教えると育てる
音楽家にとって一番大切なのは礼儀じゃなくて才能だ。
先ずは才能を引き出さなくて一方的に礼儀を教えると駄目に成る。
組織は若き音楽家に礼儀を教えることが多い。
音楽家に礼儀の謙虚さが身に付けば闘争心が薄れて一流にはならない。
音楽家の傲慢なほどの自尊心が唯一花を咲かす早道になることを知らないのである。
音楽家は音楽で全てを語れば良いのであって人柄で語る必要はない。
しかし、だからといって常識知らずでは一流にはならない。
世の中に認知されるまでには沢山の人の協力を得なければならない。
その際に大切なことは、人に接する礼儀の態度では無く、人に接する真摯な心が重要なのである。
自分の素直な気持ちを相手に伝えた時に、相手が不愉快にならない様にすることが最低限の常識である。
監督者が音楽家に伝えることは、音楽家の才能にあった作品(旋律)を引き出すことである。
音楽家の才能を引き出すということは、音楽家の才能のドアをノックするようなものである。
監督者がドアの外からノックするけれど、内(なか)から開けるのは音楽家本人である。
あくまでも選ぶのは監督者ではなくて音楽家本人なのである。
音楽家がドアを開けて才能が表(おもて)に出て来てはじめて次の段階に入る事が出来る。
楽典に沿った音楽的技術と本番での表現力を指導するのである。
難しいのは最初から一流のスタッフと仕事をさせると小技の技法を覚えてしまう事である。
素(もと)の部分より飾りの部分を気にするとオリジナリティーに欠ける作品をつくる恐れがある。
素とは根本の作品であって飾りとは他人を意識した作品である。
他人の技法と表現に感動すると模倣が始まる。
模倣が始まると本来の自分では無い表現を小技として取り入れてしまうのである。
音楽家は粗削りでも独自の表現がなければ音楽家としての存在の意味がなくなる。
他人と同じことをやっていては表現者としての進歩に繋がらなくなるのである。
血のにじむような創作の努力があってこそ初めて万人が喜ぶ感動が生まれて来るのである。
一流の音楽家になってもらうために教えることは基本的な音楽技術と表現力である。
それ以外に、創作のための思考方法、演奏時の表現方法、言語による伝達方法なども教える。
監督者はあくまでも音楽家の内面からわきあがる情熱と才能の創出をサポートするのが役目である。
現在スポーツ界で問題になっている「体罰」は、教えることと育てることの考え方の根本が間違っていると思う。
教える側が暴力をふるう行為を技術向上のための「愛情」と正当化してしまうところに危険が潜んでいるのである。
成長期の大切な若者達の心と身体に暴力で与えた教育は、反感はあったとしても感謝は絶対に無いと思う。
ましてや恐怖を植え付けた教え方に健全なスポーツ精神が養われることは絶対無いのである。
ここに一人のジャーナリストの「教育」についての言葉がある。
96歳のジャーナリスト、むのたけじ氏が教育についてこう述べている。
「教育という営みは、教えて育てているなんて無礼な行為ではない。
教育とはラテン語の「引き出す=エドゥカーレ」という動詞を母としているのです。
教育行為はまさにその引き出す情熱、その行為から始まる。
若者の内面にあるものを、丁寧に引き出して光を当てて吟味して改めるべきは改めながら、
あるゆる可能性を十分に伸ばして育つようにする。」
まさしく教える側がこれほどの謙虚さを持ち愛情を持って育てる事が大切なのである。