一本道を行くか




一本道をずっと歩き続ける人は辛抱強い人と言われ褒められる。
あらゆる可能性を求めて色々な道を歩く人は気移りが激しいと批判される。 
昔は親の仕事を子供達が引き継ぐのが当たり前とされて
自分が好む好まざるともその道を選ぶしかなかった。
侍の家に生まれれば侍として生きる。
農家の家に生まれれば百姓として生きる。
大工の家に生まれれば大工として、
八百屋に生まれれば八百屋として生きるしか無かった。

しかし長男は跡取り息子として大切に育てられるが、その下の兄妹たちは
家を出て仕事を探さなければならなかった。
同じ家にでも生まれ落ちた順番で過酷な人生を歩むことにもなる。

兄弟の殆どが町に出て商人の家に丁稚奉公へあがるか、寺子屋の教師になるか、
剣道道場の師範になるか、果ては大店の用心棒になるか、女の子の場合は
和裁の仕事をするか、めし屋で手伝いをするかしかなかった。
また農家の娘は借金の形で売り飛ばされて廓で女給の道を進むしかない子もいる。
器量の良い子は早いうちから見受けされて大店の旦那に囲われる子もいるが、
不器量な子は飯炊き女になるか帳場で雑務をやるしかない。

明治維新以降は名前も仕事の選択も自由になり
女性も学校へも通えるようになった。
女に学問は不必要と言われた時代から女性も学ぶことが
できるようになったのである。

しかし戦後日本の教育から毅然とした生き方を教えることが禁じられた。
アメリカの占領地政策で日本から「忠・義・孝」を抜き取った。
戦争に負けるという事は建物の破壊より心の破壊の方が痛手が大きい。
志を持った生き方、凛とした仕草、神仏を信じて文化を重んじる国民性が、
全面的に否定されたのである。

その上にアメリカの占領地政策として「歴史・地理・修身」が消されて、
代わりに「スポーツとシネマとセックス」が奨励されて
日本人は骨抜きにされた。いわゆる3・S政策である。
これに加えて3・C「カード・クレジット・コンビニエント」を
導入させて資本主義の餌食にした。

60年代後半から70年代にかけてニューシネマやロックが
日本へ入り込み若者たちはゲルマニュウム・ラジオを布団に入れて
FEN(極東放送)でアメリカのヒット曲を夜通し聞いた。

一気に世の中がカラフルになり誰もが金持ちになれると信じ込ませた。
ケンタッキーもマクドナルドもブロイラーも憧れの食べ物であった。
誰もがコカ・コーラを飲めばアメリカ人のような体形になると信じていた。

昭和の初期に流行った言葉が「末は博士か大臣か」と言う言葉である。
勉強に励めば博士にも大臣にもなれるのだという表語である。
町工場の経営者も努力すれば大会社の社長にもなれると夢を植え付けられた。
従業員も豊かな生活を求めて馬車馬の如く休みなく働き続けた。
高度成長期の波が押し寄せてきたのである。

田舎からの出て来た若者たちは金持ちになりたければボクサーか
ロックシンガーに成れとも言われた時代である。
正に広島の田舎から横浜に出て来てカリスマのロックスターになった
矢沢永吉などはその最たるものである。

実は私も一本道を歩けず何本の道を歩き続けた人生だったのである。
音楽プロデューサー、ビジネスプロデューサー、セミナー講師、
プランナー、経営者などの顔をいくつも持っていました。
それが正しかったとは言い切れませんが、さまざまな人との出会いや
海外での仕事は素晴らしい経験で後悔はありません。

人生で大切な事は大胆か慎重かの二つの選択です。
一本道を選ぶか、数多くの道を選ぶかは、あなた次第です。
しかし大胆になり過ぎて少し先走りで大怪我をすることもあります。
かといってあまりにも慎重になり過ぎると成功の時期を失うことにもなります。

節約と浪費も同じように選択に迷います。
若い時によく言われたのは老後のことを考えて
無駄遣いをするな貯金をしろです。
絶対に賭け事や株の投資に手を出すなとも言われた。
それと都会の女は怖いから有り金全部取られるから
注意しろとも言われた時代である。

日本の哲学者森信三の言葉
「たとえ99人が川の向こう岸で騒いでいても、
自分一人はわが志した川上に向かって
歩き通す底の覚悟が無くてはなるまい」
同調主義「付和雷同」の世界が大嫌いでサラリーマン時代は、
常に一人で行動を起こしました。

40歳で独立をして社会へ飛び出したときに、
業界の多くの人から言われた言葉があります。
「SONYの稲葉だから協力したがただの稲葉には協力できない」
この言葉を聞きこれが現実だと目が覚めた時です。
そして友人から詐欺にあい退職金も事業資金も全部失った時でした。
東京とLAに音楽制作事務所を開設して意気揚々としていた時期です。

再起を図りレコード会社とのバンス(前借制度)でアーティストを育て
10年間頑張ったのですが、突然アメリカから契約を切られて、
不渡りが出て倒産をしました。
私は全ての契約の保証人になっていたので自己破産を余儀なくされました。
家族とも別れて品川の小さなマンションに移り住み仕事探しを始めたところ
職安のスタッフから一番仕事が見つからないのは、
社長業や芸能関係の経験者ですと言われた。

しかし意外と冷静だったのは、自分の人生が沢山の道を歩いて来たので
怖くは無く、なんとかなると楽観的に考えていました。
私から友人たちにどんな仕事でもやりますと伝えたら、
起業したばかりのIT関係の会社が経営戦略部門の責任者を
探しているので紹介すると言われた。

面接の時に先方の会長に音楽関係からいきなりITの会社ですが
知識も経験もなく大丈夫ですか聞いた。
しかしヒットの数は多いので成功のノウハウはあります。
と応えたら即採用された。会長が音楽好きなのが功を奏した。

その後は韓国に映画会社を立ち上げ、中国に音楽制作の仕事で進出して
ゼロベースから大成功へと導いた。
一本道の人生だったらこのような臨機応変に身の振り方を変えることは
出来なかったと思う。しかし何本の道を歩いてきたので、
与えられたチャンスを逃さずに掴むことが出来たのだと思う。

職人の様に一つの事に執着することも大切ですが、
これからの世の中は人間の経験はAIが担うので、
変化に対応できる人間が必要な時代になります。

若者たちは多くの可能性にトライしてください。
私はこれからもいろいろな道へと挑戦を続けます。