花筐(はながたみ)
大迹皇子(オオアトベオウジ)は皇位継承の為に上洛することとなり、
寵愛している照日の前へ文と花筐を使者を遣って届ける。
照日の前は別れを悲しみつつ文と花筐を抱いて里へ帰る。
即位して継体天皇となった皇子は、紅葉の御幸に出かけた折、
そこへ物狂いとなって侍女とともに都へあとを慕って来た照日の前が行きあう。
官人が侍女の持つ花筐を打ち落とすと、照日の前は花筐の由緒を語って
官人を非難し別れの悲しさに泣き伏すが、
継体天皇はその花筐をみて確かに照日の前に与えた物だと分かり、再び召されて都へ伴われていく。
「花筐」はお能の曲名。四番目物。狂女物。世阿弥作です。
親子の別れ、恋しい人との別れを扱った狂女物は中世の巷話が主になっているが、
本曲は古代王権の即位を扱った曲であって、他の狂女物とは趣を異にしている。
越前の味真野(あじまの)という所に男大迹皇子(オオトオウジ)と称して住んでいた時、
突然大和へ迎えられ、帝位についた。
ここに照日の前(テルヒノマエ)といって、寵愛の女性がいたが、
あわただしい出立に別れを惜しむひまもなく、日頃手なれた花筐と文を残して、
皇子は大和へと旅立った。
残された女は、哀しみのあまり狂気となり、
花筐を抱いて、侍女と二人、皇子の後を追って都へ上って行く。
ふる里は桜の盛りだったが、都へついたのは秋も半ばの頃で、
紅葉狩りに行く天皇の一行と、ある日奇しくもめぐり会う。
それというのも、花筐のえにしによるもので、
「恋しき人の手はなれしものを、形見と名づけそめしこと、この時よりぞ、はじまりける」と、
女はめでたく都に迎えられて終わる。白洲正子「古典の細道」より
ハイレゾサウンドでモーツワルトの曲をプロデュースすることになった。
何故か、モーツワルトの曲を毎日聞いていると「花にまつわる話」がとても気になり始めた。
モーツワルトの弾むような長調の曲は小鳥の声をイメージしてつくられたものが多いと聞く。
モーツワルト自身がその弾むようなピアノの音色に癒されて落ち着きを取り戻したという。
その影響か春の日の到来を待ちわびると共に川のせせらぎや鳥の鳴き声に心惹かれるものが芽生えた。
先日音楽プロデューサーの「発想力」講座を終えたばかりである。
発想力は決して学びから生まれるものでは無い。
ふとした思いつきの中からそのイメージの源流をさがすところに大きなポイントがある。
皆様は感性が大切と繰り返して言うが、感性を思いつきで止めた場合は、ただの思いつきで終わる。
思いつきを追求するから、そこにオリジナルの発想が生まれるのである。
その発想を形作る力こそが発想力なのである。
知識としてデータが豊富にあるから発想が生まれるのではなく、
発想が生まれるから知識が必要なのである。
この辺りを多くのビジネスプロデューサーとして称している方々が間違って伝えている。
真夜中に目をさまして突然花にまつわる書物をむさぼり読む。
花がいかに人間に取って大切だったかが改めて知る。
楽しくて仕方が無い。
特にお能の世界に造詣が深いかというと全くない。
「花筐」の文章を読んでいると理解より興味の方が先立つのである。
難しい見慣れない文章の先にある創造の世界がありありと浮かんでくるのである。
ここに世阿弥とシェークスピアに共通したなにかを感じる。
世阿弥は1363年~1443年に活躍をして、シェークスピアは1564年~1616年に活躍をした。
日本と英国を結ぶ接点は無かった(というよりは取れなかった時代)と思うのだが、
どちらも劇作家として人の哀しみや憎しみや嫉妬を描いて一世を風靡している。
彼らを受けいれた大衆は豊かな文化を享受していたに違いない。
暫くはモーツワルトと世阿弥とシェークスピアに嵌りそうである。