日本人の根
アメリカの人類学者であるルーズ・ベネディクトが書いた
「菊と刀」の一説にこの様な文章がある。
「ある国民が従順であるという時、同時にまた彼らは
上からの統制になかなか従わない、と説明したりはしない。
彼らが忠実で寛容であるという時、
「しかしまた彼らは不忠実で意地悪である」とは言いはしない。
彼らが真に勇敢であるという時、その臆病さ加減を述べたてることはない。
彼らが他人の評判を気に掛けて行動するという時、
それにひき続いて、彼らは本当に恐ろしい良心をもっていると
言いはしない。
彼らの軍隊のロボットのような訓練ぶりを描写する時、
それに続けて、その軍隊の兵士たちがなかなか命令に服さず、
公然と反抗する場合さえあることを述べるようなことはない。
西欧の学問に熱中する国民について述べる時、
同時にまた彼らの熱烈な保守主義についてくわしく記することはない。
美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす
国民に関する本を書く時、同じ国民が刀を崇拝し
武士に最高の栄誉を帰する事実を述べた、もう一冊の本によって
それを補わなければならないというようなことは、
普通はないことである。
ところがこれらすべての矛盾が、
日本に関する書物の縦糸と横糸になるのである」(講談社学術文庫)
日本人の意識が二重構造であることを述べた名著である。
村上春樹の研究本に
「さらに、シンガポールのリー・クアンユー元首相によれば
戦争中、日本人は信じられないほど残虐だった。
でも戦争が終わり、捕虜になると良心的に働き、
シンガポールの街を綺麗に清掃していったという。
そして村上は「これは日本人の怖さを語っている」と話した。
従順と反抗、臆病と大胆、善と悪、優しさと残虐、
相反する二つの要素を併せ持つのが日本人である。
ここでも他国にはみられない、日本人独特の意識の二重構造がみられる。
筑紫哲也氏が若者達の婉曲話法について書いた文書の中で、
若者達が使うていねい語「ナースコールしてもらってよいですか」
「この錠剤を昼食前に飲んでもらってよいですか」
「以上何々でよしかったでしょうか」は、
昔からそれが当り前のように
使われる事は無かったのはたしかです。
心優しき若者達が自己保身のために間違った
丁寧語を使っているのだと仮説を立てています。
他者を傷つける事を恐れ、自分が傷つく事を恐れているからだと思う。
他者を傷つけない限り自分が安全だと錯覚しているのである。
無差別大量殺人犯たちが、犯行に及ぶ前の人物像が、
見るからに殺人者予備軍と思えるような凶暴さを
ちらつかせていたのなら、彼らは全体のなかで
特異な存在として除外して考えられるでしょう。
厄介なのは、もしかしたら彼等も日常の中では
「何々していただいてよろしいでしょうか」
「連絡させていただいてもよろしかったでしょうか」と
しゃべっていたかもしれないことです。
これも意識の二重構造です。
オウム真理教のサリン事件も同じです。
物静かな医者が、頭の良い学者が、優秀な技術者が、
スポーツを愛する少年少女が、無差別大量殺人事件を犯したのです。
いかなる教義があったとしても、
人を無差別に殺して良い真理など何処にもないのです。
彼等はそれを知りながら、洗脳と云う恐ろしい呪縛から
逃れることが出来なかったのです。
彼等が何故そのような大胆な犯行に及んだのは
未だ謎のままです。
しかし、日本人は古の時代から、この二重構造の意識の根を持つ国民なのです。
それ故に 近所で評判の優しい子供が
突然親殺しの犯罪に手を染めてしまうのです。