空虚な日々の過ごし方




順調に仕事がまわっているのに突然何もかも投げ出したくなる時がある。
家族や友人と仲良くやりながら生きているのに心が空(から)になる時がある。
信頼は積み重ねることが大切だと分かっている筈なのに急に仲間に背中を向ける。
何もかも捨ててゼロから挑戦を始めたくなる。もう何度目だろう・・・

これは仏教でいう五陰盛苦(ごおんじょうく)の世界である。
五陰盛苦とは人の心や身体を形成している、感覚や欲求、
意識からくる全ての苦しみ。自分をコントロールできない苦しみなど
心身ともに安定しているのに突然虚しさが襲って来る。
五体健全なのにやりたいことが出来ない苦しみを味わう。

愛があるから幸福ではなく愛が失われて不幸だと思うところにも幸福はある。
方丈記「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶ
うたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」
愛も同じように年月と共に変化をして、もとの愛ではないことを知るべきである。
「諸行無常」世の中の一切のものは常に変化し生成して、永久不変なものはない。

一度だけ成功を望む人は一度山へ登頂した人と同じで、
登ることだけに神経を集中して下ることを忘れていることが多い。
成功で得た財産などの数値で測れる成功や幸福は一瞬にして消え去る恐れがある。
しかし数値で測れないところに「利他心」というおもいやりの行為がある。
満足とは何、完璧とは何、幸福とは何、他人との比較の中に
決して答えは含まれていない。

一般的に「人間とは」教育で論理的に定められた常識が正しいと判断する。
それぞれが思い込みの理屈に従って意識を持って行動する。
しかし「人は」情緒的に判断をして好奇心の赴くまま無意識に行動する。
「人間」は数字的に増えることが成功だと勘違いしている。
「人」は資源を減らさないことが大切だという事を言い続けている。
ここでいう人間とは意識の上で行動してゴールを目指す人。
私のいう人とは無意識のうちに行動して歓喜を味わう人のことをいう。

戦前の日本では誰もが無駄を減らすことが「真善美」の極致だと
教えられてきたのに、戦後アメリカの占領地政策により
自由経済が施行されて増やすことが幸福なのだと徹底的に植え付けた。
そのために各地の街中に家庭の中に不要なものが溢れかえった。
我々日本人はまるで糸車の中を走るモルモット状態で
終わりの見えない自由経済の輪の中を走り続けている。

人は山の木を勝手に折らないし、道端の花も勝手に摘み取らない、
ましてや海や川にゴミを捨てるなど決して行わない。
人間は自分本位で行動して自分の快適さを追求する。
他人の迷惑など考えずにレベルの低い本能で振り回される。
人は他者本位で行動して共存を望み永遠を追求する。
これは縄文時代には当たり前のように考えられていたことである。

息苦しくて理不尽な社会にふと空虚な日々が襲ってくる。
この辛さから逃げ出したくなる。
このような気分になるのは病気でなくても起こるときがある。
これは恥ずかしいことでは無く結構人間なんて弱いものなのです。

しかし、皆様も知識として知っておいてほしいことがあります。
最近若年層の自殺が増えてきています。
心が未熟故に早い内から死を選択します。

先日、友人から送られてきたメールにこのような警告文がありました。

自殺行為は「衝動」です。
本当に辛い時には、誰でも前触れもなく突然襲ってきます。
「衝動」は、突然襲ってくるのです。

もし突発的に自殺行動の衝動が起こったら
*しゃがみ込む
*自分で自分を抱きしめる
*助けを求める
*身体を動かす(顔を洗う、ホットタオルで首や顔を温める)など、
衝動を逃すための行動をとって耐えてください。

自分で自分の身を守ることはできるのです。
あなたも、あるいは周りで誰かを支えているあなたも
このことはぜひ知っておいてください。お願いです。
三鷹カウンセリングルームリバイブ 小島知子さんより。

頭の中では満たされていると思いながら
心の中にはポッカリと穴が空いています。
今の気持ちは言葉にも文字にも表せない激しい苦悩に襲われる。
大海の孤島に漂流した遭難者の様に生きる術が見つからなくなります。
相談する相手も見つからずどんどん悪い方へ追い詰められていきます。
助けて欲しいというシグナルは発信しているのに誰にも気づいてもらえない。
このまま孤独に追い込まれるなら命を断った方が良いのかと考える。

仏教用語にこのような言葉があります。
不立文字(ふりゅうもんじ)とは、
「(お釈迦さまの教えは、)文字で伝わるものではない」という意味です。
「文字で伝わるものではない」という意味をもう少し詳しく説明すると、
経文から離れて、お釈迦さまのようにひたすら座禅をし、
からだで体験することで悟りを実感しなさい、ということです
また、悟りの境地は言葉で説明することができないという意味も込められています。
私なりの解釈で言うといわゆる真理や悩みは文字に表せないということです。

身心脱落(しんじんだつらく)とは、
曹洞宗(そうとうしゅう)を開いた道元(どうげん)が
悟りを開いたきっかけになった言葉で、
「身体も精神も束縛から解き放たれること」という意味です。
道元が中国へ禅を学びに渡っていたとき、
師匠が、座禅中に寝ていたお坊さんをしかりました。
「座禅をするのは身心脱落のためである。居眠りしていては悟りを得られないぞ」

この師匠の言葉を聞いたときに、突然ひらめいた道元は、悟りを開きました。
そして道元は師匠に「悟りました」と伝えるために、
「身心脱落」と言ったと伝えられています。
ちなみに、道元は只管打坐(しかんたざ)という言葉も残しています。
これは、「ただひたすらに座ること」という座禅の心得を表した言葉です。

迷ったら悩みの壁から逃げるのではなく壁の前で壁を見つめることが大切です。
「何故」という疑問に立ち向かうのは行動あるのみです。
心が疲れたら身体を疲れさすことです。身体が疲れたら心に集中が出来ます。
今、空虚な日々を送っている方とことん悩んだら立ち上がり歩き始めてください。
山へ行って大声上げて「馬鹿野郎」と叫べばスッキリしますよ。
海へ行って誰もいないところで大声上げて泣くのも良いですよ。
心も体も疲れたら解放してあげましょう。心身脱落になりましょう。