざしては看(みる)雲(くも)の起(おこる)時とき。

中歳 頗(すこぶ)る道を好み
晩に家す 南山の陲(ほとり)
興(きょう)来れば毎に独り往き
勝事空(むなし)く自ら知る
行いては到る水の窮まる処
坐しては看る雲の起る時
偶然 林叟(りんそう)に値(あ)い
談笑して還期(かんき)無し

概略の語意としては「私は中年を過ぎた頃より頗る仏道を好み、
晩年には終南山の麓に住まいして、ふと興がわけばいつも独りぶらりと山へでかけ、
景勝をぼんやりとひとり楽しみ、ぶらぶら歩いては水の流れの源へ到り、
心地よく疲れてはそこに座り込み遠く雲の湧き出るを眺めたりする。
そんな時、偶然、きこりのおじいさんに出会っては、談笑をして思わず
長話をして帰るのを忘れてしまう」というふうに解される。

悠々自適の境涯をあらわす道人の生活。
俗塵を離れ、どっぷり自然の妙境に身を
置き、水の流れに身をたくし、無心に流れ
行く雲のようにたんたんとしたその境を
楽しむ詩情を禅者はこれを禅境に重ねて
この語を好んで用い、対服の茶掛けとしても喜ばれた。

勿論、実際に俗塵を離れた隠遁生活の悠々自適を禅者は尊ぶものではない。
東京のど真ん中の雑踏、新宿駅の人混みの流れの中にあっても、高層ビルの間の
雲のかすめる時であっても心境においては大自然の中にあるように安穏無事の
境涯であってこそ、この行到水窮処 坐看雲起時が生きるのである

私はこの投稿をno+eでふと目にしたとき、これだ!この禅の世界が
わたくしが求める境地だと思わずにはいられなかった。
「恩学」のブログを書くようになって景色に音に文字に、人との出会いに、
とても敏感になったと思う。

これからも記憶に残された思いを、度々よみがえらせることを大切にしたい。