孤独と孤毒
大凡(おおよそ)クリエーターは孤独である。
自分の能力を信じて作品を絞り出さなければならない。
同業者たちからは常にどれほどの作品を作れるのかと疑惑の目を向けられる。
たとえ好きな人がいても家族がいてもクリエィティブな作業は
孤独から生まれる。そのためには孤独に耐えられる精神力が必要である。
作品が当たれば評価と報酬が得られるが、当たらなければ嘲笑と批判を
受けるだけである。その孤毒にも耐えなければならない。
人生の経験のない子供達が部屋に篭りコンピューターに
向かって一人で居るのは孤毒である。
子供は自由に知る権利を持っているのに周りに溶け込めないのは、
他人が何を考えているのか真実を知らずに生きる事になる。
自分の居場所を探して悩み苦しんでいる。
理屈では親が小さい頃に構ってやらなかったからと批判されるが、
親もそれなりに生きる事に忙しくて、思うように手が回らなかった
からと言い訳をする。
子供からすればそれなら産まなければ良かったのにと
益々殻に閉じこもる原因になってしまう。
老人達の孤独も孤毒になる恐れがある。
最大の危機は転倒による怪我である。
一日一日、経済と健康と孤独の3Kに耐えながら
生きていかなければならない。
おおむね身体の衰えは生きるという気力を奪っていく。
同時に足腰の筋力も衰え始める。
家族も友人も優しい声掛けをする度に
「もう無理をしないで出歩かないで」と言う。
男達はサバンナを駆け巡るライオンだったのに
今はハイエナに襲われる時を待つしかない。
「動かないで」と言われる度に死が近づくのを感じて
孤独になり孤毒が身体中を駆け巡る。
女達は幸せという花園で自由に飛び回る
ミツバチのような存在だったのに
孤独になり寂しさのあまり孤毒になる。
辛い現実を離れて密かに楽しみを作り
自分なりの人生を謳歌していた。
家族という船の中で嵐の海を何度でも乗り越えて
操縦してきたのは女達なのである。
「じっとしていて」という言葉は座礁を待つことになる。
心の自由までなくなり益々孤独になり孤毒が羽をむしり取る。
家族のために蓄えてきた財産も箪笥の奥にしまい込む。
お金で安心は買えても健康は買えなかったと気づく。
独来独去 無一随者(大無量寿経)
独り来たり独り去りて、一人も随う者無し「浄土三部経」の
一つ『大無量寿経』にあります。
富有なれど慳惜し、肯えて施与(せよ)せず。
宝を愛して貪ること重く、心労し身苦しむ。
是の如くして竟りに至れば、恃怙とする所無し。
独り来たり独り去りて、一人も随う者無し。
慳惜とは、ものおしみする心。恃怙とは頼む事です。
大金持ちだけれどもの惜しみが強く、あえて他の人に施与せず、
財宝を愛して貪る心が強いと、かえって自分自身で心労が重なり
苦しむものです。このようにして一生を過ごせば、死に臨んでも
頼りにするものは何一つありません。
独り来たり独り去りて、一人も随う者無し。
所詮、私達は独りで生まれ、独りで老い、独りで病み、
独りで死んでいかねばなりません。
名誉も、財産も、妻子眷族も一緒に持って
行く事が出来ないのです。
「菩提和讃」にこのようなことが書かれています。
老若貴賤諸共に無常の風に誘わるる
臨命終の果敢なさは施す術もあらばこそ
田畑数多有るとても冥土の用には成らぬもの
金銀財宝持つ人も携え行べき道ならず
妻子眷族ありしとて伴い行く事更になし
偕老比翼の契いも少時浮世の夢なれや
人間はまさに「ひとり」です。
私達は、その厳粛な事実と向かい合って、
真実、自分の生き方に思いが及ぶ時、
得てしてその事実から逃れようと
腐心するものです。それから逃れようとすれば、
享楽的な刹那主義に陥り人生の破滅です。
私達はその事実をしっかり看て取って、自分自身の「生きがい」
のある人生を見つけださなければなりません。
「生きがい」のある人生とは老人には当てはまらない?
生きがいではなくて「死にがい」の方が自然である。
人生を振り返り惜しむより迫り来る最後の日を
悔いが残らないように毎日を「死にがい」を感じて
大自然と共に笑って過ごすことしかないのである。
もう怒っても仕方ないのである。
もう他人を責めても何も生まれないのである。
「花は愛惜に散り草は棄嫌におうるのみなり」
誰しもが老害になってはいけないのである。
芸術家も子供達も老人達も孤独を楽しみ
思考の時間を作るべきである。
あなた一人の哲学があって良いのではないでしょうか。