運命

 

モーリス・パンゲ「自死の日本史」より

「運命というものはただ単に人間にふりかかって来るものではない。
運命を愛し、運命にうち克つことを知らなければならない。
「運命への愛」 (amor fati」、それによって初めて心の平静は得られる」

人は幸福な時に「運命」という言葉を使うのだろうか。
自ら招いた失敗に 「運命」という言葉を多用している
だけではないだろうか。
逃れ切れない境遇に 対して悩み苦しんだ時にだけ
「運命」という重さが分かるのだろうか。

青年時代には、どのようなことにも
「運命」という言葉で、結論付けする 事は無かっただろう。
それは、未来はいつでも変えられるもので、
「運命」に打ち克つことは容易に出来るものと信じていたからである。

しかし、年齢を重ねてはじめて「運命」という言葉の重みが理解できる。
パンゲの言うように「運命を愛し、運命にうち克つことを
知らなければ ならない。それによって始めて心の平静は得られる」。

正にその通りで運命を素直に受け入れてこそ、
日々の動向に対して心の平静が得られるという事である。

仏教用語に「知命楽天」という言葉がある。
「己の運命を知り、いつまでも欲の赴くままに生きるな。
与えられた環境の 中で日々を楽しく生きよ。」ということである。

不遇でも貧しくとも悩み多くてもそれが与えられた運命ならば、
それを甘受せよという事である。
そして夢を失わなければ
心の貧しさから遠ざかる事が出来るのだ。
利己の心を捨てて利他心で生きて行く事が
大切だということである。

運命を嫌うな!楽しめと言う事である。

サムエルウルマンの「青春」という詩がある。

青春とは人生のある期間を言うのではなく
心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、
怯懦を却ける勇猛心、 安易を振り捨てる冒険心,
こう言う様相を青春と言うのだ。

年を重ねただけで人は老いない。
理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。

苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、
こう言うものこそ 恰も長年月の如く人を老いさせ、
精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと十六であろうと、
その胸中に抱き得るものは何か。
曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、
その輝きにも似たる事物や 思想に対する欽迎、
事に處する剛毅な挑戦、
小児の如く求めて止まぬ探求心、
人生への歓喜と興味。

人は信念と共に若く、
人は自信と共に若く、
希望ある限り若く、
疑惑と共に 老ゆる、
恐怖と共に老ゆる、

失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、
美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を 受ける限り
人の若さは失われない。

これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が
人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、
この時にこそ人は全くに老いて 神の憐れみを乞う他はなくなる。

サムエルウルマンが80歳代の時に書いた詩である。

夢があれば年齢(運命)に翻弄される事無く
青春を謳歌できるのである。
運命に打ち克つ事だけでは無く
情熱を持ち続ける事が重要なのである。

夢を持ち前向きに生きている人にとって
「老い」と「運命」は別物である。

それでは何故「運命」という言葉に
翻弄されてしまうのだろうか。
宗教家や哲学者が悩みの原因を
「運命」という言葉で言い切るからである。

人間は生まれた時から死ぬまで
決められたレールが引かれている。
そのレールを運命と定義付け、運命を変える為の
勝手な教義を人々の身体に 鎖のように巻きつけるからである。

その呪縛に囚われた人達が「運命」を
肯定して否定する力を失うからである。

ここに運命を変える方法がある。
中国の教育学の教えである。

「思想という種を播き、行動を刈る。
行動という種を播き、習慣を刈る。
習慣という種を播き、性格を刈る。
性格という種を撒き、それがやがては
運命を収穫することになる」

自分の努力によって運命は変えることが出来る。
自ら良き運命を収穫するのである。