思考のキッカケ
教育は教えることでは無い、教えるから記憶に頼り、善悪の見境がなくなる。
学ぶは真似ると知りながら教師は教科書を棒読みして暗記させる。
今や小学校から受験のための教育が中心になっている。
学ぶ楽しみを奪って大学までひっぱり上げて卒業と同時に手を放す。
社会という上空で学生グライダーは飛び続けるのである。
それは企業でも同じで時代遅れの社内規定に則りすべての業務が進められる。
そこに口を挟めば会社を辞めろと言われてしまう。
だから最低の社畜にならざる得ない状況に陥る。
仕事の楽しさを知らない労働者が街にあふれている。
学校には学校の規定があり生徒手帳に「正しい学生の在り方」が記載されている。
高校によっては服装、髪型、スカートの長さ、持ち物の色まで細かく記載されている。
自由経済のグローバルを推奨して自立を促す社会の規範から大幅に外れている。
力のない若者たちを飼育して、親たちが喜ぶ真面目で社会に反抗しない
既成化された人間に仕上げる。
江戸時代の教育の基本は「読み書き算盤」である。
これで社会生活は十分出来るようになる。
武士の子は剣道を学び、それ以外に論語や六韜三略、大学、中庸などの書を
素読して体の中に社会のリーダーとしての心得を学ぶ。
新しいことばかりを教えるのではなく「温故知新」(古きを温めて新しきを知る)
過去の教えから国のあり方を学び新しい時代を作る。
そして文化を守らない国は国ではないことを知る。
中学生の時に水泳部へ入った。新入部の人間は毎日ランニングと兎跳びを強制された。
水泳部に入ったのにいつまでもプールに入れず馬鹿らしくなってすぐに退部した。
運動部の指導は殆どがイジメに近い肉体的苦痛と精神的苦痛を伴う。
その悪しきルールが先輩から後輩へ受け継がれて部の伝統になる。
スマイルアップ(旧ジャニーズ事務所)、宝塚歌劇団、吉本新喜劇、芸人やタレントは
徒弟制度で成り立っている。上に立つ人間が既得権者になり権利を独り占めにする為に
常軌を逸した自分勝手な行動を繰り返す。
どのような場面でも異論反論をストレートに言えないところに思考は成り立たない。
思考のキッカケは疑問をぶつけるところから始まらなければならない。
間違っても下にいるものが声を上げられない状況を上が作るべきではない。
ここでいつも「何故」が生まれる。
何故怒らないか?何故投げ出さないのか?何故我慢する必要があるのか?
我慢することが世の中に順応するということなれば、
順応など無視をすれば良いのである。
生きることに臆病にならなくても良い、今ある環境に人間環境に不満があれば
手放す勇気を時には持たなければならない。
我々は本能の赴くままの動物である。偽りの論理で行動は制御できない。
これは生き残るための戦いである。プライドをかけた戦いなのである。
女性なら嫌いな上司にお茶をかけてやれ。男性なら嫌いな上司に足を引っ掛けて
倒せば良い。やられたらやり返すことを知らせれば良いのである。
臆病な奴ほど権力を振りかざして大声を上げる。
こちらも大声で返すと犬の喧嘩になるので静かに笑えば良い。
明日転職サイトを眺めることがあったとしても恐れることない。
世の中は広いどこでも働ける。日本人は優秀だからどの国でも雇ってくれる。
しかし一番恐れることは言いなりになっても、
給料がもらえるならそれでも良いとする日和見主義的な考えを持つことである。
逆風帳帆(ぎゃくふうちょうはん)
向かい風が吹いて前に進めなくても、あえて船の帆(ほ)を張って行きましょう。
「人生の逆風(困難)にも帆を張れ(立ち向かえ)」という禅語です。
これを見ますと、禅宗とはなんとも厳しい教えだなあ、とつくづく思います。
帆船は、風をつかみ、帆をたくみにあやつることで、
逆風でも少しずつ前に進むことができるのです。
しかし、技術はともかく大切なのは、逆風が吹いても帆をたたまないこと
なのかもしれませんね。
我逢人(がほうじん)
私は人と出会った。
鎌倉時代、比叡山などで修行をした道元禅師は、本当の仏教を求めて中国に渡りました。そこで如浄(にょじょう)という名僧に出会います。如浄禅師は宗派にこだわらず、
異国から来た道元禅師に対しても分けへだてなく指導しました。
後年、如浄禅師との出会いについて道元禅師は次のように回想しています。
「いま、目の前に師となる人物が現れた。大切なのは、経典や知識を学ぶ以上に
人と出会うということだ。」
何も感じず何も疑惑がなければそれで良い。他人をとやかくゆう筋合いのものでもない。我慢できるのであればそれでも良いし、気に食わなければ飛びかかって殴れば良い。
私は誇りに生きて誇りに死んで行こうと思うので何も動じない。
人は守るもの(家庭・財産・名誉)が多ければ臆病になり、
何も守るものが無ければ動じない。だから革命家は何も持たない道を選ぶ。
流された人生を選んだとしても、それでも理不尽に対して怒らなければ
世間に申し訳ない。それ以上に与えられた使命に逆らうことになる。
生まれてきた理由が何かを知るために戦うしかない。
「不動心」何事にも動じない精神、何事にも動じない心を養いましょう。
思考のきっかけは疑問を持つことから始まります。
けっして流されない人生を歩みましょう。
そして動かない心を身に付けましょう。